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モノレールの窓の外を流れる商業区の街並みは昨日と何も変わらない。
いくつもの高層ビルが壁のように立ち並び、その壁面にはニュースや広告、そしてモーニングを提供する喫茶店のホログラム看板がいくつか張り付いている。
朝なのでその数も少ないが、もう少し時間が経つとさながら色の洪水のように様々なホログラムが壁面を埋め尽くし、商業区の街並みを一斉に彩りはじめるのだ。
商業区ではこうした立体映像やARが広告や看板などの表示物に使われている。劣化による落下事故の心配もないし、なにより設計したものが瞬時に出力されるので製造や設置、管理、撤去といった工数削減にも大いに効果があるらしい。
居住区のバゾルもそうだが、徹底した効率化と事故、災害からのリスク排除がこの防御型都市の至る所に施されている。おかげで防御型都市における自然災害、事故の被害は抑えられ、台風や地震、雪害に毎年悩まされる日本でその恩恵は計り知れない。
しかし防御型都市の安全な暮らしは代償も伴った。それは都市の文化、街並み、歴史といったものの消失だ。
防御型都市に再建される前の東京の姿を資料で見たことがある。人口制限の始まる前、溢れかえる人波、車、建築物。今と比べると狭苦しい。
わざわざその喧騒をホログラムやARで再現している所もある。けれどホログラムはあくまで映像。いくら表現技術が向上してどんな街並みを演出することができても、それは表面を繕うかりそめの衣装、テクスチャーでしかない。設定値を変更すればまたすぐに別の表示物へと切り替わる。
データに変換され、消えていく物質の文化、歴史。
けれどこうした消失は必然らしい。より良い生活、暮らしを追い求めるのならば、変化と消失はあって然るべき。安全、効率的なものが必要とされれば、危険で非効率なものは淘汰される。
ただ、今の防御型都市という変化を促し主導したのがオーヴァというだけ。そしてそれに抗い、歴史と文化を守ろうとする地域、国がアテネと呼ばれているのだ。
モノレールは商業区のビルの間をゆっくりと通り過ぎていく。
商業区から見上げる空は狭く窮屈だった。居住区と違い背の高い建造物が多く密集し、人で溢れかえる場所だからそう感じるのだろう。ここは単に買い物や食事などのサービスを受けるだけの場所ではなく、それを提供する職場としての役割も大きい。
今モノレールが通過しているのが表通りだ。一つ一つのビルの中には様々な業種の店が軒を連ね、休日は賑やかさが絶えない。そしてその裏手にアトリエ区画と呼ばれるオフィス街がある。
多種多様、創意工夫に富んだ商品とサービスが市場には溢れ返っている。利便性に富んだものから、中にはどの層の需要を満たしているのかわからないものまで。何より型にはまった大量生産品は疎遠され、唯一無二のハンドメイドやオーダーメイドを人は求めていた。
その生産を担っているのがアトリエ区画だ。工房兼オフィスとしての空間は企業、そして個人単位でも比較的安価に借りることができ、さらに業種に応じた生産機材も借りることができる。ここで日夜商品とサービスの企画、開発が行われ、表通りや仮想商店街で販売提供されるのだ。
個人でも容易となった商品の開発、生産、販売。それは今の社会が生み出した産業の一つの形だった。
都市で暮す人々、とりわけ十代二十代の多くは仮想世界に依存している。それも現実からかけ離れた仮想世界に。それはお伽話のような幻想的な世界から、暴力が交差する野蛮な世界まで。これまでに映画や小説、漫画、アニメ、ゲームなどで表現されてきた世界だ。
これらの仮想世界は大きく二つに分けられる。商業的に利用され、なにより安全が第一な〈秩序ある仮想世界〉と、暴力や違法行為に溢れる〈無秩序な仮想世界〉に。
秩序ある仮想として代表的なのは仮想商店街だ。敷地や建物、内装など物理的な束縛から解放されることにより、どんな外観、構造の店舗を作ることが可能となった。飲食も可能であることから、幻想的なデートスポットや現実では実現不可な構造の娯楽施設なども作られている。
