旅立ち前夜
その晩、翔が夕飯の席で「ガッコ辞めて修行の旅に出るわ」と言ったとき、十七秒ほどの沈黙の後に「はあああぁ!?」と素っ頓狂な声を上げたのは、今年中学一年になった弟の陸である。
「ちょ……はあ!? 何それ、何いきなり頭のネジまとめてすっ飛ばした愉快発言かましてんの、兄貴!?」
そんなふうに至ってまっとうな反応を返す弟を尻目に、父は「うむ。がんばってこい、父はいつでもおまえを応援しているぞ」と重々しくうなずいた。
そして母は「あらあらまぁまぁ、男の子はいつか旅に出るものだって聞いていたけど、十八歳からがお約束かと思っていたわぁ」と、毎度毎度気が抜けるようなおっとりした様子を少しも変えないまま、少女のように小首を傾げる。
「でも、翔ちゃん。あなた、ようやくお隣の優衣ちゃんとおつきあいできるようになったんでしょう? 女の子を置いていくなんて、お母さんあんまりよくないと思うの。きっと泣いちゃうわ?」
母のありがたいお言葉に、「むしろオレの方が泣いちゃうかもしれません」などと言えるはずもなく、翔は自分に言い聞かせるように答えた。
「大丈夫大丈夫。なんのために携帯があると思ってんだよ」
「――む? 翔、おまえ修行の旅に出るというのに、女の子に甘えるつもりなのか? 父は、そーゆーのはどうかと思う」
父のどうでもいいツッコミに、翔は若干冷たく答える。
「オヤジ、今どきそういうストイック系は流行らんから」
そ、そうなのか……といささかショックを受けたような父に、母が今どきの子って不思議ねえ、と慰めるようにうなずく。
そこで、それまで茶碗片手に固まっていた陸が、ふるふると震えながらようやく息を吹き返した。
「ふ……っ不思議なのは、父さん母さんの方だろおおおお!? 何フツーに会話続けてんの、何ガッコ辞めようとしてる兄貴が修行の旅に出るとかいう電波発言フツーに受信してんの、それともこれは夢なのか!? おれは今、素敵にトリッキーな悪夢を現在進行形で堪能中なのかー!?」
ばんばんとテーブルを叩く陸は、母親に似た乙女系の顔立ちを少しでもシャープに見せるべく、大して視力が悪くもないのにメタルフレームの眼鏡をかけている。
そのあまり役に立っているとは思えないアイテムが曇るんじゃないかと思うほど、頭から湯気を立てている陸の剣幕に、「あらやだ」と母が頬に手を当てる。
「そういえば、陸ちゃんが物心つく頃には、翔ちゃんの電気ウナギな体質もほとんど落ち着いていたものねえ」
「ウナギ言うな」
翔のツッコミに、父がうなずく。
「そうだぞ、母さん。せめてナマズにしておけ」
あら、ごめんなさいねと母が困ったような顔で謝罪したが、ウナギもナマズも大して変わらないだろうと思う。どちらもなんだかぬたっとしている。
「でも、翔ちゃん。あなた、よく今まで陸ちゃんにナマズがバレなかったわね?」
「だから、ナマズでもないとゆーのに」
憮然として言うと、父が妙に楽しげな顔をしてこちらを見た。
「翔は昔っから、ええカッコしーなところがあったからな。陸の前ではにょろにょろナマズにはなれんかったんだろう、そうだろう」
にょろにょろはどっちかといえば、ウナギにかかる形容ではないだろうか。
「やかましい」
しかし、父の指摘はぶっちゃけアタリでもあったので、舌打ちしつつ顔を背けると、やーいやーいと囃し立ててくる。
いくつだオヤジ、と翔はじっとり睨みつけた。
「は……? ウナギ? ナマズ?」
「陸。オレは人間やめて魚類になった覚えはないからな」
呆然とした様子で呟いた弟に対し、翔はびしっと自己主張を繰り出す。だが、それはおっとりと首を傾げた母によって即座に叩き落とされた。
「あらでも、ある意味人間やめているわよね?」
兄の威厳どころか、ヒトとしての尊厳までばっさりである。
「おふくろ、それが仮にも母親の言うことですか」
思わず半目になってしまったが、まったく否定できないのがなんだかいやだ。
あれは翔ちゃんが五歳の頃だったかしら、と母が過去を見ているのか夢を見ているのかわからない眼差しで遠くを見る。
