佐倉貴明の不幸な午後
「おーい、タカ」
――これは、何度目の呼びかけだろうか。
「おーいってば、おーい。おーいおーいおーい」
少なくとも、数えるのがばからしくなるほどの回数であることだけは間違いない。
先ほどからずっと無視していたのだが、このままでは延々としつこく繰り返しそうな勢いである。
膨大な決裁事項に朝から取り組んでいた貴明は、パソコンの画面から視線を外さないまま、不機嫌そのものの声で応えた。
「……西園寺。おまえはいくつになった」
「ふっ、聞いて驚け。ナイスミドルの四十八だ!」
知っているから、別に驚かない。
以前、処理し終えたばかりの書類の上に、西園寺が持ち込んだコーヒーを盛大にぶちまけたことがあった。
それ以来、入り口の前を仕切っているパーティションよりこちらには絶対に入るなと厳命してあるため、顎髭もむさ苦しいドヤ顔だけがその上からのぞいている。
貴明は小さく溜息をついた。
「私が聞いたのは、四十八にもなった男が、なぜそんなにも子どもっぽいふざけきった性格を維持し続けられるのか、ということなのだが」
「それは、オレが若い女の子に好かれるフェロモンを持つ、希有な男だからさ!」
即答だった。
(あぁ、どうしてくれよう)
なぜこんな頭の悪い言動を堂々とふんぞり返って言いきる男が、自分の側近筆頭なのだ――と、今まで何度自問したことだろう。
貴明は、自分の苦労の五割は父の、三割はこの男のせいではないかと常々思っている。
見た目だけなら西園寺は、こんなふうにスーツを着こなし、びしりと隙なく身だしなみを整えていれば、どこぞの重役と言っても違和感はない。
ただし、その口さえ開かなければ、だが。
滅多に現れないこの社長室に、なぜ西園寺がやってきたかはわからない。
しかし、こんなふうに妙なテンションのときに関わるとろくなことがないというのは、長年のつきあいから得た経験則だ。
西園寺は術に関しては文句のつけようがないほど優秀だが、その分「表」についての認識がいささか甘いところがある。
一体誰が、禍つ神を封じるための土地を地上げたり、その際立ち退きを余儀なくされた善良な一般市民へのフォローをして回っていると思っているのか。
術者たちは「おら行くぜ野郎どもー!」「どっからでもかかってこいやー!」「どこの神さんだろうと、オレらがきっちりおもてなしして、幸せいっぱいの夢を見させてやるさー!」と出陣して無事帰ってくることが仕事だが、その後始末というのは実に細々とした書類仕事の山なのだ。
この国の縦割り行政の弊害をまともに受ける、各省庁への報告書と決裁書、その他諸々。
ここ最近、いろいろと忙しかったこともあって、パソコンのメールボックスは未開封メールの山となっている。
社長室の入り口でいまだにふんぞり返っている西園寺をちらりと見遣った貴明は、すぐに液晶画面に視線を戻した。
そろそろいい年なのだから、腰には気をつけた方がいいだろうが、敢えて忠告はしないでおく。
「表」の仕事中だけかけている眼鏡が、最近少し見づらい。そろそろ、買い換えた方がいいかもしれない。
「私は今、非常に忙しい。おまえの気まぐれにつきあっている暇など、針の先ほどもありはしない。それがその桃色の頭に理解できたのなら、今すぐ出て行け。子どもたちの相手でもしていろ」
皓は我が子ながら惚れ惚れするほどよくできた息子だし、その側近候補の子どもたちもなかなかの粒ぞろいだが、西園寺から学ぶべきことはまだまだある。
……あまり余計なことまで学んで欲しくはないが。
まったく本当に、どうしてこんな「オレが結婚したら、世の中の女性たちが悲しむだろう!」と公言してはばからないような阿呆が、自分の側近筆頭なのだろう。頭が痛い。
(さっさと結婚して子どもでも作れ。子どもはいいぞ? 子どもを構っていれば、私のところで暇つぶしをする必要などなくなるぞ?)
