6
大和の国で依頼を受け、一人、雨の降りしきる平野を歩く。
雨水でぬかるむ大地にはすでにいくつもの死体が横たわっていた。
弓矢で射止められたものが多く、どの死体にも矢が刺さっている。他には刀や槍、鎌、鍬などが見るもおぞましい角度から身体を貫いているもの、人間だけでなく馬の死骸もあり、すぐ近くには首のない死体が転がっていた。名のある武将なのだろうか。泥水に塗れた大鎧は他の死体とは明らかに造りが異なっている。
ここは戦場の跡。大和では国内の領土をめぐる戦が続き、多くの命が失われていた。
戦場で殺し合うのは兵士として狩りだされた農民たちだ。その大半がこうして屍を晒しているのに対し、勝鬨を上げた領主は奪い取った土地からさらに食料や兵士を徴収して次の戦いに備えているという。
今日受けた依頼はその戦場で散った者たちの亡骸に宿り、人を襲うといわれる憑き玉の殲滅だ。
身体を叩く雨は一向に止む気配がない。曇天の空はどこまでも続き、針葉樹に囲まれただだっ広いだけの平地は昼間でも薄暗かった。身体にぴったりと張り付く衣服は吸い込んだ雨の冷気を全身に伝え、身を震わせる。こうして衣服を着たまま全身を濡らすことなど現実世界でも滅多にないので、改めてその不自由さを思い知った。
雨水が顔を伝い口の中に入る。無味のそれを嚥下した。これがたとえ泥水だったとしても大した問題ではない。
仮想世界での体験は夢を見ることとそれほど変わらないのではないか。夢から覚めれば、現実へ戻ればそれは自分の頭の中だけのことでしかなくなる。不意にそんな考えが頭に浮かんだ。
馬、そして兵士の死体を避けて歩き続け、そして立ち止まる。
前方に兵士の姿があった。泥まみれの胴丸を纏い、手には刀をぶら下げているが、頭と体に突き刺さった数本の矢は紛れもなく彼の命を絶っている。それでもふらつく足取りで歩けているのは、彼がすでに憑かれているという何よりの証明だった。
刀の柄に手をかけると向こうの動きが止まった。こちらに気づいたようだがまだ二人の間には距離がある。
背後の雨音に変化が生じた。地面ではなく、途中で何かに当って弾ける音へと。それにカチカチと金属の触れ合う音が混じる。
振り返りざま、背後に立つ兵士の姿を捉えると、右肩から突進を食らわせる。今まさに刀を掲げ自分に斬りかかろうとしていたその兵士はあっけなく後ろに倒れた。四肢を緩慢に動かし起き上がろうとするが、その前に抜刀した刀を首めがけて突きだした。刀身は首を貫き、がちっと大地に兵士を縫いとめる。それでも兵士は四肢を動かして身体を起こそうとするが、無理だと諦めたのか全く動かなくなった。
刀を抜き兵士から離れるとその身体から白い靄が立ち昇る。宙でとどまり炎のように揺らめくそれを刀の切っ先で払うとさっと霧散した。
どうやら今の靄が憑き玉の正体らしい。それ自体は非常に弱い存在のようだ。
動かなくなった兵士に背を向けた。命を失ってなお身体を弄ばれた哀れな屍に慈悲を向けている暇はなく、正面に佇む兵士に対し正眼に構えをとった。
いくつもの湿った足音がこちらに向かってきている。憑かれた者達の足音だ。もうかなりの数を相手にしていたが、襲い掛かる刃は一向に途切れない。息が上がり、疲労が刃を鈍らせる。
彼らの挙動は遅く、剣もただ闇雲に振るわれるだけだが、視界の悪さと常に多対一という状況が確実に自分を追い詰めていた。幾度かその刃を受け、裂けた衣服から血が滲んでいる。幸いにも致命傷は負っていないが、少しでも気を抜くと傷口は痛みを訴えてきた。
前方に二つの屍が立ちふさがった。二体とも力なく引きずった槍を胸前で構える。奥歯をぐっと噛み、気を引き締めた。
背後からも水溜りを跳ねる足音が聞こえてくる。音の間隔は短く、何かがこちらに走ってきているようだ。すぐさま振り返り、飛沫を上げて突進してくる影に向き直った。
