胸騒ぎ
その場で家人を問い詰めるような時間の無駄はせず、皓はすかさず身を翻して母屋に向かった。何も言わず、大地もぴったりとついてくる。
五百蔵家の楓といえば、術者としての才はあったが、幼い頃に水彩画の世界に魅入られ、家業に一切関わることなく芸術大学に進んだ女性だ。画家としての道を選び、先頃外の人間と婚約が整ったことを五百蔵家の当主が嬉しそうに、そして少し寂しそうに報告にきた。
本当は術者として育てたかったらしいが、娘の幸せが何よりだと照れくさそうに笑うのを、祖父と父が完爾と笑って言祝いでいたのも記憶に新しい。
西園寺、若狭は、父の側近衆の中でも腕利きのふたりである。皓も体術の訓練のときなど、ころころと良いように転がされるばかりだし、術の練度でもまだまだ敵わない。あのちょい悪オヤジを地でいくふたりが向かったのなら、何も心配はないはずだ――と思いたいのに、この胸騒ぎは一体なんだ。
屋敷の中を駆け抜け、開け放たれていた襖の前で一礼する。広々とした室内を見回すと、祖父の明仁が完全に「当主」の顔をして上座に座していた。その側近ふたりと、父の側近が三人揃っている。
「……おじいさま、五百蔵に襲撃があったとか。楓殿はご無事なのですか」
定位置に腰を下ろすと、背後に大地が控える。
うむ、と低く答えた明仁の、炯々と光る瞳がこちらを見る。
「貴明が、楓の収容された病院へ向かった。外傷はさほどなく、命に別状はないと言っておった」
「そうですか……。傷が残らなければいいのですが」
しかし、ほっとしたのも束の間。
「外法を使われた痕跡があるそうだ。――連中、楓の魂魄を奪っていきおった」
「なっ」
言葉を失った皓に、明仁はゆるりと首を振る。
「案ずるな。貴明ならば、術の痕跡を辿って探し出せる。五百蔵を襲ったこと――我らに喧嘩を売ったこと、骨の髄まで後悔させてくれる」
貴明は明仁と違って、繊細で緻密な作業を必要とする術式に長けている。皓はどちらかといえば、明仁のような豪快な術式の方が得意なので、よく見かけに寄らないと言われたりする。
「封じの方は。鹿島の護りは、万全ではなかったのですか」
「その外法者は、楓を拉致し、その血を使って結界に侵入したらしい。五百蔵の話では、一週間ほど前から楓と連絡がついていなかったと。アトリエに籠もると、一ヶ月やそこらは平気で絵にのめり込むような娘だったから、特に気にせずにおったらしいのだが……」
苦々しげに顔を歪める明仁の言葉を聞いて、何かが胸の奥を引っ掻いた。ざりざりと不快な感覚に眉を寄せる。
(一週間……?)
その一週間前から、楓が拉致されていたのかはわからない。連絡がなかっただけで、つい先ほど襲われた可能性もある。
――しかしそうでなかったなら、かなり計画的に楓を攫い、改めてこのタイミングで襲撃を仕掛けたということだ。
理由ならば、考えてもきりがない。五百蔵の警護を破るのに、単純にこの日、このときが相手にとって都合がよかったか。今までに一度でも敵対したことのある勢力は、佐倉に喧嘩を売ることの恐ろしさを思い知っているはずだが、外法を修めている輩がそんなことを気にするとも思えない。
外法などに手を出すのは、よほどの状況か精神状態に陥っている者だけだ。いずれその「返し」は、どれだけ備えたところで必ず術者に向かうもの。命を削る覚悟で行使する術に、生半可な覚悟で手を出せるはずもない。
それがなぜ、楓を狙ったのか。五百蔵に恨みを持つ者か、それとも佐倉本家に恨みを持つものが、たまたま楓に目をつけたのか。
(いや……)
外法に手を出すほど何かを為すことを思い詰めた者が、たまたま、などという理由で動くだろうか。焦りのあまり、思考が空回りでもしているなら、そんなこともあるかもしれない。
だが、相手は見事に五百蔵が管理していた地霊の封じを破壊した。鹿島の地霊が解き放たれたなら、どれほどの災害が生じるものか、考えるだけでも背筋が冷える。
――けれど。
(そうじゃない)
この胸騒ぎは、そんなものじゃない。
何かもっと、かきむしられるようなもの。
焦燥ばかりが頭の中を渦巻いて、上手く思考がまとまらない。
