愛犬が他人様に懐くと、飼い主はちょっぴり寂しいのです
「……嘘だッ!!」
びしいっ! と晶が迷いなく翔の顔を指さして言いきった途端、その場の空気が白くなる。
わずかな間ののち、翔が半目になって口を開く。
「おまえなぁ……。この状況で、そこまでスッパリ言いきるか?」
「言いきるともさ! なぜなら犬には、人間の言葉を喋ることなどできんからな!」
ふんぞり返った晶に、翔は若干投げやりに応じる。
「あー、そうだな。犬は人間の言葉を一定のサインとして認識してるだけで、言葉として理解しているわけじゃねえもんな」
「む、なんだちゃんと世の中の常識があるんじゃねーか。一瞬おまえが『犬は犬語を喋ってるんだよ』なーんて、ドリーミーなことを言いだすアホになったのかと思っちまっただろ」
「……オレの説明が足りなかったのは認めるから、さりげなく失礼なことをつるっと言ってくれてんじゃねえ」
はぁ、と溜息をついてから口を開いた翔曰く。
いわゆるユーレイというものは、大雑把に分けて二種類に分類されるのだそうだ。
ひとつは、桐原が言っていたように、自分自身の恨みや憎しみといった強い感情や、何かひどく思い残したことがあった場合などに、その無念さに囚われてしまったもの。
そしてもうひとつは、その死者に対して「死なないで」「置いていかないで」と強く願う他者の思念に囚われてしまったもの。
どちらにしろ、よほどの――それこそ、世の中の理をひっくり返すほどの強い想いがなければ為し得ないことであるが、後者が厄介な存在に堕ちてしまうことは、そう多くない。
残された者たちが自分の気持ちに整理をつけて、喪失感に折り合いをつける頃には、自然と逝くべきところへ逝くことができる。
しかし、自分自身の想いに囚われ、肉体という器を失って生前の記憶や人格すらなくしてしまった者たちは、次第に「よくないもの」に堕ちてしまうことが珍しくないのだという。
そういったものは禍物と呼ばれ、やがては寄り集まって実体化し、生きている者に害を及ぼすことさえある。
「それがいわゆる悪霊ってヤツな。ここまではOK?」
「あー、おーけおーけ」
中二病くさい話を真顔で聞いていると、段々背筋がうぞうぞしてきた。
適当に相槌を打った晶に、翔がむっとした顔をする。
「……なんだかムカつくが、今おまえにひっついてるそのもふもふ軍団は、動物霊っつうよりはむしろカミサマの類いだ」
「カミサマ!?」
声をひっくり返した晶と同時に叫んだのは桐原だ。
直後、明緒に「やかましい」としばき倒される。……そろそろ桐原の頭が気の毒になってきたが、他人事なので放っておくことにする。
「付喪神、って聞いたことくらいあんだろ?」
「え? えーと、古いモノが化けて妖怪になりましたーってヤツだっけ?」
うろ覚えの知識を、記憶の底から引っ張り出す。
「まぁ、概念としてはそんなモンだな。動物の中でも、特に犬は人間の思い入れを受けやすいんだよ。大事にされて、可愛がられて、死んだ後もお互いに気になって残っちまうってことが結構あるんだ。今おまえにそうやってひっついてるのは、そうやって残った犬たちの集合体、みたいなモンだと思う。だから見た目も安定してねえし、そうやってバラけたりくっついたりしてるんだ」
「へ? うえ、おおお!?」
翔に指摘されて見てみれば、いつの間にかあれだけたくさんいたもふもふ軍団は消えていた。
最初に晶にすり寄ってきたミックス犬だけが、ちょこんと足元で行儀よく「お座り」をしている。可愛い。もの凄く可愛い。
「多分そいつらは、長い時間そうやっているうちに『消え方』を忘れちまったんだろ。飼い主が死んじまっても、仲間がいれば寂しくないしな」
「……そっか」
それはいいことなのか――それとも、悲しいことなのだろうか。
「時間ってのは、何かが変化するのには十分すぎる要素なんだよ。付喪神のツクモは、元々九十九っつって、とんでもなく長い時間って意味だ。その犬たちが、どんだけの時間そうしていたかはわかんねえけどな。それだけ濃い気配ってなると、十分カミサマレベルだ。多分、おまえよりずっと賢いと思うぞ?」
「最後の一言余計だし!」
ぎゃあ、と喚いた晶だったが、とにかくこのらぶりーなミックス犬が、犬であって犬ではないものであることは理解した。
というか、そもそもふつーの人には見えなくて、触ることもできないモノがふつーの犬であるわけがなかったか。
