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鳥の娘 ~見えない明日を、きみと~ ≪改稿版≫  作者: 灯乃
神々の章

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森の奥で

 長野県に広がる緑豊かな高原。


 そこには、高名な駅伝選手やマラソンランナーを幾人も輩出する高校や、さまざまな教育機関の合宿施設が多く存在している。


 そのことからもわかるように、ここはほどよい標高の高さやその他の恵まれた環境が若者の心身を鍛えるのに絶好の場所だと、多くの人々に認識されている。


 しかし、そんな爽やかな青春の汗を流す若者たちばかりを、雄大な山々は見守っているわけではない。


「こん……のっ!」


 ざざっと激しい葉擦れの音に、少年の苛立ち紛れの声、何かが激しくぶつかり合う音、更には物騒な金属音までが混じっている。


 それらは凄まじい勢いで移動しながらも途切れることなく響き続け、森に棲む鳥や獣たちがその進行方向から慌てて逃げ出していく。


 獣道ばかりが行き交う山の奥深くにはまるで相応しくないそれらが、唐突にやんだ。


「……はーい、そっこまでー」


 脳天気な声に混じり、じゃららっと音を立てて引き絞られた鎖が、獲物――翔の腕に絡んで引き倒す。


「だああああぁっ!!」

「記録更新、おめでとさん」


 にやにやと笑いながらそんなことを言うのは、暗器の扱いに長ける仁科家の和彦。


 接触した人間が、まず百パーセントの確率で「おまえ、それどこに隠し持ってんの?」と素朴な疑問を覚えてしまうほど、多種多様な道具を見事に使いこなしている少年である。


 このところ、翔はずっと仁科家の管理する山奥の修練所で、彼をはじめとする仁科家の面々と追いかけっこを繰り返していた。


 しかしいまだに、一度たりとも彼らを抜いて設定されたゴールへ辿り着いていない。


 彼らに地の利があるとか、慣れない原生林だからという理由ももちろんある。


 だが、「修行っていったらコレ基本だよね!」と楽しげに笑った和彦に、無闇やたらと重たいリストウェイト、アンクルウェイトを装着させられているのが最大の敗因だと思う。


 おまけにこの重りときたら、力を集中させるのを妨げるジャミング機能付きなのだからえげつない。


 まったく、どこの少年漫画だろうか。亀の甲羅でないだけまだマシか。


 とはいえ、最初の頃には冗談抜きにフルボッコ状態で、何度も半死半生になっていたのだ。


 それを思えば、彼らの攻撃を躱せるようになってきたのは、一応進歩してきたと言えなくはないだろう。


 ぜいぜいと荒い息を継ぎながら、まるで涼しい顔をしている和彦を睨みつける。


「もう……一度、お願いします……っ」


 和彦はひょいと肩を竦めると、今日はここまでだと宣言した。


「こーゆーのは、無理したって仕方ないんだって。つーか翔って、ホンット逃げるの下手だよなー」


 心底感心したように和彦が言う。


 翔は、どさりと樹齢がどれだけあるのか見当もつかない大木に背中を預けた。汗だくの額を修行着の袖で拭う。


「仕方……ねえ、だろ。今まで、逃げたことなんて、ほとんどねぇんだから」


「……えっとつまり、今まで遭遇した敵さん、もれなく全部ぶっとばしてきましたー、とかそういうこと?」


 微妙な顔をした和彦に、そうだけど? と視線を当てると、はあああぁ、と地の底まで届きそうな溜息が返ってくる。


「当主が、こんな修行メニューを組むわけだ。……あのなぁ、翔。佐倉一門の座右の銘ってのは、『命あっての物種』、『ヤバいと思ったら即座に逃げろ』、『死んで花実が咲くものか』! だ!」

「……はぁ」


 和彦はふんぞり返りながら、びしりと人差し指を立てた。


 間の抜けた声を漏らした翔は、それはわざわざ宣言するようなことなのだろうかと首を傾げる。


 そんな翔を、和彦はじろりと睨みつけた。


「アホか。おまえ、今まで自分が一度もオレたちから逃げきれてねーっての忘れたか? 逃げるにもワザってもんが必要なんだよ。オレらがガキの頃から徹底的に叩き込まれるのは、まずどんな状況でも逃げ延びること、だ。自力で逃げきる自信がねーと、残って戦うこともできねーんだからな」


