はじめての歌
そこで翔が、ようやく皓と伯凰に気がついたかのように視線を移す。
「それで? そこのあからさまにおまえの親戚くさいニーサンと蒼月は、一体何しにきてんだ?」
「さあ」
言われてみれば、優衣も彼らの目的は何も知らないままだった。
翔の疑問を受けて、ふたりがちらりと視線を交わす。
「いや……。俺たちも、こんなふうに来る予定はなくてだな」
そいつらが、と伯凰が薫子たちを親指で示す。
「フランスから戻ってきたと思ったら、そのままこっちに向かってるって報告が入ったんだ。今、佐倉と三条の間は冷戦状態でな。優衣を三条に拉致られたらシャレにならんし、阻止するつもりで来たんだが――」
「……はい?」
優衣と翔は、揃ってとクエスチョンマークを浮かべた。
気まずそうに語尾を窄めた伯凰の代わりに、皓がやはり言いにくそうに口を開く。
「その……薫子さんのせいで、父さんはもちろん、おじいさまもおばあさまもみんな、凄い勢いでキレてて。向こうに出してた人員も、引き継ぎなしで全員引き上げさせたから、それだけでも結構ヤバいことになってると思う」
伯凰がうんうんとうなずく。
「李家も、三条との取引はすべて切ったしな。京都の方は、今頃かなりまずいことになっているのじゃないか?」
「三条も古い家だし、京都が簡単に沈むことはないだろうけど、今頃不眠不休で駆けずり回ってるかもね。――けどまぁ、そんなのは知ったことじゃない」
一瞬ひんやりとした表情を滲ませた皓が、すぐに困ったように苦笑を浮かべる。
「万が一、姉さんが三条に取られたら、こっちは何もできなくなる。それ以上に、姉さんをこんなことに巻き込むわけにはいかない。大体、三条にしたってこれ以上姉さんに手出しをしたら、ますますこっちの逆鱗に触れることくらい、わかってるはずだ。なのに何をトチ狂ったんだか、そこのふたりがこの家に向かってるっていうから、慌てて飛んできたんだけど……」
最後は溜息混じりに告げられた言葉の意味が、なんだかわかるようなわからないような。
翔も、思いきり顔をしかめている。それに気づいた皓が、慌てて薫子が為した十六年前の欺瞞を改めて説明する。どうやら優衣の弟は、かなり気遣いのできる少年らしい。
一通り事情を把握した翔が、溜息をついてこちらを見る。
「……優衣」
「ん?」
「こう言っちゃなんだが……おまえの親姉弟親戚一同は、みんな揃ってアホの集団なのか?」
あまりに身も蓋もない言いように、皓と伯凰が揃って顔を引きつらせる。だがその評価は、まったくもって否定のしようがないと思う。なんだか、ちょっと悲しくなってきた。
「普通、騙されるか? オレでさえ中学んときに蒼月の顔見て、おまえの親戚なのかくらいは思ったぞ?」
「そうなの?」
「つうかおまえら、あんとき顔合わせてんだろ」
呆れ返ったような翔の言葉に、優衣だけではなく、皓と伯凰のふたりも同時に間の抜けた声をこぼす。
「え?」
「へ?」
「は?」
翔が一瞬、物凄く微妙な顔をした。
「……すげえハモったな。いやほら、ウチのガッコの道場で緑葉中と試合やったとき、おまえも顧問に捕まってあれこれ手伝いやらされてたじゃねえか。そんときオレらん中で、結構話題になってたんだぞ? おまえと蒼月を並べたら、双子の美少女ユニットみてえだなって」
そう言われれば、昔帰りがけに空手部の顧問教師に捕まって、あれよあれよという間に雑用を押しつけられたような気もするが――やっぱり、よく覚えていない。
「……コーウー?」
「ちょ、神谷さん! なんですか、その美少女ユニットってのは!?」
げしげしと門扉を叩いた皓の頭を、伯凰が「ツッコむとこはそこじゃないだろう!」としばき倒す。
「あんときは、おまえらの目もほとんど黒かったしな……って、やっぱ途中で変色すんのが普通なのか?」
翔の疑問に、伯凰がまぁな、と顔をしかめたまま答える。
「この瞳は、我が李家の一族に伝わるものだ。大体十代半ばで変化するが、女には滅多に出ない。というより、李家は男系の一族でな。そもそも女の生まれる確率が低いんだ」
