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鳥の娘 ~見えない明日を、きみと~ ≪改稿版≫  作者: 灯乃
神々の章

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35/85

バケツでプリン

 晩夏とも初秋ともつかない季節の庭で、地上で種を結ぶものは、ふっくりとほのかな膨らみを表している。


 土の下で球根を育むものは、庭師たちの手によって夏の間に目を楽しませてくれた大輪の花を切り取られ、着々と次世代への準備に入っているようだ。


 佐倉家が保有している庭園や、さまざまな行事に使う植物を世話する一族である蒼月家の娘として育った凪子は、子どもの頃から夏の鮮やかさも、秋の風雅さもないこの季節の庭が好きだった。


 命を繋ぐための、準備の季節。


 この季節にはきっと、そんな言葉が相応しい。


 束の間、濡れ縁から望む庭に目を奪われていた凪子は、このところ胃に穴を空けそうな様子の夫に、温かなほうじ茶と豆乳プリンを持っていく途中だったことを思い出した。


 その場にさらりと衣擦れの音を残し、母屋へ向かう。


(まったく……。あの一歩進んでは五歩下がる、慎重と言えば聞こえはいいものの、はたから見ればただのヘタレな性格は、少しはどうにかならないものなのかしら)


 内心溜息をつきながらも、うっかり「そんな情けないところがちょっとイイかも」と思ってしまったのが運の尽き。


 佐倉家の次期当主である貴明は、その不器用なところや、ひとりでぐるぐる悩んでどツボに嵌まりがちなところ、それをどうにか克服しようとじたばた足掻き続けてきたところをずっと見守ってきた側近たちに、「次期さまを支えることこそ我らの役目!」と、ある意味現当主の明仁以上に想われている。


 そんな彼にはじめて出会ったのは、凪子がまだ中学生の頃のこと。


 当時貴明は、最初の妻である薫子との仲がすっかり冷えきってしまっており、次期当主としての多忙極まりない日々の中、蒼月家の管理する植物園にふらりと現れることが増えていた。


 そしてその頃凪子は、ちょうど術者としての人生と、「外」へ出ていく人生のどちらを選ぶかを悩んでいる時期で、やはり幼い頃から過ごすことの多かった植物園に、ひとり足を運ぶことが多くなっていた。


 まだ佐倉本家のひとびとと間近に顔を合わせることのなかった凪子は、ときどき植物園で見かける「なんだかいっつも疲れた顔をしているおにーさん」が、主家の次期当主であることなど知る由もなかった。


 彼の姿を見るたび、世の中にはあんな大変そうなヒトもいるんだから、自分の人生がどう転んだところであのおにーさんより大変なことになるってことはないよね、と今から思えば結構酷いことを考えていたりした。


 そんなある日のことである。


 顔なじみの「不幸顔のおにーさん」が、あんまりにも思い詰めた表情で睡蓮の咲き乱れる池をじっと見ているものだから、まさかそのまま飛び込んだりしないだろうな、と不安になった。


『おにーさん、おにーさん』

『え……? あぁ、なんだい?』

『ウチの植物は、父さまがキッチリ管理しているんだから、飛び込んで余計な肥料を増やしたりしないでね?』


 肥料、とオウム返しに呟いた「おにーさん」の疲れた顔が、やたらと端正に整ったものだと気がついたのは、彼がくくっと肩を揺らして笑いだしてからだった。


(なんだ、ちゃんと笑えるんだ)


 そう思って、ひどく安心したことを覚えている。


 それからなんとなく顔を合わせるたびに話をするようになって、凪子が進路のことで、親や教師にはしにくいことを「他人の術者」である「おにーさん」にいろいろと愚痴ってみれば、「おにーさん」は意外なほどの聞き上手だった。


 ゆっくりと言葉を紡ぐことで、凪子が不安に思っていることの形をひとつひとつ浮き彫りにして、いつの間にかそれらと向き合うことができるようになっていた。


『――したいことがある、というのはとても素晴らしいことだと思うけどね。したいことがない、というのも、これからしたいことに出会ったときに、すぐにそれを選べるということなんだから、別に悪いことじゃあないと思うよ?』


