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鳥の娘 ~見えない明日を、きみと~ ≪改稿版≫  作者: 灯乃
神々の章

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47/85

国際化社会で生きるのは大変です

 いつの間にかうたた寝をしていた優衣は、目を覚ますのと同時に胸の奥がとくとくと落ち着かなく早鐘を打っているのを感じた。


 ――なんだろう。


 ひんやりと寂しくて、心の中の柔らかなところに短い針がひっそりと突き刺さるような、そんな痛みがあったような気がしたのだけれど。


(……?)


 だが、そんな感覚はすぐに消えた。


 優衣は顔を洗ってさっぱりさせると、少し伸びた髪を丁寧に梳く。


 美容院にはもうずっと行っていないけれど、手先の器用な凪子が鬱陶しく目にかかるようになるたび、前髪だけは切ってくれている。


『折角、きれいな髪なのですもの。お着物を着るときに結い上げたらきっと素敵だわ。優衣さんがいやでなければ、少し伸ばしてみせてくれないかしら』


 柔らかな笑顔とともに向けられた、ささやかな願いごと。


 この家に入ったばかりの頃、その白くて細い手を何気なく向けられたとき、体が勝手に怯えて竦んだ。


 びくりと大げさなほど震えて、反射的に後退ってしまった優衣に、一瞬ひどく悲しそうな顔をした凪子はすぐに穏やかにほほえんだ。


 驚かせてしまってごめんなさいね、と詫びてくれた。


 だから――失礼なことをしたのはこちらの方なのに、何も言えなくなってしまった。


(そういえば貴明さんが、これもお守りだって言ってたな)


 手に取ったのは、柔らかな絹糸で組まれた美しい髪紐。


 優衣のさらさらとクセのない細い髪は、ピンで留めてもすぐに落ちてきてしまう。


 やっと結ぶことができるくらいに伸びた髪をゴムでひとつにまとめ、複雑な文様を織り込まれた髪紐で括る。


 それから、ぱん! と音が鳴るくらい思いきり自分の頬を叩いて気合いを入れた。……ちょっと痛かった。少し力を入れすぎたかもしれない。


 眠って休んだお陰か、気持ちは随分落ち着いている。


 すう、とひとつ深呼吸。せえの。


(会いたい会いたい会いたい、翔に、会ーいーたーいいいいぃーっ!)


 ……こうして、心の中で叫ぶくらいは構わないだろう。人前でやったらただのバカだが。


 今ではほとんど毎日の習慣となっている脳内自己主張を終えると、また大分すっきりした。


 たとえどんなに幼稚な欲求であろうとも、見ないふりをしてあんまり溜め込むのはよろしくないのである。


(今日から、本格的に仕事だって言ってたし。……大丈夫かな)