「翔ちゃんと一緒にお昼寝しているとね、不思議と肩こり腰痛がなくなっているのに気がついたのよ」
「ゴフッ」
危うく、口をつけかけていた味噌汁を吹き出すところだった。――そんなはじまりだったとは聞いていなかった。
「それだけだったら、よかったのだけど。そのうち翔ちゃんが癇癪を起こすたびに、家電製品がばちばち壊れるようになっちゃって……。あの頃は、家計がとっても厳しかったわ」
すいませんごめんなさい母上さま、と翔は黙って頭を下げた。
「だけど翔ちゃんも、自分が怒るとテレビゲームが壊れるって理解してからは、すっかり我慢強い子になってくれて。本当に安心したものよ」
(……マジですいません)
「それに、陸ちゃんが翔ちゃんにくっついて回るようになったら、陸ちゃんのそばでウナギになったらとってもマズいって思ってくれたのよね。お母さんもう、嬉しくて嬉しくて」
そしてやっぱり、ウナギに戻るらしい。
「いいですよ、もう。オレは電気ウナギです、そう呼んでください」
翔は、達観した。
「は……ちょ、え? ナニ、どーゆーこと?」
母の説明をいまひとつ理解できなかったのか(あんな説明ですぐに理解されても、それはそれで微妙ではあるが)、やっぱり困惑から脱しきれていないらしい陸を尻目に、父が腕組みをしてうなずく。
「ちょいとピリピリする電流風呂は、なかなかオツなもんだったが。やっぱりアレか、翔は肩こり知らずなのか?」
「……まだ若いからな」
四十肩のオヤジと一緒にされたくはない。
「だけど、ほら。陸ちゃんがまだ幼稚園の頃よ。陸ちゃんがあんまり可愛かったものだから、変態ショタコンストーカーな気色悪い腐れゲス野郎がうちの回りをうろついていたのを、キレた翔ちゃんがいい感じのミディアムレアな焼き加減にして追い払ってくれたのよね」
母の言葉に、陸の瞳が丸くなる。
「へ……?」
あれはカッコよかったわぁ、と両手を組み合わせてうっとりとする母の隣で、父もぐっと親指を立てる。
陸は今でも制服を着てさえ女子と間違えられる乙女顔だが、小さい頃は本当にどこへ連れて行っても「マァ可愛いお嬢ちゃんだこと」と言われる子どもだった。……別に、女児用の服を着せていたわけでもなかったのだが。
とにかく、そんなぷりちーな子どもだった陸は、雑誌の子どもモデルも普通にしていた。そのせいか、おかしな行き過ぎた変態まで近づいてくるようになってしまったのだ。
そしてある日、共働きの両親の代わりに(今から思えば、翔が家電製品をアレコレ壊しまくっていたからだろうか。父は結構高給取りだ)陸を幼稚園まで迎えにいった翔は、家路の途中、件の変態がビデオカメラを構えて潜んでいたのに気づくなり、そのデータごと変態を雷撃で吹っ飛ばしていたのである。
――子どもの頃のことなのでよく覚えていないが、翔が人間に向かって雷撃を放ったのは、もしかしたらあれがはじめてのことだったかもしれない。
件の変態は「突然の落雷に打たれて丸焦げになった哀れな変態、まさに天罰か!?」という見出しで、週刊誌の紙面をしばらく賑わせていた。
だが、さすがに幼かった陸はまるで覚えていないようだ。
「へ……変態……?」
つぶやく陸の顔色が悪い。
……やはり、自分が変態に狙われたことがあったというのは、知りたくない過去だったか。
しかし、これからしばらく翔は家を離れるのだからして、その辺は少し自覚を持っていてもらわねばなるまい。
翔は、重々しくうなずいた。
「いいか、陸。おまえはいわゆる『乙女系美少年』とゆーヤツだ。オレは今まで、どれだけショタスキーなねーさんや、救いようのない変態野郎を追い払ってきたかわからん。まぁ、そろそろおまえも成長期だ。少しはムサくなればそういう連中も減るだろうが、あまり油断せずに生きていけ」
「だ……っ誰が乙女系だよ!?」
今度は、途端に真っ赤になった。こういう素直な反応が、乙女系たる由縁である。
……中学生にもなった男が、こんなに可愛くていいのだろうか。
