お守りはケータイでした
最後に、以前は客用寝室だった部屋に北欧の家具メーカーの新作だという、ひとりがけのソファが運び込まれる。新たに優衣の自室となったそこは、落ち着いた雰囲気の居心地のいい空間になった。
広々とした室内にあるのは、大きく寝心地の良いベッドと、シンプルながら頑丈で使い勝手のいい机と椅子。スタイリッシュなつくりの本棚には、クリスタル硝子の動物を象った小さな置物がちょこんと乗っている。フローリングの床には毛足の長いラグが敷かれて、窓辺には週に一度水やりをすればいい観葉植物。
ほかの部屋の家具も、すべて入れ替えられた。照明のデザインまでそれまでのクラシカルなものから機能的なものに変わると、まるで別の家に生まれ変わったかのようだ。
話を、した。
皓と。そして父をはじめ、祖父母や皓の母親、そして香港からやってきた伯凰の母親と。
なんの言い訳もせず、ただ「すまなかった」と頭を下げた彼らは、きっと悪いひとたちではないのだろう。
薫子は、今から思えば徹底的に優衣を彼らから遠ざけていた。優衣を家の中に閉じ込め、さまざまな行事のたびにこれ見よがしに茜だけを伴っていく様子を見せつけることで、優衣の中にあった「父親」への期待を打ち砕いた。そうして家の中では、茜に対して溺愛する様子を見せつけられ続け、心と体に暴力を振るわれ続けた。
そんなことを繰り返されているうちに、いつしか優衣の中では、「親」というものは茜だけを必要とするものなのだという認識ができあがっていた。茜の留学を機にふたりがいなくなっても、そんな「父親」に対して何かを期待する気持ちなど残っているはずもない。だから、彼らが優衣の存在に気づかなかったことを取り立てて責める気にはならなかった。
彼らが自分に近しい人々だということも、彼らが自分に対して庇護欲や保護欲を抱いていることも理解できたけれど、それだけだ。なんの感慨もわかず、他の初対面の人間と会ったときと同じように、その姿と名前を記号のように記憶しただけ。
一度壊れたものは、そう簡単には元に戻らないのだと知った。「家族」に対する盲目的な思慕も、切望も、あの日すべて壊れて消えた。事情は理解したし、謝罪も受け取ったけれど、だからといって初対面の相手に「血が繋がっている」という理由で親しみを覚える感覚がわからない。
優衣がそう感じていることは彼らもわかっているのか、彼らから伝わってくるのは困惑と痛みに似た居心地の悪さばかり。彼らの住まいでともに暮らさないかと言われても、学校を変わるつもりはなく、何より翔のそばから離れたくなかった。
しかし、と尚も言い募ろうとする彼らに、自宅の改装を持ちかけたのは翔だ。
いきなり一緒に暮らせと言われたって優衣だって困る。そちらが優衣のために何かしたいなら、あの悪趣味な家の中を、少しでも過ごしやすいように変えてやったらどうか、と。
ずっとあの家の中で暮らしていたから、今まで特に不満を覚えることはなかった。けれど実際、プロのプランナーが元々の優衣の部屋とキッチンを見て、じっくりと取り揃えてくれた家具や内装は、どれもこれも優衣の好みにぴったりだった。
身の回りにあるものが変わるだけで、家の中がこれほど快適な空間に変わることに驚かされる。ごてごてした派手な色彩が消え、代わりにすっきりとしたフォルムとオフホワイトを基調とした中に、差し色の落ち着いたワインレッド。リビングからは、ずっとそこを占拠していたグランドピアノも運び出された。
薫子と茜の私室は空っぽになり、壁紙まですべて貼り替えられて、今では主がそこにいたことさえ忘れたかのよう。邪魔な一切が消え失せて、元々ひとりで暮らすには広すぎた家は、一層広々と感じられるようになった。
――けれど、そんなことを気にする余裕は、今の優衣にはまったくない。
「い……っやああああっ!」
「落ち着け、優衣? 慣れれば平気だから」
とんとんと、優しく背中を叩かれる。
「いや! 慣れない! 翔のばかああぁ!」
「……涙目でばか、って。すげえ、癖になりそうでヤバいかも」
「何言ってんの!? なんでいっつも翔は平気な顔して……っ」
力一杯しがみつきながら、こんな状況だというのに余裕綽々といった顔どころか、何やら笑み崩れているような翔を睨みつける。
「まあ、オレは慣れてるしな」
「狡い! ……っきゃあああ!?」
びくっと強張った体を抱き締められる。宥めるように髪を撫でられて、優衣はきつく閉じていた目を恐る恐る開いた。
「大丈夫だから。な?」
「ぅ、え……っ」
鼻の奥がつんとする。じわ、と情けなく視界が滲む。
「……うん。大丈夫だぞ? おまえを泣かすような身のほど知らずは、今すぐ昇天してもらおうな?」
あははっと、どこか調子外れに笑った翔が、周囲に視線を流す。
「てめえら如きが優衣を泣かすとか、百年はええんだよ!!」
次の瞬間、ごうと熱のない炎が走り抜けた。
どこのホラー映画だというような、かつて人であったもの、獣であったもの、或いは神と呼ばれるものだったもののなれの果て。もしくはその残骸がうぞうぞと蠢いていたおぞましい光景が、幻のように消え失せる。そのことに心の底からほっとしつつ、優衣は内心で力一杯絶叫した。
(あのひとたちが、しつこく一緒に暮らそうとか言ってたのがこういう理由とか、そうならそうと先に言え、ばかあああああっ!!)
