「好きだ」
泣き腫らした優衣の目元を、川風が優しく冷やしていく。
散々泣き喚いて、ようやく涙が止まった。遊歩道から石畳で舗装された橋桁の袂に座り込み、膝を抱える。
(……疲れた)
泣く、というのは、思いのほか体力を消耗するみたいだ。
視界の端、長身に見合った長い脚が横目に映る。その足元のスニーカーが大きいな、とどうでもいいことを頭の隅でぼんやりと思う。泣きやんだのだからいい加減に離せ、とほとんど突き飛ばすようにしてその腕の中から逃げてきたのに、どうして翔はまだここにいるんだろう。
ふと太陽が翳って、重みのある布地が肩にかかった。
翔の匂い。黒い光沢のあるパーカー。
むっとした優衣は、それを掴んで投げ返した。
Tシャツ姿の翔があっさりと受け止め、小さく息を吐く。
「おまえ、人の厚意は素直に受けろよ」
「頼んでない。うざい。とっとと帰れ」
「……マジでガラ悪くなってるし」
呆れたように溜息をつかれて、ますますむっとする。
「あんたに関係ない。今更優しくするな、ばか」
「いやだ」
膝を抱えたまま吐いた悪態に即答が返って、しかも意味不明だった。
オレは、と翔が低い声で続ける。
「もう、こんな後悔も自己嫌悪もご免だ。……だから、おまえがいやだっつっても、オレはおまえのそばにいる」
なんだか、鬱陶しいことを言い出した。
「どこのストーカーですか。勝手な自己満足に、こっちを巻き込むな」
呆れ返って言うと、ますます翔の声が低くなる。
「自己満足でもなんでも、おまえがひとりで泣いてんのはいやなんだから、仕方ねえだろ」
「なんでよ。今までみたいに放っておけばいいでしょ」
「いやだ」
繰り返される短い答えに、苛つく。
「いやだいやだって、何子どもみたいなこと言ってんの? 大体、あんたがバカなことしなかったら、わたしの涙腺が壊れることもなかったんですけど」
「……悪、かった」
「ただの空手バカかと思ってたのに、誰とでもあんなことする変態だとは知らなかったわ」
一拍置いて、上擦った声が喚く。
「勝手に決めつけてんじゃねえ! ……ちょっと頭に血ぃ昇っただけで、あんなん誰とでもするわけねえだろ!?」
「どうでもいい。わたしは、もう二度と泣いたりしない。上から見下ろすな、鬱陶しい」
不愉快だ。苛々する。さっさといなくなれ。
「……っ」
――唐突に、すぐ後ろのコンクリートの壁に翔の手が叩きつけられた。
驚いて顔を上げると、きつく目を眇めた翔の顔がある。
「これなら、いいのか?」
吐息が、混じり合う距離。
大きな体で覆い被さるようにされて、ひどく熱く感じる体温が全身を包み込む。
「見下ろさなけりゃ、いいんだろ?」
「その上から目線がむかつく」
「おまえなぁ」
吐き捨てた優衣の顔に、長い指が伸ばされる。
反射的に、びくりと体が竦んだ。
――情けない。
唇を噛んで、顔を背ける。
わかっている。
この手は、母や姉のものではない。頭ではそうわかっていても、自分に向けられる手はいつもいつも、自分を傷つけるものでしかなかったから。どうしても、刷り込まれた恐怖は消えてくれなくて、腹が立つ。
「……悪い」
低く押し殺した声とともに、頬に触れる寸前の指がぐっと握り込まれる。目を伏せた翔がゆっくりとそれを解いて、ひどく迷うようにした後、結局そのまま地面に降ろした。
「あのな、優衣。オレは、絶対に、おまえに傷をつけたりしねえから。……ほかはどうでも、それだけは――信じてくれないか」
視線を戻すと、ひどく真剣な瞳がこちらを見ていた。
「頼む」
「……なんで」
どうして、そんなことを言うのだろう。
そんな、苦しそうな顔で。
「オレは、おまえが好きだ」
「……は?」
優衣はそのとき、翔が何を言ったのか、本当にわからなかった。
首を傾げて見上げると、堰を切ったような早口で言葉を吐き出す。
