桐原拓人
桐原拓人が警察官という職業に憧れを抱くようになったのは、彼が中学生の頃に放映されていたテレビドラマの影響である。
テレビシリーズが終わった後、いくつか続編の映画も製作されたそのドラマの主人公は、ごく普通の地方公務員である一刑事だった。
その破天荒な行動には、随分わくわくさせてもらったものである。
キャリアと現場を走り回る刑事との確執や友情を描いた人間模様を見て、桐原が最初に抱いた夢は、「キャリアになってずかずか現場にしゃしゃり出て、現場の刑事にいやがられながらルール無用で事件を解決してみたい!」というものだった。
しかしその後、成長するにつれて世の中の現実というものが見えてくるようになると、どうせ警察組織に入るのなら狙撃や本格的な格闘技術を学んで、最近日本でも他人事ではなくなりつつあるテロ対策に従事したいと思うようになった。
その希望を叶えるため、大学卒業後に警察学校に入学した。
一年の缶詰生活をクリアした桐原は、自分の体格がSATの基準に達していることに感謝しつつ、警備部を第一志望として卒業の日を楽しみに、将来への期待に胸を膨らませていたのだ。
そんなうららかな春の日のこと。
まっさらな警察の制服と礼服が寮の部屋に届き、同期の仲間たちとやっとシャバに出ていけることを喜び合えた時間は、そう長くはなかった。
――礼服を着て警察学校の卒業式に向かった桐原は、広々とした式場にずらりと並んだ「警察のお偉いさん」方の姿に、ぱっくりと目と口で三つの丸を作る羽目になったのである。
『な……な……』
『桐原? どうした?』
不思議そうな顔をして振り返った同期に、桐原は辛うじて「警察のお偉いさん」方を指さすことだけは堪えた。
『どどどどうって……! おま、おまえ、アレ……!!』
『あー、やっぱキンチョーするよなー。ま、どこに配属されるにしても、あーゆーエリートコースまっしぐらなキャリア上層部とはそうそうお近づきになることもねーだろうし。今からビビっても仕方ねーわな』
そういうことじゃねええええぇー! と絶叫しかけた桐原は、しかし周囲の誰もが落ち着いた顔をほのかな緊張で彩っているのを見て、ひょっとして己の常識がおかしいのかと激しく自問した。
(え……えぇ……? アレがこの世の常識なのか? オレが今まで生きてきた世界が、ちょっぴり常識外れだったのか? って、そんなわけねぇし! いくらなんでも悪ふざけが過ぎないか!? 仮にも一応、世間の平和を守るお仕事のトップを担うヒトたちだぞ!? それであれはアリなのか!? いや、ナシだろう! アレがアリだというなら、オレは今すぐ国外へ逃亡したいくらいだぞ!?)
完全に「警察のお偉いさん」方の様子にどん引きしつつ、どうにか式場に並んだパイプ椅子に落ち着いたが、ありがたい祝辞も先達の大層な訓示も頭に入るわけがない。
警察官たるもの、上司の言葉は絶対である。
そのことはこの一年でいやというほど叩き込まれていたものの、世の中には決して譲れない、否、何があろうと譲ってはならない一線というものがあるのではないだろうか。
そんなことを思いながら、桐原はちらちらと「警察のお偉いさん」たちの方に何度も視線を奪われた。
ようやく主賓のひとりであるどこかのお偉いさんが壇上に上がり、シメの言葉を口にしようとした瞬間――桐原は、思いきり椅子の上で仰け反った。
その結果、当然ながらひっくり返った椅子から転げ落ちる。
隣に座っていた同期たちが「どうした!」「大丈夫か!?」と口々に心配そうに声をかけてくるのに対し、心の底から、魂を込めて叫ぶ。
『アホかあああああああぁー!!』
『桐原!?』
『ななななんでおまえら、平気な顔してんだよ!? 少しはおかしいと思わねェのか!?』
くわっと喚くと、同期は桐原にやんわりと両手を挙げてみせる。
『……桐原、落ちつけ?』
『ああぁッ、なんだその可哀想なヒトを見る目は!? オレはおかしくない! おかしいのはおまえらだー! なんでアレを見て平気でいられるんだ!?』
ここは、絶対に自分が正しいはずである。
だが、桐原に対する周囲の視線は、どんどん優しげなものになっていくばかりだ。
『……うん。大丈夫だから、な? 落ち着いて、ゆっくり深呼吸してみろ?』
『オレは落ち着いてねェけど、おまえらがどうして落ち着いていられるのかは、全然サッパリわからんわー!』
いっそすべてが、新たな生活を目前に緊張した自分ののーみそが作り上げた愉快な幻想だったらいいのに。
そんな桐原の儚い希望は、どこからか現れたSPばりの筋肉ダルマな黒服に両腕をがっしと捕獲され、ずるずると式場から引きずり出された瞬間に潰えて消えた。
騒然としている式場の気配が、扉の閉じる妙に冷たく硬い響きとともに、一瞬で別世界のもののように遠ざかる。
唯一の救いは、そうやって式場から引きずり出されたのが、桐原ひとりではなかったということだろうか。