翔はちょっぴり弟の将来が不安になった。
「おまえだ、おまえ」
行儀悪く箸でびしっと陸の顔を示してやると、母が真顔でうなずいた。
「そうよ、陸ちゃん。陸ちゃんはとっても可愛いわ?」
「ああ、母さんの若い頃にそっくりだ。思い出すな、母さん。はじめてデートした公園で食べた手作り弁当、あれに入っていた唐揚げの味は、今でもハッキリ覚えているぞ?」
まずい、と兄弟が危険信号を感じて顔を引きつらせるより先に、母が「まあああぁ!」と声を弾ませ、輝く頬を両手で包む。
「嬉しいわ、あなた! 私だって、あのときあなたが着ていたシャツの柄やズボンや靴のサイズまで、丸ごと全部覚えているわ!」
「母さんが栄養バランスばっちりの食事を毎日作ってくれるから、俺は今でもメタボとは無縁なのさっ!」
こうなると、両親がなかなかふたりの世界から帰ってこないことを知っている兄弟は、黙って中断していた夕飯に取り組みはじめた。
幼い頃から食事のスパイスとしては甘ったるすぎる会話を聞かされ続けて育った彼らは、こんなことで食欲を失ったりはしないのである。
そして、両親の甘々しい会話を聞き流すという、身に染みついた心頭滅却をしているうちに、陸も少し落ち着いてきたらしい。ぼそっと声をかけてきた。
「……兄貴」
「なんだ?」
「兄貴がウナギだかナマズだか、なんの修行の旅に出るんだかは知らないけどな。……おれをこのひとたちの間に、ひとりで置いていく気か?」
物凄く切実、かつ耐えがたいという声で訴える弟に、翔はあらぬ方向に視線を泳がせる。
「……がんばれ?」
「……人間、がんばれることと、がんばれないことがあると思う」
「ま、まぁな……」
眼鏡の奥でどんよりとしている、睫毛バシバシの大きな瞳に若干罪悪感が刺激される。
だがここは、親離れ・兄離れの第一歩としてがんばってもらうしかあるまい。
とはいえ、こんなふうにお互いにべた惚れで大らかなひとたちが両親だったからこそ、翔は自分自身を否定せずにいられたのだと思う。
普通なら、どんな人間でも自分の子どもが「異常」であることを、そう簡単に受け入れられるものではないだろう。
ましてや翔の「異常さ」は、簡単に他者を傷つけられるようなものだ。いくら自分の子どもだからといって、盲目的に恐れず愛情を注げるはずもない。
実際翔は、父が夜中に泣いている母を慰めているところを、何度か目にしたことがある。
闇を照らす月明かりが、妙にきれいだった。
――あなた……私、ちゃんとあの子を愛してあげられているかしら?
――当たり前だろう。翔はちゃんと優しい子に育っているじゃないか。ちゃんと俺たちの気持ちは受け取ってくれているはずだよ。
――でも……ときどき、どうしても怖くなってしまうの。あの子が誰かに傷つけられたら、その相手を憎んだら、いつかその誰かをひどく傷つけてしまうのじゃないかって。あの子が優しい子だってわかってるわ。それでも、あの子はまだ子どもなんだもの。傷つけられることより、傷つけることの方がずっと自分を苦しめるんだってことを、あの子はまだ知らないのだもの。
――それでも、俺たちにできるのは、あの子の全部を受け止めてあげることだけだ。……それが、あの子の親としてできる、たったひとつのことなんだから。
心配しなくていい、と言いたかった。
憎しみならば、既に知っていた。
憎んで、心の底から憎んで、なのに決して傷つけられない相手が――優衣の母親が存在していたことは、ある意味では僥倖だったのかもしれない。
身の内で暴れる獣を、その牙を、爪を研ぎながらも抑え込む術を、焼けつくような想いの中で自分のものにすることができたのだから。
けれど、彼らにそう伝えることはできなかった。
知られたくなかったから。
自分の心が、既に憎しみを知っていることを。
――殺意さえ。
彼らは、優しいから。
とてもとても、優しいから。
自分が、大切なものを守るためなら、平気で他者の存在そのものを否定できる人間だなんて、彼らが知る必要はない。
きれいなままに、優しい世界で生きていくのが相応しい、愛しい家族。