……つくづく、そのつやっとした毛並みに触ることができないのが残念だ。あぁ、残念だ。
手をわきわきさせた晶に、翔がぼそっと口を開く。
「……一ノ瀬。もしこの先、おまえが霊に触れるようになったとしても、絶対こいつらに触ろうとしたりすんなよ」
「なんでだよ!?」
いずれは必ずや、と思い描いていた晶の野望を否定した翔は、あっさりと答える。
「危ないから。つうか、まずはそこに食いつく前に、桐原さんの事件の方に食いつけ。そちらの犬神さまが、わざわざおまえに助けを求めにきたんだぞ?」
何やら聞き捨てならないことを聞いたような気もしたけれど、それ以上に許しがたいことを言った翔に、晶はくわっと目を剥いた。
「そんな悪趣味でえげつない名前を勝手に付けるなー!」
犬神。
その思い出すだけではらわたが煮えくりかえりそうになる単語を、翔は正しく知っていたらしい。珍しく素直に謝罪してくる。
「……あぁ、悪かった。おまえは犬ネタに関しては余計なことまで知っているんだったな」
「ふ……ふふふふふ、あんな最悪な動物虐待を思いついた変態野郎こそ、食い殺されて死んでしまえばいいのだ」
「うん。今のおまえが言うと洒落にならんから、ちょっと落ち着け?」
どうどう、と翔が晶を宥めている間に、桐原の頭をありがたい木魚かなにかと勘違いしているような明緒が口を開く。
「どうやら今回の件に、もふもふ坊主と同じ系統の術者が絡んでいるのは間違いなさそうだが。そんな奴が、コロシに手を出すってのは珍しいな。――拓人、被害者に何か共通点は?」
(もふもふ坊主って……)
なんだか、愉快なあだ名を付けられてしまった。
桐原はそれをあっさりとスルーして、いや、と顔をしかめる。
「年齢性別職業住所趣味その他、今のところ調べた限りではなんの共通点もないし、互いに面識も一切ない」
「被害者は、全員食い殺されていたのか?」
「ああ。……いや、同じような時期に絞殺された遺体も確か四体発見されているが、やり口があまりに違うからな。そっちは別のチームが追ってる」
ふむ、と明緒は軽く握った手を顎先に当てた。
その様子は物憂げな表情と相俟って非常にお美しいというのに、口から出てくるのがコロシだの食い殺すだの遺体だのという物騒な単語ばかりだというのが、なんだか悲しい。
すぐそばに、ぎゅもっと抱き締めたらもの凄く癒しになってくれそうなわんこ型のカミサマがいるのに、撫で撫ですることさえできないのはもっと悲しい。
「……って、おいい!?」
ふと目を向けた先で、床にしゃがみこんだ翔が愛くるしいミックス犬に「お手! お座り! よーし、いい子だー」などと言って戯れている。
翔がわしゃわしゃと金茶色の頭を撫でると、魅惑的なふっさり尻尾がぶんぶんと勢いよく振り回されて、その様子を見た晶はかなりショックを受けた。
強いて似た感情を上げるとするなら、自分にべったりだと思っていた飼い犬が、ヨソの人間にぴろぴろと懐くとなんだか悲しくなってしまう、あれである。
「お……おれの北福竜が……!」
ミックス犬の両手を持ったまま、翔が首だけ動かして晶を見る。
「……もしやそのキタフクリュウというのは、おまえが付けたこいつの名前か?」
「うるせい、うるせい! おまえなんか大っキライだー!」
やさぐれた晶がいじけていると、翔はふっと唇の端を持ち上げた。
「男の嫉妬は、見苦しいな」
「ああッ、マジでムカつくううううっ!!」
世の中に、イケメンのドヤ顔ほどムカつくものがあるだろうか。いやない。反語。
「――翔。遊んでんじゃねえ」
そこに、明緒の冷ややかな声が割って入った。
思わず姿勢を正した晶を素通りして、氷のような視線が翔に向けられる。
「おまえの仕事は、もふもふ坊主のケアだろうが。坊主がそいつらに呑まれたりしたら、シャレにならないこともわかんねえアホなのか? 気ぃ抜いてんじゃねえぞ」
「……すいません」
途端に、翔が神妙な顔をする。両手を離されたミックス犬が、再びちょこんと「お座り」に移行する。可愛い。
(あれー……。やっぱ明緒さん、神谷に厳しいような。ざまぁ。つうか今、さらっと恐ろしげなことを聞いたような気がするけど、怖いから聞かなかったことにしよう)
うんうんと内心うなずいていると、明緒が書棚から大判の地図を持ち出してきた。
アフタヌーンティーセットを片付けたテーブルの上に、ばさりとそれを広げる。