ほかにも数名、みんな魂を抜かれたような顔をしながら同じようにふたり組の黒服に捕獲されている。……このときほど、誰かに強烈な連帯感と親近感を抱いたことはない。
のろのろと顔を上げると、その中で最も近い場所にいた若い男と視線が合う。
『……殿……』
そうして、ふたり同時にぽつりと零した言葉に、どんよりと俯いて囚われの身だったほかの面々がくわっと目を剥いた。
『殿だよな!? 殿だったよな!?』
『あぁそうさ、殿だったさ! アレはオレの幻覚なんかじゃなかったんだな!?』
『そうよ、殿よ! なんでお偉いさんが揃って殿ヅラなのよ、一瞬私たちの緊張をほぐすためのウケ狙いかしら、大変ねって同情しちゃったじゃないの!?』
『つーか! 最後の奴の殿ヅラ、ロケット花火になった挙げ句に万国旗と紙吹雪が飛び出しますとか、どんだけ金かけたらあんな素敵ヅラができるんだよ!?』
身の自由を奪われながらも、ぎゃあぎゃあと喚き合う。
彼らを拘束している面々が「ゴフッ」「と、殿か……。気の毒に」「マジかよ、毎年レベルアップしてくんなー」などと言っている。
そんな若干――否、かなりカオスな状況を収拾させたのは、いつの間にかその場に現れていた人物だ。
『――静かに』
決して大きくも強くもない、穏やかな声が響く。
『それ以上、無闇に騒がないように。きみたちの世界がちょっぴり崩壊して、これからの人生が大幅に進路変更を余儀なくされただけのことだ。安心したまえ』
そんな蟻の爪先ほども安心できないことを、にっこりと実に人畜無害そうな微笑とともに言ってくれたのは、警察学校を卒業したばかりの彼らとそう年も変わらないように見える青年だった。
『私は、警視庁の結城という。階級は警視だ。本日付できみたちの直属の上司となったので、今後は私の指示に従うように』
その言葉に、桐原たちがはぁ? と声を揃えたのは当然だ。
警察学校を卒業後は、まずは地域課に配属され、交番勤務からスタートするものなのである。その後適性試験と筆記試験を経て、それぞれ希望の部署に進んでいくのだ。
なのにこの青年は、にこにこと底の見えない笑顔を浮かべるばかりだ。
まずは場所を移動しようという彼の指示により、桐原たちはそのままずるずると別棟の会議室へと連れていかれた。
半ば以上呆然としたままの桐原たちが、彼らをそれぞれ引きずってきた黒服たちから解放されると、結城は「座りたまえ」と用意されていたパイプ椅子を示した。
自らも、ホワイトボード前に置かれていたそれに腰を下ろす。
『きみたちにも質問したいことがさぞたくさんあることだろうが、まずは私の話を聞いてもらおう。もう気づいているだろうが――きみたちが今ここにいるのは、きみたちが我々の上官の愉快な姿を知覚することができる、稀な体質の持ち主だからだ』
いえ、誰もそんなことには気づいていませんでしたから、という桐原たちの心のツッコミは、残念ながら結城には届かなかったらしい。
上司が話をしているときには、挙手して認められなければ発言してはならないとわかっていても、敢えて言いたい。
さっぱり意味がわからない。
結城はゆったりと優雅な仕草で足を組むと、そのよく見れば俳優のように整った顔に、愉快げな笑みを滲ませた。
『今年はバカ殿のカツラだったようだが……。去年はなんだったかな?』
水を向けられ、目を泳がせながら応じたのは、桐原たちをここへ連れてきた黒服たちのひとりである。
『――はい。昨年は、バニーガールの頭飾りでした』
『……そうだった。あまりに見苦しい記憶だから忘れることにしておいたのに、うっかり思い出してしまったな……』
ふぅ、と一度遠くを見た結城は、気を取り直すように軽く指を組んだ。そして再び微笑を浮かべると、わかったかい? と桐原たちに視線を向ける。
『あの場で、彼らがあのカツラを被っている様子を「見る」ことができたのは、きみらだけだということだ。ほかの面々はもちろん、上官自身でさえ、自分たちがあんな姿だったことには気づいていない』
にこやかに、笑いながら。
――これほど胡散臭い笑みを、桐原は今までの人生で見たことがなかった。
『あれは、我々の採用試験のようなものでね。一定以上の力がなければ、普通の人間には見えないものだったんだよ。死んだ人間を――いわゆる、幽霊やその他諸々を見る力をね。ほら、こんなふうに』
そう言って軽く振った結城の右腕に突然まとわりつくようにして現れたのは、真っ白にぴかぴか輝く鱗も眩い、全長二メートルはありそうな大蛇であった。
きろりと光る縦長の瞳、閉じたままの口からちろちろと伸びる二股の舌。なにこれ怖い。
咄嗟にがたたっと椅子ごと体を引いた彼らに、結城は楽しげに笑みを深める。
『私の相棒の、月白という。彼女の姿も常人には見えないから、心配することはない』
(だから、アナタのそのセリフのどこでどう安心しろと!?)
