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 うたから待ち合わせ場所にと指定された〈レーラズの樹〉は、始まりの庭に浮かぶ緑の光の先、エルフの集落を覆う広大な森の中に存在しているという。

 始まりの庭からエルフの集落に移動してまず目に入るのは彼らの特徴的な住居だ。視界一杯に広がる木々とその木陰の中に人の背丈ほどに起伏した緑の大地がいくつもあり、エルフ達はその起伏をくりぬいて住まいにしている。

 踏みしめられ地肌を晒された道がその穴居の間をうねり、その道沿いに窓と入口にあたる穴があけられていた。入口にはちゃんとした扉がついているわけではなく、赤や黄に染められた布が暖簾のようにかけられている。苔むした岩や豊かな草木、頭上から洩れる斜光。森の野生動物の住処のような、それでいてどこか民族的な印象を受ける集落だ。

 その集落の背後、立ち並ぶ木々の間からはいかにも人工物といった風体を放つ白い建造物群が聳えているのが見えた。一見するとあちらのほうが集落かと思うが、今現在あそこにエルフは住んでいない。

 エルフ達を苛む災厄。それは魔法文明の発展と種族の争いだ。

 火を起こし、風を生み、大地の形すら変えることのできる魔法。エルフ達は息をするのと同じように魔法を使い、森の中で生活を送っていた。

 魔法にはどんなものにも宿ると言われる精霊の力が必要であり、その精霊を生み出しているのがユグドラ大樹と呼ばれる巨木。過去、エルフは様々な魔法を生み出し、その巨木の周りに自らの理想郷を築き上げた。集落から見える建造物群がその一部だ。

 けれど何の危惧も抱かずに精霊を消費し続けたせいか、樹の生み出す精霊の量は減り、ついに樹は枯れ果ててしまう。魔法中心の文明は衰退。自らの身勝手さを恥じ、これからは必要な時のみ魔法を使っていこうとする者と、新たなユグドラ大樹を求め集落を後にする者の二つに種族は分離。種族の対立とこれからの文明の模索がエルフ達の直面している問題だった。

 かつての理想郷を背にして集落の中を進むと、今度は灰色の巨大な壁が現れる。集落、そして理想郷全体を囲っている外壁だ。集落の外、森へ出るにはここを通り抜けなければならない。

「レーラズまではちゃんと道が伸びているから迷う心配はないよ」

 外壁の門を通り抜ける際、傍らに控えていたエルフの番人に行き先を告げると彼はそう答えた。言葉通り、集落の外には若々しい緑が溢れる森林が広がり、割と細身な木々たちの間を縫うように道が伸びている。

 点々と差し込む暖かな木漏れ日の中を歩く。道は平坦で、しばらくすると木々の葉擦れに混じって鳥の囀り近くから聞こえた。

 立ち止まって周りの木々を仰ぎ見る。しかしいくら目を凝らしても声の主達は枝葉に隠れたままで、結局その姿を見つけることはできなかった。

 諦めて歩みを進めると、道の先で白っぽい物体がうごめいているのに気付いた。兎のようだがよく見ると耳の形や顔つきが自分の知っている兎とは微妙に違う。道に落ちている木の実に夢中のようで、息をひそめて遠巻きにその食事風景を眺めた。

 やがてせわしなく口元を動かしていた動物はこちらに気づいたのかピクリと耳と顔を動かし、すぐ脇の茂みへ身を翻した。その愛くるしい挙動に自然と笑みがこぼれる。

 このエルフの森は赤の雫の中で一度は訪れるべき場所だというのをどこかで聞いたことがある。こうして身を置いてみて、その理由がわかった。澄んだ空気と暖かな日差し、緩やかな時の流れ、時折こちらに姿を見せる動物達。森を訪れた人はこれら全てに心癒されるのだ。

 緑豊かな自然を再現し、その中で癒しを得るという仮想世界はいくつも存在している。中には世界遺産に指定されている場所や建物を再現した仮想世界もあり、写真や映像ではなく仮想という手段を用いてそれらを観光できるようになっていた。

