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鳥の娘 ~見えない明日を、きみと~ ≪改稿版≫  作者: 灯乃
神々の章

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一ノ瀬晶

 春眠暁を覚えず、なんて言ったのは、一体どこのどいつだったんだろうか。


 春夏秋冬、カレンダーがどんな季節に位置していようと、眠いもんは眠い。特に、寝不足が続いた翌日の古文の授業中なんかは。


 今日も一ノ瀬晶は、今にも仲よくくっつきそうな上のまぶたと下のまぶたを喧嘩別れさせるため、懸命に古文の教科書を睨みつけていた。


 先週から教科書は、日本文学史上最も有名かつ最も腹の立つ長編小説「源氏物語」に差しかかっている。


 こんなマザコンロリコンですれ違った女をもれなく妊娠させそうなエロ男の一代記を、なぜ真剣に学ばなければならないのだろうか。


 初恋の相手にそっくりな美幼女を攫ってきて、自分好みの美女に育てるというのは、確かに男にとって至高の妄想かもしれない。


 だが、いくらイケメンでもこんな下半身暴走野郎の一体どこがいいのか、本気でさっぱりわからない。


 ひょっとして、紫式部は本当は男だったのではないだろうか。このどこまでも男に都合のいいストーリー展開は、むしろ男の目線で描かれたと言われた方がよほどしっくりくる。


 大体、光源氏が手を出したとき、紫ちゃんは十四歳なのである。


 中学生を無理矢理手籠めにした変態的な犯罪者だろう、気色悪い。


 当時は十二かそこらで成人式だったらしいからロリ的な部分には目を瞑るにしても、ゴーカンしている時点で絶対にアウトだ。


 顔か。やっぱり世の中顔なのか。顔さえよければ、強姦魔の変態でも許されるのか。


(ふ……っ、だが光源氏よ。もしキミが現代に存在していたなら、チビデブぽっちゃり系のマロの君と呼ばれていただろうさ! 平安時代の野郎の平均身長は、150センチ未満だったとかいうからな! せいぜい、戦後爆発的に向上した食糧事情の恩恵を受けまくったおれたちを羨むがいいさー!)


 ――虚しい。


 しかし、「源氏物語」という日本が世界に誇る平安文学の主人公に対し、これでもかとツッコミを入れまくることで、どうにか眠くて堪らない授業も乗り切った。


 初老に差しかかり、頭頂部の辺りが教壇真上の蛍光灯に照らされると「……うん、そろそろだネ!」な感じになってきているとはいえ、古文担当の教師は授業中に居眠りなんぞしようものなら、素晴らしいコントロールと威力で繰り出される秘技・古語辞典投げを容赦なく炸裂させてくれる。


 あんなものを食らっては、脳細胞を確実に十万単位で死滅させられてしまうだろう。


 そろそろ真面目に受験の準備に取りかからなければならないお年頃としては、切実にそれは遠慮したいところだ。


 授業の終わりを告げるチャイムの音とともに、教室の空気が一気に緩む。


(眠い……)


 それと同時に机に突っ伏した晶の頭上で、ぽふぽふと軽い何かが弾んだ。


「なーに寝腐ろうとしてんだよ。次、体育だぞ? 女子に蹴り出される前に起きんかい」

「うぉ……?」


 親切な友人のありがたい指摘に、がばりと跳ね起きる。


 次の授業が体育であった場合、前の授業が終わった瞬間から男子には教室からの退去義務が発生するのだ。その義務を怠った場合、想像するだけで大変恐ろしい事態になると思われる。


 しかし、そんな勇者が発生したという話は聞いたことがないため、どのような悲劇が生じるかはいまだに誰も知らない。


 九割方沈没しかけていた意識が即座にエマージェンシーモードに移行した晶は、机の脇に引っ掛けていたジャージを突っ込んだバッグを引っ掴んだ。


 既に教室からの退去を完了しようとしている友人のあとを、慌てて追いかける。


「くぁー……」

「マジで眠そうだな。何、そんな遅くまでベンキョーしてんの?」

「……まぁなー」


 揶揄混じりの友人の言葉に、適当に相槌を打つ。


 最近成績落ちたし、と付け加えれば、友人はそっか、と眉を下げる。


 晶は、密かに溜息をついた。


(そんな平和な話だったらどんなにいいか……)


