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白や灰色のコンクリートと、青空を反射するガラス張りの高層ビルが立ち並ぶオフィス街。通りを行き交う人波には様々な人種が混じっている。
広い車道には自動車が溢れ、その内の一台が流れを外れてビルの間から脱出する。自動車はしばらく進むと十分な敷地を持つ家々が並ぶ通りに出る。脇にはジョギングや犬の散歩をする人、庭の芝生を刈る人、そしてスクールバスから降りる子供達の姿が見られる。
二十一世紀のアメリカの平穏な日常風景がそこにあった。
始まりの庭に漂う赤い光の先は、まだ防御型都市に再建される前のアメリカ合衆国に繋がっている。
何故〈赤の雫〉の中に合衆国が存在しているのか。それは〈赤の雫〉を作った人間にしかわからない。他にも戦国時代の日本を舞台としている大和、深い森に囲まれたエルフの集落、そして古代の神々との戦争の最中であるローマと、この世界に存在する国々には時代背景の繋がりは全く感じられない。恐らく物語を進めていけばその謎も判明していくだろう。
この合衆国に訪れた災厄。それはこれまでに映画や小説などでたびたび扱われてきたものだった。
それは人の過ち。
事の発端は極秘に研究されていた化学兵器の漏出。それが人を殺し、また一部を醜い異形の姿へと変質させた。汚染は密やかに、そして素早く進み人々の間に混乱、差別、隔離、暴動を引き起こした。
さらに化学兵器は人だけではなく生態系にも影響を与えた。家族の一員でもある愛玩動物はもちろん、野生、さらに人が生活する裏で害虫と忌み嫌われていた小さき者たちにも。そして一番顕著に変質がもたらされたのは彼らだった。
身体の小さい者は総じて巨大化し、凶暴になった。繁殖力も上がり、化学兵器で弱った人々は彼らの格好の捕食対象だった。
しかし災厄はこれだけでは終わらなかった。
時の大統領は事態の収拾を図るため、開発していた戦闘機械、バトルアンドロイドを投下する。しかし何の間違いかこのアンドロイド自体も暴走をはじめ、動くものを見境なく攻撃する殺戮兵器と化した。
結果、軍と凶暴化した生物、そしてアンドロイドの三つ巴の衝突で合衆国は首都を除いてほとんどが壊滅し、僅かに生き残った人々は国外への脱出を試みている。
自らが撒いた種で崩壊を迎えようとしているのが〈赤の雫〉での合衆国の姿だった。
いたるところで黒煙が上がり、遠くで悲鳴と銃撃が交差する。
オフィス街の巨大な十字交差点はかつての洗練さなどもはや見る影もなく、周りのビルはどれも亀裂が入りガラスは割れ、場所によっては陥没して建物自体が傾いている所もある。
そのビルの壁面にへばりつき機敏に動き回る者達がいた。黒くごつごつとした鎧のような外殻、六本の足、鋭く鋭利な大あご。大型犬ほどに巨大化した兵隊蟻だ。交差点の真ん中に空いた穴から無尽蔵に這い出し、道路はもちろん建物の壁にも縦横無尽にのさばっている。
自分とモーフィアス、そして桜花は彼らに見つからないようビルの影に隠れていた。
「なかなか合図が上がらぬな」
桜花が呟く。蠢く蟻たちを目にして怯むどころか早く戦いたくてしょうがないと言った様子だ。
それを見ていたモーフィアスが苦笑する。
彼は自分の急な呼び出しにも快く応じてくれた。
待ち合わせの時刻になって〈赤の雫〉へと入り、始まりの庭で合流してうたのことを尋ねたが、彼もうたとは連絡を取っていないという。
「なにかあったのか?」
突然連絡が取れなくなったこと、噂のこと、そして現実で起きている行方不明事件と何か関係しているのでないかと、胸の不安を一気に話した。
「なるほどな」
黙って話を聞いていたモーフィアスは右手の甲に触れてメニューを呼び出した。戦友の項目からうたの状況を確認している。