宇宙を走る列車に乗って惑星間ショッピングなんて仮想世界ならではだろう。
仮想世界の中なので実際の商品が盗まれることはないし、強盗の心配もないことも大きな利点だ。ただ商品を購入しても現実で手元に届くまで時間がかかるし、仮想の中で食事をしても現実で空腹は満たされないことが欠点ではあるが。
こうした仮想商店は身分証明がしっかりと整備されていなければならない。そして何より利用者の安全が第一であり、痛みなどを感じないよう肉体の感覚が制限されているところも多い。それでも秩序を乱す者が出てくるが、大抵は出入り禁止など処罰が設けられているので治安は守られている。
肉体感覚の制約や規律からこれらは秩序ある仮想世界と呼ばれている。
無秩序な仮想として名前が挙げられるのは〈赤の雫〉のような暴力行為が容認されている仮想世界、そして暗黒街と名をつけられた仮想都市だ。
暴力が容認されている仮想世界とは、たとえば剣と魔法の冒険世界、銃や兵器による戦争世界など多くがゲームとして認知されている世界だ。敵を倒す手段として力は必要だが、プレイヤーの意志ひとつでそれは暴力に変わる。それに〈赤の雫〉のような現実と遜色のない世界で体験する殺人の感触や身体の痛みはプレイヤーに与える影響も甚大だ。
仮想の中での暴力、殺人行為も現実世界では時に罪として罰せられる。相手が精神的苦痛を訴えれば。
けれど加害者が訴えられることは滅多にない。責任を取らされるのはその世界を作った側だ。
だからゲームのような仮想世界、戦争世界でも表現が柔らかいものが多い。
銃弾が身体を貫通し、死への苦痛を体験するような世界はあまりないのだ。
それは一部の者達のみに公開されるようなもの。大衆向けに公開されている仮想世界のリストには載らないもの。
そして仮想都市だが、これらは最初、仮想商店街と同じ目的で作られた。各国の首都や観光都市の赴きある街並みが再現され、それぞれの文化、歴史に触れられる場として。
防御型都市へと再建するにあたり、消失する都市の面影を残す役割もあった。
しかしいつしか利用者の縄張り争いや商品の略奪、麻薬、映画や音楽などの複製、著名人の人物再現、違法風俗などが溢れ、犯罪の温床と化した。
現実世界で厳しく取り締まられている犯罪行為が、仮想都市では自由に行われるようになっていた。
だがこうした無秩序の中で培われるものもあるという。表現の自由や、現実世界では決して満たされない欲望の解消。現実世界で麻薬が消えつつあるのも、仮想の中で体験できるからだ。しかしいくら仮想の中とはいえ一体化が進めば現実世界でも立派な中毒患者になる。依存という点で。
警察機関も取り締まりに動いているが、こうした悪徳都市はクリエイター(仮想設計士)によってとめどなくスプロール化が進行し、その闇は消えてはまた生まれてくるのが現状だ。
暴力や違法行為に溢れている為に無秩序な仮想世界と呼ばれている。
秩序と無秩序。多感な若者はどちらの仮想世界にも興味を持ち、そして仮想主義者、現実の肉体を蔑む人種を作り出す。
もっとも、自分の望む肉体や容姿が手に入りあらゆる欲求が満たされる仮想世界はどんな人間をも魅了する。ずっと仮想の中にいられれば、という考えに至る者もでてくる。
仮想世界依存症。仮想至上主義。
しかし現実世界で食事や排せつ、運動をしなければ肉体は衰え、死ぬ。意識もそれに続く。
重病患者や寝たきり用の医療ポッド、また人を雇えば仮想世界にいる間の身体の世話を任せることもできるが、仮想世界を提供するオーヴァ、そして国がそれらを禁じていた。
理由は明白だ。現実の生活をないがしろにすることは許されない。人が生きていくのは現実世界であり、仮想世界ではないのだ。
にもかかわらず仮想世界に依存し肉体を顧みなかった結果、死亡するような事件が起きているのは、影でその手のビジネスが行われているからだ。医療ポッドを改造した仮想世界用のポッドが密かに流通し、仮想世界専用の会員制クラブの存在も確認されている。それもナノマシンの利用を認めていないアテネで。
