シスコン?
腕の中の柔らかな体がわずかに身動いで、伏せられていた長い睫毛がふるりと揺れる。ゆっくりと現れた、何度見ても飽きることのない宝石のような瞳が、不思議そうな色を浮かべて瞬く。
「……優衣?」
そっと呼びかけると、意識が戻ったばかりだからなのだろうか。幼くあどけない表情を浮かべたまま、こくんとうなずく。その愛らしさに、翔は危うく腰が砕けるところだった。何この可愛い生き物、と思いきり悶絶したくなる。
門の外で、どれだけ憎んでも飽き足らない女たちの末路を見届けていた皓と伯凰が、優衣が目覚めたことに気がついたのか、慌てた様子で近づいてくる。
見るな、減る。
そう思っていると、まだぼうっとした顔の優衣が首を傾げて口を開いた。
「いつの間に……わたし、寝たんだっけ……」
「……覚えてねえのか?」
何があったのか。自分が何をしたのか。
えぇと、と改めて記憶を探るように眉を寄せた優衣が、いつもより少しほやほやとした口調で話し出す。
「あのひとが、翔を欲しいとかふざけたこと言いだして、すっごい腹立って。ボケカスいっぺん死んでこいあほんだら、誰がやるか顔洗ってその無駄な脂肪そぎ落としてから出直してこい、このメタボ女って思ったとこくらいで記憶が飛んでる」
(う、わ)
ガラが悪い。はじめてこの腕の中に閉じ込めたときと同じくらい、否それ以上に優衣のガラが悪くなっている。
だが、そんなことはどうでもいい。
(――まずい)
顔が緩んで、崩壊寸前だ。対人スキルというものが、ある意味幼稚園児並の優衣は、基本的に思ったことをそのまま口にする。
とはいえ、言うのを面倒がったり、言いたくないことは言わない、ということももちろんある。このところ、優衣の素直な言葉を引き出すことに全神経を集中していたといっても過言ではない翔にとって、これは大陸間弾道ミサイル並の破壊力だ。
翔にほかの女の目が向いて腹が立った、とか。誰がやるか、とか。
それは、独占欲と名のつく感情の発露でしかあり得なくて。
「……マジで?」
どうにかそう言うと、相変わらずどこかぼんやりしたままの優衣が、再びこくんとうなずく。
「あーもう、あのひとって昔っからああでね? 隣の芝生は青いのか花が赤いのか知らないけど、ひとのもの欲しがってばっかりで。友達の彼氏を略奪するのは当たり前、今まで何回修羅場に遭遇したか。さすがに教師と不倫に走られたときには世を儚みたくなったりしたけど、そこは全力でスルーしてみたり。ほんと勘弁してくださいっていうか、あのひとたちと少しでも血ぃ繋がってるとか、本気で鬱なんですけど」
……なんだろう。
優衣の感情と口の制御機能が、現在使用不能な感じがする。おまけになんだか、目が据わっているような。
「しかもおフランスだかに行く前に、遊び相手の後始末もしていかないし。頭の中身が下半身と直結しているようなバカを追い返すのに、どんだけ苦労させられたと思ってんですか。面倒なんですうざいんです、もう心底あのひとたちとは関わらずに生きていきたいんですよ。そんなに贅沢な望みじゃないよね、これ」
視界の端で、皓と伯凰が顔を引きつらせている。気の毒に。
優衣の外見と中身のギャップは、慣れない人間にとってはかなりの凶器だ。彼らが、あからさまに動揺しながらもあまり引いている様子がないのは、もしかしたら翔がここに着く前に、優衣が既にキレたところを見せていたのかもしれない。
それにしても、優衣がそんな苦労していたとは、あの連中はどれだけ節操がなかったんだろうか。はらわたの煮えくりかえる思いをどうにか押し殺して、ああ、とうなずく。
優衣は安堵したように息を吐き、ぎゅっと制服のベストを握り込んできた。
「うん。よし。あぁでも、思い出したらまた腹立ってきた。なんでよりによって翔をご指名ーって、どうせわたしへのいやがらせだよね、わかってるよそれくらい。その辺のセフレで満足しとけばーか、わたしには翔しかいないんだから、つまみ食い気分で手ーだそうとかマジふざけんなって――あれ、なんでそこで寝てんのわたし?」
「いや……あの、な?」
「うん?」
どうしたものか。いろいろと考えなければならないことがあるはずなのに、甘さも雰囲気もあったものじゃない言葉が嬉しすぎて、なんだかもうどうでもよくなった。