 それはまた、ごもっともなお話である。


「ついでに言えば、オレらは金で仕事を請け負ってる。仕事を遂行できずに依頼者の信頼を裏切るなんざ、言語道断だ。けど、仕事をやり遂げるのは、別に最初にトライしたヤツじゃなくてもいい。最終的に一門の誰かがその仕事をやり遂げられれば、依頼者は何も文句なんて言ってこねーんだ。てめえのプライドにこだわって逃げられないなんてのは、一番やっちゃなんねーことなんだからな!」


『仕事』は命懸けでやるものじゃない。

 命を金で買うことなんて、できはしないのだから。


 そう言う和彦に、翔は短く笑った。


「確かにな」


 逃げる、なんて発想すら今まで持ったことはなかった。


 邪魔者は叩き潰す、ただそれだけ。


 自分が逃げた後に助けてくれる誰かの存在なんて、今まではどこにもいなかった。


 大切なものを守りたければ、自分の手でそれをするしかなかったから、ずっとそうしてきた。


 ――幼い頃から優衣が傷を負うたび、その血のにおいに惹かれてまとわりついてくるモノたちを、どれだけ叩き潰してきたかなんて覚えていない。


 けれどもう、優衣を自分ひとりの手で守ることはない。その必要もない。


 優衣を守りたいと願っているのは、もう翔だけではないのだから。


(っくしょ……)


 そして何より、翔にはひとりで今の優衣を守りきるだけの力はない。今この瞬間も、優衣を守っているのは翔ではない、ほかの誰かだ。


 頭では、理性では、それが当然で自然なことだと理解している。


 それでも、時折抑えきれない焦燥が胸を焦がす。


 自分がそばにいなくても、笑っているのだろうか。その笑顔を、誰かに向けているのだろうか。


 優衣の世界が広がることを望んでいたはずなのに、自分の目の届かないところでそうなっているのかと思うと、浅ましい独占欲があっという間に顔を出す。


 ――まったく、情けない。


「オラ行くぞ」

「……ああ」


 促され、大分慣れた原生林を歩き出す。


 最初はひとを遭難させる気かと思ったものだが、追い回されながらでも何度も駆けずり回っていれば、それなりに進み方も身についてきた。


 ……それにしても、和彦の扱っている暗器というのは、物凄く趣味的なにおいがする。


 翔が仁科家で修練することが決まったときには、皓が微妙な顔で「アレはただの忍者オタクですから、深く考えないでください」と言っていた。


 ひょっとしてそのうち水の上を歩いたりするんじゃないかと思ってしまうくらい、和彦の暗器の扱いは堂に入っている。


 何ごとも極めれば真なりというし、実際なかなか便利そうだと思うこともある。


 さすがに、自分でやってみる気にはなれないが。想像するだけで恥ずかしすぎる。


「なんか言ったかー?」

「……そのほいほい使ってる鎖とか手裏剣とか、どこでゲットしてきたんだ?」


 和彦は、ぱあっと顔を輝かせた。


 それから出入りの鍛冶職人とあれこれ強度や練度を高めるのに重ねた苦労話や、家に伝わる文献から再現するにも限度があるため、いわゆる忍者スポット行脚をした漫遊記を仁科の屋敷に辿り着くまで延々と聞かされた翔は、二度とこいつにこの手の話を振るもんかと決意した。


