末路(前編)
どうして、こんなことになったのか。
あんな電話越しの会話ひとつで、父の言ったすべてに納得などできるはずもない。何度リダイヤルしてもまったく通じなくなった携帯端末を、茜は壊れるほどに握りしめた。憤りに震えながらアパルトマンに帰った茜を待っていたのは、眼鏡を掛けた管理会社の担当者だった。
彼は事務的な口調で、父がアパルトマンの賃貸契約を解除したことを告げ、そのため今月いっぱいで引き払って出ていくようにと言い出した。冗談じゃない、と相手へ食ってかかっているところに、やはりカードを使えなくなり困惑した様子の母が帰ってきた。
茜が憤然と父の「勘違い」を説明すると、すぅ、と母の顔から表情が消える。それは、母が怒っている証拠だった。母がこんな顔をした後には、茜の参加したコンクールで、大した腕もしていないのに優勝を横取りしていった少女が「不慮の事故」にあったり、茜が好意を持ってやったのに拒絶した男が「原因不明の火事」に巻き込まれて大怪我をしたりして、胸がすっとしたものだ。
母は、表向きは実家である三条家から勘当されているけれど、実際のところは伯父である三条の現当主よりも優れた力を持っている。三条家の誰よりも、誇り高くあるべきひとなのだ。当然ながら、母は三条家から密かにずっと、さまざまな援助を受けている。術に必要な護符や呪具も、そんな援助の一環だ。茜自身はさっぱりだが、「術」や「式神」を使って邪魔者や気に入らない者を排除するくらい、母にとっては朝飯前なのだ。
本当は、三条家でもそんなことをするのは禁じられているらしい。使える力を使わないなんて、バカみたいだ。どうしてそんなもったいないことを、といつも不満に思っていた。茜自身に、その才能がないのが腹立たしい。もし自分にも術が使えたなら、もっとずっといろいろ楽しめたのに。
だが、たとえ十分にその力を持っている母でも、さすがにカードを止められてしまっては、父名義で借り上げていたアパルトマンを手に入れることはできない。
それからは、本当に最悪だった。とにかく、電話が通じない以上、日本に帰って父と直談判しなければならない。信じられないことに、銀行の預金口座まで閉鎖されていた。
仕方なく、家にあったお気に入りのバッグや時計を泣く泣く売りに出した。故買屋に二束三文で買い叩かれた屈辱は、一生忘れられないだろう。パーティーで知り合った友人たちなら、もっと高値で買い取ってくれたかもしれない。けれど、そんな恥を晒すなんて、耐えられるわけがない。
母の宝石箱の中身まで売り払って、ようやくふたり分の渡航費用を捻出できた。まったく、話が済んだら全部まとめて新品を買い直して、ずっと狙っていたカルティエのひとつもねだってやらねば気がおさまらない。
そう思いながら、四年ぶりに帰ってきた日本。
空港からタクシーで真っ直ぐに父の所へ行くのだろうと思っていたのに、なぜか母が運転手に告げたのは、もう顔も忘れた妹が住んでいる自宅だった。
チビでガリガリの、いつも人の顔色をうかがうようにして、部屋の隅に隠れていた妹。母がいつも、役立たずで人前に出すのも恥ずかしい、みっともないばかりの子だと言っていた。本当にその通りだと思う。あんな子が自分のものを横取りしていくなんて、冗談じゃない。妹に会ったら、徹底的にその思い違いを反省させてやらなければならない、と考えていたのに。
どうやって嗅ぎつけたのか、想像していた通りの美少年に成長していた弟と、その弟によく似た極上の美青年が待ち構えていた。ふたりは当然のように、彼らが妹を守る立場にあることを宣言した。断固とした態度でこちらの邪魔をしてくる姿に、ますます怒りが込み上げる。
青年は、李家の伯凰。