「拓人。その食い殺された被害者と、絞殺された被害者はどこで発見されたって?」
桐原が意外そうな顔をする。
「絞殺の方もか?」
「……一応な」
珍しく歯切れの悪い返答に、桐原は軽く目を瞠った。
彼は、被害者の発見された場所をすべて記憶しているらしい。迷いなく地図の上に、カラフルな付箋を貼り付けていく。
それらの場所は本当にバラバラで、中には地図にはない遠方で発見された遺体もあったようだ。
「ここまでバラけてるとなると、術者自身も被害者たちと面識がない可能性もあるな」
明緒の言葉に、そんなことがあるのだろうかと不思議に思う。
桐原は不快げに顔をしかめると、指先で軽く地図を叩いた。
「ああ。上も、通り魔的な愉快犯の可能性を考えてるみてえだ」
「だがおまえは、そうは思っていないんだろう?」
「……ああ」
「なぜだ?」
淡々とした明緒の問いかけに、桐原はぐっと詰まったように唇を噛む。
「おまえが壮絶に鈍いくせに、勘だけは当たるという愉快なイキモノなのは知っているが。今回もその勘がそう言っているのか?」
「あのなぁっ!」
なんだか明緒は、桐原を弄っているときが一番生き生きしているような気がする。
ひょっとしなくても、Sなヒトなんだろうか。
そういえば桐原は変態だというし、もしかしたらMなヒトだったりするのかもしれない。割れ鍋に綴じ蓋とはこういうことか。
晶の中で密かにM疑惑が急浮上中の桐原は、考えをまとめるように軽く眉を寄せた。
やがて、地図に視線を落として口を開く。
「……悲しい。寂しい。辛い。どうして。――現場に残っていたのが、そんなもんばっかりだったんだよ。だからオレは、自覚なしの異能持ちが無意識に力を暴走させて、波長の合った動物霊を巻き込んじまったんじゃねェかと思ったんだが……」
明緒が、ちらりと晶を見る。
「――なるほど。その条件なら、確かにもふもふ坊主はばっちり当てはまるな」
「いやいやいやいやいやいや」
再び容疑者候補に挙げられ、慌てて勢いよく首と手を振った晶に、大人たちは揃って苦笑を浮かべる。
「まぁ、それはないだろうな。それにしちゃあ、もふもふ坊主は脳天気すぎる」
(そんな基準ですか、明緒さん)
ちょっぴり悲しくなってしまったが、とりあえず晶は先ほどから気になっていた疑問を口にした。
「……あのー、素朴な疑問なんすけど。北福竜がおれに助けてって言ってきたってことは、コイツが犯人を知ってたりするんじゃないですか?」
そんなことをわざわざしにくるくらいならば、翔と明緒にはその「声」とやらが聞こえているようだし、話を聞けばそれで済む話なのではないだろうか。
……ふたりがらぶりーなわんこにしか見えないカミサマと話し合いをしているの図というのは、想像するだけで絵的に妙だが。
しかしその疑問には、晶以外の三人が揃ってきつく顔をしかめた。
翔が小さく息を吐き、殊更ゆっくりと口を開く。
「――一ノ瀬。今のうちに言っておくぞ。これから先、どんなカミサマと遭遇することがあっても、絶対に相手と深く関わろうなんて思うな」
ひどく真剣な、そして強い声だった。
「おまえ、さっきお手とかしてたじゃねーかよ」
あれはいいのか、と少しむっとして言い返す。翔は一瞬目を瞠ってから顔を背け、オレはいいんだ、とつぶやく。
「はぁ? なんでだよ?」
「……なんでもだ」
答えを言わない翔の代わりに、明緒があっさりとそれを口にする。
「翔は、その気になればいつでもそいつらを消せるからだよ」
「ちょ……っ」
「おい、明緒!」
翔と桐原が揃って声を上げたが、明緒はそんなことなどまるで意に介さない顔で続けた。
「それができるから、コイツはここにいるんだ。おまえがそのもふもふに呑まれそうになったら、そいつらを力ずくで消しておまえを保護するために。……わかったら、無闇にカミと関わろうなんて思うな。今のおまえには、どうひっくり返ったってカミを従えることも、消すこともできやしねえんだからな」
(……なんで)
淡々とした声で、まるで当然のことを言う口ぶりで明緒は言う。
「カミってのは、たまに気まぐれで人間にちょっかいを出してきたりはするが、基本的にただそこにいるだけのもんだ。語られる声を聞くことはあっても、気の合った相手と遊ぶことはあっても、相手に何かを求めれば必ずその対価を求められる。たとえそれが、こっちに何かを求めてきたカミであってもだ。――カミと人は、対等なんかじゃねぇんだよ」