 仮想の中で観光、ましてや癒しなんてと、存在を知った初めのころは自分も軽く見ていたが、こうして実際に身を置いてみるとそれほど悪いものでもないと思えてくる。

 たとえ目の前の光景が作り出されたものだとしても、それ見、肌で感じて生まれた感情は確かに存在するのだ。少なくともこの世界にいる間は。

 そうして仮想の自然を堪能しながら歩いていると、正面からこちらに歩いてくる人影が見えた。身体を迷彩の防護服に包み、脇に自動小銃を抱えた合衆国兵士の二人組みだ。

 互いに無言ですれ違う。

 〈赤の雫〉での自分の肉体、素性はこの世界に最初に訪れたときに決められる。自分であれば大和の国の侍、うたはエルフの魔女、モーフィアスはローマの剣闘士という具合にだ。

 兵士二人とすれ違ってからもエルフの弓兵やうたのような魔法使いなど幾人かの放浪者と遭遇し、改めてこの場所の人気に驚いた。

 そもそも他のプレイヤーとこんなに遭遇するとは。

 〈赤の雫〉はオーヴァによって最初に公開された仮想世界だ。似たような剣と魔法、ファンタジーの世界なんてそれこそ星の数ほどある。〈赤の雫〉は古い仮想世界なのだ。他のプレイヤーと会うこと自体、あまりない。

 森は進むにつれて鳥達の囀りもまばらになり、木立の落とす影が深くなっていく。

 ふと上を向くと枝葉の間からなにか巨大なものが空に向かって聳えているのが見えた。道もそちらに伸びていて、もしやと思い足早に進む。

 周りの木々とは比べ物にならないほどの巨木がそこに根を下ろしていた。見上げてもどれほどの高さなのか想像がつかない。周囲の木々は大樹から伸びる枝葉に触れないよう一定の間隔を空けており、大樹を中心とした広場のような空間が出来上がっている。

 その威容からこの巨木がレーラズの樹なのだとおぼろげに理解した。

 不思議なことにこの場にいるのは自分だけだった。右手甲の五芒星に触れメニュー画面を呼び出して現実世界の時間を確認する。うたとの待ち合わせの時刻まであと僅か。このままじっと待つのも退屈だと思い、大樹の周りを一周してみようと決める。

 ざっと見ても横幅が十五メートルはありそうな太い幹だ。頭上で幾重にも伸びた枝には葉が生い茂り、そこからちらちらと光が漏れている。樹皮は触れるとひんやりとしていた。

 ゆっくり一周すると大樹を挟んで歩いてきた道の反対側にさらに森の奥へと続く道を発見した。元の位置に戻ると見慣れた姿の魔女が息を弾ませてこちらに駆けてきていた。

「ご、ごめん」

 うたは前かがみになって手を膝につき、息を整えながら詫びる。

「いいよ、こっちもついたばかりだから」

「とりあえず間に合ってよかった……あれ?」

 顔を上げ辺りを見回した後、自分と同じように大樹を一周して首をかしげる。

「どうかした?」

「光春一人? 他に誰もいなかった?」

「ここに来るまでは何人かとすれ違ったけど、着いてからは誰も見かけてないよ」

「おかしいなぁ」

 その時、二人の頭上で葉擦れが起こり、うたの後方へ黒い影が落ちてきた。

「な、何?」

 うたが驚き振り返る。落ちてきた影はしなやかに地面に着地すると僅かに間を置いて立ち上がる。

「遅いわよ、うた」

 すらりとした身体を黒地の忍装束に包んだ人物。腰には小太刀らしき短い刀を二本差している。頭と顔を覆う頭巾から覗く双眸がちらりと自分を一瞥した。

「もうっ、びっくりさせないでよ!」

 うたが忍者に詰め寄る。その口ぶりと態度から二人が知り合いなのだとわかった。

「うたが勝手に驚いただけでしょ?」

「あんな風にでてきたら誰だってびっくりするよ」

「そう?」

「そうだよ。まったく」

「うた、その人は?」

 遠慮がちに尋ねた。

「あ、ごめん。彼女は迷い猫。私の友達。今日の依頼につきあってくれる人」

「迷い猫?」

 名前ではなく通り名といったほうが適切だと思った。

 紹介された猫がすっと目の前に進み出る。細身の体は自分よりも身長が高くこちらが見上げる形になった。仕草や体型から女性だとわかるが、この長身であの樹の一体どこに隠れていたのだろうか。

