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鳥の娘 ~見えない明日を、きみと~ ≪改稿版≫  作者: 灯乃
神々の章

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36/85

束の間の別れ、そして出会い

「じゃあな」


 用事が済んだらすぐまたこっちに来るから、と笑いながら、伯凰がぽんと優衣の頭に手を乗せる。


 ここは、羽田空港の国際線出発ロビー。


 優衣は本日、香港に帰る彼を弟の皓と一緒に見送りにきたところである。


 すっきりと晴れ渡った空は高く、絶好のフライト日和だといえるだろう。


 横浜にある李家の屋敷に、日本滞在時に必要な私物はきっちり取り揃えてある伯凰は、重たいスーツケースを転がすということもない。


 まるで、その辺のコンビニにでも出かけるような身軽さだ。


「ふたりとも、元気でいろよ?」


 この数ヶ月、伯凰は皓とともにずっと優衣の訓練につきあってくれていた。


 しかし、彼も香港李家の次期当主という忙しい身である。


 今までも時折数日単位で戻っていたのだが、近々李家の方で毎年恒例の大掛かりな儀式がはじまるとかで、これ以上席を空けておくわけにはいかなくなったらしい。


 李家の現当主であり、彼の母親である玉蘭は、いっそ優衣を李家で預かりたいと明仁に申し出ていたりしたようだ。


 さすがに、右も左もわからない異国にいきなり放り込まれるのは遠慮したい。


「伯凰さんも、お元気で。――あの、迷惑かけてばっかりで、ごめんなさい」


 我ながら、生徒としては最低レベルのものだったと思う。


 だが佐倉家のひとびとと同じく、伯凰はとことん優衣に甘い。軽く優衣の髪をかき混ぜながら、ばーか、と笑う。


「こっちがしたくてやってることなんだから、謝るな。――まぁ、そのうち李家の方にも顔を出してくれたら嬉しいけどな」


「……伯兄さん。そのときは絶対、僕もついていくからね。下手に姉さんだけ香港へ行かせたりしたら、李家のひとたちに寄ってたかってもみくちゃにされた上に、日本へ帰してもらえなくなりそうだ」


「皓……」


 何を大げさな、と優衣は呆れて過保護な弟を見遣った。


 だが、む、と顔をしかめた伯凰がそれもそうだなとうなずくのに脱力する。


 訓練の合間に、佐倉家と李家の関係や、李家が“歌姫”という存在を大切にしている一族だということは知らされていたけれど――


「――まだほとんどなんにもできないのに、“歌姫”だからとかいろいろ言われても、ぶっちゃけ重いんですけど」


 沈黙。


 ふたりは揃って、さりげなく目を逸らした。


「まぁ……。そこは仕方ない。潔く諦めろ」

「えぇと……。気にしないのが一番、かな?」

(わぁ、酷い)


 とはいえ、ここまで彼らの世話になりまくっている身としては、それ以上文句を言うこともできやしない。


 実際、こうしている間も、優衣がうっかりどこかの誰かに攫われたりしないよう、佐倉家と李家の家人たちが密かに護衛としてついてくれているらしい。


 最初の頃は、知らない誰かにずっと見張られているのかと思うと、あまりいい気分ではなかった。


 しかし、そんな視線も気配もまるで感じない上に、いつも誰かしらそばにいる人々もまるで気にする素振りがないものだから、いつしか彼らの存在も気にならなくなっていた。


 ……人間の適応能力というのは、つくづく立派だと思う。


「けどな、優衣? ひとりで基礎訓練をするのは全然構わんが、皓がそばにいないときには、絶対にそれ、外すんじゃないぞ?」


「はい」


 それ、と伯凰が指さしたのは、優衣の左手首に嵌まっている、美しい透かし彫りの施された幅広の腕輪である。


 先日、あまりにも制御の上手くいかない優衣の様子を見かねた貴明が、「きみがよければなんだが」と断ってから提案してきたのが、最初からすべてを制御しようとするのではなく、まずは力をある程度セーブした上で訓練をしてはどうか、というものだった。