……ずっと、一緒にいられればよかったけれど。
父が母を選んだように、母が父を選んだように、翔は優衣を選んだ。
学校で学ぶ勉強など、いつでもできる。小さく、世間から守られた箱庭のような世界での日常も十分に楽しいものではあったけれど、そこに優衣がいないならなんの意味もない。
生きる理由は、既に見つけた。
生きる術も、まだまだ荒削りなものとはいえ、既に持っている。
だから、優衣が翔の選択を「自分のせいなのか」と気に病む必要などないのに、あの愛しい少女は自己評価が低すぎるのが困りものだ。
穏やかな日常も、安定した将来も、そんなものなど優衣がくれる幸福感とは比べるべくもないというのに。
――その理由も、なんとなくわかっているけれど。
翔が教えるまでは愛情の意味すら知らず、何があっても己を肯定してくれるべき存在である親に幼い頃からずっと否定され続けてきた優衣は、自分自身を肯定することが上手くできない。
だから、どれほど強がってみせたところで、不意に迷子のような顔をして揺らいでしまう。
傷つけられることに慣れてしまって、冷ややかな態度と言葉で他者を遠ざけることで自分を守り続けてきた、けれど本当は誰よりも優しい少女は、他人の痛みにひどく怯える。
自分の痛みならば、自分が耐えればそれだけのこと。
けれど、他者の痛みを代わりに受け止めることなんてできないから。
傷つけられるのが痛くて苦しいことだと哀しいほどに知りすぎている優衣は、だからこそ自分のせいで誰かが傷つくことを怖がって、その可能性に怯えて、震えながら泣いていた。
そうして多分自惚れではなく、優衣が一番恐れているのは、自分のそばにいることで翔が傷つくことなのだろうと思う。
優衣に、最初に愛情を教えたのは、翔だから。
まだどこか成長しきっていない、幼さの残る優衣の心に、最初に触れて、温もりを伝えた翔に、優衣が子どものような頑是なさで執着するのは自然なことだと思う。……たとえそれが、恋というものではなかったとしても。
けれど、翔の選択は優衣のせいでも、優衣のためでさえない。
全部、自分のため。
自分が、優衣のそばにいるために選んだ道。
その道がどんな色に染まっていようと、後悔などするはずもない。
本気で考えて選んだことに、後悔なんてするわけがない。誰にだって、胸を張ってそう言える。
やっと触れることを許された宝物を、自ら進んで手放すバカがどこにいる。
むしろ、幸運に感謝したくらいだ。こんな力を持って生まれた自分だから、優衣を守ることができるのだから。
つくづく、自分はエゴイストだと思う。
たとえ自分がそばにいることで優衣が泣くのだとしても、それでも離れてやることなんかできない。
優衣が泣きながら翔と離れたくないと言ったとき、翔の体を震わせたのは狂気にも似た歓喜だった。
一瞬息が止まって、優衣が自分自身を否定して泣いているのに、それを慰める言葉を選び取るのに思考ばかりが空転した。
そうして結局「好きだよ」と、あまりにもありきたりな言葉を伝えることしかできなかった。
いつか――もう少し大人になったなら、優衣が泣いていても上手く慰めてやることができるのだろうか。
自分たちはまだあまりにちっぽけで、何も知らなくて、けれどそんな現実に怯えて蹲ってばかりいられるほどに幼くはない。
広すぎる未知の世界に踏み込むことに、恐怖を覚えないわけじゃない。
それでも、そうすることでしか優衣とともにいられないのなら、そんなものはどうだっていい。
優衣を失う恐怖に比べたら、未知への恐怖なんて、そんな曖昧なものにいちいちビビってなどいられない。
……弟のことは少し心配だが、どんな乙女顔だろうが男は男。
いつまでも、兄の自分が守ってやることもないだろう。
「あぁ、そうだ翔ちゃん」
ようやくふたりの世界から戻ってきた母が、ぽんと手を叩く。
「イチゴジャムの蓋が、硬くなって取れなくなっちゃったのよ。修行の旅に出る前に、あれだけ外していってくれないかしら?」
「……了解」