母から何度か話は聞いていたから、名前は知っていた。けれど、いくら美形でも自分を虫けらのように見下すなんて、イイオトコなだけに憎さ百倍だ。
苛々しながら邪魔なふたりを追い払おうとしていたとき、突然玄関の扉が開いた。
――息が、止まった。
そこに、弟をそのまま少女にしたような存在が現れたから。
抜けるように白い肌。顎のラインで切り揃えられた、艶やかな漆黒の髪。驚いたように見開かれた大きな瞳は、まさに弟と同じ、鮮やかな色彩を宿した宝石のよう。よくできた人形のように整った優美な顔立ちの中、桃色の唇があどけなさを残し、ほっそりとした体つきながら、豊かな膨らみがつんとシャツの胸元を下から押し上げている。
世の中の男たちが揃って欲しがりそうな、誰もが美しいと認めるに違いないその姿。
瞬間、込み上げたのは女としての苦い敗北感。
それから、弟によく似た姿を持つこの少女が妹なのだと理解した途端に感じたのは、自分でもよくわからない激情だった。
許せない。どうして。
そんな思いばかりが、ぐるぐると頭を巡った。
――母の口から決して聞きたくなかった、信じたくなかった言葉を聞いて、絶望する。目の前で起こっていることが認められなくて、けれどやっぱり母だけは自分の味方だった。
どうせ父なんて、昔からお金こそ望むままに与えてくれたけれど、ほかの女に子どもを産ませて可愛がっているような男だった。そんな父を、今からは利用してやればいいだけのこと。だって、自分は「父の娘」の姉なのだから。
全部、母の言うとおり。やっぱり母は凄い。昔から、自分が望むものはすべて用意してくれた。
「父の娘」である妹は、せいぜい父に可愛がられていればいい。その分だけ、こちらに利用価値が出るというものだ。
いつの間にか妹は、高校生の制服を着ていても、将来物凄くイイオトコになりそうな少年の腕の中にいた。
……欲しくなった。たまには、年下を可愛がるのも悪くない。何より、妹が頼りにしているらしいその少年を奪ってやったら、と思うとぞくぞくした。
自分のものを奪っていったのだから、それくらいしてやらなければ腹の虫が治まらない。あの少年を自分のものにして、それを妹に見せつけてやる。
この場を支配しているのは母だ。
母に望めば、すべてが叶う。
叶う、はずだったのに。
「失せろ。二度と姉さんの前に姿を見せるな」
弟の――弟だと思っていた少年、皓の冷たい視線と声が突き刺さる。
何か言わなければと思うのに、込み上げる悪寒が邪魔をして言葉にならない。それが、皓から感じる威圧感のせいだと気づいて、どうして、と思う。
綺麗なだけの、おとなしい無口な子どもだと思っていた。たまにちょっとした意地悪で突き飛ばしたりぶったりしても、親に言いつけるでもなく、黙って去っていくような気の弱い子どもだと。
妹を「姉さん」と呼んで必死に取り縋る幼い顔も、氷のような眼差しでこちらを見る凛然とした態度も、そんなものは知らない。知らない。
「失せろ、と言ったのが聞こえなかったか?」
苛立たしげな声に、びくりと震える。
咄嗟に振り返ると、自分たちが乗ってきたタクシーは、いつの間にか消えていた。トランクに入れてあったキャリーバッグが、道の端に置いてある。父と話をつけたら、すぐにパリへトンボ返りするつもりだったから、その中に入っているのは最低限の着替えと化粧道具だけ。ハンドバッグの中には、パスポートと携帯端末。手持ちの現金は、渡航費用を支払った残りのわずかなユーロ紙幣とコインのみ。
お気に入りのものを必要以上に売りたくなくて、日本までの旅費を確保できた時点でこちらに飛んできたことを、少しだけ後悔する。
「だ……だったら、チケット代を寄越しなさいよ」
「――なんだと?」