「そう、迷い猫。よろしく」

「こっちこそ。不破光春です」

「ほら、二人とも握手握手」

 うたに促されお互いに握手を交わす。

「名前の由来はその頭?」

 よく見ると頭を覆う頭巾は猫の耳のように両角がぴんと尖っていて特徴的なものだった。

「そのうちね」

 答えをはぐらかされる。初対面ということもあるが、それでもなかなか心を開いてくれそうにない人物というのが猫の第一印象だった。

「さて、じゃあ早速二人を私の仲間に加えるね」

 うたは目の前にメニュー画面を呼び出し、慣れた手つきで操作する。数秒後、自分の右手の五芒星がさっと青味を帯びた。無事にうたの仲間に加えられた証だ。

「そういえば、もう依頼は受けてきたの?」

「うん。ここに来る前にね」

「どんな依頼?」

「えっと、このレーラズの樹の見回りだったかな」

「この樹の?」

 すぐそばにある樹を見遣る。

「うん。レーラズは他にもいくつかあって」

 うたが依頼のいきさつを話し始める。

 どうやらこのレーラズの樹はユグドラ大樹ほどではないが精霊を生む能力があるらしい。森の中にいくつか存在していて、それをダークエルフ、新たにユグドラ大樹を求めて旅立ったエルフ達に悪用されないように見回る必要があると。

「じゃあそのダークエルフが出てくるかもしれないのね」

「うん。戦うことになるかもしれないから、その時はお願いね」

 うたの口調は弾んでいた。昨日の救いのない結末を迎えた依頼のことはもう忘れてくれたようだ。

「それじゃあ行こっか。あ、動物がいたら教えてね」

「動物?」

「なんでもいいよ。あんまり見たことなくて」

「きっとうたが騒がしいからね」

「もう、そんなことないでしょ」

 猫とうたの付き合いはもう長いのだろうか。親しげなやり取りを見ていてそう思う。

「ほら、早くいくよ」

 猫に冷やかされたうたが森の奥へと続く道に一人でずんずんと進んでいく。

 彼女には時折子供っぽさを感じる時があった。それに振り回される事も多いが、それでも自分にとって彼女と一緒の時間が楽しいものであることに変わりはない。

 ふと隣にいる猫はどう思っているのか気になった。

「猫はうたと知り合ってどのくらい?」

「さぁ、どれくらいかしら。どうして?」

「いや、彼女と一緒だと色々大変なんじゃないかなと思って」

「あなたは彼女のこと、どう思っているの?」

 どことなく棘を含んでいるような声色だった。

「いや、俺は退屈しないし一緒にいて楽しい、かな」

 素直な思いを口にする。

「そう。私もうたといると楽しい」

 先を歩く黒衣の少女の後を追って歩き出す猫。無言でそれに続いた。

「けれど、彼女のような子を嫌う人もいるわ。無神経や自分勝手だと言ってね」

 何も答えられない自分に構わず言葉を続ける。

「でもね、嫌なら無理に付き合う必要なんてないのよ。ここは仮想の中なんだから。わざわざ自分の感情を本人に言わなくても、ただ目の前から消えてくれればそれでいい」

 うたと猫の間で何かあったのだろうか。とても聞けなかった。ただ無言で猫の後に続く。

 先を歩いていたうたが「早く」と手を振って自分達を呼んでいた。


 三人で森の中を進むと道は緩やかな丘へと続き、そこを超えると水面をきらめかせる小川に出た。架けられた石造りの橋を渡ってからは道も細くなり、昼間なのに薄暗くなってくる。