 そんなことを言う彼に、凪子は尋ねた。


『おにーさんは、あたしくらいのときに、したいことってあった?』

『あったよ』

『へー、なに?』

『バケツでプリン』


 即答された答えは、少々凪子の予想範囲から逸脱していた。


 頭の中で聞いたばかりの音声を何度かリピートしてみたけれど、残念ながらその音からほかの意味を認識することはできなかった。


『……ばけつで、ぷりん?』


 もしや聞き間違いだろうかと、恐る恐る復唱してみる。


「おにーさん」はあっさりとうなずいた。


『いや、あれがなかなか難しくてね。加熱時間が短いと中まで火が通らないし、かといって加熱しすぎるとスが入ってとても食べられたものじゃあなくなるだろう? 奥が深いんだよ、プリンってやつは』


 真面目な顔でそんなことを言う「おにーさん」に、「世の中バケツでプリンを作ろうとしたことがあるひとはあんまりいないと思うから、同意を求められてもちょっと困るよ?」と即座にツッコミを入れなかったのは、呆れ返って言葉が出なかったわけではない。


 たとえどんな愉快なモノでも、他人様が熱意を燃やしているものを笑ったりしてはイケマセンよ、という母のありがたい教えがあったからである。


 それから、いつも凪子の愚痴を聞いてもらってばかりなのだから、たまには「おにーさん」も愚痴ってごらんなさい、と無理矢理話題を変えたのは、別にいい年をしたイケメンが「プリン道」なるものについて真剣な顔で語るのを、あまり見ていたくなかったからではない。


 相変わらず、植物園に来るたび疲れきった顔をしている彼に、何に悩んでいるかを聞くくらいはしてもいいな、と思う程度には親近感を抱いていたから……だと思う。多分。


 しかし、苦笑を浮かべた「おにーさん」が、中学生の女の子に愚痴を聞かせるのは、一応大人としては恥ずかしいなぁ、などと言うものだから、凪子は思わず手にしていたもので、相手の頭を力一杯どついてしまった。


『アホかぁ! 友達に大人も子どももないでしょーが!』

『……い、今のは、ツッコミにしては激しすぎだと思うのは、俺だけかな……?』

『あり?』


 だらだらと額に汗を滲ませながら、いわゆる真剣白刃取り状態で剪定用の高枝ばさみを受け止めていた「おにーさん」は、その悩める美青年な外見に似合わず、意外と体術に関してもデキるヒトだった。


 そのとき「おにーさん」が、凪子の友達宣言にココロを打たれたのか、凪子のツッコミに恐れをなしたのかはわからない。


 彼はぼそぼそと、奥さんとあまり上手くいっていないこと。三歳になる娘が、術者としての才がまるでないこと。


 そして、いずれ周囲から向けられるであろう失望の視線から彼女を遠ざけるためにも、今のうちから「外」で生きられるように――術の世界で生きる自分から遠ざけるようにした方が、本人のためなのじゃないかと思っていることなどを口にした。


『……そんなに娘さん、術の才能ないの?』


『ああ。――期待されるだけの力がないことが、どれだけ辛くて苦しいことか、俺はいやというほど知っているから。あの子には……あんな思いは、させたくないんだ』


 その言葉は、少し意外だった。


『おにーさんは、術者だよね? ってゆーか、ぶっちゃけかなりデキるレベルのヒトだと思ってたんだけど?』


 凪子とて、蒼月家の娘だ。


 これだけ近くにいて、ともに時間を過ごしていれば、相手が自分よりも遙かに上の力を持っていることくらいはわかる。


「おにーさん」は苦笑を深めると、凪子の頭をぽんぽんと撫でた。


『そう言ってくれるのは、ありがたいけどね。俺の周りにいるのは、俺が十回繰り返さないとできないことを、たった一度で簡単にやってしまうような奴ばかりなんだよ』


 凪子は驚いた。


『え、何そのふざけたチートっぷり?』

『ちーと?』

『え、えと……。ズルい、とか、努力しなくてもできちゃう系とか、そういう意味? かな?』


 後になってから、そのとき貴明が言っていたのが、佐倉家の本家に相応しい力を持つ彼の家族、それに彼の側近筆頭である西園寺と若狭のことだったのだと知った。


 貴明は、決して術者として他者に劣っているわけではない。


 けれど同時に、決して明仁のように飛び抜けて傑出した才の持ち主でもなかった。


 幼い頃から、その才を認められていた西園寺と若狭。


 彼らふたりと同レベルの術を操るためには、その十倍の努力が必要だったのだと――佐倉本家の次期当主として相応しくあるため、貴明は血を吐くような修行を幾度も繰り返していたのだと、常に貴明のそばにあった彼らから聞いた。