 友人は晶の充血した目や、あからさまに寝不足なんです、と訴えるぼやーっとした風情に、素直に同情してくれたらしい。


「おまえ、大丈夫か? 少し保健室で寝てくるとか……」

「断る!」

「へ……?」


 即座にくわっと目を剥いた晶の剣幕に、相手の目が丸くなる。


「いいいいいやホラ! 今おれ寝不足だし!」

「はあ?」


 だから寝てくればっつってんのにと首を傾げる友人に、晶はぶんぶんと顔の前で両手を振った。


「無理無理無理、絶対無理。ひとりで保健室の真っ白いベッドとかちょー無理。突然金縛ったらどうすんだ、壁からぬるっと変なモン出てきたら絶対泣くぞ、学校でうっかり泣いたりしてこれから一年半後ろ指を指されて生きてく覚悟なんてしてないんですよ、困るんですいやなんですホンット勘弁してください」

「……一ノ瀬」


 肺活量の限界に挑戦せんばかりの決死の主張に、生温かい視線が返ってくる。


「……はい、なんでしょう」


 友人はふぅ、とひとつ息をついた。


「……いいから、保健室行ってこい」

「だから、それはいやだっつってんだろおおおおお!!」


 幸い、体育の授業は今週からサッカーである。


 試合中は適当に走っているフリをすれば問題ないし、見学時間は金網に凭れてぼへっとしていればいい。


 内申点の関係ない大学受験って素敵だ。体育や芸術科目なんて、赤点じゃなけりゃいいのである。


 そんなことを考えながら軽く目を眇め、グラウンドの上に大きく開けた空を見上げた晶は、溜息を噛み殺しきれずに眉をひそめた。


(あー……。今日も昼間っからうようよと……)


 背中に当たっている意外と弾力のある金網の感触に、しみじみと今の状態が紛れもない現実であることを実感する。


 晶はこのところますますはっきりと目に映るようになった「現実」を前に、深く息を吐いた。


 ――中空にぼんやりと浮かんでは消える、半透明の獣たち。


 晶ののーみそが勉強のしすぎで(というほどしてもいないが)壊れたのではないとすれば、今こうして見えているあれらは一体なんなのだろうか。


 最初はぼんやりと曖昧な影のようにしか見えていなかったものが、日に日にくっきりとした形を表すようになっていった。


 そうして晶は、まるで忍者が毎日伸びる麻を跳び越して脚力を鍛えるようにして、今ではそれらが見えるのが当然のようになっている。


 これがもし人型をしていたら幽霊か、これが噂の霊感とかそーゆーモノか、と感動していたかもしれない。


 だが、晶に見えるのはほとんどが犬、たまに猫、極々稀にウサギやフェレット。実に可愛い。


 それも、瞬きひとつの間に消えたり現れたりと非常に曖昧な見え方なものだから、どうにも中途半端な感じで仕方がない。


 初期の頃は、夜中に突然体が動かなくなると『……いる! 今絶対なんかいるううううう! いや待ておれ、がんばれおれ、ここは一発寝たふりだおれ。こーゆーときうっかり目を覚まして相手を見たりしちゃったら、なんかよくない気がするから全力で寝てることにしとこうぜおれ!』などと自分を励ましながら朝まで丸まっていたものだ。