結局、捻りもなにもない無難な答えを口にする。
「ストレスじゃねえか? おまえ、連中にキレて縁切り宣言した途端にぶっ倒れたんだよ」
「そうなの?」
「ああ」
皓と伯凰が若干微妙な顔をしているが、訂正しようとはしてこない。――実際、嘘はついていない。
「で、その後連中を追い払ったのは、おまえの弟な」
そう言うと、驚いたように目を瞠った優衣が、はじめて翔から視線を外す。どうやら今まで、彼らの存在は意識の外だったらしい。
少しの間、硬直した弟をじっと見つめた優衣は、表情を変えないまま口を開いた。
「ありがとう」
「は……はい!」
途端に、先ほどまで年下とも思えない威圧感で大の大人を平伏させていた皓の顔が、見ているこちらが生温かくなるほど赤くなる。
(シスコンか、こいつ)
伯凰も、面白いものを見るような目でその様子を見ている。彼の視線に気づいた皓が、きっと視線を険しくして睨み返す。
「なんだよ」
伯凰がにたぁ、と邪悪に笑う。
「いやいや……。ほほえましいというか、面白いというか、笑えるというか。おまえのそんなツラなんてはじめてみたなぁと」
「……っ」
実に楽しそうだが、伯凰はそれ以上皓で遊ぶ気はなかったらしい。少し考えるようにしてから口を開く。
「とりあえず、今日は帰るぞ」
え、と目を瞠った皓に、伯凰は少し困ったような笑みを浮かべた。
「優衣もまだ混乱してるだろうし、おまえも平静とは言いがたいからな。話は落ち着いてから、ゆっくりした方がいい」
優衣が、わずかに眉を寄せる。面倒ごとは一度で済ませてしまいたい、とでも思っているのかもしれない。だが、実際まだ少し顔色がよくない。
「優衣?」
呼びかけると、なんの気負いもなく見上げてきたきれいな瞳に、自分が映る。
……望むような甘さは、まだそこにはない。けれど、心を許していると知れる無防備な表情は、翔の心臓を握りしめて離さない。
「オレは、こいつらの事情なんて知らねえし、おまえを泣かせたことに関しては、一生許す気もねえんだけど」
それでも。
「オレひとりでおまえを守れるなんて思い上がれるほど、バカなガキでもねえんだよな」
見つめた先で、優衣の瞳が揺れる。
もう少し幼い頃だったなら、自分ひとりで守ってみせると粋がっていたかもしれない。
もう少し大人になっていたなら、自分ひとりで守れる力を手に入れていたかもしれない。
守ってやりたい。優衣を傷つけるすべてから遠ざけて、心から笑えるようにしてやりたい。本当は、本当の本当は、誰の目にも触れさせず、自分だけを見ていて欲しい。もし優衣の心に住むのが自分だけだったなら、それはどれだけの安堵と愉悦をもたらすだろう。
その考えはあまりに魅惑的で、いっそそうしてしまいたいとときどき思う。
けれど、それではきっと、優衣はいつまでも寂しいままだ。自分がすべてを与えてやりたいと思っても、自分が欲しいのは優衣の恋情で、親や兄弟のような安心感や、穏やかなばかりの友情は与えてやれない。熱も欲も許されない保護者になんか、なりたくない。
……愛しているから。
自分の手で、優衣が与えられるべきものを遠ざけるような、愚かな真似はしたくない。
戸惑いと、怯えと、忘れられない痛み。
それらを孕んで、頑なに鎖されている心を映す瞳の奥を、じっと見る。
「許してやれなんて、言わねえよ。こいつらや、おまえの親父を信じろとも言わない。それは、おまえが決めることだ」
紫藍の宝石が、瞬く。
「けど、少なくともこいつらは今、おまえを大事に思ってる。それは、わかるな?」
傷つかないように凍りつかせていた心を、無理矢理暴いたのは自分。
きれいじゃなくていい。わがままでいい。
誰かを憎んだっていい。弱くたっていい。
ただ、その瞳に自分を映して欲しかった。
知らない喜びを少しずつ覚えていく瞳が、輝くところを見ていたくて。
笑って、欲しくて。
「明日。落ち着いたら、話を聞いてやれ。……おまえの弟は、おまえのために、それだけのことをしたよ」
優衣の瞳の奥で、ゆるゆると何かが溶けていく。
神谷さん、と上擦った声で呼ぶ皓に、にやりと笑ってやる。
「当然、オレも聞かせてもらうけどな」
「……はい。こちらも、神谷さんにうかがいたいことがありますし」