 そうして何度も何度も同じ術式を繰り返すことで覚えてきたからこそ、貴明は他の才溢れる術者たちよりも細やかな術を扱うことができるようになったのだ。


 ずっとそんな思いをしてきた貴明が、「無能」として生まれた娘をいっそ術の世界から遠ざけた方が幸せなのではないかと思うようになったのは、仕方のないことだったのかもしれない。


 その後凪子は、やはり自分は植物に関わって生きるのがいいと思い、蒼月家の次期当主である姉の補佐としての道を選んだ。


 それからは日々忙しく、さまざまな種類の植物の世話の仕方や、儀礼祭典の作法などを本格的に学ぶことになったため、いつしか「おにーさん」と会うことも滅多になくなっていた。


 そして凪子が十六の年に貴明の元妻が優衣を産み、その最中のゴタゴタですっかりやつれていた「おにーさん」と再会したときには、そのあまりに憔悴しきった様子に、本気で大丈夫かこのヒト、と心配になった。


 お節介かとは思ったけれど、手塩にかけて育てた花々を見せてやったり、男ならしゃっきりせんかー! と無制限一本勝負を吹っかけたりしているうちに、いつからかその様子を物陰から見ていたらしい父と明仁に結託されて、凪子は知らぬ間に貴明の嫁となることが決まっていた。


 ……実際のところは、父から「ちょいとあの男のところに嫁にいってみんか? やってみてダメならすぐに戻ってくればいいし」と言われずとも、ともにいるうちに少しずつ見せるようになった貴明の笑顔に、うっかりときめいてしまっていたのだが。


 結婚話が進んでも尚、「俺に子どもと子どもを作れと言うんですか!?」などと往生際の悪いことを言う貴明を、周囲のありがたい協力を得てふんじばり、押し倒して観念させたのは凪子の方だ。


 まったく、十六ともなれば立派に結婚もできる年だというのに、つくづく女の扱いがなっていないヘタレである。


「次期殿。入りますよ」


 そうして今貴明は、自分の愚かしさゆえに守ることのできなかった娘に対し、どう接していいのか分からず日々悶々としている。


 ただでさえ、父親が年頃の娘と接するのは非常な困難を伴うというのに、貴明自身がいつまで経っても負い目を拭いきれないでいるものだから、泥沼コース一直線。


 優衣もそんな貴明の引け目を少女特有の鋭さで感じ取っているらしく、いまだに遠慮がちというか、貴明に対してはどう対応すればいいのかよくわからないでいるように見える。


 素直に慕う気持ちを向けている皓や、優衣の導き手としての役割を自認している李家の伯凰は、余計なことを考えずに彼女と向き合っているようだ。


 貴明も彼らを見習えばいいのにとも思うが――それをできないところが、貴明が貴明たる由縁なのだろう。


「ああ。ありがとう」


 自室にまで大量に持ち込まれた資料の合間を縫い、辛うじて天板が見えている卓の上に彼の好物であるプリンを載せる。


 貴明は深く息を吐いて、指先で眉間を揉むようにした。


「あまり根を詰めると、人相が悪くなりますよ」


 貴明の手が、ぴくっと震える。


「……いつも思うんだが。どうせ気遣ってくれるのなら、もう少しわかりやすく気遣ってくれないかな」


「あら、十分気遣っていますわよ? それ以上人相が悪くなったら、優衣さんに怖がられてしまいかねませんもの」


 途端に顔を引きつらせた貴明に、凪子は軽く頬に手を当てて首を傾げる。


「本当に……次期殿がさっさと「お父さん」の呼び名を獲得してくださらなければ、私もいつまで経っても、「お義母さん」と呼んでくださいなとお願いすることができませんのよ?」


「え、鋭意努力はしている!」


「次期殿。努力には二種類ありますの。努力する姿だけでも美しいと認められるものと、結果を出せなければなんの意味もないものと。この件に関しては間違いなく後者なのですから、もっとキリキリなさってくださいませ」


 貴明の自己弁護をズバンと一刀両断した凪子は、襖の向こうで控えている家人の誰かが『お、奥さま……!』『おおお手柔らかにお願いしますー!』と言っているのは、聞こえなかったフリをした。


 優衣の存在を知り、彼女の置かれていた状況を知って、自分を責めたのは凪子とて同じことだ。


 ――否、むしろ凪子はある意味、貴明よりも優衣に対して負い目がある。


 彼女の母親と姉が海外への留学を決めた際、佐倉家の細々とした内向きの仕事を取り仕切っている凪子は、残される子どもの生活はどうするつもりなのかと彼女らに尋ねた。


 その際、もうあの子も中学に上がるのだから、身の回りのことくらいひとりでできるだろう、そちらで適当に手配してくれと言ってのけた相手のあまりに冷淡な言いように、疑念を覚えなかったわけではない。