 そのために用いるのが、かつて優衣が実の母に為されていた力の封印というものであったことから、それが有効な手段であるとわかっていても二の足を踏んでいたらしい。


 貴明はその技術を駆使して「封印」の術式を本人の意思で取り外し可能な腕輪という媒体に組み込み、優衣の力を四分の一程度に抑え込むことができるようにしてくれたのだ。


 きらきらと美しい白金色に輝く腕輪は、簡単な留め金で着脱ができるようになっていて、その可愛らしいデザインは義母の凪子が選んでくれたものだという。


 凪子と翠蘭はいつも穏やかにほほえんでいて、「やっぱり女の子のものを選ぶのは楽しいわ」と言いながら、ずっと道場と布団の間を行き来していた優衣の衣服や靴などを、いつの間にか大量に用意してくれていた。


 今優衣が身につけている柔らかな色合いのスカートとカットソー、それに細身のジャケットやハーフブーツも、すべて彼女たちが揃えてくれたものだ。


 とってもありがたいのだが、このところふたりが「お正月の晴れ着はどうしましょうか」「やっぱり加賀友禅がいいのじゃないかしら」「そうですね、絞りというのも捨てがたいですけれど……」「最近の若手の作品も、なかなかよいものが揃っていますよ」とそれはそれは楽しげに語らっていて、そのうち和服で着せ替え人形をさせられそうな勢いなのが、ちょっと怖い。


 それはそれとして、実際この腕輪を嵌めてみると、それまでは台風の中に雨ガッパひとつで突っ込むような感覚だったものが、凪いだ海の中を小舟でたゆたうような感じに様変わりしていて驚いた。


 そして先日ついに、ほんのわずかながら、自分の意思で「言霊」を形作ることができるようになったのだ。


 嬉しくて嬉しくて、それはもう力一杯貴明に感謝したものだが、礼を言うと貴明はなぜかそのまま固まってしまった。


 何かおかしなことを言っただろうかと不安に思っている間に、どこからともなく現れた凪子が「気にしなくていいのですよ。ちょっと疲れているだけですから、オホホホホ」とずるずる引っ張っていった。


 あれは一体、なんだったんだろうか。……凪子の額に青筋が浮いているような気がしたけれど、多分気のせいだろう。


 この腕輪を嵌めている間に覚えた力の扱い方を、腕輪を外しての訓練時に応用する、という方法に切り替えてから、大分効率がよくなってきたと思う。


 とはいえ、いまだに腕輪を外してしまえば、訓練のたびにあっという間に呑み込まれそうになってしまうのは変わらないため、ひとりでいるときに腕輪を外して言霊を使おうなんてことは、恐ろしくてとてもできないのだけれど。


「――なぁ。優衣」

「はい?」


 ゆっくりと、改まった声で呼ばれた。


 見上げると、伯凰の瞳が柔らかな色を浮かべている。


「李家の俺が言っても、あまり説得力がないかもしれないけどな。“歌姫”だなんだって周りが言うのも、そう気にすることはない。おまえはまだ未成年の子どもで、子どもが親や家族に守られるのは当たり前のことなんだ」