「います?」
「いや、いない」
やはりうたはこちらの世界に来ていない。
「どうしましょう。やっぱり警察に連絡したほうが」
「待て、不破。そもそもうたが北園瑛子だというのはお前の推測だろう? 彼女が自分の身分を明かしたのか?」
うたとの間に私生活の話題はほとんどなかった。唯一わかっていることは、先日の会話から彼女が学生だということだけだ。
「いえ。でも連絡が取れなくなった時期も、学生だということも一致しています。それに名前だって」
弁解がましく言うと、モーフィアスは微かに首を振る。
「そのどれもが、うたを北園瑛子だと断言できる理由になってない。悪いが俺には、強引にうたと行方不明事件を結び付けているだけのように思える」
言葉に詰まる。
いなくなった時期、学生だといこと、うたという名前。確かにうたを北園瑛子だと決めつけている理由はどれもあやふやなものだ。
「現実であんな事件が起きて不安になるのもわかる。連絡が取れない以上、不破の言うような事態になっている可能性もないとは言わない。けどそれよりは単に忙しくて連絡が取れないだけと思わないか?」
自分も最初はそう思っていた。だが連絡の取れない日数が増え、事件の報道を知り、いても経ってもいられなくなったのだ。
「それに、たとえ彼女が被害に遭っていたとしても残念ながら俺達にできることは何もない。この世界の彼女しか知らないからな」
「でも噂が原因なら」
「その噂を、警察に話すのか?」
モーフィアスは噂のことなど微塵も信じていない。それも当然だ。誰が信じようか。
結局、彼の言う通り現実世界の彼女を知らない自分にできることはなにもないのだ。
この世界の中だけの関係。それ以上でも以下でもない自分には。
「不破は、そんなに多くの仮想世界を体験してないだろう?」
意図のつかめない質問だった。
「ええ」
「仮想の中の関係なんていい加減なものだ。相手と突然繋がりが無くなるなんてよくあること。忙しくて、その世界に興味が無くなって、あるいは連絡を取りたくない気分とか」
「うたもそうだと?」
「彼女はちゃんと返事を返す人間だと思う。けどそれも俺の推測で、本当のところはわからない。現実世界の彼女を知らないんだから」
自分は彼女のなにを知っているだろう。
エルフの魔法使い。そして学生だということ。それだけしか知らない。
そして彼女も、不破光春はこの世界での仲間としか映っていないはずだ。たったそれだけの関係なのだ。
「不破?」
はっとする。
「大丈夫か?」
「これからどうすれば?」
何とかそれだけ口にする。
「うたにメールを送っているんだろう? なら、後は彼女からの返事を待つしかない」
結局、今まで通り待つことしかできないのだ。
「あまり気にするなよ。それに不破が心配しているってことはメールで伝わっているはずだ」
モーフィアスは仮想の中での関係をしっかり認識している。それが今の自分に足りないものなのかもしれない。
彼女を心配する気持ちを否定されなかったのが救いだった。
自分が心配しているようなことはない。ただ何かあって連絡が取れないだけ。そう結論づける。
不安を無理に消し去ろうとせず、他の可能性で塗り固める。いずれそれが真実によって砕かれるまで胸の奥に閉じ込めようと決めた。
「それにまだたった二日だろう。案外、今日あたりにでもひょっこり戻ってくるんじゃないか?」
モーフィアスはそこでようやく表情を柔らかくした。
「そうですよね」
つられて微かに笑顔を返す。
釈然とはしなかったし、不安はまだ胸に燻っている。だが考えは固まりつつあった。
「よし。じゃあ久しぶりに二人で依頼にでも行くか?」
誘いに頷く。
