ファーストキス
髪を切った。
ずっと背中の半ばまで伸ばしていたそれは、もしかしたら姉を模倣していたのかもしれない。両親に愛されている彼女への羨望を、ずっと捨てきれずにいた。我ながら、屈折していたものだと自嘲する。
すっきりとしたショートボブになった自分の姿は、鏡の中で姉とも、今までの自分ともまったく違っていた。もっと早く、こうしていれば良かったと思う。
元々、全面的に母親に似た姉と自分は、まるで似たところがなかった。先日会った弟の瞳から察するに、どうやら自分は父親に似たらしい。もちろん、嬉しくもなんともない。
そうして今までずっと目を閉じ、耳を塞いで逃げてきた世界に足を踏み出してみれば、そこは耳障りな騒音に満ちていた。街中の刹那的な時間の流れだけは、少し心地良かった。安物のサングラス越しに見てみれば、けたたましい色合いの世界も、まるで水槽の中を眺めているようで。
――だけど、つまらない。何も感じない。
どこにいても、何をしても。
胸の奥に黒く深い穴があいていて、見るもの聞くものすべてが自分の心に届く前に吸い込まれていっているみたいだった。
ふらりと立ち寄った、煙草の紫煙とアルコールの匂いが充満している夜の店内には、優衣と同じような荒んだ色をした若者が大勢いた。未成年だとばれたことは一度もなかったけれど、街中以上に鬱陶しく絡みついてくる視線が煩わしかった。
昼も。夜も。
街のすべてはつまらなくて、それでも家に戻る気にはなれなかった。ふらふらと足の向くまま、それまで行ったところのない場所を転々とする。目についた店で勧められるままに服を買い、適当な宿泊施設でそれまで着ていたものを捨てていく。少し前の自分なら考えられないような生活パターン。
――そんな中で結局思い知るのは、自分は自分の意思ひとつでは働くことさえ許されない子どもで、あの家以外には帰る場所などないということ。
そうして、もうじき三月も終わるというある日。
人気のない河川敷のガードレールで片膝を抱え、少し寂しくなった桜並木をぼんやりと眺めていた優衣は、ふと誰かが息を呑む気配に気がついた。
「……優衣」
耳慣れた、低い声。
それが、ひどく硬い響きで耳に届く。
ゆるりと横目に見てみれば、幼馴染みがそこに立ち尽くしていた。特に興味もそそられなかった。どうしてかどこか辛そうな顔をしている相手から、再び輝く水面に視線を戻す。
適当に電車を乗り継ぎ、たまたま目に入った桜を近くで見てみたくて降りたここは、一体どれほど家から離れた場所なんだろう。まるで見覚えのない風景に、いやになるほど見慣れた姿が存在することに違和感を覚える。どうして彼がこんなところにいるのかと思ったけれど、彼がどこにいようが自分には関係のないことだ。どうせ、すぐにいなくなる。
「……髪」
ぽつりとした声が背後でして、無感動にそれを聞く。
「切ったんだな」
見ればわかることを、なぜわざわざ口にするのだろう。そんなどうでもいいことを、頭のどこかで考える。
「一瞬、おまえだって、わからなかった。……そんな服、持ってたか」
優衣が今身につけているのは、ショートパンツとハイカットのスニーカー。それに細身のカットソーと、七分丈の薄手のジャンパーだ。髪が長かった頃は、まずすることのなかった服装だが、動きやすくて楽でいい。以前の優衣が着ていたのは、大抵柔らかな色合いのおとなしい雰囲気の服ばかりだった。鏡の中の自分が以前と違って見えるのは、この服装のせいもあるのだろう。
「少し、痩せたな」
答えるのが面倒で無視しているのに、翔はそのまま低く続けた。
「ちゃんとメシ、食ってんのか」
うるさい。 どうして今日に限って、こんなふうに話しかけてくる。今まで通り、放っておいてくれればいいのに。
黙ったままさっさと帰れと思っていると、少しの間の後、一段低くなった声が言う。
「キツい……よな。……あんなの、ねえよ」
「別に」
「……別に?」
意外そうな声に、おかしくもないのに喉が震えた。
「いまだに、あのひとたちに期待なんかしてた、自分の馬鹿さ加減にびっくりしただけ」
本当に、なんて愚かだったのか。
あれだけ何度も、何度も、勝手に期待しては絶望して。そんなことをもう、どれだけ繰り返しただろう。
だけど。
もう、いい。
「さよなら」