ひとはこれを、八つ当たりという。
一体どこの文化遺産だとツッコみたくなるような、広大、優美、歴史的価値の三拍子が揃った佐倉家の本邸。そこが「この手のモノ」を一切侵入させないよう、幾重にも強固な護りが張り巡らされているのだと最初から聞かされていたなら……どこの電波だとどん引きしていただろう。
だが、いくらなんでもこれはないじゃないかと、思いきり声を大にして言いたい。
なんでも優衣は、子どもの頃から薫子によって「この手のモノ」を見たり相手にしたりする能力を封じられていた、らしい。そしてその封印が解けて優衣が能力に馴染んでくるにつれ、幽霊、怨霊は当たり前。化け物としか言いようのないものが地面を這いずっていたり空を漂っていたり、はたまた人に得体の知れない影が被さっていたりするのが、タチの悪い精巧なCGばりに、くっきりはっきり見えはじめたのだ。
優衣の生活圏である自宅と学校には、佐倉家がいつの間にか本邸レベルの結界を張ってくれていた。だから、そこにいる間は安心なのだが、下手に外を出歩くと恐怖体験のオンパレードというのは、精神衛生上非常によろしくない。
おまけに、力の制御をまるでされていない優衣の気配は、成仏させて欲しい幽霊や、力を食らいたがる化け物の類いにとっては撒き餌状態もいいところなのだという。日の高い登下校中であっても、油断はできない。その対応策としてお守りだと佐倉家から渡された携帯端末は、あらゆる護符の役割を果たすのだそうだ。
なんでも、携帯端末の電波で「場」を繋ぐことにより、常に優衣を本家の結界に包んでいるのと同じ状態にするもしい。佐倉家の技術の粋を極めた優衣専用特殊携帯端末だと教えられたけれど、お守りというとお札や十字架が定番だと思っていたから、なんだかシュールだ。
だが、危害がないといっても、見えるものを見えないようにする効果はない。つまり、怖いものは怖いまま。そのため、今はたとえ翔の部活がある日でも、図書館で課題をしながら時間を潰し、断固として彼と一緒に下校することにしている。
あれからはじめて知ったのだが、翔は子どもの頃からその手のモノが見えていた上に、まとわりついてくるそれらから売られた喧嘩を片っ端から買っているうちに、随分な力を身につけていたのだという。親戚の誰にもほかにそんな力の持ち主はおらず、皓曰く、「本職」である佐倉家の情報網でもチェックできないほど突然変異の天才、なのだそうだ。
普通ならば、たとえそういった才があったとしても、そもそも日常生活には必要のない能力だ。何かしらのきっかけがなければ、一生その異能を自覚しないままの人間も結構いるらしい。
だが、幸か不幸か、翔が住んでいるのは優衣の家の隣である。つまり、幼い頃から日常的に薫子が好き勝手に術を行使している波動を受けまくっていた結果、それに触発されて異能が引き出されたのではないか――という話を聞かされたときは、翔が心底いやそうな顔をしていた。
あまり詳しい話は聞いていないが、佐倉家も、薫子の実家である京都の三条家も、いわゆるその手の「本職」であるらしい。両家の血を引く優衣は、血筋から言えば立派なサラブレッドということになる。実際のところ、どれほどの潜在能力があるかわからないと言われた。そんなものはいらないから、平穏無事な人生を返して欲しい。切実に。
そう嘆いたところで、薫子の封印をぶっちぎったのは彼女らに対してキレた優衣自身だというのだから、誰にも文句のつけようがない。
現実をどうにか受け入れるのに少し時間が必要だったけれど、そうなってしまったものをぐだぐだ悔やんでいても時間の無駄だ。よって優衣はこのところ、休みの日には佐倉家に赴き、ダダ漏れ状態の力を制御する方法を身につける訓練中なのである。
とはいえ、そんなことを一朝一夕でできれば苦労はない。