皓が訝しげに眉を寄せる。茜は顔をしかめて言い返した。
「そっちこそ聞こえなかったの? あんたたちがカードを止めたせいで、お金がないの。冗談じゃないわ。あたしはあんたたちと違って、暇じゃないのよ。来月は室内楽のテストがあるし、コンクールの準備だってしなきゃならないのに」
こんなばかばかしい茶番に、いつまでもつきあっていられない。
皓の反応の鈍さに、腹が立つ。まったく、役に立たない子どもだ。
ほかに誰か、使える相手は――
(そうよ。三条の伯父さまに連絡を入れればいいことじゃない)
三条家の伯父なら、今まで通り自分たちを援助してくれるに決まっている。
そう思い至ったところで、皓が蔑むような眼差しで口を開いた。
「おまえは本当に、どこまで愚かで卑しいんだ? なぜ僕が、おまえたちの世話をしなければならない?」
「ふん、バカなのはあんたの方よ。あたしたちにこんな真似して、三条の伯父さまがなんておっしゃるかしらね!」
母の兄である三条道彦は、由緒正しい三条家の当主なのだ。母と茜を溺愛している彼が、自分たちにこんな無礼を働いた佐倉家を許すわけがない。
皓は、茜の言葉を聞いて嘲笑を深めた。
「つくづく、おめでたい女だな。――まあいい。せいぜい、お優しい伯父上殿に泣きつくことだ」
「……っ」
バカにして、と憤りが込み上げるが、これ以上皓を相手にしていても不愉快なだけだ。ハンドバッグから携帯端末を取り出す。しかし、操作しようにも液晶画面がブラックアウトしたままで、どう弄っても起動しない。
(もう……!)
そういえば先ほど、妹を抱き締めていた少年に電気ショックのような術で手を弾かれた。あれのせいで壊れてしまったのかと思うと、携帯端末を地面に叩きつけたいほど腹が立つ。
見れば、当の少年はいまだに気を失ったままの妹をそれはそれは大切そうに抱きかかえていた。心配で堪らないと言わんばかりの眼差しが、わずかも揺らぐことなく彼女の顔に向いている。
――自分以外の女にイイオトコ、或いはその予備軍が優しくしているときに感じる苛立ち。相手の女が、取るに足らない子どもだと思っていた妹であるだけで、こんなにも腹が煮えるものなのか。
それともこれは、皓や李伯凰といい、妹を抱いている少年といい、揃いも揃って今まで自分がモノにしてきた男たちよりも、見目も能力も遙かに優れているせいなのか。茜が戯れの恋を交わして別れてきた男たちは、みんな愉しいセックスを求める軽い連中ばかり。
彼らの誰ひとりとして、あの少年のように狂おしく切ない瞳で見つめることも、伯凰のように心からの温かな親愛の情を込めて笑いかけてくることも、皓のようにわずかな情を希うような、思慕を抑えきれない眼差しを向けてくることもなかった。
妬ましさに灼けつきそうな胸を押さえて、きつく唇を噛み締める。
そして、力なく座り込んだままの母から携帯端末を借りようとしたときだった。
静かな排気音が、やってきた黒塗りのベンツの運転手が最上級の運転技術の持ち主だと知らしめる。すう、と至極滑らかなブレーキング。
先ほどまでタクシーのあった場所に停車したベンツから降りてきたのは、三条の屋敷に遊びに行くたびよく顔を合わせていた伯父の側近だった。
確か、柏木という名だ。取り立てて個性というものを持たず、いつも感情を表すことなく静かに伯父のそばに控えている。そんな壁か空気のような存在の彼を、これほど頼もしく感じたことはない。
――よかった。
これでタクシーを呼ばなくても、この乗り心地の良さそうな車で三条の屋敷に行くことができる。しかし、ほっとして呼びかけようとした茜を一顧だにせず近づいてきた柏木は、ざっとアスファルトに膝をついた。そのまま、皓の足許に土下座する。
(な……ん、で!?)