『とにかく、きみたちはここにいる時点で私の部下として承認されている。いずれ配属通知がそれぞれの手元に届くだろうが、きみたちに残された道はふたつ。素直にこの人事を受け入れて着任するか、これまでの話をきれいサッパリ忘れて、警察組織とは関係のない新たな人生を進むかだ』
そんなデッドオアアライブ、聞いていない。
(幽霊て。そんなもの、漫画やアニメの世界だけで十分なのですがどうですか。今まで自分に霊感があるなんて思ったこともないし、そんな愉快なものに遭遇したこともないのですが)
桐原たちが意味もなく笑いたくなっていることなどまるで知らぬげに、結城は淡々と続ける。
『まぁ、きみたちのように素質があっても、それなりの訓練をしなければ「見る」ことも「聞く」こともなかなか難しいと思うから、その辺は覚悟しておいてくれ』
(自分が警察官となって体得したいと思ったのは、射撃スキルや格闘スキルであって、幽霊とのコミュニケーションスキルではありません。そういうお話は、せめて妄想力豊かな中学二年生くらいまでにうかがいたかったです)
『我々がきみたちに期待しているのは、基本的に普通の警察官に対するものとそう変わらない。ただ、そういった世界があることを認識し、表向きは「幽霊? 何ソレ美味しいの?」と言いながら適切な事実確認をして、正確な報告を上げてくることだ。きみたちのレベルでは知覚はできても、対処まですることは難しいだろうからな』
それはつまり、何か事件が起こった場合にそれが幽霊絡みのものかどうかを確認できればそれでいいと、それ以上のことは期待されていませんと、そういうことなのだだろうか。どんなパシリだ。
心の底から、今すぐ目を覚まして改めて卒業式に参加したい、と願った桐原だったが、頭のどこかが麻痺していたのだろうか。
気づけば、妙に悟ったような気分で右手を挙げていた。
『きみは?』
『桐原拓人です。――結城警視。質問してもよろしいでしょうか』
『ああ。構わない』
では、と起立して腰の後ろで手を組んだ桐原は、ずっと気になって仕方がなかったことを口にした。
『その月白さんは、重たくはないのでしょうか?』
『……桐原』
結城がじっとりと半目になる。
『は』
『レディの体重を気にするとは、きみはとことん無粋な男だな』
『は、失礼しました!』
確かに、女性の体重を気にするなど男失格である。いくらテンパっていたからとはいえ、恥ずかしいことをしてしまった。
『質問はそれだけか?』
『いえ、もうひとつよろしいでしょうか!』
『なんだ?』
すう、と一度深呼吸をする。
吸ってー。吐いてー。そしていざ。
『我々が、このような方法で結城警視の部下に選抜された理由はうかがいましたが、そのような任務の必要性をぜひお聞かせください!』
『……よろしい』
うなずいた結城が上げていた右手を下ろしたときには、既に月白嬢の姿は消えていた。……その辺は、もう気にしないことにした。でないとそろそろ神経が保たない。
結城は考えをまとめるように軽く目を伏せると、おもむろにゆっくりと口を開いた。
『きみは、たとえば殺人事件が起こった場合、どういった心構えをもって捜査に当たるべきだと思う?』
『……それはやはり、犯人を必ず逮捕して、罪を償わせてやろうと思って捜査に当たるべきと考えます』
警察官としての模範解答に、結城は静かにうなずいた。
『そうだな。それは正しく、またそうあるべきだ。そして、多くの警察官がその志を胸に、日々地道に堅実に各々の業務に当たっているからこそ、我が国の社会生活は守られている。彼らのたゆまぬ努力によって、犯罪に対する抑止力としての警察には存在価値が認められているのだ』
だが、と結城は低く続ける。
『同時に、警察という組織は決して万能ではない。何より、我が国の法制度においては、死んだ人間の権利というものは著しく軽視されているのが現状だ』
死んだ人間の、権利。
決して軽視されていいものではないのに、それは常に、生きている人間の都合により後回しにされてしまう。
頭ではわかっているつもりでも、今まで深く考えたことのなかった現実を唐突に突きつけられ、戸惑う。