「さがれっ!」
影の叫びが雨の中でもしっかりと耳に届いた。たじろぐ自分の脇を影はすり抜け、前方の槍兵二体に向かって速度を落とさず突っ込んでいく。二本の槍が影に向かって一直線に衝かれる。けれどその切っ先は影を捉えることなく、空しく交差した。
直後に兵士達の体制が崩れ、そのまま地面に倒れこんだ。彼らに突進した影がすっくと立ち上がる。 長髪を後ろで束ねた侍だ。彼は身を低くして槍を掻い潜り、二体それぞれの足に狙いを絞って攻撃したのだ。
憑き玉は宿った肉体が満足に動かせないとわかると姿を現す。彼もそれを心得ているのだ。
倒れた兵士二人は僅かに身体を動かしたが、やはり起き上がれないとわかると動きを止めた。身体から立ち昇る憑き玉を侍は刀でさっと払い、こちらに顔を向けた。
「無事か?」
整った顔立ちの侍だった。素浪人同然のみすぼらしい格好の自分とは違い、籠手と藍色の胴丸を纏っている。
「あぁ、なんとか」
雨音に消されないよう、声を張った。
「うむ。まだくるぞ、気をつけよ」
時代かかった言い回しに似合わない女性の声音。違和感の正体に気づいたときには疑問が口から出ていた。
「女?」
雨の中でもちゃんと聞こえたのか、侍は微かな笑みを浮かべた。
「剣に生きると決めたときから、女は捨てた」
絶句する自分に女剣士は構わず言葉を続ける。
「桜花。それが私の名だ」
「えっ、あ」
「先に行く」
こちらの返答を待たず、女剣士は気合をあげて新たに現れた屍へ突進していく。
自らの望む人物像を作り上げ、その人物になりきって世界を楽しむ人もいる。彼女はその役に徹しているのだろう。むしろそれが仮想世界を楽しむうえで一番なのかもしれないが、同時に危険な行為でもあった。
痛覚などの感覚が制限されている仮想世界なら問題ないが、〈赤の雫〉のような無秩序な仮想世界では意識の深さ、一体化に注意しなければならない。
時間や依存、そして認識。これらが一体化を促進させる要因だ。
仮想世界の中で身体に傷を負っても現実世界の肉体は傷つかない。だが人の意識、精神は肉体とは違い容易に影響を受ける。そして精神は肉体へと作用する。
一体化が進むと仮想から現実に戻った際、身体に痛みが残る、極端に疲労するなどの症状が医療機関に報告されている。それが原因で死亡するような例は起きていないが、その万が一を出さないために仮想世界の滞在時間が取り決められたのだ。しかし守る、守らないは本人の自由。
あらかじめ決められた時間になれば強制的に現実世界へ引き戻すなど安全策を設定している仮想世界もある。仮想世界だとわかるようにわざと現実感を持たせないようにして作られている世界も。
だがこの〈赤の雫〉では肉体の感覚、目にする世界も現実と遜色なく、そして容赦ない。その危険の高さと同じく症状の報告件数も他の仮想世界と比べて多く、危険な仮想世界の代表として度々名前が挙げられている。
役になりきるということは、この世界を現実世界として受け取ることにもなる。痛みの感覚もすべて。仮想世界を仮想世界として認識することとは真逆の危険な行為にあたるのだ。
彼女はもうだいぶ先にいる。戦いにも慣れているようで、群がる兵士を次々と倒していく。
だが戦うなら一人よりも二人のほうがいいはずだ。それに先に行くと言われた以上、ほうっておくのも気が咎める。
柄を握り直し、彼女を狙う兵士に向かって駆け出した。
二人して息を整える。彼女と共闘したおかげでどうにか兵士達を片づけることができた。一人であれば数の多さで間違いなくやられていただろう。
いつの間にか雨脚も遠のき、小雨になっていた。
「かたじけない」
桜花と名乗った剣士はこちらを向いて礼を言った。
「いや、こっちも一人だとやられてたよ」
桜花はこちらをじっと見つめ、何かを待っている様子だ。そこで自分がまだ名乗っていないことに気が付いた。