伯凰の視線が、こちらを向く。
「優衣のように、この瞳を持って生まれた娘は、一族にとって貴重な存在なんだ。崇拝されている、と言ってもいい。その優衣を今まで一族から遠ざけ、貶めていた三条に対して、李家の者たちも佐倉の面々に負けず劣らずキレまくっていてな。このままいったら、三条の一族郎党まとめて呪い殺しそうな勢いだ」
はっはっは、と伯凰が軽やかに笑う。
「なんですか、それは」
優衣は、思いきり顔をしかめた。意味がわからない上に、話のニュアンスだけでも非常に重苦しい。
(なんだ、崇拝って。呪い殺すとかなんの冗談ですか)
「おまえの親戚筋って、やっぱり変なのばっかなのな……」
「ちょっと翔。可哀想な子を見る目が、なんかムカつくんですけど」
むっと眉を寄せて、翔を見上げた瞬間だった。
ぶわりと、風が捲く。攫う勢いで翔の左腕に引き寄せられ、同時に掲げられた右腕が、目に見えない「何か」をがっちりと抑え込む。
風の音。
違う。
獣の息づかいのような、これは。
「――よう、クソババア。さっきから静かだと思ったら、随分なご挨拶だなぁ?」
みしりと翔に掴まれた「何か」が軋んで、そこから紛れもない苦痛の声が聞こえる。
「そんなバカなっ! それは三条の者だけが使える高位式神なのですよ!? テイコ、何をしているの! さっさとその娘を取り返しなさい!!」
上擦ってひっくり返った薫子の言葉に、翔の口元がぴくりと震えた。
「取り返す、だと?」
低く、感情の透けない声。
「ふざけてんじゃねえぞ、腐れババア。――優衣は、てめえのモンじゃねえ」
ぴしり、と何か硬質のものがひび割れる音。
あっけなく、風がやむ。
軽く右手を振る仕草をした翔の視線の先で、何か光るものが粉々になって地面に落ちる。
呆然とした薫子の様子がおかしかったのか、翔がくくっと肩を揺らす。
「オレのなんだよ。――次は、殺すぞ?」
――誰。
この、傲然と嗤う少年は、一体誰。
知らない。違う。知っている。知らないはずがない。
「翔……?」
「ん? あぁ……悪い。苦しかったか」
途端に氷の刃のようだった気配が霧散して、気遣う瞳がこちらを見る。答える前に、薫子が引きつった声で叫んだ。
「そ……その娘の封じを解けるのは私だけなのですよ! 術者としての才も力もすべて、母である私がこの血をもって封じたのだから!」
その叫びに、皓と伯凰が顔色を変えたのが目の端に映る。翔は、つまらなそうに薫子を見返すばかりだ。
薫子にとっては、ふたりが反応すれば十分だったのだろうか。それまでの動揺が嘘のように、余裕めいた笑みを薄く浮かべる。すいと持ち上げた指先で、優衣を示す。
「さあ、どうするのです? 佐倉と李家の坊やたち。今のままでは、その娘は李家の“歌姫”どころか、わずかな術も使えぬまま。いずれ、その極上の血の匂いに惹かれた下等な化け物に食われて死ぬやもしれない」
「貴様……!!」
青ざめて声を荒げた皓を、伯凰が片手を上げる仕草で制する。
「――何が望みだ。三条の女狐」
薫子は、小さく唇を歪めた。しかしそれは、すぐに笑みの形に変わる。
「随分な言いようだこと。……まぁ、よいでしょう。望みというほどのものでもないのですよ。佐倉と李家、両家において私と茜に相応の地位と待遇を。私は紛れもなくその娘の母であり、茜は姉なのですもの。その娘以上の扱いを受けて然るべきでしょう」
「ふ……ざ、けるな!!」
皓の叫びに、薫子は薄く嘲笑を浮かべる。
「まぁ、なんて野蛮な。これだから佐倉の者はいやなのです。……そうですわね、李家の方には茜の婿に相応しい殿方を選んでいただきましょうか。もちろん、その瞳を持つ、若く優秀な殿方をね」
「貴様は……。一体どこまで、卑しいことを」
呻くような伯凰の言葉に、薫子は軽く片眉を上げた。
「応じぬ、というわけにはいかぬはず。李家の者たちは“歌姫”の守護者であってこそ、その存在意義があるのでしょうに」