 当たり前のこと。


 ……そんなふうに、思ってもいいのだろうか。


 戸惑う優衣に、伯凰はゆっくりと続ける。


「弱いことも、守られることも、別に悪いことなんかじゃない。だから、周りの連中がおまえを守りたいって思う気持ちを、あまり否定しないでやってくれ」

「……否定?」


 伯凰は、淡く苦笑を滲ませた。


「まぁ……なんだ。どうせ言われるなら、『ごめんなさい』より、『ありがとう』の方がこっちは嬉しいって話だ」

「そういうもの、ですか?」


 よくわからない、と首を傾げると、伯凰は真面目な顔でうなずいた。


「そういうもんだ。ついでに笑顔のひとつもつけてくれたら完璧かな?」

「……いきなりハードルの高さを、百倍くらいに設定し直さないでください」


 言葉の選択を変える程度ならともかく、そう簡単にへらへら笑えたら苦労はない。


 憮然として眉を寄せた優衣の頬をうにっと摘んだ伯凰は、「ガキのほっぺはよく伸びるな。ほれ、笑ってみろ」などと言いながら、うりうりと引っ張ってくる。


 優衣は思わず、がすっと相手の足の甲を蹴りつけた。


「……っ」


 伯凰が悶絶した。……少し、力を入れすぎてしまったかもしれない。


「伯兄さん……。自分で姉さんに人体の急所をあれこれ教えておきながらそんなことするなんて、実はもの凄く気の毒なばかだったの?」


 皓が心の底からの憐れみを滲ませた視線を伯凰に向ける。


 蹲って足を抱えていた伯凰は、さすがというべきか素早く復活すると、「やかましい!」と皓の頭をしばき倒した。


「何すんだよ!?」

「ええい、皓のくせにナマイキな!」

「僕のくせにって、なんだよそれ!」


 結構ないい音とともにしばかれた頭を庇いながら、皓が喚く。どうやら、伯凰のしばきにまったく反応できなかったのが悔しかったようだ。


「ふっふっふ、それを俺の口から言わせる気か? 明仁殿に、おまえと高野家の坊主を富士の樹海に放り込んだらなかなか帰ってこないんだがどうしたもんかって相談されて、野垂れ死に寸前だったおまえらを助けてやったのはどこの誰だー?」


「もう言ってるし! っていうか、七歳かそこらのときのことを今更持ち出すか!?」


 ……祖父は七つの子どもに、一体何をさせていたのだろうか。皓が年に似合わぬ落ち着きを備えている理由が、図らずも理解できてしまった気がする。


 だがそんな皓も、伯凰の前では年相応の少年でしかない。


「真冬の雪山できっちり遭難して、蒼白になった貴明殿に探し出されたときには、ほかのガキどもとチョコレート賭けてのババ抜きに夢中になってて、貴明殿が別の意味で泣きそうになってたとかいう話も聞いたことがあったなあ」


「それは九歳のときだから! 若気の至りなんて誰にだってあるだろう!?」


 相変わらず、仲のよろしいことである。


 そんなことをしているうちに、伯凰が乗り込む飛行機の搭乗時間が迫ってきた。


「――まぁ、そういうわけで。今でこそこーんな可愛げってモンのないおまえの弟も、ガキの頃は今のおまえよりずっと周りに心配と迷惑をかけまくってたんだから、何も気にすることなんかないってことだ」