「おまえのことが、好きだ。――ずっと、好きだった。同情なんかじゃない。少しは気づけよ……っ、じゃなきゃ、こんなボロクソ言われて、それでもそばにいたいなんて思うわけねえだろ!」
彼は――一体、何を。
「何……言ってんの?」
「少しは、オレのこと見ろよ……! おまえが泣くとこなんて見たかねぇんだよ、けど、おまえが泣くこともできねえのはもっといやなんだよ!」
正面から叩きつけられた言葉に、そこに込められた感情に、息が止まった。
瞬きもできずに見つめた先で、我に返ったらしい翔が顔を背ける。その耳が真っ赤になっているのが、妙に目についた。
「……わたしを泣かせたくて、あんなことしたの?」
「っ違えよ、ばか! あれは……っ」
ぐっと言葉を詰まらせた翔が、一度こちらを見た目をまたすぐに逸らす。
「おまえが……関係ねえとか、言うから」
「は?」
意味が、わからない。
「……おまえがいなくなってから、ずっと探してたんだよ! ようやく見つけたと思ったら、知らないヤツ見るみたいな目で見やがるし、またすぐどっか行こうとするし! 一生分の根性使って謝ってんのに、関係ねえとか言いやがるし! それでキレたんだよ、悪かったな!」
「探した? なんで?」
考えるより先にこぼれ落ちた疑問に、翔が声を荒らげる。
「だから、少しはひとの言うことを聞け! 好きなヤツがあんな壊れ方していなくなっちまったのに、心配しねえでいられると思ってんのか! 胃に穴が開くかと思ったわ!」
「心配」
したのか。自分を? ――好き、だから?
「……変なの」
「おい」
がっくりと脱力したように肩を落とす翔を、改めて見つめてみる。
少しきつめの印象ながら、整った顔立ちといい、武道で鍛えられた均整の取れた長身といい、周囲の少女たちが騒いでいるだけのことはあると思う。
「あんただったら、何もわたしみたいなの相手にしなくてもいいでしょうが」
「……おまえしか欲しくねえんだから仕方ねえだろ」
「なんで」
「オレが知るかっ」
こちらを見ないまま喚いた翔は、いつもの仏頂面からは想像もつかないほど幼く見える。
なんだろう。不思議な気がする。
親でさえ捨てた自分を、欲しがるような誰かがいるとは思わなかった。しかも、こんな身近に。
信じられない、のだけれど。
――嘘を、ついているようには見えなくて。
「物好きな」
思わずつぶやくと、翔の横顔が奇妙に歪んだ。
「……ひとが好きだっつってんのに、物好きはねえんじゃねえのか」
「だって、もったいない。悪いこと言わないから、こんな親に捨てられていじけてるようなのに関わってないで、ちゃんとした真っ当な可愛い女の子と楽しくやってなさいって」
心から真面目に忠告したのに、一瞬目を瞠った翔は、間近から顔を覗き込んできた。
顔のすぐそば、背後のコンクリートに置かれたままの手から伝わる体温が、近い。
吐息が触れる。少し気まずくなるほどの沈黙の後、翔がようやく口を開く。
「……オレは、おまえがいい」
低くゆっくりとした言葉に、眉を寄せる。
「なんで、わたしなの」
「理由がいるのか?」
いっそ不思議そうに言われて、戸惑う。
「オレに好かれるのが、いやか」
その問いに、言葉に詰まる。
あまりに真正面から気持ちをぶつけられて、どうしていいかわからなかったけれど。
……いやでは、ないと思う。どうして、いやじゃないんだろう。つい先ほどまで、そばにいられるのもいやで、早くどこかへ行って欲しくて堪らなかったのに。
わからない。ひとに好意を向けられたことなんてないから、どう対処したらいいのかわからない。自分が、何を感じているのか、なんて。
なぁ、と少し掠れた声が、耳に届く。
「いやじゃ、ねえんだったら……。少しでいいから、オレのこと、好きになってくれねえか」
――いやじゃない。いやでは、ないけれど。