『逮捕された犯人は、有能な弁護士を雇うことで実刑を免れることもある。刑務所に入ることになろうとも、被害者の遺族や自分の身内が周囲の心ない人間やマスコミらの容赦ない攻撃に晒されている間、安全な檻の中で規則正しい健康的な生活を送ることができるというのも皮肉な話だが――そういった問題に対応する保護プログラムも次第に整いつつある。しかし、死者は既に存在しない。存在しないものを守るシステムなど、法制化できるはずもない。まぁ、当然の話だな』
死者の尊厳、などという言葉は、犯罪捜査における物的証拠の収集という目的の前には、あっという間に霞んで消える。
遺体は司法解剖の名の下に切り刻まれ、プライバシーはすべて暴かれ、赤の他人によってたった数十枚の捜査資料に文書化される。
……それらはすべて、必要なことだ。
残忍な事件を起こした犯人を特定し、捕らえるためには避けようのない、ただの現実でしかないものの是非を問うことに意味はない。
それでも――そうやって警察の人々がさまざまな痛みを堪え、歯を食いしばって努力を重ねても尚、その追及を逃れ続ける犯人というのは必ず存在するのだ。
『人は、死ねばそれまでだ。肉体は灰と煙になって空や大地に還り、骨は遺族の手によって葬られるか、無縁仏となってまとめて寺に納められる。だが、ときに――どうしようもなく恨みや憎しみを抱いた人間というのは、それで終わりになれないことがある』
――終わりになれない。
その言葉は、ひどく重たい何かを伴ってその場に響いた。
『傷つけられ、苦しめられ、殺され、せめて安らかな眠りをと遺族が祈っても、そんなささやかな願いすら叶わない。……そんな者たちの苦しみがどれほどのものかなど、私には想像することもできないが――』
一瞬、何かを思い出したかのように結城の言葉が途切れたが、それはすぐに元の落ち着いた響きで続けられた。
『被害者が間違いなく犯人だけを殺ってくれるなら、気の済むまでお殺りくださいというところなのだが、あいにく生前の意識や記憶をそのまま保っているケースは極稀なものでな。特に、見境なく犯人憎しとなってしまった場合には、無関係な者まで被害に遭うことも珍しくない』
『も、申し訳ありません、結城警視。その、被害、とは……』
思わず口を挟んでしまった桐原に、結城はそれを咎めるでもなく応じた。
『む? うっかりその霊と波長が合ってしまったせいで、突然目の前に現れた血まみれの人間や動く白骨やでろでろの腐乱死体に追いかけられたら、普通の人間なら間違いなくパニックを起こすぞ。その結果、逃げ惑って高いところから転落死するか、ショックのあまり心臓発作を起こすか――あぁ、刃物を振り回して対抗しようとした挙げ句、通り魔と誤認されて通りかかった警察官に射殺された、というケースもあったな』
どんな場合でも、死者が生者に物理的な影響を及ぼすことなどそうそうできるものではないのだが、と無念そうに首を傾げられても、そのシチュエーションは想像するだけで怖すぎである。どこのチープなホラー映画だろうか。
『とまぁ、いろいろと語ってはみたが、我々の仕事の主たる目的は、死者の無念を晴らし、詳しいことはいずれわかるだろうが、それによってこの国を守ることにある。そのために、きみたちのような人材は不可欠なのだ。これで質問への答えにはなっただろうか?』
『……はい。しかし、結城警視』
確かに答えはもらえたが、自分には自分なりの人生設計というものがある。
『なんだね?』
『自分は、SAT志望なのですが』
『気にするな。SAT志望の候補生は掃いて捨てるほどいるから、きみひとり欠けたところで問題はない』
即答であった。
桐原のまっとうな主張は、結城の語る厳しい現実の前に呆気なく叩き潰された。
結城は再び、にこりと笑った。
『世の中には、適材適所という素晴らしい言葉がある。そしてきみたちの適性は、まさにここにあるということだ』
そのとき桐原たちは、自分たちを捕らえて逃がさない鋼鉄の檻が、重たい鍵を容赦なく鎖す音を聞いた。
警察学校を卒業早々プータローになるという選択をできるはずもなく、親しくしていた同期に若干心配されつつ別れを告げた桐原は、不運な仲間たちとともにそれまで想像したこともなかった研修を受けることになった。
その後さまざまな経験を経て、現在に至るのである。




