断罪
最後の言霊を形作るなり、ふうっと意識を失った少女の細い体を、元々彼女を抱え込んでいた少年が危なげなく抱き留める。その様子を、伯凰は奇妙にゆっくりと流れる時間の中で見つめていた。
――先日目を通した報告書には、彼は優衣の隣人であり、同じ高校に通う幼馴染みだと記載されているだけだった。あの報告書を作成した家人は、一体この少年の何を見ていたのだろうか。
簡易なものとはいえ、伯凰がこの周囲に張っていた人避けの結界を、先ほど彼が現れたときにあっさりとこじ開けたことにも驚かされたが、それどころではない。
(三条の高位式神を、片手で粉砕する一般人がどこにいる)
さすがは三条の直系というべきなのか、薫子が放った式神は瞬時に三尾の狐の姿を現し、のほほんと会話を繰り広げていたふたりに襲いかかった。かつては汀狐と呼ばれる強大な妖であった式神が少年を屠り、少女を奪っていく様までがありありと脳裏に浮かんだ。
焼けつくような焦燥は、一瞬。それなりに修行を積んだ術者が十人がかりでなければ抑え込めないような式神を、少年は片腕一本で難なく制し、あっという間にその核を破壊してしまった。
この地に佐倉が把握していない、これほどの力の持ち主がいるとは――実際にその姿を目の当たりにしてさえ信じがたかったが、今はそれどころではない。
「邪魔するぞ!」
門扉を跳び越え、少年が抱えた優衣に駆け寄る。一拍遅れて、皓も伯凰の後に続いた。その際、優衣の言霊の圧力に負けて弾け飛び、完全に消滅していた結界をきっちりと周囲に張り直す辺り、几帳面なまでの思慮深さは相変わらずのようだ。
「寄るな」
あと数歩のところまで近づいたところで、伯凰の足許からばりばりと雷の壁が立ち上る。
「……っ危ないだろう!!」
「神谷さん! 通してください!!」
「寄るな。優衣を守るのは、オレだ」
感情のない声と、瞳の色。
伯凰は、思わず目を丸くした。
「優衣の言霊にアテられたのか……。暴走してその発言とか、オニーサン照れちゃうぞ?」
「アホなこと言ってる場合か!? 暴走したのは姉さんの方じゃないか!!」
感情の乱れにまかせて力を暴走させた人間は、最悪の場合、己の術力にその身を灼かれてしまうことになる。激しい焦燥のまま、雷の壁を無理矢理突破しようとする弟分の襟首を引き戻す。
ぐえ、と声を上げる皓の頭の上で、伯凰はぽんぽんと掌を弾ませた。
「『落ち着け』」
李家の瞳を持つ者に、須く与えられる天賦の才。
「『俺たちは、優衣の敵じゃない』」
発する「言葉」を「言霊」に換え、それのみで呪として完成する。一族でも次期当主に相応しく、随一と言われる呪力を乗せて放った言霊は、確かに作用したらしい。
傷を負った獣のように、鈍くぎらつく光を浮かべていた少年の瞳に理性が戻る。眩暈を堪えるように、彼は何度も瞬きした。
「あ……?」
「翔、でよかったか? 俺は、李伯凰だ」
「……ああ。最近周りでちょろちょろしてると思ったら、あんたらんとこの人間か」
こちらが名を知っていることで、あっさりその答えを導き出すところを見ると、意識はしっかりしているらしい。しかし、雷の壁は消えたものの、その腕の中の優衣に手を伸ばすと、ぺいっとばかりに払われた。
「何をするか!」
「勝手に触るな」
理性が戻ってもこれか。あまりに独占欲丸出しの台詞に、口元が引きつる。
伯凰は呆れ返りつつ、すーはーと深呼吸して自分を落ち着かせた。
――薫子の用いた封印は、血の呪縛を核とするもの。近しい血縁者のみに可能な、そしてそれゆえに最も強力な封じだ。しかしそれも、優衣が薫子との『血縁』そのものを『否定』した時点で無効になった。
ざっと見た限り、多少顔色が悪いものの、優衣の気配は概ね安定している。どうやら、気絶しているだけのようだ。皓もその様子を見て、ほっとしたのだろう。軽く息を吐くと、改めて翔に向き直る。
「あの……神谷さん。神谷さんは、姉さんが力を封じられていることを知っていたんですか?」
「別に。妙によくねえモンに寄ってこられる体質みてえだなとは思ってたけど。本人がまるで気づいてねえし、単に鈍いタチなのかと思ってた」
ひどく気のなさそうな返事に、いやな予感を覚える。咄嗟に伯凰は、弟分と視線を交わした。
(コイツ……マジで何者だ?)