彼に相談してよかったと思う。こんな話を聞いてくれる人はそういない。
「不破殿」
聞き覚えのある声に背後から呼びかけられた。
振り返るとそこには昨日共に依頼をこなした長髪の剣士、桜花が立っていた。
「桜花? どうしてここに?」
「不破殿がこちらにきているか調べてな。少し強引だと思ったのだが今日も行動を共にしたいと思い、ここに参じた次第だ」
戦友の項目を見れば相手が〈赤の雫〉のどこにいるのかも判明する。
もう一つ思い出した。戦友でなくても一度パーティを組んだ人の情報も記載される。その人のところへも行ける。つまり猫がこちらに来ていれば会って話が聞けるかもしれないのだ。
「不破、この人は?」
モーフィアスの言葉で考えを中断する。
「失礼。某は桜花。昨日、不破殿に窮地を助けていただいたのだ」
「そうか、よろしく。俺はモーフィアスだ」
二人は互いに自己紹介を済ませる。モーフィアスは桜花の特徴のある受け答えを気にした様子はなかった。
「二人はこれから依頼へ?」
「まぁ、そんなところだ。君も参加するかい?」
「ぜひ」
モーフィアスが自分を横目で見る。異論はなかった。
猫と接触するのは後でもいい。すぐに会えるかわからないし、うたのことが杞憂であれば余計な手間にもなる。
依頼の後でもう一度うたの状態を確認して、いなければ猫に接触しようと決めた。
「それじゃあどの国に行こうか?」
胸の奥に閉まった不安が漏れないよう、つとめて明るく二人に問いかけた。
兵隊蟻がひしめき合う交差点に突如、自動小銃の渇いた音が響き渡る。
車道を挟んで向かい側、迷彩の防護服に身を包んだ合衆国兵士三人組が崩れたビルの壁から身を乗り出し銃弾を蟻に撃ち込んでいた。
「始まった。準備しておくぞ」
モーフィアスの言葉に桜花と自分はいつでも飛び出せる体勢をとる。
兵士三人とはこの合衆国で依頼を受けた直後に知り合った。
桜花の希望で始まりの庭から合衆国へと移動し、強固なバリケードに守られた米軍の作戦司令室で今回の依頼を受けた。白を基調とした窓のない巨大な部屋、その正面の壁に埋められた巨大なスクリーン、並ぶ机とコンピュータ、入力操作する軍人。近代化した場所で文明も時代も違う自分達の姿がどう映るのか。そもそも放浪者がどういう存在なのか。それはどの世界でもあまり多くは語られない。
ただ合衆国では困ったときに現れる都合のいい救世主、傭兵、労働力とみなされている。
当然のように司令官は目の前に現れた自分達に頼みごと、作戦概要と目的を話して聞かせた。ゲーム的な都合のよさだとは思う。もう慣れてしまったが。
今回の依頼内容は巨大化した兵隊蟻、及び女王蟻の殲滅と巨大化した原因の特定だ。
依頼を受けた直後に周りの景色が指令室から崩れたオフィス街の一画へと移り変わり、状況を確かめようとした矢先に兵隊蟻の群れが自分達に押し寄せた。その窮地を颯爽と助けてくれたのが彼らだった。
「大丈夫か?」
蟻たちを撃退し互いの無事を確かめあうと、リーダー格の兵士は英語で話しかけてきた。うろたえる自分に代わりモーフィアスが答える。簡単な会話なら出来るがやはり日常的に使わないと話に加わるのに尻込みしてしまう。
モーフィアスは彼らから依頼の協力を持ちかけられたと訳してくれ、それに了承し、こうして今に至っている。
彼らと共に立てた作戦は、まず兵士三人で攻撃を仕掛け蟻達の注意をそちらに引き、後ろから自分達が斬り込む。挟み撃ちだ。その後は自分達が蟻を相手にし、彼らはそれを援護するという段取りだ。
兵士の放つ銃弾の雨は確実に蟻の亡骸を積み上げているが、圧倒的な数の猛進をとめることはできていない。蟻は続々と兵士達の籠城しているビルに集結している。
兵士の一人が銃撃をやめ、こちらに手をさっと振った。事前に決めていた合図だ。
