初仕事
『……翔……』
呼ぶ声の甘い響きに、眩暈がした。
『大好き、だよ?』
少しぎこちない言葉に誘われて華奢な体を抱きすくめれば、腕の中でとろけてしまいそうに柔らかい。甘い髪の匂いが、鼻先をくすぐる。
抵抗がないのをいいことに、軽く顎を持ち上げて唇を強引に重ねても、逃げるどころか素直に応じてくる。
ネットやそのテの雑誌から得た中途半端な知識など、こうして実際に触れて、手探りのようにして覚えてきたこととは比べようもない。
他人の下世話な経験や妄想の産物など、心から愛しくてたまらない大切な少女の前では、なんの役にも立ちはしない。
こんな喜びも、例えようもない甘美な熱も、一体ほかの誰が教えてくれるだろう。
この世にたったひとつの、きれいな宝石。
――いらない。
ほかには何もいらない。
愛しくて、欲しくて、胸を締めつけられるような痛みを覚えるのに、その痛みさえ歓喜に彩られて心のすべてを浸食する。
少しでも無理に追い詰めるとすぐに怯えてしまう少女は、こうしてゆっくりと甘やかすように触れ合うキスは、心地いいと感じてくれているらしいのが嬉しい。
そっと忍ばせた舌にも最初のうちこそ驚いて戸惑っていたものの、すぐに受け入れることに慣れてくれた。
滑らかな頬に手を添え、真珠のように白く整った歯列を軽くなぞって、わずかに開いたそこから薄く甘い舌を誘い出す。
敏感な神経の集中する舌先を何度も舐めて、力の抜けた細い指が押しのけるでなく、縋るために胸に触れてくるのにぞくぞくしながら、濃く深いキスの熱に酔いしれる。
どこもかしこも柔らかな少女の体は、気持ちのままに抱き締めてしまうと、簡単に壊れてしまいそうで少し怖い。
優しくしたいのに気持ちばかりが急いて、なのに臆病な自分は傷つけるのが怖くてそれ以上を踏み込めない。
愛しているから、怖くなる。
触れたくて、気が狂いそうに触れたくて、けれどそんな浅ましい自分の本性をさらけ出したら、彼女はきっと怯えてしまうから。
そんな翔の逡巡を解くように、ほっそりとした少し冷たい指が頬に触れる。
わずかに迷うようにしてから甘えるように抱きついてきたときには、腕の中の少女は既に何も身にまとってはいなかった。
『翔……』
甘い声。甘い吐息。
誘われるまま、キスを解いた唇を華奢な首筋に滑らせる。
そのまま白い肌を貪って、あちこちに所有の証を散らし、そして――
温度のない水が、秋雨のように細かく足元のタイルを叩いては流れ落ちていく。
「……無理だろ。そろそろ」
山の裾野に広がる落葉樹がこのところほんのりと色づきはじめ、戸外に出れば頬に触れる風がすっかり冷たくなってきた。
そんな季節の変わり目に、冬支度に勤しむ野生動物たちのうろつく山の中で修練を重ねるのもいい加減どうかと思うが、毎度毎度朝っぱらから冷たいシャワーを浴び続けるというのも、そろそろ限界だろう。
翔とて、年頃の健康な少年である。
愛しい少女とあーんなことやこーんなことをいたす夢など、今までだって腐るほどに見てきた。
だが、こうも毎晩、しかもどんどん夢の内容がエスカレートしてきているとなれば、自分の我慢袋の緒がいい加減にキレかけであることくらい、いやでもわかるというものだ。
いっそのこと、冬ごもりに備えて好戦的になっている森の熊さんたちに、フラストレーションの解消につきあってもらうのもアリだろうかと思う。
しかし、生きるために必死に日々を過ごしている彼らに、こんな個人的かつ勝手な理由で迷惑をかけるというのは、どう考えてもよろしくない。
(……よし)
少し伸びかけの前髪をざっと掻き上げ、翔は現状に前向きに対処することに決めた。