 詳しい内容は教わっていないけれど、昨日の電話でその話を聞いたときには、なんだか切なくなった。


 翔はもう『仕事』ができるようになったんだな、と思うと、また少し距離が広がってしまったようで。


 元々のスタートラインが違ったのだから、仕方がないことだとは思う。


 けれど、翔はどんどん先に行ってしまって、なのに自分はいつまでもぐずぐずしているばかりだ。


 いつかこのまま置いて行かれてしまいそうな、そんな不安な気持ちになることがある。


 そう言うと、翔はそんな不安を「ばーか」と笑い飛ばしてくれた。


『おまえのそばに行くためにがんばってるオレに、そういうこと言うか? さすがに、ちょっと悲しいぞ』

『……ごめん』


 翔はとっくの昔に優衣を選んでくれたのに、その気持ちを疑うようなことを言ってしまった。


 情けなくて申し訳なくて、でもやっぱり会えないのは寂しい。


 寂しいから、不安になる。


 ――きっと、翔がそばにいてくれれば、こんな不安を感じることなんてないのに。


『会いに行く』


 そんな優衣の気持ちを見透かしたように、翔は言った。


『今回の仕事が終わったら、一度会いに行く』

『……終わるのって、いつ?』

『わかんねぇけど――でも、絶対行くから』


 その約束に、優衣の心臓がどれだけ大きく弾んだか、翔はわかっているのだろうか。


 佐倉家の『仕事』はその内容によって、半日で片が付くこともあれば、一月以上に及ぶこともあると聞いている。


 それでも。


『だから、待ってろ』

『……うん』


「いつか」じゃない。


 近いうちに、必ず会える。


 それだけのことに本当に泣きそうになって声が震えたのを、翔は気づかないふりをしてくれた。


 まだまだひとりで外出することもできない優衣は、どんなに会いたくても自分から翔に会いには行けない。


 会いたくて、会いたくて、けれどそんなわがままを言うこともできなくて。


 せめて自分の身を守れる程度の力だけでも早く欲しくて、でも全然上手くいかなくて。


 だから、今の優衣には、待つことしかできない。


 ――けれど。


『待ってる、けど』

『けど?』


 けれど、どうか。


『お願いだから……無茶、とか、怪我とか、しないで』


 震える声で、それだけは、と願う。


 早く、会いたい。


 泣きたいくらいに、会いたい。


 けれど、翔の受けた『仕事』というのがどんなものであれ、まるで危険がないことなんてあり得ない。


 翔が強いことなんて知っている。


 その翔が、今までずっとがんばって力をつけてきたことだって知っている。


 先に行ってしまうみたいで寂しい、なんてバカなことを思っている場合じゃなかった。


 もし翔が傷つくようなことがあったら――そう思うだけで、本当にずきずきと心臓が痛む。


 傷つかないで欲しいのに、そばにいて欲しい。


 翔が優衣のそばにいるということは、こちら側の世界で生きていくということは、危険な『仕事』をすることにほかならないのに。


 それでもそばにいて欲しいと願う自分は、なんて酷い人間なんだろう。


『……善処する』

『翔』


 この約束はくれないのか、と思っていると、小さく笑う声が聞こえた。


『オレは、おまえに嘘はつかない。だから……信じて、待ってろ』


 優しく、ゆっくりとした口調で、翔は言った。


『できるだけ、無茶も怪我もしないようにする。オレが怪我したら、おまえ、泣くだろ? それは、オレがいやだからな』

『……うん』


 ――信じろ、なんて。


(今更言われるとは思わなかったよ? 翔)


 ときどき不安になってしまうことはあるけれど、翔を信じていない自分なんて、もう想像することもできないのに。


 苦笑して、書棚の中からこの世界で必要なさまざまな知識を記した和綴じの本を取り出し、栞を挟んであったページを開く。


 実践訓練の方は、まだ術式の基礎どころかその手前にやっと辿り着いたところだが、こうして知識を詰め込むだけなら、いくらでもひとりでも進められる。


 学校で学ぶ学問と違って、「生きる」ために直接必要な知識は、覚えるのがそう苦にはならないのだと知った。


 実際、義務教育までに覚えたことは、それなりに日常生活の中で必要になることもあるけれど、高校に入ってから詰め込んだ知識というのはひたすら「テストに出るかどうか」という基準だけで覚えていたような気がする。


 その中に興味深いものがまるでなかったわけではないが、あれらの知識は社会に出てから何かの役に立つことがあるのだろうか。


(水沢家の飛鳥さんも、そんなようなこと言ってたっけ……。いや、あのひとは特殊なパターンのような気もするけど、でもこの家って特殊じゃないヒトの方が珍しいし――いやいやいや、自分の役立たず加減がますます悲しくなってくるから、深く考えるのはよそう)


『日本の高校には飛び級がないから』という理由で中学卒業と同時にアメリカに留学し、コロンビア大学で経済学と経営学、犯罪心理学の学位を取得した彼は、週に一度佐倉家で若手の家人たちを相手に講義をしている。


 そんな飛鳥のほかにも、「外」でさまざまな知識を吸収し、それぞれの世界で働く多くの人々が、最新の知識をもたらしてくれる。


 この家にいると、下手な大学に通うよりも、ずっと多岐に渡る教育を受けられるんじゃないだろうか。


 何しろ、佐倉家のモットーは「とにかくしぶとく、なにがあっても生き残ること」なのである。


 そして世間の荒波を乗り越えていくためには、常に移りゆく世の中の流れというものを熟知していなければならない。


 明仁や貴明も、しょっちゅう飛鳥たちを呼んでいろいろと話をしているらしい。


 術の世界よりも「外」での学問の道を選んだ人々は、そういった形で一門の中にしっかりとした足場を作っている。


 こちら側の世界で(それこそかなりリアルな意味で)「生き残る」ためには、日々の修練を欠かすことができないし、厳しいそれらとまっとうな学生生活を両立させることなど、時間的にも物理的にも無理な話だ。