「俺は不破光春」
「良い名だな。よろしく不破殿」
これほどまで役に徹している人とは接触がなかっただけに、どう話をすればいいのか内心戸惑っていた。
「不破殿」
さっと険しい表情を横に向ける桜花。その視線の先には一人の兵士がいた。憑かれた者だというのは顔から生えた矢がなにより証明していたが、これまでの相手とは違い、こちらの姿を認めるとしっかりと足を踏みしめ、打刀と脇差の二刀を構える。
「私が相手をしよう」
兵士へと進みでる桜花。
「今までの奴とは違う気がする。二人で戦ったほうが」
纏った大鎧と兜、二刀、そして動きの機敏さはこれまで相手にしてきた兵士とは明らかに違う。
提案に桜花は首を振った。
「たとえ死霊に体を奪われても、相手は誇り高き武士。その真剣勝を二人がかりというのは許されない」
彼女なりの信念があるのだろう。閉口しているうちに桜花は兵士に刀を向ける。
対峙する二人から距離をとった。
「いざっ!」
果敢に勝負を挑んむ桜花。相手の二刀が胸前で交差し十字の構えをとると、自分から攻めようとはせず慎重に相手の出方を窺う。
相手の動きは生者のそれと変わらない。その隙のなさに、自分では敵わないという思いが頭をよぎる。
〈赤の雫〉では自分の姿に応じて、まず身体の動かし方や戦い方を学ぶ。自分も侍として剣術道場で刀の扱いの基本は教わったが、後は我流。今ではもう基本も見る影なく、ただ無様に剣を振るっているにすぎない。相手が剣術を使うのであれば間違いなく負けてしまうだろう。この勝負は桜花が勝ってくれるのを祈るしかない。
じりじりと間合いを詰める桜花。十字が解かれ、兵士の右手に握られた太刀が上段に構えられる。
桜花が動いた。瞬きするまもなく兵士に接近し、直後に刃の激突による鈍い金属音が連続する。即座に桜花が後ろに飛び退いた。
一瞬の攻防。桜花の打ち込みを脇差で受けた兵士は太刀を振り下ろし、桜花は後ろに飛んでそれを避けた。
二人はまた睨み合う。大鎧を纏って長時間動くことは難しいが、死霊が疲れを感じるとは思えない。長引けば不利なのは桜花だ。
今度は兵士が先に動いた。桜花にも劣らない速さで接近する。虚を突かれた桜花の刃を脇差で制し、太刀の切っ先が彼女の首を貫いた。
桜花はそのまま制された刀を力任せに振り上げた。兵士が後ろに退く。
桜花は無事だった。自分の位置からは貫かれたように見えたが、身をよじって避けたのだろう。
兵士が体制を整える前に桜花が攻めた。素早く連続した打ち込み。幾度か金属音が響き、そして二人の動きが止まる。桜花の刀が兵士の鎖骨あたりにしっかりと食い込んでいた。
それだけでは仕留めきれず、次の瞬間、桜花は兵士の反撃にあう。脇差で右の二の腕を貫かれる。それが見間違いでないことは桜花のくぐもった絶叫が教えてくれた。
刀から手を離し、貫かれた二の腕を庇うようにして桜花が兵士から距離をとる。彼女の刀は兵士に食い込んだままだ。それを引き抜こうともせず、兵士はそのまま桜花に近づく。
もう見ていられなかった。このままでは彼女はやられる。脇差を抜き、兵士に向けて放つ。見当違いの方向へ飛んでいくが注意は逸らせた。兵士は歩みを止め、こちらに顔を向ける。
早足に接近する。次の相手は自分だと。
兵士は桜花に背を向け、太刀を上段に、脇差を中段に構える。その過程で桜花の刀が外れて地に落ちた。
正面から対峙する。桜花は相手と斬り結んだが、自分には無理だ。脇差で受けられるだろう。
兵士の背後で桜花が無事な左手で脇差を抜いた。こちらを見て頷く。二人掛かりならば勝算はある。
兵士は桜花に気づいていない。彼女に止めを期待する。危険を小さくするために、自分が注意を惹きつけなければ。
受けられるのを覚悟して打ち込んだ。案の定、難なく脇差で刃を止められるが、構わず打ち込む。手数を多く。それだけ注意はこちらに向く。