 仁科家の屋敷があるのは、よくこんな山奥にこんな重厚かつばかでかい建物を建てられたものだと感心するくらいの、THE・山奥! だ。


 一般人が入ってくる心配はまずないからさーと和彦は笑うが、要はそれだけ大きな整備された道路から遠いということである。


 翔は初日に「こっから歩きなー」と示された、獣道をちょっと開墾してみましたといった風情の山道を見て、ちょっとその場で回れ右したくなってしまった。


 もちろん、屋敷まで車が通れるだけの道は別にひっそりと整備されている。


 だが、仁科家に辿り着くには若いモンは歩け! が基本なのだという。


 これも修行のうちだからと言われれば仕方がないとはいえ、基本都会っ子の翔にとって、山というものはせいぜい高尾山のハイキングコースだ。


 見上げてもそこにあるのは木々の梢の重なりばかりで、空も見えないほど深い森なんて本当にあるんだ信州すげえ、としみじみ思った。


 和彦は脳天気に、たまに熊が出たりすっから気ーつけろよーなどとのたまってくれたが、猟友会に所属しているわけでもないのに勝手に野生動物を仕留めていいのだろうか。


 汗だくになった体をシャワーで清め、翔は与えられた一室(意外にも洋間だった)のベッドに倒れ込んだ。


 仁科家は、佐倉一門における術者の基礎教育を担当する家だ。


 そのわりに、なぜその後継である和彦が忍者オタクという斜めな方向に行ってしまったのかは謎だが――とにかく、ここには若手の術者の卵たちがうようよしている。


 佐倉一門に生まれた子どもたちの中で、術の才があると認められた者は義務教育期間中、長期休みのたびにここをはじめとするあちこちに存在する教育施設に集められ、術者としての基礎を叩き込まれるらしい。


 もちろん、途中でほかの道を選ぶ者や、義務教育を終えた後に進学を選ぶ者もいる。


 しかし、そうでない大多数の者たちは、中学卒業と同時に今度は「実務」に対応する教育を三年間みっちりと施される。


 その後、それぞれの適性に応じて佐倉の本家、もしくは各地に散らばる分家に家人として派遣されるのだ。


 そして、ここで預かることができないほど飛び抜けた力の持ち主(分家直系の子どもたちは大抵そうらしい)は、幼い頃からそれぞれの異能に適した師の元で個別に指導されると聞いている。


 翔はどちらかといえばそっち寄りで、個人的な戦闘能力こそ既にトップレベルと言われているが、何しろ術の基礎やら団体行動やらについてはさっぱりだ。


 そのため、まずは詰め込み突貫工事でそれらを身につけるという話になると思っていた。


 なのに、仁科家の後継である和彦が、そいじゃー今日から毎日鬼ごっこなーなどと言うものだから、思わず「大丈夫かコイツ」な目で見てしまい、ハリセンで力一杯しばかれた。


 ……あのハリセンはどこから出てきたのだか、何度思い返してもさっぱりわからない。


 今日の和彦の話から察するに、「逃げ方」ひとつ知らない翔は、基礎以前の問題なのだろう。


 そんなことを思いながら携帯端末に手を伸ばすと、メールが一件届いていた。


 あまりに正直な自分の心臓が跳ねる。そんな自分に苦笑しつつ受信トレイを開くと、やはり今朝優衣に送ったメールの返事だ。


 毎日、おはよう、元気か、と他愛ない文面を、力一杯ぐるぐる考えながら送っているメールに返ってくるのは、まだメールそのものに慣れていない様子が丸わかりの、絵文字も何もないシンプルなもの。


 それでも、淡々と元気だと伝えてくる言葉も、翔は元気かと問うてくる言葉も、それだけでどんな疲れでも全部吹っ飛ぶくらいに嬉しく感じてしまうのだから、本当にどうしようもない。