(なん、で)
指先が冷えていくのが、ありありとわかる。
急に、彼らの存在がひどく遠いもののように感じる。
ずっとユーレイだの、殺人事件だのといった非日常で非現実で非常識なことばかりを並べられてきた。
それでも今までは、どこかドラマやマンガの世界を垣間見ているような感じで、身に迫って恐ろしいと思うことはなかった。
……ようやく、怖いと思う。
顔色ひとつ変えず、晶の目には可愛らしい犬にしか見えないものを、平然と消すと言ってのける明緒が。
「消す」ことができるのだと、わずかも否定しなかった翔が。
彼らのことを、当然のように受け入れている桐原が。
本当に――自分とは、自分の知る「普通の人間」とは、違うのだと。
「――それで? 拓人、もふもふ坊主以外には、可能性のあるガキはいねえのか?」
その場の硬くなった空気をまるで知らぬげに話を進める明緒に、桐原が一拍置いてから何ごともなかったようにいや、と応じる。
「いないことはないんだが。あとは本当に小さな子どもで、異能の活性化もほとんど認められない。……強いて言うなら、小学三年の女の子がこのところかなり不安定になっているらしいと報告が上がっていたが、元々ひどく内向的なおとなしい子で、学校以外は家に閉じこもっているような子だ。そんな子どもが、こんな共通点も何もない複数の人間に殺意を抱いたりすると思うか?」
「……拓人」
明緒が、小さく息を吐く。
「なんだ」
「おれはおまえのそういう――基本的に人を善意に解釈する姿勢は、たまにイラっとするが、嫌いじゃない」
桐原が、わずかに驚いたように目を瞠る。
それから続けられた言葉に、彼の顔がはっきりと強張った。
「ただ、子どもだから殺意を持たない、目を背けたくなるような罪を犯さないなんて幻想は、この世界でこれからも生きていくなら今すぐ捨てろ。……この世にはな、無邪気なガキほど残酷な生き物はいねえんだよ」
「オレは……っ」
「で。その女ガキの住所はどこだって?」
静かに向けられた明緒の問いに、桐原は何か言いたげに顔を歪めたけれど、結局何も言わなかった。
――明緒の言っていることが、間違っているわけじゃない。
子どもが純粋で愛らしいばかりの存在であるなら、世の中にイジメや自殺なんてものがあるはずがない。
けれど同時に、幼い子どもというのが明るい未来や希望に満ちた存在であることだけは確かで、そんな子どもたちを守ることがまっとうな大人の義務だろうと晶は思うのに。
(あぁ……。そうか)
ようやく、わかった。
何が怖いのか。
なぜ、彼らを怖いと思ったのか。
彼らの世界では、甘い幻想を抱くことが許されない。
殺伐とした摂理だけがそこにあって、そのくせ「死」という絶対的な不可逆性を超越した得体の知れない世界には、そんな幻想の入り込む隙間がない。
だから、怖い。
そちら側の世界は、きっとずっと、こちら側の世界よりも優しくないから。
「一ノ瀬」
「……なん、だよ」
声の掠れた晶とは対照的に、翔はどこまでも落ち着いていた。
「帰りたいのなら、止めない。オレがおまえを家まで送る」
(……っ)
瞬間、頭が煮えた。
「んだよそれ! ここまで巻き込んどいて、いきなり蚊帳の外か!?」
怖いと思った。
それは本当だ。
けれど、一方的にそっちの事情に巻き込んでおいて、こんなふうに中途半端に放り出すのは卑怯だ。
そう言って睨みつけると、翔はひどく静かな声で口を開いた。
「おまえ、オレに守られたいのか?」
「は!?」
「おまえがこれ以上この件に首を突っ込むなら、オレはおまえの護衛任務に移行することになる。それが、オレの仕事だからな」
それでもいいのか、と問いかけてくる瞳はどこか苦しげで、まだ「友人」の色を残していて――けれど。
「おまえの体質は、基本的に動物霊に好かれやすい、波長が合いやすい、ただそれだけだ。そう厄介なもんでも、珍しいもんでもない。今はまだ少し不安定でも、そのうち馴染めばいくらでも普通に暮らしていける。……いやなものも怖いものも、わざわざ好きこのんで見る必要なんかねえだろ」
目を伏せて、もう一度こちらを見たときには、そこにはなんの色も残ってはいなかった。
「それでも、最後まで見届けたいって言うなら」
薄く、何かを諦めたように、笑って。
「オレは、おまえを守るよ。一ノ瀬」