 ……今ではそんな事態にもすっかり慣れてしまい、金縛りくらいでは驚くこともなくなってしまったが。


 さすがにその状態でぐーすか眠れるほどの図太さは持ち合わせていないものの、ここ最近は『あぁ、またか』で布団の中にじっとしていられるようになっている。


 我ながら、かなりの進歩だと思う。どこに向かって進んでいるのかは、ちょっとよくわからないが。


 なんにしても、他人様には見えない動物たちの存在を騒ぎ立てたところで、自分がもの凄く痛いヒト認定されるか、下手をすればお脳の病院に収容されてしまうだけだ。


 今のところ、寝不足になるのは確かだが、特に害があるわけでもない。


 とりあえずスルーの方向で、と我ながら素晴らしい先延ばし論法で今日まで過ごしてきたのだが――いい加減、睡眠不足がピークになっているかもしれない。


 残念ながら、とてもではないがそれなりに厳しい練習を課せられる部活までこなせるような状態ではない。


 仕方なく晶は放課後、空手部の部長に体調不良で休む旨を伝えると、ひとりよろよろしながら家路についた。


(あーあー、空ーがー青ーいー、雲ーが白ーいー。おおう、あれに見えるはシベリアンハスキー、と思ったら次はチワワかー。シェルティの正式名ってなんだったっけなー。うはは、コリーって馬面ー。ああっ、やっぱ柴犬はイイっ! けど秋田犬ももっさりして捨てがたいし、ミックス犬も純血種にはない味があってむしろよし!)


 元々、家族の誰かが拾った犬をそのまま家族にしちゃいました、な経緯で、現在もいまいち犬種の特定できない犬を三頭飼っていることもあって、晶はかなりの(友人曰く病的な)犬好きである。


 物心ついたときから身近に犬がいないという時期はなかったし、どうしても寿命が人間よりも短い彼らが先に天寿をまっとうしてしまったときは、そのたび人目を憚らずわんわん泣きまくった。


 そんな晶が零す涙を心配そうに舐めてくれたのも、やっぱりそばにいた犬たちだ。


 晶がオツキアイしたい少女に望む条件は、たったひとつ。


 料理ができることでも胸がでかいことでもなく、犬好きである、という非常にシンプルかつ譲れないポイントだけである。


 たまに「あたしって動物好きなの」と妙なココロヤサシサをアピールする女子を見かけたりするが、晶としてはそんなセリフは毎朝一時間以上彼らと散歩をし、立派な排泄物を見て「うむ、今日も健康素晴らしい!」と感動しながらゴミ袋に収容し、反抗期を迎えてうっかり牙を剥いたりするのをきっちりふんじばって、社会生活のルールを叩き込めるだけの根性を身につけてから言いやがれ、だ。


 動物を可愛いと思うだけで可愛がれたら、誰もしつけに苦労などしない。


 晶の家でもかつて捨て犬だった小型犬がどうしても上手くしつけられず、プロに頼んで何度か来てもらったことがある。


 その際、ドッグトレーナーの女性が口にしたのが、「私はわんちゃんをしつけにきたのではなく、飼い主さんに正しいしつけ方を学んでもらいにきたんです」という言葉だった。


 ペットの幸せは飼い主で決まる。


 なのに、ときに人々は「可愛いから」体の小さな彼らに必要以上にエサを与え、「可愛いから」人間と同じものを食べさせ、「可愛いから」元来美しい被毛をまとっている彼らに無駄な洋服を着せ、「可愛いから」噛んでも叱らず、「可愛いから」散歩で好きなように歩きたがるのを許してしまう。


 そのすべてがペットの体に負担を掛け、或いは自分が人間よりも自分の方が上位の存在なのだと可哀想な勘違いをさせ、更に無駄なストレスを与えてしまうというのに。


 犬は基本的に上下関係という序列の中で生きる動物であり、その中でより上位に立とうとする本能はもちろんある。


 しかし同時に、頼りがいのあるリーダーの下で生きている状態というのが、犬にとって安心して落ち着いて暮らせるものであることもまた事実なのだ。


 だからこそ、飼い主はただ盲目的に可愛がるのではなく、彼らのボスとして認められることが必要なのだと、そのためには暴力などは言語道断だが、同時に決してナメられるようなことはしてはならないのだと教えられた。


