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鳥の娘 ~見えない明日を、きみと~ ≪改稿版≫  作者: 灯乃
鳥籠の章

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18/85

襲撃

 全力で、道なき道をひた走る。

 履き慣れたローファーは、ちゃんとアスファルトを蹴っている音がする。なのに、踏み込む端からぐにゃりと沈み込んでいくような感覚が、そのたび体力を削っていく。


(……っ!)


 自分が悲鳴を上げていないのは、度重なる経験に慣れてしまったのか。それとも、単純に悲鳴を上げる暇さえないからか。

 姿は見えない。臭気もない。ただ、ぞぞ、ぞぞ、と周囲を何かが這いずる音と、確実に何かが「いる」という感覚。否、それ以前に景色がぼんやりと霞がかり、どこか現実感を失った硝子越しのようなものになっている以上、得体の知れない「何か」が自分を取り巻いているのはわかっていた。


(どろどろグログロもいやだけど、見えないって一層恐怖をそそるんですね。勉強になりましたけど、なんで今日に限ってこんなのが出てきやがりますかもう……!)


 佐倉家で教わった通り、毎日真面目に自分の気配を抑える練習を繰り返したお陰だろうか。先週辺りから、やたらと近寄ってくるものが随分減った。以前はそれだけで泣きそうになっていた悪臭も、意識的にシャットアウトできるようになっている。

 ……思えば、それで調子に乗ったのだ。これで少しは、平穏な登下校ができる、と。

 それから十日ばかり様子を見て、何も起きないという日常が重なると、喉元過ぎればなんとやら。今日はスーパーで特売があるから先に帰ると翔に言うと、少し心配そうな顔をされたけれど、大丈夫だと言いきったのは自分自身。

 つまり今、優衣がスーパーでゲットした国産豚のロース肉、百グラム128円也と長ネギをエコバッグに入れて全力疾走しているのは、まさに自業自得としか言いようがない。


「ひっ」


 一心不乱にぼやけた世界を走っていた優衣は、ひんやりとした何かが腕に絡みつく感触に、心臓に冷水を浴びせかけられたような気分になる。

 今まで、どれだけ恐ろしい思いをしても、得体の知れないものに触れられたことだけはなかった。

 なのに。


『見つけた』


 声が、した。

 男のものとも、女のものともつかない、複数の誰かが同時に喋っているような声。

 ぞっとする。

 闇雲に振り回そうとした腕に絡みついているのが、半ば透き通った白い腕だなんて気がつきたくなかった。


(……嘘)


 佐倉家から渡された携帯端末は、ちゃんと鞄の中に持っている。だからもし何かあっても、ちょっとは怖い思いをするかもしれないけれど、家まで逃げきれば大丈夫だと高をくくっていた。

 なのに今、女性のもののような白く細い手が、その見た目からは想像できない万力のような力で優衣の腕をしっかりと掴んでいる。

 ぐいと下に引っ張る動きを感じた。足許の地面が、ずぶりと沈む。


(な……っ)


 ぬかるみにはまりこんだかのような感覚は、すぐに抵抗の少ない水のそれに変わった。

 とぷん、と。

 小石が池に落ちる音を、聞いた気がした。

 広がる波紋の幻を見る。

 視界いっぱいに、広く、広く――******



 その日の皓は、特に機嫌が悪かったわけではない。

 だが、何ごとにも我慢の限界というものがある。皓の最も親しい友人であり、兄弟同然の幼馴染みでもある高野家の大地は、今朝からずっとどんより落ち込んだ様子だった。

 大地は側近候補の筆頭として、常日頃から皓のそばにいることが多い。その彼にこんな重たい空気を背負い込まれたままでは、非常に鬱陶しいことこの上ない。

 皓はおもむろに手刀を振り上げ、ずびしっと大地の脳天に振り下ろした。


「……っ」

「鬱陶しい」


 はあ!? と琥珀色の瞳に怒りを閃かせながら、大地が喚く。道場で修練していた術者たちが何ごとかとこちらを見るのに気づいて、ばつの悪そうな顔をする。

 大地は幼い時分から皓ともども、獅子は谷底に我が子を突き落とす、を実践するような祖父のしごきに耐えてきた。ほかにも数人、側近候補である同年代の仲間たちがいる。大地がその筆頭とされているのは、彼らの中で最も耐久率が高かったから――のはずだ。