(知らないよ! 僕だって、神谷さんが術者だなんで今日まで知らなかったんだから!)
そんなアイコンタクトなど知らぬげに、翔は優衣の体を抱え直すと、そのまま立ち上がって踵を返す。
おい、と呼びかければ足を止めるが、肩越しに振り返る顔はいかにも迷惑そうだ。
「んだよ」
「おまえ――佐倉と三条が、どんな家だか知ってるか?」
まさか、と思いながらの問いかけに返ってきたのは、訝しげな声だった。
「優衣の、生物学上の親の実家だろ?」
「……それだけか?」
重ねての問いに、翔が一層戸惑った顔をする。
「……? それ以外に、何があんだよ?」
眩暈がした。恐らくそれは、隣でよろめいた皓も同じだろう。
三条の高位式神を片手であしらえる術者など、佐倉の精鋭部隊にも李家の中にもそういない。間違いなくトップクラスの能力を持つ術者が、佐倉に把握されていないだけでも驚きだったのに、それがこの国を二分する「佐倉」も「三条」も知らないなど、まるで想定の範囲外だ。
ましてあの薫子が、優衣にそれぞれの実家のことを教えていたとは考えられない。つまり、佐倉が三条を本気で潰したなら、それまで三条が鎮めていた西の地が、悪霊怨霊地霊の跋扈する平安さながらの土地になってしまうという事実も、それにより災禍を被るのがなんの咎もない一般市民であることも、彼らが知るはずもないのである。
(はぁ……。どうしたもんかな)
今はキレている佐倉家と李家の上層部も、いずれ冷静になったなら、後始末と後味の悪さにますますどツボに嵌まるだろうことは目に見えている。
だから、まだ若い分だけ三条とのしがらみも少なく、比較的冷静だった伯凰は、あわよくば優衣と佐倉家を和解させ、彼らをクールダウンさせてもらえないかと考えていたのだが――この様子では「何それ」の一言で済ませられてしまいそうだ。
(いや待て。まかり間違ってこいつらふたりが、その辺のアンダーグラウンド組織に持っていかれたりしたら、冗談じゃないぞ)
佐倉も三条も、それぞれの地で「最大手」ではあるものの、その地位を狙う新興組織が片手で足りないほどにはあるのだ。李家にとっても、佐倉の現当主に李家から翠蘭が嫁している以上、それは決して他人事ではない。何より、翠蘭の孫娘が第三勢力の旗頭に担ぎ上げられた、などという笑い話にもならない事態になったりしたら。
翠蘭を敬慕している李家当主である母が、どれほど怒り狂うかなど、想像したくもない。
(――死ぬ)
絶対死ぬ。間違いなく死ぬ。ストレスで胃に穴が開いて死ぬ。
一瞬でそこまで思考を巡らせた伯凰が、「佐倉」という名に恐らく好意のかけらも抱いていないだろう彼らをどう懐柔すべきか、と考えはじめたときである。
翔が、ふと思いついたように口を開いた。
「あんた、優衣の同族なんだろ? こいつ、さっき何をしたんだ?」
「あ――ああ。あれは『祝福』、もしくは『託宣』と言われているものだ」
咄嗟に答えてから、本当に翔は李家の存在も知らないのだなと、改めて思い知る。
ちらりと完全に自失した体の三条の女たちを見遣る。いかに愚かな者たちとはいえ、わずかなりとも術の世界に関わる身だ。さすがにその意味を知っていたらしい。
思い上がった者の、哀れな末路。
「この瞳を持つ李家の娘は貴重だと言ったのは、『祝福』をできるのが彼女たちだけだからだ。たち、といっても、今いるのは俺の母親と優衣だけだがな」
「へえ?」
李家の“歌姫”、或いは“巫女姫”。
彼女たちの操る言霊は、あらゆる未来を指し示す。
無数に溢れる可能性の中から、最も祝福に溢れた道を選び取る言霊を紡ぎ、降りかかる災厄を回避し、或いはその者が望みうる最大の幸運を与える者。