オーヴァとアテネの隔たりは大分解消されたがまだ一部では強く残っていて、オーヴァの介入を一切許さないアテネもある。それを利用しての裏ビジネスだと報道されていた。
こうして常に一定の数を保つ仮想主義者、仮想世界依存症の患者だが、彼らの目を覚まさせるのに有効な手段は社会的な経験をさせることだという。仮想の中で自分の居場所を作るのではなく、現実世界で自分を必要としてくれる場所を作ること。そうすればこうした仮想世界から離れ、また分別を持って付き合っていく。
だから人とのコミュニケーションやどんな業種の仕事にも就けるような社会づくりがなされている。学校では他人との時間を、仕事では自分のやりたいことをやれる職場を。アトリエ区画もその一環らしかった。
モノレールは商業区に点在するステーションで何度か停車する。そのたびに懐にあるメタトロンを取り出しメールが届いていないか確認した。
このところ毎朝欠かさずに届いていたうたからのメールが今朝はまだない。確かに彼女とはいつも〈赤の雫〉で一緒というわけではなかったが、そんな日でも今日は遊べないと断りの連絡だけは届いていたのだ。それすらないのは何故だろうか。
昨日の別れ際、いつもと様子が違っていたことと何か関係があるのか。それは丁度、猫があの噂を口にした後からだ。
〈赤の雫〉で行方不明になるという噂。
うたは噂についてなにか心当たりがあったのか。もしかしたら彼女自身がそのアイテムなるものを持っていたのかもしれない。しかしそれならあの場で言うはず。
そこまで考えて自分に呆れた。噂が真実だという前提でいる。そんなはずはないのに。
きっとなにかしらメールできない理由ができたのだ。忙しくてとか、ただ忘れているだけとか。急に連絡がこなくなったからといって神経質になるのもよくないだろう。自分と彼女はあくまで〈赤の雫〉の中だけの関係なのだから。
そう結論づけも気持ちはなかなか落ち着かなかった。メタトロンを手の中で弄ぶ。つかの間の逡巡の後、思い切ってこちらからうたへメールを送ってみようと決心する。
今日はどうするのか。それを聞くだけ。余計な詮索はしない。
メールの作成画面を開き手早く文面を打ち込む。読み返しているところで車内アナウンスが流れ、モノレールは速度を落として見知ったホームに滑り込んだ。慌てて送信し、画面を閉じて下車した。
いつものように動く床に乗って学校まで移動する。
駅構内から直通の学校は三階建てで、改札兼入口を抜けると吹き抜けとなった一階ホールに出る。白を基調とした清潔な空間で、上階の教室前通路の手すりにもたれかかり談笑する生徒の姿が見えた。
各教室はホールの外側位置に設けられている。階段で二階に上がり指定されている第三訓練室へと向かった。
教室に入ると端末が備えつけられた机が並び、席の左右はパーティションで区切られている。隣の人との接触を拒絶するような造りだ。そのせいなのか、教室にいる生徒は誰も言葉を発せず、自分の席に着いて思い思いの時間を過ごしている。
「おはよう」
席に着くと男性が教室に入ってきた。二十代前半で若々しい男性。教師の二見だ。
「それじゃあいつも通り、仮想訓練を希望する者、進路相談をしたい者はこっちに言うこと。後は自由だ」
二見がそれだけ言うと生徒はそれぞれの行動に移る。そのまま端末に向かう者、二見の前に並び仮想訓練や進路相談の希望を告げる者。
このクラスにいる生徒はまだ進路が決まっていない。大抵は中学校を卒業すると各分野の専門学校へ入る。高等教育と共に早くから自分の望む分野に進めるようにはなったが、挫折する人や将来が決まらない人もいる。すぐに別の科へと編入することもできるし、やりたいことが見つかるまではこの「未選定」のクラスへと集められる。自分もその一人だ。選べる学科や仕事の候補はいくらでもあるが、そのどれにも興味を惹かれない。
それでも最近は接客業の仮想訓練を重点的に行っている。物は試しにと二見から勧められたものだ。仮想世界でも現実世界でも接客は常に一定の需要があるらしい。