今日も学校帰り、人気のない道にいやな感じがしたと思ったら(それくらいは最近わかるようになった)、あっという間にグロテスクな異形に取り囲まれて、泣く目に遭った。どういうわけか、幽霊だの化け物だのの放つ瘴気に取り囲まれている間は、どれだけ騒いでも普通のひとびとは認識することができないらしい。
翔がその元凶をすべて灼き尽くしてしまった今となっては、端から見ればぐずぐずと泣いている少女を慰めている少年の図にしか見えないのだろう。ちょっと恥ずかしい。
「うー……」
「おまえもつくづく、厄介な体質だったんだなぁ」
「好きで化け物ホイホイなわけじゃないぃ……」
半泣きになりながら愚痴ると、翔が小さく笑った。
「オレは物心ついたときには、あいつらぶっ飛ばしてストレス解消してたから。ヒーローごっこを実地で楽しんでたガキは、オレくらいのもんだと思ってたんだが。世の中、広いんだか狭いんだかわかんねぇな」
「臭いしグロいし怖いし臭いし汚いし、あんなの絶対触りたくない。まだ痴漢の方が――いやマシじゃないけど、やっぱりやだ」
もちろん、化け物たちに現実の血肉が存在しているわけではない。
だが、五感のすべてが切り替わってしまったようで、瘴気は気持ちが悪いし、死人の腐肉は耐えがたい悪臭を放っているし、化け物の口の臭さなど卒倒ものだ。今の優衣にとっては、高濃度のアンモニアを振りまかれているのと変わらない。臭くて臭くて、生理的な嫌悪感や恐怖以前に、そのせいで何度こんなふうに情けなく泣いてしまっていることか。
いろいろなものが這いずり回った後に落ちた肉をうっかり踏んだりしようものなら、三日は後悔するようなおぞましい感触に全身鳥肌が立つ。こちらを「餌」と認識している濁った瞳から向けられる視線も、飢えた息づかいも、ただただ恐ろしく気持ちが悪いばかりだ。
翔や皓は、いずれ慣れると言うけれど、こんなものに慣れるというのは人間をやめるのと同じことなのではないだろうか。上手く制御を覚えれば、自分の感覚をコントロールして、悪臭の類いをシャットアウトできるというから努力はしている。
けれど、そんな繊細な作業を無意識レベルでしている彼らに追いつくには、一体どれだけがんばればいいんだろう。気持ちの悪い臭いが残っているような場所から離れて、ようやく家に帰り着いたときには、優衣は心底疲労困憊していた。
「ふ……」
「お疲れさん」
新品のソファに腰かけた翔の腕の中、宥めるように背中を撫でられると、ほっとする。
こんなふうにいやなことがあった日は、翔は必ず優衣が落ち着くまで一緒にいてくれるのが嬉しい。まだ馴染んでいない、雑誌のモデルルームのようになった家の中は、こういうときにひとりになると、やっぱり寒々しく感じてしまうから。
少し落ち着いてきたところで、翔がぽつりとつぶやいた。
「おまえさ……最近、ちゃんと表情出るようになってきたよな」
「そ、う?」
自分ではよくわからないけれど、翔が言うならそうなのだろう。
「ああ」
「う……。ぎゃーぎゃー騒いで、うるさかった?」
天然肝試し状態の間は必死なのだが、あとで我に返ると結構いたたまれないものがあるのだ。
情けないことこの上ないが、翔以外には見られたことがないのが救いだろうか。本当に、翔には迷惑をかけてばかりだ。愛想を尽かされてはいないだろうかと不安になって、恐る恐る見上げる。
わずかに目を瞠った翔が、片手で目元を覆って顔を背ける。耳が赤い。
「――涙目と上目遣いのコンボは最強です」
「え?」
彼がなんと言ったのか聞き取れず、首を傾げる。
ふいに、ぎゅっとのしかかるようにして抱きすくめられた。
「可愛い……」
「重い」
「うん。オレの九割はおまえへの愛でできてるから」
「いえ、愛が重いとかそういう意味ではなく」
実際問題、少しは体格差というものを考えていただきたいのである。
「――平気だと、思ったんだけどな」
ぼそりと、聞こえるか聞こえないか、ぎりぎりの声。
「オレ以外の奴がおまえを見るのも、おまえがオレ以外の奴を見るのも」