その祝福は、彼女たちに害意ある者には決して与えられない。祝福を与えられた後も、彼女たちに受ける資格なしと断じられた者からは、そのすべてが奪われる。
己が気に入った相手に天上の調べを聞かせる彼女たちは、しかし自らの意思で『祝福』を紡ぐことはできぬという。
ただ、その心の赴くままに歌い、言祝ぐ。
その祝福を受けられるは、その心を揺らす者のみ。
「そんな能力のせいか知らんが、我が一族は同族意識が高くてな。崇拝というのも、冗談でもなんでもないんだ。忠誠、と言ってもいい。李家の血を引く者は、“歌姫”を守るためなら平気で命を懸けられる。だから、“歌姫”も一族を守るために歌うんだ。李家は歌と舞の呪力で鎮めを行う一族だが、“歌姫”の加護があって命を落とした術者はいない」
「そりゃまた……大した幸運の女神さまだな?」
揶揄する口調だったが、伯凰は大真面目にうなずきを返す。
「ああ。外の連中には、そう呼ぶ奴もいるな」
翔は軽く肩を竦めた。
「――あっそ。で? 幸運の女神さまの『祝福』ってわりには、さっきの優衣のアレはかなりシビアじゃなかったか?」
いっそ楽しげな翔の言葉に、伯凰は薄く笑みを浮かべる。
「は。そりゃそうだろう。――あいつらは、女神の怒りを買ったんだからな」
“歌姫”は、その心のままに歌うだけ。
忠誠には忠誠を、信頼には信頼を返す。
そうして一族を守り、導き、癒やす者。
その心のままに。
ゆえに、彼女たちに憎しみを向けられたなら――
「つまりアレか。優衣が連中を許せねえと思った結果が、あの『祝福』ってわけか」
「自業自得って言葉が、これほど似合う連中もいないだろうな」
もちろん、祝福が離れていくことはある。
正しい祝福ならば、その者が歌姫を裏切ったときに。
裏返しの祝福ならば、その者が歌姫に許されたときに。
(――ありえないな)
生まれてはじめて歌ったのが、実の母と姉への決別の歌。そして、一族の愛し子であるべき“歌姫”をそれほどまでに追い詰めた者たちを許すほど、一族も、“歌姫”の紡いだ『祝福』も甘いものではない。
恐らく、薫子は「封印の解除」という手札を切るつもりはなかったのだろう。無力な人形のまま、それでも“歌姫”の存在を求めずにはいられない者たちごと、優衣を己の手駒とするつもりだったに違いない。自分たちの強欲が、傲慢が、自らの首を絞めることになることなど思いもせず。
「ね……ねえ……」
この期に及んでも茜が口を開くのは、甘やかされるまま、術の世界に中途半端にしか関わってこなかったがゆえか。
茜が門扉に手をかけた途端、ばちりと静電気が走るような音がして弾き飛ばされる。心底不快げな顔をした翔は、どうやら雷撃が得意技らしい。
短く悲鳴を上げた茜は、弾かれた手を庇いながら縋るような眼差しを向けてきた。だが、それに心を動かされるような者はここにはいない。三方から冷たい視線を受けた茜が、顔を引きつらせる。
「ちょっと……何よ、なんなのよ、あんな気分が悪くなるようなことを言うだけ言って! 冗談じゃないわ! さっさとその子を起こしなさいよ! 取り消して! 今すぐ取り消しなさいよ!?」
その耳障りな叫びを聞いた皓が、小さく感嘆の声を上げる。どうやら彼も、伯凰と同じ感覚を覚えているらしい。
「凄いな……。さっきまでは、あいつらが姉さんに近しいものだと思うと物凄くやりにくかったのに。今はそんな圧迫感がまるでない」
「ああ。本当に、本物の“歌姫”だ。血の縁まで完全に断ち切るとはな」