 生きていくのに必要のない受験スキルとしての知識を詰め込んでいるヒマがあるなら、本当に必要な知識だけをそれらを実践している人々から直接学んだ方がよほど効率がいい、というのがこの家の教育基本方針であるらしい。


 それらの知識は、もちろん翔のいる仁科家の修練所にも伝えられている。


 以前飛鳥の書いた論文を読んだという翔が、いつか彼と話をしてみたいと言っていた。


 優衣もその論文には一度目を通してみたが、実際にいくつもの企業を経営し、今でも大学時代の学友や教授と深い親交があるという飛鳥が紡ぐ言葉は、とても新鮮で引き込まれるものだった。


(……けど、さすがにコレは予想外だったかも)


 ちらりと優衣が視線を向けた先にどーんと鎮座しているのは、優衣が呑気に高校生をしていた頃から使用している英和辞典。


 李家の中には、祖母の翠蘭が佐倉家に嫁していることもあり、伯凰をはじめ日本語に堪能な人々が多いらしい。


 だが、いずれ彼ら以外の外国の術者と接することがあった場合のためにも最低限、英語だけは話せるようにしておいた方がいいとのことで、ここ最近は修練中以外の伯凰との会話はほとんど英語だった。


 そんな中で、日本の義務教育の中で教えられる英語には、いわゆる死語となっているものも山のように含まれていると知って、驚いたものだ。


“Thanks”に“You're welcome”と答えるのはちょっとエラそうに聞こえるからやめた方がいいぞ、と言われたときには、だから一部外国で「日本人は偉そう」と言われているのか、と妙に納得した。


 文法と会話の勉強というのは、決してイコールではないらしい。


 幼い頃から李家の人々と親しくしていた皓は、英語のほかに広東語も母国語同様に操れるらしい。


 翔の方は英語と広東語だけでなくドイツ語まで叩き込まれているとかで、たまに夢が字幕スーパー付きになることがある、とぶつぶつ言っていた。……国際化社会で生きていくのって、本当に大変だと思う。


 再び小さく溜息を落とした優衣は、しばらくの間黙々と紙に記された文字から得られる情報を頭に焼き付けていた。


 ――ふいに、覚えのある眩暈と倦怠感に襲われる。


(まず……)


 ぐらぐらする頭と込み上げる吐き気をどうにか堪え、ベッドに戻る。


 以前、うっかり床に倒れ込んで人事不省になった後、しばらくの間周り中が「ちょっと勘弁してください」と言いたくなるほど過保護になった。


 それ以来、何があってもベッドまでは這ってでも辿り着くべし、と優衣は心に決めている。……今の自分にできることといったら、無闇に周囲に心配をかけないようにするくらいなのだから。


(……はぁ)


 指先が痺れたように感覚が鈍くなって、ひどく重く感じる体がベッドに沈み込んでいくみたいだ。


 そんな貧血のような症状には、もう慣れた。


 大丈夫だ。この程度だったら、少し休んでいればすぐに治まる。


 ――早く、強くなりたい。


 守られるばかりじゃなく、翔や「家族」のみんなを、少しでも助けられるようになりたい。


 もう、誰にも傷ついて欲しくない。


 この世界が優しくてきれいなばかりのものじゃないことなんて知っているけれど、せめて自分の大切なひとたちは誰も傷ついて欲しくない。


(伯凰さんの教えてくれた、あの歌……。ちゃんと歌えるようになれば、少しは誰かの役に立てるのかな)