「よし、行くぞ」
モーフィアスの言葉で自分達はビルの陰から飛び出す。表通りに出ると兵士達を目指していた蟻の何匹かがこちらに気づいて向かってきた。
「お二人とも、勝負をお忘れなく」
そういって桜花が先陣を切り蟻に突っ込む。
誰がより多く蟻を討伐できるか勝負しようと言い出したのは彼女だった。そうすることで自分の士気が上がるのだという。
「一匹!」
叫びと共に桜花が蟻に斬りかかる。
しかし己の気分を盛り上げる為に殺しの数を競うというのは野蛮すぎるのではないだろうか。
相手がただの昆虫、倒すべき敵だから彼女は平気で刀を振るうのか。
考えすぎだろうか。あの忍者、雪のようにゲームとして今の状況を割り切ってしまえばいいのか。
「なかなか勇ましい子だな」
「いいんですか? 勝負を受けて」
「まぁ、たまにはこういうのもいいだろう」
モーフィアスは腰に下げた獲物を抜き、眼前に迫る蟻に構えを取る。
彼の手の中で鈍い色を放つのは殴打武器のメイスだ。柄頭はひし形で、各頂点は鋭い突起になっていた。
「不破、危なくなったら遠慮なく言ってくれ」
「わかりました。モーフィアスもその時は言ってください」
「あぁ」
しかし彼が窮地に陥った場面など、これまで見たことがなかった。最初に襲われたときも、彼だけは冷静に盾で蟻をけん制し、メイスで容赦なく蟻の頭部を潰していたのだ。
群れの横合いから自分に猛然と接近する蟻が鋭い顎を左右に開いた。
足や胴体への攻撃はあまり効果がないことはわかっていた。目や頭部、顎に狙いを絞らなければあっというまに飛びつかれ、強靭な顎で身体を削り取られてしまう。
脇差を逆手で抜き、今まさに飛びかかろうとしていた蟻の頭めがけて垂直に振り下ろした。刃は易々と頭部を貫き、蟻が前足を振り回す。動きが鈍くなってくると、頭に足をかけて力任せに刀身を引き抜いた。蟻の体液、熱くすえた臭いのするそれが衣服に飛び散る。
蟻はまだ四肢をひくひくと動かしているが、もう襲ってくることはない。
血払いをした脇差を納め、今度は太刀を抜く。呼吸を整えてすぐさま次の蟻に対して構えをとった。
結局、自分は勝負どころではなかった。
倒しても倒しても際限なく襲ってくる蟻に刀は切れ味を失い、けん制し殴りつけるだけの道具になった。折れないだけよかったが、蟻に止めを差したのは主に脇差と兵士たちによる援護射撃だ。
距離をとり、刀でけん制し、飛びつかれても懐で刀を振り乱してなんとか引き離す。がむしゃらに戦い続け、ようやく落ち着いて周りを見渡すことができるようになったのは、視界の中で蠢く蟻の数が指で数えられるくらいになったときだった。
「大丈夫か?」
モーフィアスが近寄る。薄茶色の蟻の体液が返り血となって彼の身体を汚していたが傷は負っていないようだ。桜花も見る限り同様で、少し離れた場所で残った蟻を追い回している。
対して自分といえば、飛びつかれてその鋭利な足と顎を引っ掛けられ、身体のいたるところに裂傷を負わされていた。
「まだ平気ですよ」
強がったものの、傷口は熱くじくじくとした傷みを訴えている。
がむしゃらに戦っている間は些細な痛みも気にならない。こうして少しでも落ち着くとそれが表出する。
辺りにはすえた黴臭さが漂っていた。刀身からも強く立ち昇る蟻の体液の臭いだった。
その中で桜花が最後の一匹を倒して振り返り、無事だというように手を挙げた。
「なんとか片付きましたね」
桜花、そして兵士三人とも合流する。彼らの正確無比な援護射撃にかなり助けられた。
互いに労をねぎらう。あとは交差点に大きく抉られた穴の中へと侵攻し、女王の殲滅と巨大化の原因を探しだすだけだ。
穴はもともと空軍の爆撃によって穿たれたものだ。次々と兵隊蟻を生み出す女王への最短距離として。