 ――優衣は今、佐倉本家にいる。


 そこで、以前は休みの日にだけ行っていた力の制御訓練を、皓や伯凰と集中的に行っている最中だ。


 あの日、優衣を攫うために、一門の女性の魂魄が奪われ、利用された。


 優衣は、何も悪くない。何も知らず、知らされず、ただそれまで通りの生活を、穏やかな日々を望んだだけだ。


 けれど、それを「関係ない」と切って捨てるようなことも、できるはずがなかった。


 だからこそ、優衣は選んだ。


“歌姫”なんて知らない、そんな力なんていらないと明仁から一通りの話を聞いた後、また子どものように泣いていたけれど、それでも自分で決めて、選んだ。


「こちら側」に、くることを。


 無知だというのは、恐ろしいことだと思う。


 実際、あまりに力が不安定な優衣は、皓にはじめて『祝福』を与えた後、しばらく目を覚まさなかった。恐らくあの『祝福』も、一種の暴走だったのだろう。


 そんなことを繰り返していたら、いずれ体や精神にガタがくる。


 何よりも自分自身を守るために、優衣が己を知ることは必要だ。


 そのそばにいられないのは結構キツいものがあるが、翔の異能は優衣の持つそれと、ほとんど対極に位置している。


 とことん、力技。


 なんの言霊もなしに雷撃を放ったり、怪しげなモノを焼き払ったり、吹っ飛ばしたり。


 とにかく攻撃に特化したようなそれは、佐倉家当主の明仁をして「……反則もいいところじゃのー」と呆れられるようなシロモノだ。


 つまり、言霊を操って術を発動させる力を、どうにか体得しようとしている優衣のそばにいたところで、なんの役にも立たないどころか、下手をすれば邪魔にさえなりかねない。


 だからこそ、翔は自分自身に相応しい方向性で力をつけようと決意したのだが――


(……時間的にも距離的にも、こんだけ優衣と離れてるのってはじめてじゃね?)


 何しろ、ずっと同じ学校同じクラス、しかもお隣さんの幼馴染み。


 長いことまともに会話すら交わすことはなかったけれど、心の距離は比べものにならないほど遠かったけれど、それでもいつでも手の届くところに優衣はいた。


 それが今は、こちらは信州の山奥深く、優衣は東京。


(マジで、禁断症状出たらどうすっかなー……)


 いきなりキレて暴れ出したりしたらどうしよう。


 熊なら憂さ晴らしにつきあってくれるだろうか。金太郎か。あれ、足柄山ってどこだっけ。


 そんなことをつらつらと考えていると、先ほど「元気にやってる、心配すんな」とメールを返したばかりの携帯端末が、握ったままの手の中で振動をはじめた。


 液晶画面に浮かぶのは、『優衣』の二文字。


「っもしもし!」


 我ながら電光石火の早業で通話状態にすると、少し驚いたような気配の後、細く柔らかな声が聞こえてくる。


『翔? 今、大丈夫?』

「だーいじょうぶ大丈夫、坂田金時並に大丈夫」

『……何それ?』


(う、しまった)


 自分でも意味不明のことを口走ってしまった。


 優衣はくすくすと小さく笑うと、それから少し心配そうな声になって、本当に大丈夫なのか、仁科家の修行はかなり厳しいと聞いたのだけど、と気遣ってきた。


 ……電話でよかった。


 今のでろでろに笑み崩れた顔は、ちょっと優衣には見せられないレベルにヤバいことになっていると思う。


 優衣からの電話。いつも受け身だった優衣からの、はじめての電話。


 こちらからかけたわけではなく、優衣がはじめて自分から翔に電話をくれて、しかも翔の身を案じてくれている。


 どんな進歩だ、夢や自分の脳内妄想じゃあるまいな、と思わず自分ののーみそを疑ってしまう。


「……優衣?」

『ん?』

「愛してる」


 ふと途切れた会話の合間に、思わず本音がこぼれ落ちる。


 少しの間の後、あのね、とどこか幼い響きの声が返ってきた。


 これでいいのかな、と戸惑うような口調で。


『あの……』

「ん? どうした?」

『……大好き、だよ?』


 ……本当に、電話でよかった。


 きっと思ったままを口にしているのだろう優衣が、今電話の向こうでどんな顔をしているのかはわからない。


 けれど、目の前でこんな可愛いことを言われたら、翔の理性などあっさり吹っ飛んでいたに違いない。


 早く、会いたい。


 くれる言葉も、素直な気持ちも、その全部が嬉しいけれど、やっぱりこの腕に抱き締めて、笑っている顔が見たいから。


 だから、もっと力が欲しい。


 もっとずっと、ちゃんと、何が起きても優衣を守ることができるくらいに。


 会いたい。


 でも、まだ会えない。


 せめてもう少し、この手に力を掴むまで。

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