「……えぇー、おまえ、ろくに飯も食ってねえんだろ? 少しは息抜きをだな」
珍しくどこか慌てたような西園寺が、何か言っている。
だが、今の貴明にそんな悠長なことをしている暇などどこにもない。
「必要な栄養は摂っている。それ以上に腹にものを入れると、眠くなって効率が落ちる」
先日、とある社長仲間が「時間がないときにはこれに限る」と栄養満点、自衛隊でも採用されているという軍用レーションの存在を教えてくれたのだ。味の方はお世辞にもいいとは言いがたいが、あんなパックひとつで二十四時間戦えるなら安いものである。
そうかぁ、と珍しく素直に応じた彼が、少しはオトナの階段を昇る気になってくれたのかと思った瞬間である。
西園寺は、ひどく残念そうな声音で爆弾を落とした。
「だったら、仕方ねーわな。優衣? その差し入れは、オジサンたちがちゃーんと食べてやるからがっかりするな?」
「……っ!?」
貴明は危うく、椅子から転げ落ちかけた。
「うんうん、残念だなー。折角凪子殿にいろいろ聞いて、タカの好物ばっかり作ってきたのにな? 意外と甘いモン好きのタカのために、疲れが取れるようにって、間食用のかぼちゃのマフィンまで焼いてきたのになー」
「ちょ……っ」
椅子を蹴立てて中腰になった貴明の視線の先、パーティションの陰から彼が愛してやまない息子が、ひょいと姿を現す。
――その目が、まったく笑っていない。
怒っている。
これは、怒っている。
口元だけでにこりとほほえむ息子の顔が、怖い。
「申し訳ありません、父さん。びっくりさせようと思ってアポなしに来た僕らがいけませんでしたね。姉さんがこのところ超過勤務の父さんのために心を込めて作ったお弁当は、責任を持って僕らがいただきますので、父さんはどうぞ栄養満点の自衛隊レーションをお召し上がりください。――本当に残念だね、姉さん?」
皓に促され、恐る恐るといった感じで顔を出したのは、まさに現在貴明の中で皓と同じだけその心を占めている愛娘。
否、ずっと離れて暮らしていた分、その比率は高いかもしれない。
なぜ娘というのは、こんなに可愛いのだろうか。
実際、優衣は見た目も非常に愛らしい娘なのだが。
これについては断じて異論は認めない。認めないといったら認めない。
若干現実逃避していた貴明の目の前で、優衣は気まずそうに目を伏せてしまう。
「……お邪魔して、すみませんでした」
ぺこりと頭を下げるその腕に抱えられているのは、特大の重箱。
――娘の、手作り弁当。
それは、なんという最終兵器だろうか。
その中に詰め込まれているのであろう数々のおかずたちが、虚空の彼方に吸い込まれていく幻を見る。
(ああぁ……っ)
「お仕事、がんばってください」
少し困ったように、ぎこちなく言う優衣の腕を、皓がさりげなく掴んでパーティションの陰に引き戻す。
「それじゃあ、父さん。――お仕事、がんばってくださいね?」
にっこりと笑った息子の背後に、貴明は永久氷壁を吹き荒れるブリザードを見た。
その日、佐倉コーポレーションの小会議室で、社長令嬢の差し入れ弁当が振る舞われた。
貴明はそれからしばらくの間、秘書たちから満面の笑顔つきで「あの卵焼きは絶品でした!」「すみません……お嬢さまに、この間のマフィンのレシピを教えていただきたいとお伝え願えないでしょうか?」「おにぎりの握り具合が最高でしたよ!」などと言われ続けることになった。
それを伝え聞いた佐倉家当主の某側近が、「貴明さま……。一体、どこまで不幸体質なのですか……」と涙を拭っていたとかいないとか。




