「思い出して」
(……っ)
少し新鮮な空気を吸いたくなって、ほのかに秋の佇まいを滲ませる中庭をひとり散策していた優衣は、ふいに胸を貫いた痛みに息を呑んだ。
ひどく胸が騒いで、走る鼓動が呼吸を乱す。
痛い。本当に、胸が痛くて、苦しい。
いつもの眩暈なんかとは全然違う、これは何。
きつく目を閉じ、ゆっくりとした呼吸を意識的に繰り返す。
けれど、胸の痛みとそこから溢れる焦燥はそのままだ。
(翔……?)
まさか、翔に何かあったのだろうか。
どんな異能を持っているかにかかわらず、術者というのは普通の人間よりも遙かに勘が鋭いと聞いている。
血の近い者や大切なひとに何かあった場合には、望まずとも『わかる』ことがあるのだと。
まさかと思う。違っていて欲しいと思う。
わからない。わからないから――怖い。
(……落ち着け)
大丈夫、大丈夫、と何度も繰り返して言葉にする。
実際に言葉にして口にすることは、自分を落ち着かせる効果があるのだと教えられた。
(大丈夫……)
だって、約束した。待っていると。
翔が会いにくると言ってくれたのだから、ちゃんと待ってる。
でも、怖い。
どうしたらいい。
どうしたらこんな痛みに耐えられる。
わからない。怖い。どうしたら。
焦燥ばかりが胸を灼いて、痛いのか苦しいのかもわからなくなってくる。
(……あの、歌)
混乱しきった頭に浮かんだのは、優しい旋律。
穢れを清めるために紡がれる、柔らかな音の波。
届くかどうかもわからない。
届いたとしても、なんの役にも立たないかもしれない。
それでも――もし、ほんのわずかでも、この願いが叶うかもしれないのなら。
だって、こんなのは無理だ。
待っているだけなんて、何もできずに待っているだけなんて、そんなことに耐えられるわけがない。
自分はそんなに聞き分けのある、いい子なんかじゃない。
(――ごめん、皓)
今、そばに皓はいない。
いつもいつも皓には甘えてばかりで、迷惑をかけてばかりで、本当に姉失格だと思うけれど。
目を開く。
一度深く息を吐いて、左手首に手を伸ばす。
……静かに煌めく腕輪の留め金は、小さな金属音とともに呆気なく外れた。
(ごめんなさい)
きっとまた、心配をかける。
皓だけでなく、自分を大切に思ってくれているすべてのひとに。
けれど、それでも、わたしは――
何が起こったのかわからない。
ただ、自分が無傷で、翔が傷だらけになっている理由が、彼が自分を何かから庇ったせいだということだけは確かだった。
頭が、沸騰する。
「あ……アホだろう!? おまえ、いざとなったらおれを見捨てて逃げるんじゃなかったのかよ!?」
上擦って震えた声で怒鳴りつけると、軽く咳き込んだ翔がひどく億劫そうに目を開く。
「……うるっせぇな。あー……。優衣に泣かれるじゃねぇか、どうしてくれんだ畜生」
「ここでノロけますか!?」
信じられない。コイツの世界はどこまで恋人中心に回っているんだ。
肋骨でも痛めたのだろうか。
胸の辺りを抑えて慎重に体を起こした翔が、顔をしかめてぺっと血の塊を吐き出す。
「……一ノ瀬」
「なんだよ!」
喚いた晶に、翔が不快げに眉を寄せる。
「……だから、うるせぇって。大声出すな。――おまえはさっき、あの子と一瞬、繋がったんだ。あの子の見たものや……感じたものが、系統の近い力を持ってるおまえに、同調して伝わった」
「同、調?」
意味がわからず繰り返した晶に、翔はうなずく。
「結界の類いは、そうやって中と外を繋ぐ『道』ができると、すぐに壊れちまう。まさか、おまえとあの子がここまで同調しやすいなんて、想定外もいいところだったけどな……」
はぁ、と息を吐いた翔の額に、脂汗がじわりと滲んでいる。
その視線の先を追えば、再び子どもの周囲に溢れ出た闇を明緒たちが取り囲んでいた。
しかし、先ほどまでのように互いに激しい応酬をしているわけではない。
闇が――その中心でひどく戸惑った顔をしている子どもの心を表すかのように不安定に揺らめいていて、奇妙に緊張した空気ばかりが耳に痛いほど静かだった。
その静寂の中、翔が掠れた声でゆっくりと言う。
「――あの子に、教えてやれよ。一ノ瀬」
「な、にを……だよ?」
混乱した晶に、翔は小さく笑った。
「犬との、正しいつきあい方。――おまえの、専門だろ」
(……なんで、そこで、笑えんだよ)
そんなぼろぼろの格好で。そんなひどい顔色で。
こっちはもういっぱいいっぱいで、頭の中がぐちゃぐちゃで、何がなんだかわからなくなっているのに。
もういっそ、泣き喚いてここから逃げ出したいくらいなのに。
口を開いたら何かとんでもないことを言ってしまいそうで、喉がからからで、言葉なんてもう、何も出てこないのに。
(……え?)
ふと、柔らかく温かな風が吹いた。
「優衣……?」
翔が掠れた声でつぶやく。
またいきなりなんだと目を瞠った晶は、光を含んだような風に紛れて誰かが歌っているような気がした。
だが、辺りを見回してみても、そんな悠長なことをしている者は誰もいない。
空耳か、と思ったけれど、今度はもう少しはっきりと――一体、どこから。
歌。
高く低く、なめらかな旋律が、美しくも妙なる響きを紡いでいく。
まるで空気そのものが喜びに震えるかのようで、先ほどまで恐怖と混乱に埋め尽くされていた心が不思議なくらいに凪いでいく。
なんて、綺麗な声の――不思議な響きの、異国の言葉。
意味はわからない。
けれど、それでも。
思い出して、と言われているような気がした。
あなたの願い
あなたの気持ち
あなたの望み
思い出して
忘れないで
この祈りが届くならどうか
あなたの名
あなたの姿
あなたの心
思い出して
忘れないで
あなたのためにわたしは歌うから
本当は何を願うのか
本当は何がしたいのか
本当は何を望むのか
たったひとつのあなたの名
たったひとつのあなたの姿
たったひとつのあなたの心
思い出して
忘れないで
たったひとりの大切なあなた