 可愛らしく、愛おしいと思うからこそ、ともに長く幸せな時間を過ごせるように、人間はきちんとしたしつけ方を学ばなければならない。


 ――犬を勝手に擬人化し、自分の思い込みでできた一方的な愛情を押しつけるのではなく、「犬」というのがそもそもどんな生き物であるかを理解した上で、彼らに相応しいつきあい方をしてください。


 子ども心にもその言葉を深く胸に刻んだ晶は、その教えをことあるごとに周囲の友人たちにしつこく語った。


 そのため、親しい連中などは「いっそおまえは犬をヨメにするがいい!」などとふざけながら言ってくれたものだ。


 実際のところ、晶の若干濃いめの犬への愛を許容してくれる女の子などいるのだろうか、と最近少々心配になっていたりする。


(ヨメねぇ……。そういや、アイツは今頃どこで何やってんだか)


 ふと思い出したのは、数ヶ月前のこと。


 ある日いきなり「オレ、ガッコ辞めっから。じゃあな、今まで楽しかった」とだけ告げて、周囲がなんの冗談? 面白くねー、三〇点! とけらけら笑ったのにそれ以上何も言わず、本当に翌日から姿を消してしまった薄情なクラスメイトがいた。


 彼は今、一体どこで何をしているのだろうか。


 携帯端末は、それきり繋がらなくなった。


 自宅に電話を掛けても、母親だと名乗る女性がおっとりほわわんとした口調で「あの子は今、ちょっと山奥に修行の旅に出ているんですよ。いつか戻ったら、一ノ瀬くんから連絡があったと伝えておきますね」などと電波なことを言うものだから、正直、かなり引いた。


 確か噂では、あそこの母親は料理教室を営むかたわら、いくつか本も出版しているというかなり多忙な女性だと聞いていたのだが、何かの間違いだったんだろうか。


 いや、確かヤツが「昔はおふくろが忙しすぎて食事時以外はほとんど家にいなかったから、弟はオレが育てたようなモンなんだ」と自慢だか自虐だかわからないことを言っていたから、そうではないと思うのだが。


(……こっちは結構、濃いめのツレのつもりだったんだぞ、ちくしょー)


 学校を辞め、家を出る。


 そんな人生がちゃぶ台ごとひっくり返るような一大事を決心するのに、友人だと思っていた相手から一言も相談がなかったことで、晶は密かにちょっぴり傷ついていた。


「――おい」


 かなりぼへっとしながら歩いていたというのもあるが、晶は下校途中、私服にサングラス姿の少年が電柱に背中を預けて立っていても、特に注意を向けることはない。


 それが女の子だったら、まず好みのタイプかどうかをチェックするところではある。


 男でも同じ制服姿なら知り合いかどうかを一応確認するだろうが、やたらとデカくガタイのいい野郎をガン見したところで面白くもなんともない。


「完全スルーかよ」


 どことなく聞き覚えのある声に、反射的に振り返る。


 改めて気づいた相手の長身に、あれコイツ見たことね? と自分にツッコミを入れる前に、すいとサングラスが外される。


 晶は思わず、その顔を指さして大声を上げた。


「おおおおおまえーっ!!」

「よ。久し振り」


(久し振り、じゃねえし! つか、相変わらず無駄にイケメンで腹立つし、でもなくて!)


「おまえっ! カノジョと手に手を取って駆け落ちしたんじゃなかったのか!?」


 かつてそれなりにつきあいのあった元クラスメイトにして、ある日突然無口無愛想キャラから恋人一筋溺愛キャラにジョブチェンジした、謎のイキモノ。


 果てはその恋人と同時に学校を辞めてしまったという、今後数年は都市伝説ばりに語り継がれそうな経歴の持ち主であるところの少年。


 そんな彼――神谷翔が、よろりとよろめいて電信柱に懐く姿を、晶はこの日はじめて目撃したのだった。

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