翔が再び何か言いかけたのを、短く切り捨てて立ち上がる。そのまま、二メートルばかり下の遊歩道に飛び降りた。
優衣は、幼い頃から身の軽い子どもだった。ここ最近は、煩わしい相手から逃れるのにこの身軽さは随分役に立っている。しかし、小学生の頃から空手を続けている翔は、街の間抜けな男たちとは少し違っていたみたいだ。
優衣が歩きだそうとする前に、すぐ傍でざっと地面と靴底が擦れる音がした。構わず先を行こうとした優衣の腕を、大きな手が掴む。反射的に振り払おうとしたけれど、痛いほどの力に顔をしかめる羽目になった。
「……何」
まだ何か用かと見上げると、眇めた目をいやそうに背ける。腕を掴んだ手はそのまま離れないのが、鬱陶しい。
「同情なら、必要ない」
翔が、弾かれたようにこちらを見る。
「っ違う、オレは……」
「自分を嫌ってる相手に、同情なんかされたくないって言ってるんだけど」
見上げた先で、翔の顔が凍りついた。腕を掴んでいた手が緩む。そのまま離れかけた手が、唐突に肩を掴んで引き寄せる。
よろめいた優衣は次の瞬間、翔の腕の中にきつく閉じ込められていた。
「……ごめん」
頭の上で響いた、押し殺した声に、瞬く。
鼓動が、頬に触れる。
ひとの体というのは、こんなに熱いものだったのかとぼんやり思う。
「ごめん……優衣」
「……離して」
「オレは……知ってたのに。おまえが、母親に何されてたか、知ってたのに。……何もできなくて、ごめん」
知っていたのか。それはそうかもしれない。時折、火がついたように母が優衣に手を上げるたび、体中に醜く刻まれた爪痕や青あざは、近くにいればいやでも目に入っただろうから。
けれど、それがなんだというのか。
「あんたには、関係ない」
つぶやくと、翔の体が強張った。
「なんで、あんたが謝るの。離してよ。離してって言ってる――」
でしょう、という言葉は、翔の口に食われて消えた。
がち、と歯がぶつかる硬い音。
見開いた視界いっぱいに、思いの外長く揃った睫毛ときつく寄せられた眉、そこにかかる少し長めの前髪が映る。逃れようともがいたけれど、体に絡みついた腕はびくともしない。おまけに口が塞がれているせいで、呼吸が上手くできなくかった。
一瞬離れた隙に顔を背けようとしても、首の後ろを掴む手に阻まれる。
再び、噛みつくように口づけられた。
――息が、できない。怖い。苦しい。
「……っ」
息苦しさに耐えきれず、思わず開いた唇の間で舌先が触れ合う。その感触に驚いた優衣は、無我夢中で相手の胸を突き飛ばしていた。
「あ……」
まるで、自分のしたことが信じられないとでもいうように、呆然とした翔と視線がぶつかる。
「……最低」
口を開いた途端、なんの前触れもなく視界が歪んだ。
頬を転がり落ちた雫が、カットソーの胸元に滴る。ずっと忘れていた涙が、こんなにも簡単に溢れ出たことに困惑する。たかがキスされたくらいでショックを受けるような神経を、自分がいまだに持ち合わせているとは思わなかった。
「優衣……オレ」
「うるさい!」
唐突に、自分の中の何かが限界を迎える。
もう、いやだ。
もう、たくさんだ。
「なんで、放っといてくれないのよ! こんな……っなんであんたにまで、こんなひどいことされなきゃなんないのよ!?」
どうして、自分を傷つける。
身近にいる人間は、どうしてみんな。
癇癪を起こした子どものように、泣き喚く。
「どっか行って! もう放っといて! わたしに触らないで!」
なのに。
「優衣!」
どうして、また抱き締めたりする。どうしてまた、その腕を温かいと感じたりするのか。
いくら温かくたって、この腕の持ち主だって、どうせ自分を傷つけることしかしないのに。
「いやだってば! 離して!」
「だって、おまえ泣いてんだろ!」
「誰のせいよ!」
「オレだよ、それがどうした、文句あるか!」
怒鳴りつける声に、唖然としたのは一瞬。
「――ばっかじゃないの、何逆ギレてんのよ!」
「仕方ねえだろ、オレだってそんなガキでもオトナでもねえんだよ!」
「何よそれ! もう放っといてよ、さっきからそう言ってんでしょ!?」
「できるか、ばか! 放っといたらおまえ、またどっかに行っちまうだろうが!」
「わたしがどこに行こうと、あんたに関係ない!」
「……っ」
ぐっと、大きな手が両側から頬を挟んだ。吐息の触れ合うような距離で、正面から瞳の奥を覗き込まれる。