「はぁ……」


 なんだかよくわかるような、わからないような理屈である。


「伯兄さん……。何その、無理矢理最後はイイ感じにまとめてみましたな卑怯技」

「ふっ、これが大人になるってことだぞ。皓」

「滅茶苦茶大人げないことしときながら、なにカッコつけてんだよ!?」


 ぎゃあ、と喚く皓の頭の上で、伯凰の手がぽんぽんと弾む。


「俺がいない間、ちゃんと守ってろよ?」

「言われなくてもわかってる!」


「優衣。おまえが俺のいない間にするべきことは?」

「え? えぇと、基礎訓練です」


 不意にびしりと真顔で問われ、慌てて背筋を伸ばしたというのに、伯凰はすぐにからかうような顔をする。


「ばーか。おまえは無事で、笑ってりゃそれでいいんだ」


「……いや、そんなムチャ振りされても。しなきゃなんないことをしないでへらへらしていられるほど、わたしの心臓は頑丈じゃないですし」


「おーい。そこは感動して、うるるっと涙ぐむところだぞ?」


 そういうものか。


 へらへら笑うだけでなく涙ぐむ練習までしなくてはならないとは大変だ、と思っていると、皓が半目になって伯凰を見上げる。


「伯兄さんの胡散臭いセリフに感動できるのは、そのソトヅラに騙されてくれるひとだけだと思うけどねー……だだだだっ」


 突然、皓が悲鳴を上げる。何ごとかと思えば、伯凰が楽しげに笑ってふんぞり返っている。


「ふははは、敵に急所を取られたまま喧嘩を売るとは、愚か者め」


 それはちょっと、やめてあげて欲しい。


「伯凰さん。わたしは、ハゲた弟はいやです」

「僕だっていやだよ! ってか、頭蓋骨歪むから! マジで!」


 皓が盛大な悲鳴を上げる。


 その頭を鷲掴んでぎりぎりと指を食い込ませていた伯凰が、ようやく手を離す。


(あ……)


 何か既視感を感じたと思ったら。


 はじめて翔とふたりで動物園に行ったとき、翔が無礼な子どもに同じようなことをしていた。


 あの頃はこんな気持ちも現実も、自分自身のことも何も知らなくて、ただ翔から与えられる幸せを受け取るばかりだった。


 幸せ、だった。


 だけど。


「伯凰さん」

「ん?」

「お気をつけて。……あの、いろいろ、ありがとうございました」


 ぎこちなく、それでも教わった通りに詫びではなく感謝の言葉を伝えると、ふ、と伯凰が顔を綻ばせる。


 ――笑顔。


(……あぁ、こういうことか)


 本当だ。


「ごめんなさい」より、「ありがとう」の方が、伝える方も伝えられる方もきっと嬉しい。


「ああ。おまえらも、気をつけて帰れよ」


 伯凰が笑う。さっさと帰れ、と皓が涙目になって言う。


 あの頃に戻りたい、とはもう思わない。


 何も知らなかったあの頃の自分は確かに幸せだったけれど、何も知らないまま前に進むことなんて、きっとできない。


 自分はもう、痛みに怯えて目を閉じるばかりの、小さな子どもではないのだから。


 暗闇の中から、優衣の手を引いて連れ出してくれたのは翔だけれど、今はもう、温かな気持ちをくれるのは翔だけじゃない。


 優衣にとって一番大切なのは翔で、失ったらきっと生きていくことなんてできない。


 だけどもう、翔だけが大切だなんて言えない。


 それは少し不思議な感じで、けれど「大切なひと」が増えていくのは決していやな気分じゃなくて、むしろそんなひとが増えていくのが嬉しいと思う。


「またな」

「はい、また」

「玉蘭さまに、よろしくっ」


 あっさりと手を振って、笑みを残した伯凰がゲートの向こうに消えていく。


 まだ伯凰に掴まれた頭が痛むのか、まったくもう、と皓がこめかみの辺りをさする。


「ハゲてない?」

「姉さん……。僕の毛根より、頭蓋骨の心配して」


 そんなことを言われても、伯凰が皓を本気で痛めつけることなどあるはずもない。


 皓は苦笑を浮かべると、ひょいと肩を竦めた。


「じゃあ、僕らも帰ろっか」


 異存はなかったが、ここから佐倉の屋敷までは車でも結構かかる。


 その前に手洗いに行かせてもらうことにして、優衣は空港のちょっと感動するほど清潔で広々としたレストルームに向かった。


 白く大きなタイルで構成された空間に足を踏み入れた途端、「あのー、すいませーん」とどこからともなく聞こえてきた声に、びくっと足を竦ませる。


 一瞬、以前よくまとわりついてきていた鬱陶しい化け物の類いかと思ったが、「あのー」と再び聞こえてきた声は、優衣と同年代と思われる少女のものだ。


 なんだか弱り果てているようなその声は、どうやらたったひとつ扉の閉まったトイレの個室から聞こえてくる。


「すいませーん……。どなたかいらしたんでしたら、上からトイレットペーパーをひとつ放り込んでいただけますと、ただ今わたしが遭遇している人生最大の危機から脱出することができるのですが……」