二見の前に並ぶ人の列が途切れたのを見て席を立ち、彼の前に移動する。
「今日はどうする?」
自分を見て二見が口を開く。
「飲食店の接客訓練を」
「昨日と同じだな」
仮想訓練の希望を告げると二見は机の上に展開したメタトロンのモニタを操作する。
現状、オーヴァの提供する仮想世界へ行くための制御を行うのはメタトロンであり、それ以外にはない。
二見の机の上に置かれたプラスチックケースの中には接続機器がいくつも入っている。自分が持っているものとはやや形状が異なるが、まぎれもなく仮想世界へ入るためのものだ。
「準備完了だ」
差し出された接続機器を手に取り席に戻る。仮想世界にいる間は身体が無防備になる。だから席の一つ一つが区切られ、教師が常駐し監視役を兼ねる必要があるのだ。
接続機器を頭に装着し、背もたれに身体を預けて目を閉じる。急速に意識が遠のき、次の瞬間、まず気づいたのは周りの静けさだった。教室の雑音は消えていた。それも当然だ。目を開けるとそこはもう仮想世界の中。洋風な造りの小さな個室で、部屋の中心に設置された机に自分は座らされていた。
身体は現実世界のものより体格がよく、服も黒地のスーツを着させられている。机の上には本が一冊置かれていた。題名には「洋食レストランにおけるコンシェルジュ業務」と書かれている。これから行う訓練内容が記されているが、もう何度も目を通しているので今更読み返す必要はない。席を立ち、正面にある木造の扉の前に移動する。
扉のすぐ脇に札がいくつか架けられていた。「訓練ランク2」と書かれた札を取り、扉に取り付けられている金縁の額に差し込む。これで扉の先には差し込んだ札の状況が設定された。
一つ深呼吸をして取っ手に手をかけ、扉を開けて中に入った。
仮想訓練を終えて現実へ戻り、接続機器を二見へ返却する。
「あまりいい結果じゃないな」
二見はモニタから視線を外し、厳しい表情で訓練結果を読み上げた。
「どんな訓練をするのも自由だが、いい加減な姿勢で取り組むのは自分の為にもならないぞ」
「すみません」
「昼休みに気分転換すること」
自分が席に戻ると二見はクラスの全員に「午前中はここまで」と言い渡し、教室を出て行った。
故意に手を抜いたわけではなかった。だが訓練への慣れから注意力が散漫になり、細かいミスを引き起こしてしまったのだ。
どの仮想訓練も初めの頃こそ新鮮だが、慣れてくると規則性が見えてつい気が抜けてしまう。それに訓練の中で人から感謝されても自分の中にはなにも生まれなかった。相手がクリエイターに作り出された〈仮想の住人〉だから何も感じないのか。実際に働いてみればその意義を見いだせるのか。それとも自分には向いていないのか。
次の訓練ランクへ進むことを考えつつメタトロンを取り出す。うたからのメールはきていない。彼女のことはこれ以上考えてもしょうがない。
教室を出て一階に下り、食堂で一人昼食をとる。未選定クラスに移ってからは一人での行動にすっかり慣れてしまった。
他人との時間を、というがそれは同じ道を歩く人がいる前提があってこそだ。切磋琢磨し合う関係から望まれるもの。未選定のクラスにいる限りそれらは望めない。あくまで一時的な待避所なのだ。早く進む道を決めなければならないが、今の自分はそれを億劫に感じている。
何をするでもなく時間が過ぎ、昼休みが終わった。教室に戻り午後の訓練に臨む。
訓練ランクの変更はしなかった。午前よりもいい結果をだし、二見の心証をいいものにしようという下心があった。その甲斐あって満点に近い結果で、二見に非難されることはなかった。
「訓練ランクを変更しようと思います」
接続機器を返却する際、二見にそう伝えた。
「次の段階に?」
「はい」
「そうだな、問題ないだろう。こういう仕事に就いてみる気はあるか?」
返答に詰まる。勧められたからやっているだけで、自主的に選んだわけではない。
「わかった。特に苦手というわけではなさそうだから、選択肢の一つとして考えていればいい」
二見のほうも拘泥する様子はなかった。