何かひどく、自分が時を無駄にしているような。今すぐ、動かなければならないはずなのに――この一瞬のことを、ひどく後悔しそうな予感があるのに。
貴明からの連絡を待ちながら、今後分家の護りをどのように固め、戦力を配置するかを話し合っている明仁たちの声が、どこか遠い。
そこに、失礼します、と若い家人がやってきた。
てっきり貴明からの知らせだろうと室内の全員が視線を向けた先、家人は申し訳なさそうな顔をして頭を下げる。
「道場に詰めていた者からです。皓さまの携帯端末に、先ほどから何度も神谷殿から連絡が入っているというので、お持ちしました」
ついと、盆に載せた小さな機械を差し出される。今は沈黙しているそれを目にした瞬間、皓は何かを考える前にそれを掴み取っていた。
最後の着信履歴は、二分前。それまではほぼ一分おきに、十数度に渡って連絡を取ろうとしていた記録が残っている。
操作する手ももどかしく、相手を呼び出す。
コール一回で、繋がった。
『皓か!?』
はじめて聞く、ひどく切羽詰まった声。
一層強くなったいやな予感に、携帯端末を持つ手が震える。
「はい! すみません、何が――」
『優衣が消えた!』
心臓、が。
『家の前に、優衣の鞄だけ転がってた! 心当たりは!?』
凍った。
何か言わなければと思うのに、言葉が喉奥にへばりついて出てこない。
そんな皓の手から、明仁がすっと携帯端末を引き抜く。
「――優衣と皓の祖父だ。こちらでも分家が襲われ、娘がひとり傷つけられた。恐らく同じ相手か、仲間の仕業だろう。そちらは、どういう状況だ」
性能のいい携帯端末は、上擦った翔の声を静まり返った室内に響かせる。
『どうもこうも……っ、大分気配隠せるようになって、買い物すっからひとりで帰るっつって。アンタらが持たせたケータイあるから大丈夫だって、そう言って。なのに、アンタらは……!』
何をしていた、とこちらを詰ろうとしたのを、寸前で堪えたような気配があった。
ほんのわずかな沈黙が、ひどく重い。
優衣についていたはずの護衛は何をしていたのか、なんて彼らを責めることはできない。
こちら側は、そういう世界だ。強い者が、欲しいものを奪っていく。
彼らは無事なのか。分家の者たちの中にはときに、主家のために命を投げ出す者さえいる。彼らの命より、主家の者の命の方が重いなんてことはないというのに。
すまぬ、と明仁の詫びる声が響く。
「こちらの、手落ちだ。――優衣は、どんなことをしても必ず見つけ出す」
『……悪い。オレは、その手のことは得意じゃない。アンタたちなら、気配を追えるか』
「今すぐ、そちらに向かう。そこで待っていてくれ」
それから二言、三言翔と言葉を交わした明仁が、皓の手に携帯端末を落とした。
はっと我に返る。
まったく、と冷えきった低い声が、重く空気を震わせる。
「やってくれおるわ。……さて、我が孫娘に手を出した阿呆は、どこのどいつかの」
楓の――一族の娘の、血と、魂魄。
優衣を守る結界をすり抜け、その身を捕らえるためにそれらを利用したのか。
数百人単位の被害が生じかねない、鹿島への派手な襲撃を目眩ましにして。
ぎり、と奥歯を噛み締める。
……そうまでして、“歌姫”が欲しいか。優衣は“歌姫”のことなど、何ひとつ知らないというのに。
自分自身の変化に慣れるだけで精一杯の優衣に、それ以上に重い現実を告げるのは、もう少し彼女が落ち着いてからのはずだった。不安定で、自分の力の制御すらままならない優衣に余計な刺激を与えては、今度こそ自分を失うほどに暴走しかねない。
もし、そんなことになったら。
「皓」
胃の底が焼けつくような焦燥にきつく拳を握り締めていた皓は、明仁の呼ぶ声に、再び沈みかけていた思考を引き戻された。
「優衣の心の中で、まだ我らの存在は許されておらんかも知れん」
「――はい」
少しずつ、ともに時間を過ごして。……ほんの少しは、近づけているとは思うけれど。
だが、と明仁は低く笑う。
「優衣の心には、あの少年がおる。たったひとりでも信じられる相手がおる限り、人間そう簡単に折れるものではないわ。何より、優衣は儂の孫娘。たかが外法を操る阿呆どもに、そう簡単に屈したりはせんだろうよ」