 どうやら、うっかりトイレットペーパーの切れた個室に入ってしまったらしい少女に、優衣は心から同情した。


 それは確かに、人生最大の危機だろう。ほかの個室を調べ、唯一ペーパーホルダーに残っていた使いかけのトイレットペーパーを発見すると、「行きますよー」と声をかけてからそれを放る。


「あああああありがとうございますー!」

「いえ、困ったときはお互いさまですから」


 実際、少女が先にこの悲劇に遭遇してくれなければ、優衣が彼女と同じ危機に瀕していたのかもしれないのだ。なんと恐ろしい。


 改めて確認してみると、やはりほかの個室のペーパーホルダーもすっかり空になっている。


 空港というのは油断ならないところだなと思いながら待っていると、無事に人生最大の危機から脱出した少女が個室から飛び出してきた。


「すいません! ホントに助かり……って、ちょ、うええぇええええ!?」

(うええーって……)


 すらりと背の高い、きれいな少女である。


 きれい、というより、かっこいい、という形容が相応しいだろうか。


 よく陽に焼けた肌と、いかにも快活そうな印象の顔立ち、やはり陽に焼けて茶色がかった長い髪をポニーテールにまとめている。


 そして、今は大きく瞠られているが、少女のくっきりと線を描く瞳は、一度目にしたら忘れられないほどに印象的なものだった。


 日本人にとって、黒い瞳も、若干色素の薄い灰色の瞳もそう珍しいものではないだろう。


 しかし、この少女の瞳はいわゆるオッド・アイとでもいえばいいのだろうか。


 左目は黒に近い焦げ茶色の瞳だが、右目はびっくりするほど淡く、まるで発光しているんじゃないかと思うほど薄い灰色の瞳をしている。そのアンバランスさが一見異質にも思えるのに、不思議にしっくりと馴染んで美しい。


 少しだぶついたデザインのジーンズに、アーティスティックな柄のカットソーといかにも頑丈そうなアーミーブーツがよく似合う、実に健康的な魅力に溢れる少女である。


 ――それにしても、彼女はなぜ恐ろしいものを見るような引きつった顔で、こちらを見ているのだろうか。


「そ……そんな趣味があったとは……」

「はい?」


 意味不明のつぶやきに目を丸くすると、少女は「へあ?」と奇妙な声を漏らして、優衣以上に目を丸くした。


「お……女の子……?」

「……女子トイレに男がいたら、それは変態というのではないでしょうか」


 今まで生きてきて、変態男と間違えられたのははじめてだ。


 なかなか貴重な経験をしてしまったが、そんな愉快な間違いをするということは――


「あの……ひょっとして、皓のお知り合いですか?」

「え、ちょ、え……? 皓殿の?」

「一応、姉です」


 姉!? と再び素っ頓狂な声を上げた少女は、「へええええ」と首を傾げながらまじまじと優衣を見下ろしてきた。


「佐倉の皓殿に、姉上なんていらしたんですか……。いやぁ、すいませんでした。以前、ウチの若の随伴をしていたときに、何度か皓殿の顔を見たことがあって。あのツラで男かよ、もったいないっていうかなんかムカつくなー、とか思っていたもんですから、つい」


 なんだか、随分正直な少女のようである。


 感心していると、彼女はふいに、はっと何かを思い出したように瞬きした。ひどく慌てた様子になって、わたわたと両手を踊らせる。


「さ、佐倉家の方が、なぜここに……?」

「親戚の見送りですが……。それが何か?」

「いえいえいえいえ、なんでもなんでも。それではあの、本当に助かりました! このご恩は忘れませんので!」


 すちゃ、と凛々しい仕草で片手を上げると、少女は慌ただしく手を洗うなり、そのまま駆け出していった。


 一体なんだったんだ、と思いながらトイレの個室に目を向けた優衣は、そこで再び固まった。


 ペーパーホルダーの上に設置されている、手荷物置き場。


 そこにあの少女のものと思しき、ウォレットチェーン付きの男物のようなゴツい財布が、寂しげに置き去られていた。

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