そこでようやく、自失していたらしい茜が地面にへたり込んだまま、お母さま、と声を零す。
「え……? どういう……?」
「ええ。何も心配することはないのよ、茜。おまえがあの娘より下の扱いを受けることなど、あってはならないのですもの。おまえは私の可愛い娘なのだから」
昔から何度も見てきた、慈しむような眼差し。母が子に向ける柔らかなそれは、確かに愛情に満ちあふれたもので。それを受けた茜の顔が、見る見るうちに血色を取り戻し、勝ち誇った瞳をこちらに向ける。
――虫唾が、走る。
「あぁ、いっそのこと伯凰殿はどうかしら? 伯凰殿は、李家の次期当主。おまえの婿としても相応しいわ」
良いことを思いついたとばかりに手を打つ薫子に、伯凰がぎり、と奥歯を噛み締める。
「勝手なことをぬかすな。おまえたちのような売女を我が一族に迎えるなど、断じてあり得ん」
茜は醜く唇を歪めると、甘えるように薫子の腕を取る。
「伯凰もイイとは思うけどぉ……。お母さま? あたし、あの子が欲しくなっちゃった」
そう言って茜が指さしたのは、優衣を抱き締めたままの翔だった。
「いいでしょう? ちょっと若いけど、力は十分あるみたいだし。優衣なんかには、もったいないじゃない?」
ふざけんな、と翔が吐き捨てる。抱き締める腕に、力が籠もる。
「てめえみたいに、妹を虐めてへらへら嗤ってるようなゲス女、この世の終わりがきたってごめんだね」
「ふふ……。気の強い男を屈服させるのって、好きよ?」
まるで獲物を前に舌なめずりする、醜悪な獣のようだ。
吐き気がする。
「……やだわ、本気で欲しくなっちゃった。あなたをあたしのものにしたら、その子はどんな顔をするのかしら?」
「死ね。マジで死ね。優衣にそれ以上汚え言葉を聞かせるな!!」
(――いやだ)
醜い。卑しい。浅ましい。汚い。
これが、自分の母なのか。
これが、自分の姉なのか。
これが、自分と血で繋がるものなのか。
その事実に、目の前が赤く染まる。
「……『黙れ』」
ぽつりとつぶやいた言葉は、奇妙な響きで空気を震わせた。
許すな、と自分の中のもうひとりの自分が叫ぶ。
自分を捨てたもの。
自分が捨てたもの。
そんなものが、自分を利用することなど許さない。
そんなものが、自分の大切なものを奪うことなど認めない。
「『おまえたちが』」
折角、忘れていたのに。
憎しみも。怒りも。誇りを傷つけられた痛みも。
忘れたふりを、していたのに。
「『わたしの母を、姉を、名乗るな』」
許さない。
そんなことは。
「『わたしが、おまえたちと血が繋がっていると思うことは、二度とない』」
切り捨てる。捨てられるのではなく。
この醜い感情さえ、すべて認めて。
――自由に。
そう思った瞬間、自分を雁字搦めに縛りつけていた鎖が、砕け散る音を聞いた。
光が弾けて、解ける。
すぅ、と薫子に目を向ける。
「『おまえが何処で野垂れ死のうが知ったことか
他者の誇りを穢した分だけ汚濁にまみれ
泥を啜って生きるがいい
周囲を傷つけた分だけ苦痛を負い
救いの手など差し伸べられず
惨めに 蔑まれながら生きていけ』」
なんだろう。
ひどく気分がいい。
酒に酔ったことはないが、酩酊状態とはこんなものだろうかと思う。
ゆるりと視線を動かすと、強張った顔をした茜が、ひっと悲鳴を上げる。
――逃がさない。
「『逃げるな』」
命じた通り、凍りついたように動きを止めた茜に、とろりと笑う。
「『強欲な娘
与えられるものに疑問すら抱かぬ愚かな娘
これからおまえはその対価のすべてを購うだろう
奪われ 搾取され 求めるすべては遠ざかる
その手に掴むものなど何ひとつなく
おまえに残されるは他者への羨みと妬みのみ
希望などない
光などない
それがおまえの人生
おまえの業
おまえが己が手で選び取ったすべて』」
脳裏に浮かぶ言葉を紡いでいくたび、何かが生まれ、弾けて、消えてはまた生まれる。
音。言葉。旋律。複雑に絡み合い、響くもの。
心の内から生まれ出ずる、それは。
高く響く鳥の声にも似た――
歌、だった。