修行がまだまだ中途半端だろうと、このままでは確実にヤバいことになる。主に自分の妄想が。
下手に溜め込んでいずれどっかんと爆発するよりも、こまめにガス抜きをしておいた方が間違いなく建設的だろう。
何しろ翔は、かつて優衣が攫われた際、たった数時間のストレスで理性にかけていたリミッターがいくつかぶっ飛んで、屋敷をひとつ半壊させた実績の持ち主だ。
その自分が、これだけ長期間の離別に耐えただけでも立派だと思う。自画自賛。誰か褒めろ。
(いざとなったら、和彦を脅してでも……。ふっ、幸いヤツの武器はほぼ鉄製。あの鬱陶しいジャミングさえなければこっちのモンだ、ふふふふふ)
この時点で、自分のストレス満載状態で雷撃をぶちかました場合、常にその身に鉄製の暗器を忍ばせている和彦がこんがりウエルダンに焼き上がることになるだろうことは、翔の頭からきれいサッパリ消えていた。
そんな己の命の危機を察していたのかどうか。
朝イチで顔を合わせた途端、和彦が「一度東京に戻るから、メシ食ったら準備しとけなー」とのたまってくれたのに、出端をくじかれた翔はがくっとコケた。
「へ? ――なんでいきなり?」
東京に戻るというのは、それはもう願ったり叶ったりというところである。
しかし、予定ではまだしばらくこの山中で修行の日々が続けられるはずだったのだ。
それがなぜ、と疑問を向けた翔に、和彦はいつもと変わらない口調で仕事だ、と告げる。
「仕事っつっても、何も危ねー連中とドンパチするわけじゃねーから。今回の件はおまえが一番適任だろってことで、上からご指名。よっ、初仕事オメデトウ!」
「その微妙にムカつくエールはおいとくにしても、なんでオレだよ?」
放っておくとひゅーひゅー! と口笛でも鳴らしそうな様子だった和彦は、そこではじめて少しだけ困ったような表情を浮かべる。
「うーん。オレ的にもおまえが出るとしたら、まず力技系っつーか問答無用に叩き潰す系っつーか、多分あんま頭使わなくても大丈夫な仕事だろうなーと思ってたんだけど」
翔はぐい、と腕をまくった。
「よしよし、オレは売られた喧嘩はもれなくお買い上げになる派だからな。いい度胸だ表に出ろ」
和彦が、すざっと後退る。
「いやいやいや、なんか今日ココロ狭いよ!? ヤな夢でも見たのか!?」
夢としては男の妄想爆裂で最高だったが、目覚めたときの気分はもの凄く虚しくて最悪だった。
今更ながら、鼻血を吹いていなかった自分を全力で褒めてやりたい。
だが、そんなことをつるっと言えるはずもない。
むっつりと黙り込んだ翔に、和彦は首を捻りつつ手にしていた薄手のファイルを寄越してくる。
中を見てみろと促され、開いたファイルの一番上に添付されていた写真に映し取られた「対象」の姿を目にした途端、翔は思わず息を呑んだ。
(な……)
あまりにも見慣れた顔。見慣れた制服。
いかにもやんちゃそうな顔に浮かんでいるのは、悩みごとなんて何ひとつないと言わんばかりの明るい笑顔。
――それは、数ヶ月前に翔が一方的に別れを決めて以来、今まで連絡ひとつすることもなかったかつての友人。
多分、一番明るい時間を一番長く過ごしたクラスメイト。部活も一緒で、しょっちゅうつるんで遊んでいた仲間。
(なんで、一ノ瀬が……?)
今の翔にとっては、優しく穏やかな日常と同じ意味を持つ、既に遠い存在となったはずの少年、一ノ瀬晶だった。
(タスケテ)
(タスケテ)
(ドウシテソンナヒドイコトガデキルノ)
(イキテルノニ)
(イッショウケンメイ、イキヨウトシテルノニ)
(オシエナイデ)
(ミタクナイノ)
(シリタクナイノ)
(ソンナコトハシリタクナイノ)
(ドウシテ)
(ドウシテダレモ)
(ダレモ、タスケテクレナイノ……?)