失礼します、と律儀に頭を下げた皓と、ひらひら手を振って挨拶を残した伯凰が、ゴツくてかなり心惹かれるジープに乗り込んで去っていく。意識はしっかり戻っていても、完全に膝が萎えたままの優衣は少し気まずそうだった。
片腕で抱き直して放り捨てていた鞄を拾い上げ、初めて入るリビングのソファに降ろしてやる。
そこには、素晴らしく食欲をそそる匂いが満ちていた。部活帰りの胃袋が急激に自己主張をはじめるのを気合いで黙らせ、それ以外はひどく生活感に欠ける室内を見回す。
きっちりと掃除の行き届いた空間は、あの女たちの趣味なのだろう、センスがいいとはお世辞にも言えないような華美な置物や絵画があちこちに飾られている。無闇やたらと派手な薔薇だの百合だのの刺繍が施されたクッションやラグ。そして、どーんとスペースを占拠しているグランドピアノ。
奥の対面型になっているカウンターキッチンの中だけが、優衣が好みそうなモノトーンとシンプルな小物を使って整理されていた。そのせいで、全体的に妙にちぐはぐな印象になっている。こんなところでは、ろくに落ち着くこともできなさそうだ。
「翔」
はじめて聞く頼りない響きの声に、はっと視線を戻す。
「わたし……あのひとたちに、なんて言ったの?」
「――ああ」
優衣の前に、ゆっくりと膝を落とす。
目を覚ましてからずっと、どこか不安定に揺れている瞳を真っ直ぐに見る。
「おまえは、ちゃんと言った。二度と自分に関わるなって。もう親とも姉とも思わないって、ちゃんと言ってた」
「……そっか」
「大丈夫だ。連中が、おまえを煩わすことはもうないんだ。おまえの弟も、結構えげつない脅しかけてたしな。さすが姉弟」
わざと軽い口調を作って言ってやると、強張っていた細い肩から力が抜ける。
「いや、そんな同類項で括らないでくれる?」
ふっと表情を緩めた優衣の頬に、軽く触れる。
「そうか? キレると容赦なくドSになるとことか、なんとなく女王さまっぽくなるとことか、すげえ似てたぞ」
「あのねぇ……」
「優衣」
想いを込めて、名前を呼ぶ。
ぴくんと肩を揺らした優衣が、誘うように睫毛を伏せる。
そっと、唇を重ねる。甘く、消えてなくなってしまいそうなほど柔らかな唇は、何度味わっても痺れるような喜びをくれる。怯えさせないように、ゆっくりと触れて、離れて、また触れる。
「……好きだよ」
こんな言葉では足りないくらい、毎日気持ちが膨らんでいく。もし、自分を戒めているすべての枷を解き放って、欲のままにその体を貪ったなら、少しはこの熱は冷めるのだろうか。気持ちと欲望は別物だ、なんてどこかの誰かが言っていたけれど、それが本当だというなら、どうして優衣しか欲しくないんだろう。
滑らかな肌も、抱き締めればどこまでも柔らかな体も、まるで自分のためだけに作られたかのようだと思う。それがあんまり魅惑的すぎるから、ほかの誰を見てもまったく何も感じない。こんな自分は、きっとどこかおかしい。そんなことは、とうに自覚している。
絶対に手放すことなどできないと知っているから、どれだけ自分の中の獣が騒いでも、そんなものは自由にさせない。
「愛してる。優衣」
だから、何度だって気持ちを告げる。
そのまっさらな心に、決して抜けない楔のように。
翔がいなければ生きていけないくらい、自分の向ける愛情が優衣にとって当たり前になってしまえばいい。溺れて、依存して、離れられなくなってしまえばいい。
ほかの誰の愛情を知っても、心を開いても、その誰かが優衣にとって翔以上の存在になることだけは許せない。優衣が幸せになるためならどんなことだってしてみせるけれど、自分以外の誰かを選ぶことだけは認めてやれない。
「翔……」
抱き締めた腕の中、優衣が安心しきった様子で目を閉じる。
その甘い吐息がもたらす狂喜と、狂気。
優衣が、一方的に向けられる浅ましい劣情を、何より嫌悪していることを知っている。幼い頃に幾度も見せつけられた、戯れに快楽ばかりを貪り合う関係の醜さを、心底軽蔑していることも知っている。
だから。
「……そばにいる」
今は、触れない。
まだ、触れられない。
「おまえがキツいときには、絶対、そばにいるから」
早く、好きになって。
おまえもオレを欲しがって。
――獣が鎖を引きちぎる前に。