 李家に伝わる呪歌の中に、柔らかくて優しい旋律のきれいな歌があった。


 伯凰は、穢れを清め、聞く者の心を落ち着かせるための呪を歌の形にしたものだと言っていた。


 その旋律に李家の血に伝わる呪力を乗せて詠唱することで、実体化した禍物を鎮め、悪霊や化け物の発する瘴気を祓い、その毒気を浄化するのが、李家のお家芸らしい。


 稀に大物相手には歌だけでなく、舞も絡めた合わせ技一本で鎮めを行う場合もあるという。


 それと同時に、舞の方は李家本家のみに伝えられるものであるとも聞いた。


 祖母の翠蘭も李家を出た際、その舞を子孫に伝えないことを誓ったらしい。


 古い言葉で紡がれる歌は、その意味は教えられてもやっぱり慣れない発音が歌いにくかった。


 けれど、ゆったりとした旋律の優しい響きは、聞いているだけで不思議なくらいに心が凪いだ。


 優衣がはじめて、わずかながら「言霊」にすることができたのもこの歌だ。


 その効果は歌っている優衣自身にも及ぶものらしく、歌っている間は本当に不思議なくらいに気持ちがよかった。


 伯凰は、ここは日本なんだから、適当に好きな日本語を当てはめて歌ってみるといい、と笑っていた。


 それは、それぞれの土地に一番適した言霊というものがあるからだ。


 どれほど美しい言葉でも、それを受け取る側が「何言ってんの?」となってしまえば意味はない。


 李家の歌は旋律の響きだけでも十分な力があるというが、やはりその国の言の葉というのは、そこに在る者に対して、異国の言葉にはない力を持つものなのである。


 術者が術を行使する際、古い言霊や真言を使うことが多いのは、遠い昔から連綿と力の使い方を伝えられていく中で、先達のやり方を受け継ぐ側がそのまま踏襲することが多かったからだ。


 しかし、今では翔のように誰にも教わらず力の扱い方を覚えてきた者や、それまでのやり方が自分の生まれ持った力に合わない者も少なからずいる。


 古くから伝わる術式は彼らも古典として一通り学ぶことになっているものの、やはり時代とともに「言葉」そのものが変化している以上、現代においてはなかなかそぐわない点も多いらしい。


 だからこそ術者たちは、それぞれの特性に合った術式の研究に余念がないし、次世代に伝える基礎術式も日々日進月歩の勢いで改良が施されている。


 とはいっても、やはり何ごとにおいても基本というのは、決しておろそかにしてはならないものだろう。


 まして優衣のように、自分でも自分の力をすべて把握しきれていない状態では、それ以前の問題であるのだが。


『――李家の歌は、無理をして歌うもんじゃない。いつか必ず、自然に歌いたくなるときがくる。大丈夫だ。おまえが誰かのために歌うなら、本気で誰かを想って歌うなら、それは必ず届くから。だから、今はたくさん、優しい歌を覚えておけばいい』


 無理をするな、と。


 ことあるごとに告げられた言葉の意味が、ようやくわかった気がする。


 ……だって、翔が『仕事』で何か辛い思いをするんじゃないか、傷ついたりしないだろうかと思うだけで、こんなに苦しい。


 大切な相手が傷つくのは、自分が傷つくよりもずっと辛い。


 そんな簡単なことも理解しないまま、優衣のことを周囲のみんなが大切にしてくれていることはわかっていたのに、ずっと――自分だけが苦しいのだと思っていた。


(自分だけがカワイソウとか、どんだけナルシスト……。気持ち悪)


 さっきから続いている眩暈と相俟って、本当に気分が悪くなってきた。


(うぅ……落ち着けー落ち着けー。こーゆーときは落ち着いて、心の中に、お月さま。満月。――まん丸。きれいな丸)


 この家に来て最初に教わった、乱れた力の流れを整えるための自己制御。


 頭の中に夜空を支配する銀盤を思い浮かべ、その静謐な光を拠り所にして心を落ち着かせる、最も基本的な精神統一法。


 月は、好きだ。


 太陽とは違い、ずっと見つめていても、その美しく柔らかな光が目を痛めることはない。


 月が存在しなければ、地球に生命は存在しなかっただろうと聞いた。


 地軸の安定がどうの、月の引力による潮の満ち引きがどうのといろいろ理屈はつけられていたけれど、月を見るたび懐かしい気分になるのはそのせいだろうかと思う。


 ただ、いつもそばにいてくれる。


 そんな存在が、きっと誰にだって必要だから。


(胸……痛いな……)


 寂しくて。不安で。――怖くて。


 きっと、これは罰。


 自分のわがままで翔をこんな世界に引き込んだ優衣が、一生背負わなくてはならない痛み。


 翔が自分の知らないところで傷ついているんじゃないかと思うたび、これからきっと、何度でもこんな痛みに耐えなければならないのだろう。


 ……それでいい、なんて思えればよかったのに。


 たとえ翔が傷ついても、苦しんでも、そばにいてくれればそれでいい、なんて思うことができたなら。


 せめて自分の力を全部自分のものにして、少しでも翔の助けになることが叶うなら、もしかしたらそんなふうに思うことができたかもしれないけれど。


(翔……)


 どうか、無事で。


 今はただ祈るだけ。


 誰よりも何よりも大切なひとが、傷つかずに済むように。


 これからも笑っていられるように。


 ずっと。


 どうか――

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