 しかし、元より凪子に対してはそういった物言いをする相手でもあったし、その子ども――優衣名義の通帳を作って郵送し、その口座に月々の生活費を振り込むように手配するよう命じた後は、きっと細かなケアは三条家の方でするのだろうと勝手に考え、また日々の忙しさの中に取り紛れて、すっかりその存在すら忘れてしまっていた。


 ……今から思えば、なんて心ないことをしてしまったのだろうと悔やむことしかできない。


 たとえ優衣が貴明の子でなかったとしても、たった十二かそこらの子どもが、ひとりで暮らすことになんの不安も、寄る辺ない恐怖も覚えないわけがないというのに。


 優衣を幼い頃から虐待し続けていたのは、確かに彼女の実の母親と姉だ。


 しかし、そのことに気づかず、否、気づこうともせずに放置し続けたのは自分たちだ。罪の重さなど、変わるはずもない。許しを請うことすら、あまりに浅ましいことだと思う。


 けれど――だからこそ凪子は、優衣を愛そうと決めた。


 自分たちが優衣に何かを求めることなど、できるはずもない。


 ただ、何かをしてあげたかった。


 自己満足だと言われても構わない。


 それでも、少しでも……ほんのわずかな何かでも、与えてあげられるものがあるのなら。


 彼女に与えられるべきだった「母」の温もりは、最初からどこにも存在してはいなかった。


 それでも、たとえ遅すぎるものだとしても、無条件に「親」に愛される安心感を、ほんの少しでも教えてあげたかった。


 児童虐待について詳しいカウンセラーの元へ義母の翠蘭とともに通い、幼馴染みの少年以外にはどうしてもどこか怯えた素振りを見せる彼女を、ひたすら見守り続けた。


 そうして、少しずつこちらを受け入れはじめる様子に、そんな理屈など関係なく、凪子はごく自然に優衣のことを愛おしいと思うようになっていた。


 それは優衣の姿が、息子によく似たものだったからかもしれない。


 或いは、単なる母性本能の為せるわざなのかもしれない。


 だが、理由などはどうだっていいことだ。凪子にとって、既に優衣は皓と同じく愛すべき子どもであり、守るべき存在だ。


 この家で、確かに同じ血を分けた人々の間で、幸せに笑っていてくれたらと心から思う。


 だというのに、実の父親である貴明がいつまでも腰が引けた状態では、一家団欒など夢のまた夢。


 ……確かに、今回ばかりは貴明がヘタレる気持ちもわからないではない。


 とはいえ、優衣は、こちらの好意を素直に受け止めることのできる子どもなのだから、気を遣うより先に笑顔のひとつも向けてやれというのだ。


 優衣は佐倉家に入ってから――というより、翔と離れてから、と言った方がいいのだろう。


 明らかに表情から精彩がなくなり、思い詰めた顔をしていることが多くなった。


 それは、あまりにも思い通りにならない自分自身に苦しんでいるというのもあるだろう。


 だが、その痛々しいほど白い横顔は、ただただ「寂しい」と言っていた。


 いっそのこと凪子の権限で一度翔を呼び寄せようかとも思ったのだが、本人がそうして欲しいと言わない以上、余計なことをして気持ちが不安定な優衣に下手な刺激を与えたくはない。


 だからこそ、ここはどーんと父親らしい包容力を見せて欲しいところだというのに、貴明はいまだに優衣に対して、まともに笑いかけてやることさえできずにいるのだ。


 まったく、ヘタレにもほどがある。


「そういえば先日、翔さんが仁科の『鬼ごっこ』をクリアなさったそうですわよ。愛の力は素晴らしいですわねえ」


 にっこり笑って、発破をかけるべく、優衣とのココロの距離に関しては貴明の百万歩ほど先を行っている少年を引き合いに出す。


 少しの沈黙の後、どんよりとしていた貴明が「ふふふ……」と虚ろな声を零した。


「うん……。優衣なら和装も似合うだろうけど、やっぱり今どきの子は洋装の方がいいかもしれないなぁ」

「は?」


 なんだか、意味不明のことをつぶやきだした。ついに壊れたのだろうか。


「だけど、困ったな。翔くんは、まだ十七だろう? あと一年は先の話になるわけだけど――いや、よく考えてみたらちょうどいいか。準備には普通それくらいかけるものだしね」