兵士の太刀が振り下ろされる前に、その首から刃が突き出た。打ち込みをやめる。背後から桜花が接近し、脇差で首を刺し貫いていた。兵士は何が起きたのかわかっていないよう。桜花の呻きと共にぐいと身体が僅かに持ち上がる。両手がだらんと垂れ下がり、その手から刀が落ちた。もう彼を支えているのは桜花の刀のみだ。桜花が刀を引き抜くと崩れ落ちる。一筋の白い煙が屍から立ち昇り、桜花がそれを払うともう終わりだった。
地面に膝をつく桜花。
「大丈夫か?」
彼女の息は荒く、右腕は大量に出血して衣服を赤に染め上げている。
「これではもう戦えぬな」
言って呻く。苦悶の表情。
もう雨は止んでいた。雲間から光が差し込む。青空と暖かな日差しが自分達に降り注いだ。そのまま光が強くなる。目を開けていられない。目を閉じていても瞼の裏は白く、光の強さがわかる。すると温かい風が身体を通り抜けた。その瞬間に身体の感覚、感触が変わった。
「不破殿」
目の裏の白さが徐々に収まってくる。呼びかけられ、目を開けるともうそこは戦場ではなかった。
左右に青々とした樹木が並び、鳥の囀りがする街道だった。
身体は濡れていたのが嘘のように乾き、傷や裂けた衣服、投げた脇差も元通りになっていた。桜花も同じで、負傷した右腕の具合を確かめ、すっかり動かせることをこちらに笑顔で見せつけた。
「どうやら戻れたようですな。無事のようで安心した」
そう言って木の陰から男が出てきた。編み笠で顔を隠した身なりのいい侍。領主の伝令役だ。この男から憑き玉殲滅の依頼を受けたのだ。彼にすべてが終わったと告げると桜花と二人で始まりの庭へと戻された。
桜花に助太刀したことを詫びた。文句を言われるかもしれないと覚悟していたが、桜花は逆に頭を下げた。
「いや、こちらこそすまぬ。忠告を聞いて初めから二人で挑んでおれば、不破殿を心配させることはなかった」
顔を上げそのまま言葉を続ける。
「しかしおかげで助かった。よければその、私と戦友の契りを交わしてはもらえないか?」
桜花の言う戦友の契りとは、いうなれば友達登録だ。契りを交した相手とは現実世界でメール連絡が取れるようになり、メニューの戦友の項目から相手がこの世界にいるのか、場所はどこかなどがわかるようになる。
少し迷った。いくら窮地を救ったとはいえまだそれほど相手を知ったわけではない。
「失礼した。依頼が終わって少し舞い上がってしまった」
迷いを感じとったのか桜花は自らを戒めるようにつぶやく。
ここで別れてしまえば相手と再び巡り合うことは難しいだろう。〈赤の雫〉では依頼の中でしか人と知り合う機会がない。うたとモーフィアスの二人とも、そうして知り合ったのだ。
「いいよ」
自分の言葉にほっとした様子の桜花。悪い人間ではないだろうという直感が決め手だった。
五芒星が刻まれた右手の甲を互いに重ね合わせる。模様が一瞬だけ虹色に光り、これでお互いに戦友として契られた。
「ありがとう、不破殿」
「基本的に夕方はこっちにいるから」
自分の戦友はこれで三人目だ。モーフィスアとうたと、そして桜花。
五芒星に触れてメニューを展開し、戦友の項目を見る。早速桜花の名前が白く記されていた。
依頼を受ける前にも確認したが、うたの名前の色は灰色のままだ。今、こちらの世界に彼女はいない。
「不破殿、これからいかがする?」
桜花に問われ、視線を上げた。
「そうだな、滞在時間もそろそろ危ないから、今日はこれで終わりにするよ」
「そうか、わかった。それではまた」
桜花の見ている前でメニューを操作し、現実世界へと帰還する。
新たな知人ができたが、あまり喜べなかった。どうしてもうたのことが気にかかってしまう。彼女が私生活で忙しいのなら、〈赤の雫〉にいないのも当然なのに。
結局この日、いくら待っていても彼女から連絡がくることはなかった。