李家の血を持たない翔にはなんのことかさっぱりのようだが、皓は優衣と親が同じなだけに、伯凰よりもその影響を受けやすいのだろう。茜と対峙してもどこか押され気味だった先ほどまでとは打って変わって、今は余裕さえ伺わせる顔で向かい合っている。
「何やってんのよ! こんな……っ、さっさと優衣を――」
また何か言いかけた茜の言葉を、皓は鋭く切り捨てる。
「口を慎め。おまえ如きが姉さんの名を呼ぶことは許さない」
(おお。やっぱりキレたか)
基本的に温和な性格の皓は、多少腹黒いところはあっても、滅多なことでは怒りを表に出さない。
しかし今日は、その滅多なことになっているようだ。ゆっくりと落ち着いた仕草で持ち上げた手で印を結ぶと、凜とした声を空気に溶かす。
「『我が名は佐倉皓。佐倉家当主名代として我が一族に求める。我が姉にして佐倉家が長子、優衣の敵を一族の敵とし、血の誇りに従いこれを滅ぼせ』」
皓の言霊に応じて、結界が一瞬強い光を放った。そこから一気に走った光の網が、一族のすべてにその意を伝える。
「『同時に、三条薫子。三条茜。両者に対する〈断罪〉発動許可を申請する。両者は佐倉の名を穢し、その誇りを地に落とした。我が姉の力を封じ、貶め、蔑み、許しがたい苦痛を与えた者たちに、正当なる裁きを求める』」
(……うお)
キレているとは思ったが、佐倉の上層部を宥めるどころか、思いきり煽っている。
優衣が薫子に力を封じられていたことまでは、今日ここに至るまで誰にも明かされていなかった。
術者にとって、意に沿わず己の力を封じられるのは、鳥が翼を奪われ、獣が大地を駆ける四肢を折られるのと同じことだ。考え得る限り最悪の侮辱であり、屈辱であるといっていい。
……そんな辱めを佐倉家当主の孫娘が長きに渡って強いられていたと知って、年寄り連中が頭の血管を切らなければいいのだが。
「な……な……」
薫子が、震える足で後ずさる。
少しの間目を閉じ、何かを待っていた皓が、ゆっくりとまぶたを持ち上げた。酸素の足りない金魚のようにぱくぱくと口を開閉するばかりの茜に、艶然とした笑みを浮かべてみせる。
「……〈断罪〉許可申請、承認」
刹那、結界が一際強い光を放ち、揺らめく。
「せいぜい、悔いるといい。三条の」
「……っ」
「これが、おまえたちに向かう最初の業だ。――『〈断罪ノ九十九・禁〉』」
結界から収束した光が皓の刀印に集まり、縦一文字に切り伏せる動作から放たれた光の束が、立ち尽くしていたふたりの女を貫いて包み込む。
そうしてその光が消えたとき現れたのは、何が起こったのかわからずきょとんとした顔の茜と、この世の終わりのように蒼白になってよろめき、地面にへたり込んだ薫子の姿だった。
その様子を眺めた皓が、くくっと愉しげな笑いを零す。
妖艶な少女のような、微笑。
「おまえの言う野蛮な者の力で、術を禁じられた気分はどうだ? たった今からおまえは、なんの力も持たない普通の人間だ」
「お、母……さま……?」
「う……嘘よ、嘘よ! オンマ……ぎゃあああ!!」
真言でも唱えようとしたのだろうか。その途端に獣の断末魔のような凄まじい悲鳴を上げて、薫子がのたうち回る。茜が血相を変えて駆け寄った。
「お母さま!? ちょっと、あんた! お母さまに何をしたのよ!?」
「その女は、二度と術を使えない。使おうとするなら、地獄の苦しみを受けるだけ」
皓の静かな言葉に、茜が目を剥く。
「なん、ですって?」
「〈断罪ノ九十九・禁〉は、その者の最も誇る能力を禁じる。術者ならば術力を。星見ならば流れを読む目を。……元々無能のおまえには、過ぎた呪禁だったかな?」
罪には罰を。罪人には相応しい戒めを。
ゆえにおまえたちの誇りを奪い、絶望を与える。
それが〈断罪〉だと、少年は嗤った。