そのまま女王も瓦礫に埋もれていればいいのだが、確実を期す為に強力な殺虫剤も投下されている。だが兵隊蟻があれだけ動き回っていたのだ。効果はあまり見込めない。
いずれにしても女王の死骸を確認できない限り司令部は安心できない。だから自分達がこうして現地に送られたのだ。
全員で穴の淵へと移動し、慎重に覗き込む。
真っ先に異臭が鼻ついた。周りの死骸から漂う黴臭さとは違う、生温かさを含んだ汚臭。臭いの原因は穴の両壁から流れる下水で、薄闇の底へ滝のように流れ落ちている。
「ここを降りろと?」
桜花をはじめ、全員が顔を歪めていた。
「いや、その必要はないようだ」
モーフィアスの言葉の直後、自分たちの周りが暗幕で覆われたように一瞬にして暗くなった。直ぐ近くで水の落ちる音、そして水滴が顔に降りかかる。目が慣れるにつれてどこにいるのかわかった。ひび割れた壁、足元には瓦礫と水たまり。見下ろしていた穴の底に一瞬で移動したのだ。
息を吸い込んだ途端に咳き込む。汚臭の真っ只中にいるのだ。口に手を当てて周囲を見渡した。穴の底に女王の姿はなく、兵士が示した銃身の先に人が通れる横穴がぽっかりと空いていた。
「ここに女王蟻の姿がないってことは、あの先に行けと言うことなんだろう」
「兵隊蟻もまだいるかもしれない。用心しろ」
そんな会話をして、兵士を先頭にして先に進む。
光も届かないごつごつした巣穴を兵士たちのライトが照らす。汚臭は巣穴を進むにつれて薄れていったが、篭った熱で全身に汗が噴き出した。
息苦しさに熱気。汗と蟻の体液、汚水が染み込んだ衣服。べたつく身体。すべてが最悪の状態だった。
予想に反して兵隊蟻は一匹も現れず、やがて人工的に造られた巨大な空間に辿り着いた。
並び立つ支柱、非常灯の青い光の中で兵士が声を上げる。ライトに照らし出された場所に蠢く生物がいた。
女王蟻だった。兵隊蟻よりも大きく人の背丈ほどもある。だが動きはすでに弱弱しい。千切れた足にひしゃげた羽、つぶれた片目、ひびわれた外殻から体液が垂れている。崩壊に巻き込まれたのだ。
兵士達は何の躊躇もなく銃を構え、引き金を引いた。轟く銃声と閃光の中、女王が断末魔と体液をしぶきあげて転がっていく。
罪悪感を覚えた。弱った者に対する追い打ち。その行動に。
「これで依頼は完了?」
女王が絶命したのを見届けてその場で少し待ってみたが、景色が移り変わる様子はない。
「まだ巨大化した原因が特定できていないってことだろう。女王がここに逃げ込んだということは、近くにその原因となるものがあるはずだ」
「探そう」
各々で巨大化した原因を探し始める。
女王が逃げ込んだのは何かの地下施設のようだった。広大な空間にはコンクリートの支柱がずらりと並びどこまでも続いている。
壁伝いに歩いていると車を発見した。確かジープという車種で、後ろに丸型のタンクを積んでいる。もしやと思い調べてみるとタンクの一部が歪に凹み、亀裂から液体が漏れだした跡があった。蟻達はこの薬品を浴びて巨大化し、人を襲うようになったのだろうか。
これがどういった経緯でここに存在するのか。それは合衆国での依頼をこなしていけばわかっていくはずだ。皆を呼ぶ。
それは何気ない仕草だった。皆を待つ間、タンクの表面を叩けばどんな音がするのかと、拳を作りタンクに腕を伸ばした。表面に触れた瞬間、それまで経験したことのない強烈な光が視界を白く焼いた。
「うわぁっ!」
咄嗟に叫び声をあげて目を庇うように腕を持ち上げた。痛みはない。何事かと駆け寄ってくる足音。瞼の裏に焼きついた光の残滓が引いていくのを待ち、恐る恐る目を開けた。周りに集まった人達のぼやけた輪郭が次第にはっきりとしていく。
「不破殿、どうした?」