「な……」
「行くな」
低く押し殺した声。熱い額の間で、髪の擦れ合う音がする。
「行くな。……優衣」
触れる手と、囁くような掠れた声が、震えていた。
なんで、だとか。
どうして、だとか。
言葉が脳裏に浮かんでは、声になる前に消えた。
ぼろぼろとなんのありがたみもなく頬を落ちていく涙を、硬い親指が何度も何度も拭っていく。
「ごめん」
「……謝るくらいなら、最初からするな」
おまえ、と複雑な表情が翔の顔に浮かぶ。
「ガラ、悪くなってねえか」
「ヤケになってるだけ。あんたこそ、こんなお優しいキャラじゃないでしょ。何やってんの、気色悪い」
いつまで経っても涙の止まらない目を、手の甲で乱暴に擦りながら言う。やんわりと手首を掴んできた翔が、小さく息を吐いた。
「おまえの中で、オレはどんな悪党になってんだ」
「ひとの顔見るたびに、いっつも滅茶苦茶いやそうな顔するくせに。今更、何言ってんのよ」
「……悪かった」
「どうでもいい。……あぁもう、涙腺壊れたし! ばか! 大っ嫌い!!」
いつまでも止まらない涙に、きつく目を閉じて喚く。
手首を掴んでいた手が一瞬強くなった。そのまま引き寄せられて、また抱き締められる。頭の後ろを支える大きな手に引き寄せられて、溢れ落ちる雫が翔のシャツに染みていく。
「何すんのよ、離して!」
「……おまえが、泣きやんだら、離す」
「本気でばかなの!? 離してってば!」
「黙らないと、また口塞ぐぞ」
「……っ」
どんな脅迫だ。冗談じゃない、ふざけるな、と心の中でどれだけ罵倒しても、そもそも体格が圧倒的に違う翔に体力で敵うわけがない。
こうなったらさっさと涙腺を修復して涙を止めなければと思うのに、体のどこにこんなに水分があるのかと驚くくらい、後から後から溢れ出る。おまけになんのつもりか、翔の手が震える頭や肩、背中をぎこちない手つきで撫でていって、それを心地良く感じてしまうのが悔しい。
「ふ……く……っ」
だって、こんなのは知らない。
こんなふうに、優しく自分に触れる手なんて知らない。
短くなった髪を撫でる長い指も、宥めるように首の付け根を軽く叩く手のひらも。
ずるい。いやだ。
安心なんか、したくない。
どうして、こんな。
「おまえが……」
話しかけるな、と言いたいのに、嗚咽を堪えるだけで精一杯だった。
「おまえが、いやだったんじゃなくて。……オレは、自分がいやで。ずっと……おまえのこと、ちゃんと見られなかった」
抱き締める腕が、強くなる。
言葉、が。
直接、体の奥に入ってくる。
「ガキの頃から、おまえが親にぼろぼろにされてんのに、人形みたいになって壊れてくのに。……何もしねえで、見ないフリして。そういう、情けなくて卑怯な自分を、おまえに見透かされてるみたいで」
聞きたくない。
そんなのは、知らない。知りたくない。
駄々を捏ねる子どものようにかぶりを振る優衣の髪に、大きな手が触れる。
「ごめん」
「……っ」
「いやな思い、させて……傷つけてばっかで。ほんとに、ごめん」
どうして。
どうして今更、そんなことを言う。
やっと、諦められたのに。
これ以上傷つかないように、傷つかずにすむように。
もう誰にも、何も、期待なんかしないと決めたのに。
「頼むから、もう……ひとりで、いなくなったりしないでくれ」
掠れた声でそんなことを言う翔の指が耳に触れ、頬を撫でて、そこを濡らす雫を親指で拭い取っていく。頬に落ちかかった髪を耳にかけられて、熱い額を少し速い鼓動の上に押しつけられる。
瞬く。
睫毛の先に引っかかっていた雫が頬を滑り落ちて、翔の掌に伝わっていく。
――本当は。
ずっと、こんなふうに泣きたかったのかもしれない。
誰も、そんなことを許してくれなかった。
優衣が知っているのは、泣けばうるさいと罵り、泣きやむまで与えられる痛みだけ。
「ぁ……」
母の目に、狂気。
姉の目に、嫌悪。
「あ……ぁ、ぁああ……っ」
「優衣……」
怖かった。
本当は、怖くて堪らなかった。
痛くて、苦しくて。
呼吸さえ。
――わからなくて。
生きていていいのか。
生きたいと、望んでいいのか。
親にさえ存在そのものを否定された自分に、生きる価値があるのか。
ずっと、わからなくて。
ずっと。
泣くことさえ、できなかった。