 静岡を拠点とする分家の高野家は、元々は薬学に長けた一族である。

 しかし、先々代の当主が遊学中に祓魔師のドイツ人女性と出会い、その技術にほかの分家から引き気味に見られるほどに没頭した。ちょうどその頃から、日本に異国からの人や文化とともに、さまざまな禍物が入り込むようになったというのもあるだろう。それに対応するには祓魔師の退魔の術が非常に有効だったことは、先見の明があったというより単なるシュミだろ、と子孫からツッコミされるような先々代ではあったが――とにかく大地は既に、佐倉家の祓魔部門の副長という地位に就いている。


 普段の彼は、その無駄に整った顔に親しみやすさを演出しようとでもいうのか、やたらとにこにこへらへらしている。それがこうもわかりやすく凹んでいれば、何かあったのだろうということくらい、兄弟同然の幼馴染みでなくとも気づくだろう。

 夕刻になって修練を終え、皓は道場の外に出た。よく冷えた水で喉を潤しながら、軽く大地を睨みつける。


「おまえは朝から、何回ひとの隣で溜息をつけば気が済むんだ」

「……瑞樹が」

「瑞樹?」


 簡単に答えが返るとも思っていなかったのだが、実はよほど誰かに訴えたかったのだろうか。

 大地はこの世の終わりのような顔をして、ぼそぼそと続ける。


「髪、切ったんだ。ばっさり。そりゃもう潔く」

「は?」


 季節は夏、長い髪を切ってさっぱりしたくなることだってあるだろう。

 あからさまにそれがどうしたという顔をした皓に、大地はくわっと目を剥いた。


「おまえは……! 女子中学生が髪を切るっつーたら、どんな理由があると思ってんだ!?」

「……そんなもの、本人に聞けよ」

「アホかあ! 女の子がずっと伸ばしてた髪を切るってのはな、失恋したときと相場が決まってるんだ!」


 どこの世界の相場なのかは知らないが、どうやら大地は本気で言っているようだ。

 その主張の真偽はとりあえずどうでもいいが、自分の知らない世界に片足を突っ込んでいるような相手の迫力は、ちょっと怖い。


「ふ……ふふふっふっふ。うちの妹をフるような馬の骨がどこのどいつか知らんが、見つけ出して生まれてきたことを百回後悔するほど痛めつけてから、下級悪魔の撒き餌にしてやる。知性も理性もない連中に生気を搾り取られたところを、台所の黒い悪魔のようにぷっちり潰してやる」


 違った、気持ち悪い。

 皓は慌てず騒がず、黙って大地から三歩分距離を取る。シスコンだシスコンだと(それもかなり一方的な)常々思っていたが、まさかここまで病んでいるとは思わなかった。


「しかも最近、また水沢の家に行きっぱなしだし! ……ってことは、相手は飛鳥さんではないな。チッ」

(チッて……)


 瑞樹がもうひとりの兄のように懐いている水沢家の長男に、大地は昔から敵意というほどのものではないが、明らかに隔意を抱いている。

 飛鳥は皓がああなりたいと密かに憧れるような落ち着いた大人の男だし、瑞樹が懐くのもよくわかる。それを大地が面白く思わないのも一応、辛うじてほんの少しはわからなくもない、と言えないことはない。だが、妹の絡んだことでは途端にアホになる幼馴染みに、皓はちょっとほかの側近候補の顔を思い浮かべてみた。

 多少大地より力が劣っても、もう少しマトモなヤツが――と、それぞれの顔を思い出してみたのだが。


(香月の漣は、百年モノの怨霊を言葉責めにして心を折って昇天させるようなえげつないドSだし。仁科のとこの和彦は、マニアックな暗器の使い方ばっかり追求する忍者オタクだし。来生の竜は、無口すぎていまだに何考えてるかわからんし。橘の俊哉は、純粋といえば聞こえがイイだけの単純脳みそ筋肉だし――あれ? ひょっとして大地って、消去法で僕の側近筆頭候補になったのか?)


 そこまで考え、皓はふっと遠くに視線を飛ばす。


(……水沢家の飛鳥殿。なぜ、十年遅く生まれてくださらなかったんですか)


 そんなふうに黄昏れていた皓のささやかな現実逃避は、常ならば決してあり得ない、裏返った家人の叫び声によって遮られた。


「皓さま! 至急、当主の間においでください!!」


 全力で駆け寄ってきた家人は、その勢いのままにざっと目の前に片膝をついた。汗まみれの顔を、必死の形相に歪めて見上げてくる。


「鹿島の五百蔵家より、火急の知らせが! 地霊の封じを血で穢され、現在術者総出で維持しているとのこと! 当主は既に西園寺殿、若狭殿を向かわせましたが……っ」


 家人の顔が、苦痛に歪む。


「五百蔵家ご息女、楓さまが何者かに襲われ、意識不明の重体とのことです!」


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