「今、すごい光が走ったんだけど」
「光?」
「何のことだ?」
あのタンクに触れた人にしか起きない現象なのだろうか。見るとタンクはその場から消失していた。
そしてなぜか目の前にメニューが出現していた。右手の五芒星に触れたわけでもないのに。腕を上げた時に触れてしまったのか。
表示されている画面は所持品の項目。さらに不可解なことに、そこには見慣れない文字が並んでいた。
いや、文字と言うより記号。人や雲、太陽とおぼしきいろいろな形がある。まだ視力が元の調子に戻っていないのかとも思ったが、記号の羅列の下には別のアイテムの名前がしっかりと日本語で表示されている。試しにメニューを開き直してみるが、その記号の羅列には何の変化もなかった。
そうしている間に周りの景色が依頼を受けた場所である司令室へと移り変わった。あのタンクが巨大化した原因だというのはこれで明白だ。自分が触れたことで依頼の条件が満たされたことになるのだろう。
依頼は無事に完了し、始まりの庭で兵士達と互いの健闘を讃えて別れてから二人に先程の現象と記号を見せた。
「象形文字っぽいな」
モーフィアスと桜花がまじまじと文字らしきものを見つめる。
「これは」
「桜花、何か知っているのか?」
記号を凝視していた桜花が顔を上げる。
「御二方は、この〈赤の雫〉にまつわる噂についてご存知ないのか?」
「噂?」
じわりと胸に嫌な気持ちが滲んだ。
「そう。手にした者は現実世界で行方不明になってしまうというアイテムの噂」
桜花の口から淀みなく発せられた言葉。頭で理解するとじわじわと不安が身体に浸透していくのがわかった。
「そういえば不破もその噂について知っていたな」
「え、えぇ」
上手く返事ができなかった。
「これがそのアイテムだと?」
「私はそう聞き及んでいる」
色々と試みたが、何をしてもこの記号を消すことはできなかった。
「駄目だ。こっちの操作を受けつけない」
「ふむ」
いよいよ確信を得たと桜花が納得する。
「桜花、じゃあさっき触れたタンクがそのアイテムだったの?」
「詳しくはわからぬ。だがそのアイテムを入手すると不破殿のメニューにあるような記号が現れるらしい」
「ちょっと待て」
モーフィアスが会話を止めた。
「いくら特殊な現象だからってそんな噂と結びつけるのはおかしいだろう。ここは仮想世界だ。あらかじめ設定された条件を満たしたから不破にその記号が現れただけであって、何かのイベントの鍵とかそういった類のものに決まっている」
モーフィアスの言うことは至極当然だった。しかし桜花は首を振る。
「それがどうも違うようなのです。〈赤の雫〉はオーヴァによって公開された最初の仮想世界。随分昔に作られた仮想世界です。攻略や考察のサイトはいくつも作られていますが、その中に記号のことは一切出てこない。確認されたのはつい最近のことです」
桜花の口調が変わっていたが、それを指摘できる雰囲気ではなかった。
そもそもなぜ彼女はこんなに詳しいのだろうか。
「イベントを後から追加するなんてどの仮想世界でもやっているだろう」
「ですが有志が調べた限りでは、この記号を鍵としたイベントはまだ見つかっていません」
「有志?」
「この現象に関心を持つプレイヤー達です。今も人数を増やして調べています」
「最近他のプレイヤーを見かけると思ったらそういうことか。桜花もその一人というわけだ」
「今、〈赤の雫〉にいるプレイヤーの大半がそうだと思います。でなければこんな古い仮想世界には来ませんよ」
寂しさを覚えた。自分はこの世界に惹かれている。だが桜花はこの世界に惹かれたわけではないのだ。
「そもそも管理側に問い合わせれば解決する話だろう」
「オーヴァは何も答えてくれません。〈赤の雫〉に関してこれまでずっと沈黙を守っているそうです。考えられないことですが」