困惑して見つめた先で、翔のきれいな切れ長の瞳が、わずかに揺れた。
「おまえが、好きなんだ。……自分でも、なんでおまえじゃなきゃ駄目なのかわかんねぇけど。本当に、おまえしか欲しくないんだ」
狂おしいような光が、その瞳の奥に透けて揺らめく。
胸のどこかが、強く軋んだ。
「……いや、じゃ……ないと、思うんだけど」
わからない。誰も、教えてくれなかったから。
だけど――少し、興味があった。
嬉しかったから。
好き、というのを。
自分にも、できるものならば。
……してみたいと、思った。
「優衣?」
ひどく丁寧な響きの声で呼ばれて、一層戸惑いが深くなる。
「好き、って……どうやったら、できる?」
誰かに好きになってもらったことも、誰かを好きになったこともないから、どうしたらいいのかわからない。驚いたように瞠られた翔の瞳に、少しだけ、痛みに似た何かが過ぎって消える。
目を伏せた翔の額が、優衣の額に触れた。
「……とりあえず、オレのいないところで、泣かないでくれればいい」
「うん」
「それと、絶対、オレ以上におまえを好きなヤツなんていねえから。それだけ、覚えてろ」
その言葉に、違和感を覚える。首を傾げると、翔がむっとした顔をする。
「信じてねえのか」
不快げな声に、そうじゃなくて、と首を振る。
「わたしを好きになってくれるような物好き、きっと翔だけだから。以上も何もないんじゃないかと思って」
思ったままを口にすると、束の間まじまじと優衣の顔を見つめた翔が、ぐしゃりと乱暴に自分の前髪を掴んだ。
「翔?」
「……いや、うっかりおまえを抱き締めそうになっただけだ」
何を今更、と少し呆れる。先ほど、いやだと言ったのに散々抱き締めてくれたばかりではないか。
そう思ったのが伝わったのか、深々と息を吐いた翔が、少し気まずそうな顔になる。
「泣いてるガキを慰めんのと、惚れてる女を抱き締めるのは、全然別だろ」
「何が違うの?」
「……気分の問題」
なんだか、さっぱりわからない。
「つうか今、滅茶苦茶おまえを抱き締めてえんだけど。駄目か?」
(駄目か、と言われても)
けれど、なんでそうなるんだと理由を考えるのも、そろそろ飽きてきた。尋ねても、そうしたいから、としか返ってこないような気がする。
少し考えて、その提案はいやじゃないなと思う。そのまま目の前の広い肩口に額を預けると、一瞬、翔の体が固まった。抱き締めたいと言ったくせに、やっぱりいやだったのだろうか。
彼の言うことはよくわからないな、と思いながら離れようとしたとき――息が詰まるほどの強さで、抱きすくめられた。
(……ああ)
たくさん、言葉をくれたけれど。
そのどれもが本当だと、わかっていたけれど。
そこに込められた気持ちも、伝わっていたけれど。
縋るような腕の強さと。壊れそうな鼓動と。火傷しそうな体の熱さと。
そんなものの方が、ずっとわかりやすいなと思う。
それにやっぱり、温かな腕に抱き締められると安心するし、心地良い。
目を閉じて体の力を抜くと、少し腕が緩んで、大きな手が髪を撫でてくる。
「好きだ」
もう何度も告げられた言葉が、少し揺れて耳に触れる。
その切ない響きに応えられるだけのものを、優衣は何も持っていない。
少し、残念な気がした。
自分の心は空っぽで、返せるものが何もない。
それでも――もしかしたら、何かが変わるのだろうか。
ずっと、ひとりだった。
ひとりでは、何も変わらなかった。
けれど今、翔に抱き締められて、ひとの体が熱いものだとはじめて知った。翔にそうされるまで、髪を撫でられることが心地良いことだなんて知らなかった。こんなふうに、ひとりでは知ることができないことを覚えていくことで、変わるものがあるのだろうか。自分は、変わることができるのだろうか。
そんなことを考えながら、優衣はゆっくりと目を閉じた。