 残念なことにうたが普段より大人しくしていても動物達が姿を見せる気配はなかった。

「やっぱり出てこない!」

 耐えかねたうたが森の静寂を打ち破る。

「仕方ないでしょ。それにそんな大声をあげるとなおさらだわ」

「もう諦めたよ。それになんだか暗くもなってきたし」

 不満を並べるうたを「しょうがない」と猫がなだめる。普段ならそれは自分やモーフィアスの役割だった。こうしてメンバーが変わると自分の役割がなくなり手持無沙汰になる。ましてや猫とは初対面だ。どう接すればいいのかわからない。せめてあちらから話しかけてくれれば。

 そこで気づいた。仮想の中でも自分の受け身な性格は変わらない。だからうたとモーフィアスの二人しか知人ができないのだと。

 暗く沈みがちだった気持ちが和らいだのは、頭上の緑がきれ、再び空と日の光を浴びることができたからだ。二人も空を見上げて安堵している。

「よかった。このままずっと暗かったらどうしようかとおもったよ。ね、光春」

 こちらに顔を向けるうた。

「そうだな」

 短く返答する。

 道は小さな窪地に自分達を導いた。

「誰かいるわ」

 窪地の左脇に三つの影が立っていた。見ると猫と同じような忍装束を身につけた三人組みだ。背丈はバラバラで、一番高い者、小さい者、そしてその中間くらいの者と、丁度今の自分達と同じような具合だ。

 身長が高いのが猫、小さいのがうた、そして中間が自分。

「あの人達も同じ依頼を受けたのかな?」

 うたが三人組みに向かって手を振る。背丈で言うと中間の人物が控えめに手を振り返した。

「あなた達もレーラズの見回り?」

 三人に近づくとうたの挨拶に答えた人物が話しかけてきた。上から下へ視線を送る。紺色の忍装束は猫が着ているものとは微妙に作りが違っていた。腰に柄の長い鎖鎌を携えている。

「うん、そうだよ」

 うたが気さくに答える。

「やっぱり。じゃあさ、ここから私達と一緒に進まない?」

 放浪者同士が協力して依頼を進めるのは珍しいことではない。むしろ人数が多くなった分、効率よく依頼を進められる場合もある。しかし中にはそうして仲間になった放浪者を裏切り、また仲間同士を戦わせるといった依頼も存在していて、気安く受けあうのは躊躇われた。

「一緒に進まなければいけない理由があるの?」

 当然の疑問を猫が口にする。一番身長の高い忍者が答えた。

「ここから先は道が三つに分かれてる。それぞれの先にレーラズの樹があるけど、一人で進まないとそこまでたどり着けないんだ」

 男勝りな口調だが声色は女性のそれだった。彼女の言うようにこの窪地から道が三方向に分かれて奥へと伸びている。

「どうして一人なの?」

「ダークエルフが魔法を使っている。一人で進まないと霧が出て、森をさまよった挙句にまたここに逆戻りだ。それにたとえ一人で進んでも、レーラズの樹では奴らが待ち構えている」