ソフトウェアと同じように仮想世界も追加や修正があれば制作会社はユーザーに告知するのが一般的だ。
この記号が新たなイベントの鍵だとしたら、なぜオーヴァは告知をしないのか。
「それに私達の中にもアイテムを入手した人がいて、その人とは連絡が取れなくなっているんです」
そこでモーフィアスは呆れた顔をした。
「そいつらがでっち上げているだけじゃないのか? 手の込んだ演出をしてデマを作り上げるような奴らはどこでもいる」
「じゃあ不破が行方不明になってから信じるんですか?」
「仮にその噂が本当だとしたら、不破はもうどうしようもないんじゃないか?」
「回避する方法はあります」
桜花と目が合う。
「現実世界で決して口外しないことです。メールやネットワーク、日常会話も危ないかもしれない。そこから情報を察知されてしまう恐れがあるから」
モーフィアスが小さく嘲笑を零した。
「ナノマシンで監視されているというのか?」
「えぇ」
「それはなんだ。オーヴァの陰謀説か?」
「現にそれが原因で連絡が取れなくなっているのです」
「わかった。桜花が何を信じようと自由だ。けど人の不安を煽るような真似はあまり感心しない」
モーフィアスはもう噂について話す気はないようだった。
当然だ。ひとかけらも信じていないだろう。あまりにも馬鹿馬鹿しい。
同時に桜花に対しての嘲りが透けて見えた。
「どうしても信じてくれないのですね」
「桜花は何故信じていられる?」
桜花は口を噤み、じっとモーフィアスを見る。
沈黙が流れた。
自分にはどちらが正しいのかわからない。
「ん?」
モーフィアスが何かに気づいて自分の背後に視線を移した。その先には先日うたの紹介で知り合った忍者の迷い猫がまっすぐこちらに向かってきていた。
「不破、うたと連絡取れる?」
開口一番にそう切り出され、かけようとした挨拶を飲み込む。こちらに有無を言わさぬその声音に面食らった。
「いや、こっちも彼女にメールを送っているけど返ってこないんだ。あのエルフの森に行った後から。ひょっとして猫も?」
答えを聞くと猫は顎に手を沿えて考え込む。無言が何よりの肯定だった。
「彼女のことを知っている人、他にいる?」
猫は思案をやめて口を開く。
「どうして?」
「彼女から連絡がないか、会って直接聞くのよ」
いくら連絡が取れないからといっても、うたの知人を探し出してまで連絡の有無を聞くなんてあまりに無茶苦茶だ。目の前の猫がそんなことを口にするような人物だとは思っていなかった。
「なんでそんなことを?」
「彼女のことが心配じゃないの? あれからもう二日よ。その間ずっと連絡が取れないのよ!」
突然の剣幕にたじろぐ。たかが二日だとはとても言えない。
「少し落ち着けよ」
モーフィアスが自分と猫の間に割ってはいった。
「誰、貴方?」
猫が睨みつける。モーフィアスも猫のほうを向き、二人の視線が静かにぶつかった。
「この世界じゃモーフィアスと名乗ってる。俺もうたのことは知っている。今連絡がとれないこともな。それで、君は彼女とどういう間柄なんだ?」
「親友よ」
即答する猫。
「現実の彼女を知っているのか?」
猫は何か言いかけたが、口をつぐんだ。
「やっぱり。それで、その親友は少し連絡がないからってこんな強引な手段で無理やり連絡を取ろうとしているわけだ。相手の都合も考えずに」
猫は答えない。モーフィアスは言葉を続ける。
「一方的過ぎると思わないのか? 結局君も彼女とはこの世界だけの関係でしかないんだろう。現実の彼女のことを知らない。そんな人間がどんなに相手を心配したところで、できることは限られている」
自分の時とは違い、厳しい口調で続ける。猫はじっとその言葉に耐えていた。目つきがみるみる険しくなる。