伯父の側近が、皓に――こんな子どもに土下座をして、それを皓は驚きもせず、醒めた目をして見下ろしている。
「――三条家当主側近筆頭、柏木と申します。このたびは佐倉家のみなさま、並びに李家のみなさまに、我が三条に名を連ねる者たちがお詫びのしようもないほど不快な思いをさせてしまいましたこと、我が主が心より陳謝したいと申しております」
皓が、まるで感情の透けない声で口を開く。
「その主殿はどうした。まさか、あなたひとりが頭を下げたくらいのことで、そちらの誠意が伝わると思っているわけではないだろう?」
「無論のこと。主はただいま、佐倉家本邸に赴いております。こちらにこの者らがご迷惑をかけにきていることを知り、取り急ぎ私が参った次第でございます。この者らは、今すぐに連れて去ります。此度の件は、改めて主の方よりお詫び申し上げるということで、ご容赦いただけませんでしょうか」
地面に額を押しつけたまま、柏木は茜に理解できないことばかりを言う。
皓は腕を組んで、小さく笑った。
「連れ帰ったこいつらを、あなた方はどうするつもりなのかな?」
「それは、佐倉家の方々の決められることかと」
「……なるほど。その程度の良識はあったようで、安心した。もし、三条家で一生飼い殺しなんて甘いことを言うようなら、本気でそちらを潰すところだったよ」
いっそ楽しげに言う皓に、柏木が微動だにせず、は、と応じる。
それからすっと皓が目を細めると、その場の空気が一変した。
――冷たく。重く。
「柏木殿。僕は佐倉家当主名代としてここに来ている。その権限において、三条家当主側近筆頭のあなたに言う。そのふたりをどのような形であれ、三条家の庇護下に置くことは許さない。もちろん、京都へ連れて帰ることも、どんな些細な援助も、露見した時点で三条には一切の誠意なきものと見なす」
「確かに、承りました」
「また、ふたりが二度と僕の姉に接触することのないように。もしこれ以上、三条が姉の心を煩わせることがあったなら、僕はこの手で三条家を潰す」
「は。ご安心くださいませ。この者らは、既に三条からの追放が決定しております。佐倉のみなさまには今後一切ご迷惑をかけさせぬこと、このような身で僭越ながら、我が名に懸けて誓わせていただきます」
何を、ふざけたことを言っているのか。
これは一体、なんの冗談だ。
震える拳を握り締めていると、皓が意外そうな顔をして瞬く。
「……ふうん? 仮にも当主の妹と姪だろうに、随分はっきりと言うんだね」
「恐れながら……。この者らがかつて為した不始末を、当主の耳に入れぬまま、瑣事として処分して参ったのは私でございますゆえ」
苦渋の滲んだ言葉に、皓が首を傾げる。
「一般人を術を使って傷つけるなんて、術者の風上にも置けないバカなことを平気でやっていたらしいね。三条が被害者の人たちを必死にケアしてるふうだったから、文書で抗議するだけだったけど。ひょっとして、それも握りつぶしていたのかな?」
「……申し訳ございません」
押し殺した声での謝罪。
皓は、小さく溜息をついた。
「まぁ、あんまりにもバカバカしい話だから、ただでさえ多忙な当主に知らせたくないっていうのもわかるけど。――柏木殿」
「は」
「三条に見切りをつけたら、うちに来るといいよ」
唐突な言葉に、わずかな沈黙が返る。
「――いえ、私は代々三条にお仕えしてきた身。ご温情はありがたく存じますが……」
その返答を予想していたのか、皓はさしたる感慨も見せずに軽く応じる。
「そっか。あぁ、顔を上げてくれる? 今の三条には、柏木殿のように仕事熱心な人材はもったいないなと思っただけだから」
「……過分なお褒めの言葉、ありがとうございます」
「うん。じゃあ、そのふたりは柏木殿が責任を持って、佐倉とも三条とも関わりのない場所に捨ててきてくれるかな」
にこりと皓が笑って、その場の張りつめていた空気がようやく緩む。
柏木が小さく息を吐いた。
「はい。それでは、失礼いたします」