午前と午後の仮想訓練が終わると学校にいる理由はなくなる。そのまま商業区に寄ったりすることもあるが、今日はそんな気分ではない。
帰りのモノレールの中で考える。結局、自分はこれからどうするつもりなのだろう。
学校では他人に言われるがままに仮想訓練を行う。そして家に帰れば〈赤の雫〉で時間を過ごす。その繰り返し。何にも興味を持てないことを理由に、将来から目を背けている。このままでは職に就けるはずもないのに、なぜ逼迫していないのか。
恐らく、もう諦めているのだ。このまま卒業し、ただ日々を生きるだけの人種になることをどこかで受け入れているのだ。
命が保障されている社会。働かなくても生きていける社会。それは非生産的な人間を少なからず生み出していた。仮想世界依存症の患者と同じく、常に一定数存在していることも知っている。自分も多分、彼らの仲間入りするのだろう。
本当にそれでいいのか。
自分の人生、自分の存在意義。考えると心がざわついた。
今の自分の状態はうつ病や無気力とは違う。ただこの世界で自分のやるべきことは何もないのだという漠然とした思いが胸にある。それと同時に、何かしなければならないこともあるはずだという思いも。
それが何なのか。何がしたいのか。しなければならないのか。自問し、そして結局答えは出ない。その繰り返しだった。
「ただいま」
しんと静まりかえった家の中。父と母は仕事へ、妹は学校へ行っている。
この時間帯だと母が帰宅しているはずだが、いないということは買い物にでも行っているのだろうか。
リビングで何か音がした。覗き込むとそこに立っていたのはドローンのラティだ。修理が終わったのか、リビングに入る自分に顔を向け、昆虫を彷彿とさせる大きな目の奥をちかちかと点灯させる。
「お帰りなさい」
ラティが喋った。無事にこの家の住人として認識されていることにひとまず安堵する。前に一度、誤認識で警備会社に通報され騒ぎになったことがある。だから今でもこの機械人形を信用することができないのだ。
ラティを無視してキッチンを覗きこむ。やはり誰もいない。
「メッセージがあります。再生しますか?」
ラティが自分に聞いてきた。
「再生」
そう言うとラティの胸から照射された緑の光が正面のリビングの床、壁、天井を照らし、光の中で妹の姿が浮かび上がる。人物というよりは撮影した場面、空間を出力ているようで、ラティの正面に立つ妹の後ろを母が通り抜け、光の範囲から外に出ると消えた。
「ちゃんと撮れてるかな?」
妹はラティが直ったこと、そしてこれから母と二人で買い物に出かけることを告げる。
「あ、それと机の上にナノマシンを置いているから」
一番重要なことをついでのように言ってホログラムの妹は消えた。
リビングの机の上に四角いケースが置いてあった。中には四本の注射器が入っており、すでに二本が使用済みとなっている。一本を手に取りリビングを後にする。
ちらりとラティに目をやると、顔だけをこちらに向けていた。
自室へ入り、机について注射器を眺める。この中にナノマシンが入っている。体内のナノマシンは期間が過ぎると対外へ排出されるので、定期的な補給をしなければならない。
仮想世界というオプションがついたナノマシン。
針の反対側にある消毒用アルコールを手首に噴霧する。瞬時に乾き、手首にうっすらと浮かぶ静脈めがけて先端をくっつけた。痛みはない。数秒間そのままで、注入を終えた赤いサインが注射器の側面に表示される。静脈から外して机の上に置いた。
ベッドに移動し、懐からメタトロンを取り出した。何度見てもうたからメールは届いていない。
うたにだって忙しい日はある。今日がたまたまその日なのだと改めて自分に言い聞かせた。それに〈赤の雫〉にいれば、ひょっとすれば会えるかもしれない。
仮想世界への接続機器を装着し横になって目を閉じる。次に目を開ければもうそこは別の世界だ。
自分にとって〈赤の雫〉は、逃避の手段でしかないのか。
その思いを忘れようとするかのごとく、意識は急速に闇へと落ちて行った。