「ましてや君が今言ったような手段で連絡がとれたとしても、それを彼女がどう思う? 気味悪がられるだけだ。はっきりいって今の君の行動は、自分を貶め、彼女や周りの人に迷惑をかけているだけだ」
「うたがどうなっているかも知らないくせに、勝手なことを言わないで」
「何?」
猫がさっと顔を逸らした。彼女の口から漏れたその一言を聞かずにはいられない。
「猫、何か知っているの?」
ゆっくりと猫は自分にだけ顔を向けた。
「不破は知っているでしょ。あの日、うたの様子が途中からおかしくなったこと」
二日前のエルフの森でのことを言っているのか。確かにあの日、うたの様子はいつもと少し違った。それは猫があの噂について話してからだ。最後はどこか慌てたように現実に戻っていく姿に、噂について何か心当たりがあったのではと考えたこともあった。
「あの後、うたからメールが来たの。噂について詳しく教えてほしいって」
「うたが? それでなんて答えたの?」
「私だってたまたま目にしただけだから詳しくは知らない。だからコミュニティサイトを見れば詳しくわかるかもしれない、とだけ教えたわ。それから連絡が来なくなったのよ」
やはりうたは噂についてなにか関わりがあったのだろうか。
「教えてくれないならもういい」
それだけ告げると猫は背を向け、引き止めるまもなく立ち去った。
あまりにあっさりしていた。疑問だったが、すぐにある考えが浮かぶ。ひょっとすると彼女は、自分にそれだけを告げに来たのではないのか。あの時一緒に行動していた自分だけは同じ不安を共有し、心配してくれるのではと期待して。
「不破、彼女はなんと言う名前だ?」
猫は二人に名乗ることもなく立ち去ってしまった。
「彼女が迷い猫です。うたの紹介で先日知り合った」
「彼女もうたがその被害にあっていると思っているのか?」
「うたと連絡が取れなくなる前に、彼女から噂について詳しく教えてほしいと言われたそうです。何か心当たりがあったのかもしれません」
「心当たりね。しかしそれだけでよくこんな噂を信じられるな」
「猫も信じてはいないと思います。ただそういうことがあったから不安になっているだけで」
気が付けば彼女のことを弁解していた。
「そのうたという人もアイテムを?」
桜花が尋ねる。
「いや、持っていたかどうかはわからない」
「けど連絡は取れないのね?」
またかとため息をつくモーフィアス。彼を睨む桜花。
「身近に被害が出ているのに信じないのですか?」
「普通に考えれば、単に連絡が取れないだけだろう。相手の都合でな」
そっけなく言い放つモーフィアス。
「もうこの話は終わりだ。じゃあな不破」
「えっ?」
モーフィアスはメニューを展開して現実世界へ戻ろうとしていた。
「そいつらの言う通りなら、持っていることを喋らなければ助かるらしいぞ」
それだけ言ってモーフィアスの身体が光となって四散する。
「不破」
桜花が真剣な眼差しでこちらを見ていた。
「さっきの記号、もう一度見せて」
メニューを操作して再び桜花に見せる。目に焼き付けるようにじっと視線を注ぐ横顔を見つめた。
「もういいわ。それとさっきも言ったけど、このことは決して口外しないで。話があれば仮想世界の中で聞くから」
「仮想世界の中は安全なのか?」
「今のところは」
「どうしてだ? それにオーヴァがこの世界を作ったのなら、記号が現れたプレイヤーを特定することなんて容易じゃないのか?」
「まだわからないことが多いの。でも危険だということは信じて」
桜花も手早くメニューを展開し、現実世界へと戻ろうとする。
「待ってくれ。行方不明事件には本当にオーヴァが関わっているのか?」
桜花は少し躊躇い、そして小さく顎を引いた。