「あの……次期殿?」


 一体なんの話を、と(なんとなく予想はついたが)恐る恐る問いかける。


 貴明は、決まっているじゃないか! と明るくもどこか空虚な笑みを浮かべた。


「女の子の幸せは、『好きなひとのお嫁さんになること』なんだろう? うんうん、優衣が幸せになれるというなら、たとえ「お父さん」と呼んでもらえなくても、立派にバージンロードのひとつやふたつ、歩いてみせようじゃないか!」


 やっぱり壊れていた。


「じっ次期殿ー! どこでそんな情報を手に入れてきたんですか!? 失礼ですが、その『女の子の幸せ』像は一昔前のものというか、むしろ痛々しい中学生レベルのものですよ!?」


 一瞬、殴って直そうかとも思ったけれど、その前に話し合いで解決するのが正しい大人というものである。


 貴明は、妙にキリッとした顔で言い返してきた。


「何を言う! これは永遠のオトメの夢だと、西園寺が言っていたぞ!」


 貴明のいいところは、他人の話をきちんと聞くところだと思う。


 しかしその長所はときに、凪子の頭痛の種ともなっている。


「あの方のお言葉は話半分に聞くモノだと、常々おっしゃっていたのは次期殿でしょう! なぜこの件についてだけは丸呑みに!?」


「いや、それは本当かと念を押して尋ねたら、『このオレのヒゲに懸けて本当だ!』とふんぞり返っていたし……」


「あの方のヒゲに、どれだけの価値を見いだしているのですか、あなたはー!」


 凪子はそのとき、常にドヤ顔が標準装備の側近筆頭の頭を、盆の角で力一杯しばき倒したい衝動に駆られた。


 そんな佐倉家次期当主夫妻の、この上なく真剣かつしょーもない言い合いに終止符を打ったのは、「失礼いたします」と妙に静かに響いた家人の声だった。


 すいと襖が開き、書状を載せた盆を傍らに置いた家人が一礼する。


「次期さま。群馬の斎木一門より使者がおいでになりました。若手の術者に対する協力を依頼したいとのことですが、いかがなさいますか」


「協力要請? ――珍しいな」


 貴明が訝しげな顔になるのも無理はない。


 群馬の斎木一門といえば、規模こそ小さくともその機動力と団結力の高さで、滅多に他家一門に協力を請うことのない一門である。


 しかも、今は先日亡くなった先代当主から次期当主への「継承」が行われる時期のはずだ。どんな一門でも、そういった節目の時期は重たい仕事を避けるものである。


 何かあったのかと問いを向けた貴明に、家人はそれが、と戸惑いを隠しきれない様子で応じた。


「このたび、斎木一門の次期当主に指名された御方が、その継承を受ける前に一門を飛び出したとか」


 貴明の眉が、くっと寄る。


「――それで、その次期当主殿を捜索するのに、若い術者を動かして欲しいと?」

「はい」


 そうか、と一度目を閉じた貴明は、すいと立ち上がると斎木一門の使者に面会する旨を家人に伝えた。差し出された書状に、ざっと目を通す。


「次期殿? どうなさいました?」


 書状のある一点に目を奪われたらしい様子の貴明に、不思議に思って声をかけると、黙って書状を手渡された。


 そこに記された文面を追っていた凪子は、貴明が目を奪われたのだろう一文に、思わず息を呑む。


「これは……。逃げ出したくなる気持ちも、少しわかってしまいますわね……」


 溜息混じりに、丁寧に書状をたたみ直しながらつぶやく。


 貴明も、苦い顔をしてうなずいた。


「しかし、逃げ出したところで、なんの解決にもなりはしない。斎木の継承は、本人が望まずとも逃れられるものではないからな。――いや、指名が為されたということは、既に実質的な継承は為されたと思っていいのだろう」


「ええ。……だからこそ、斎木の方々もなりふり構わず、こちらにまで協力を請われたのでしょう」

「凪子」

「はい」


 貴明は、静かな眼差しを机に向けた。


「そのプリンは後で食べるから、冷蔵庫で冷やしておいてくれ」

「……承知いたしました」


 これで貴明は、対外的には「豪快な現当主を、細やかな気遣いで支える頼れる次期当主」と評価されているのである。


 それは確かに、凪子から見ても、丸ごと否定することのできない評価ではある。


 だが、他家の人々から心からの賛辞を受けるたびに鍛え上げられた凪子の表情筋が、もはや貴明本人以外の何者にも崩すことのできない、鉄壁のガードを誇るようになったという事実を知っているのは、佐倉一門の中でもごく限られた者たちだけだった。

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