「……翔?」
言われた言葉の意味が、よくわからない。
翔の顔を見ようとしたけれど、抱き締める腕がそれを許してくれなかった。
「自分がここまで了見が狭いとか、情けねえ。……おまえはどんどん綺麗になるし、横から掻っ攫われたらとか、ずっとそんなんばっかで」
耳に触れる吐息が、熱い。
翔に抱き締められると、いつも安心する。
今だって、安心している。
――なのに。
どきどき、する。ふと、多分赤くなっている耳に、柔らかく濡れたものが触れた。
「ひゃっ」
変な声が出て、慌てて口を閉じる。もう一度、今度ははむ、と耳を甘噛みされた。その形を確かめるように柔らかな唇がなぞっていって、ぞわぞわと落ち着かない気分になる。
「く、くすぐったい」
翔を押しのけようとして、しかし力で敵うわけもない手にあっさりと阻まれる。
「優衣」
大切なものを呼ぶ響きの声で、名を呼ばれる。嬉しくて、でもときどきどうしていいのかわからなくなることがある。優しいのは変わらないのに、優しいばかりじゃなくて、知らない何かが混ざった声に。
その何かに戸惑って、でも決していやじゃなくて、そういうときは必ず心臓がいつもよりどきどきしている。じんわりと体温が上がって、思考が鈍って、もっと呼んで欲しくなる。
「優衣……抱きたい」
「……はい?」
(今、なんとおっしゃいましたか)
一瞬、思考停止した優衣に、翔は構わず続ける。
「抱きたい。おまえが欲しい。……全部、オレのもんにしたい。裸にして、体中全部触ってキスして、オレのことしか考えられないように」
「すいません、具体的な方法まで描写しないでください、お願いします」
考えるより先に、それ以上聞いていることを拒否した脳が、勝手に言葉を吐き出した。それが棒読みだったのは、仕方がないことだったと思う。
優衣とて、せーしゅん真っ盛りというか、発情期真っ直中な高校二年生男子が「好き」だの「愛してる」というのが、そういう意味を持つものだということくらい、知識としては知っている。けれど、あんまりべたべたに甘やかしてくれて、大事にされるばっかりで、そういう雰囲気はむしろほとんど感じなかったから、今の今までうっかり忘れていたのだ。
ほかにもいろいろといっぱいいっぱいで、抱き締めてくれるのを精神安定剤代わりにしてましたとか、言い訳か、言い訳ですね、とぐるぐる考え込んでいると、翔が低く問いかけてくる。
「いやか?」
「い……いや、とか、その、びっくりして」
どう応じていいのかわからず、目を伏せる。
翔は、そんな優衣の反応を見越していたのだろうか。特に気を悪くするふうでもなく、軽く指先で頬を撫でてきた。
「だろうな」
「え、そんなあっさり?」
思わず、顔を上げる。
くくっと笑った翔が、それまでの熱っぽさを払拭するように、ちゅっと音を立てて目元に口づけてくる。
「最近、おまえが無防備すぎっつうか、オレが男だってこと忘れてそうだったからさ」
「う……」
忘れていたわけではない、と思う。
抱き締められたら(たまにだけど)どきどきした。毎日のようにもらっているキスだって、絶対に翔としかしたくない。
けれど、「そういう対象」としてまじめに意識していたかと言われれば――思いきり動揺してしまった以上、まだまだ自分は翔よりもずっとオコサマなのだろう。
「オレは、おまえがいやがることは絶対しねえから。だから、待ってる」
「……待つ、ですか」
「ああ」
真面目な顔で。真剣な声で。
欲しい、と。
「けど」
そうして、ゆっくりと両手で頬を挟んで笑う顔が、急に「男のひと」に見えたのは、きっと翔がそれを隠さなくなったから。
「キスくらいは、させてくれな」
もうほとんど唇が触れ合う状態で、低く囁かれた後に与えられたのは、いつもくれていた甘く優しいだけのキスなんかじゃなく――
「んん……っ」
――深く激しく、眩暈を誘う、情熱的なキスだった。