「私達も何度か挑戦したんだけど、一人じゃ無理だったんだ。そこにあなた達がきてくれたから、一つの道に二人ずつで行けば何とかなるかもと思って」

「それでも二人になる」

「私達を仲間に加えなければ大丈夫だよ。仲間の内の一人、というのが条件らしいから」

「仲間ではない片方はただついて行くだけ、という形にするわけね」

「そういうことだ」

 決められたルールの隙間を衝くようなやり方だ。しかしこちらに仲間になれと言っているわけではない。

「どうかな? もちろん無理にとは言わないけど」

 この忍者たちがどういうつもりなのかまだわかりかねた。純粋に困っているからなのか、それとも自分達を裏切るつもりなのか。懐疑を顔には出さずうたのほうを見る。

「私は別にいいよ」

 さして迷わずうたは提案に了承する。

「うたがいいのなら、私も構わないわ」

 二人が賛成する以上、自分に反対する理由はない。それにここで一人だけ異を唱えるのも気が引けた。

「俺も構わないよ」

「よかった。あっ、自己紹介がまだだったよね。あたしは雪っていうの」

 鎖鎌の忍者が自己紹介をする。次いで男勝りで長身の忍者が月と名乗り、終始無言を貫いている小柄な忍者を花だと紹介した。

「三人で雪月花っていうパーティを組んで行動しているの。よろしくね」

 こちらも自己紹介を済ませ、誰がどの道を進むか話し合う。右の道にはうたと花。左には猫と月。そして真ん中は自分と雪という組み合わせに決まった。おおよそ自らと同じ身長の人と組むような形になった。

「それじゃあ二人とも気をつけてね」

 うたが手を振り、花と一緒に右の道へと進む。

「さっ、私たちも行こう」

 雪と並んで正面の道を歩く。

「不破はあの二人とよくこっちの世界にくるの?」

「うたとは最近よく一緒にいるかな。猫とはさっき知り合ったばかり」

「さっき?」

「うたの友達らしくてね。今日初めて会ったんだ」

「そうなんだ。二人とも強い?」

「猫はわからないけど、うたはこの世界に長くいるはずだよ」

 自分より戦い慣れている様子を思い出して答える。ああ見えていざ戦いになると魔法で素早くサポートしてくれるのだ。

「ところで、この先にいるダークエルフってどんな奴?」

「エルフと見た目はそう変わらないよ。魔法を使われる前に倒せばいいんだけど、数が多いからどうしても間に合わないんだよね」

 それならばこちらの人数が増えれば何とかなるかもしれない。

「素早く倒していけばいいわけだ」

「そう。頼りにしてるよ」

「けど雪たちみたいな忍者三人組みって珍しいね」

 何気ない一言にぱっと顔を輝かせる雪。

「でしょ? でも最初にどの放浪者に決めるか結構悩んだんだ。うたみたいな魔女も可愛いし、エルフの弓兵も捨てがたいし」

 他愛ない会話を交わしていると森が開け、再びレーラズの樹が現れた。刀の柄に手をかけ、先ほどと同じように樹を中心としてできた広い空間に足を踏み入れる。いつエルフが現れてもいいように辺りに気を配りながら樹に近づいた。

 しかしエルフは姿を現さなかった。振り返ると雪はついてきておらず、その場にとどまったまま鎖鎌を抜き、分銅を宙に垂らした。

「さぁ、やろうか」

 こちらを見据え、分銅をゆっくりと揺らし始める。

「なにを?」

「仕合」

 その言葉で状況を呑み込めた。彼女は自分との戦いを望んでいる。抱いていた危惧が目の前に現れた。

「この為に、わざわざ別の道を行かせたのか?」

 疑っていたとはいえ、内心動揺していた。

 〈赤の雫〉では放浪者同士で戦うこともできる。中には通り魔のように見境なく襲いかかる輩もいる。なぜ戦うのか、凶行に及ぶのか。理由は人それぞれだろう。

 手にした力を振るいたい、自分がどれだけ強いのか腕試し、何となく気分晴らしに。現実でないがゆえに些細なきっかけでも非行に走るのは、仮想に触れて初めの頃の人間に多く見られるらしい。

 だがそれとは別に、自ら悪役を演じる人もいる。彼女はその役者のようだ。こんな手間をかけたのだから。

「ちょっと無理があるかなと思ったけど、ちゃんと話に乗ってくれたからよかった」

「こんなことをしなくても、コロッセオに行けば戦う相手はいるだろう」

 放浪者同士が戦う場としてローマのコロッセオが用意されている。

「ただ戦うだけじゃつまらないの。私達はただ意地悪したいだけ。こうして依頼の邪魔をして。大丈夫、殺したりしないから」

 雪は刃を収めてはくれないようだ。しかしわざわざ手間をかけて戦いの場を用意した彼女に対して、仕合を受けるのがこちらの礼儀なのかもしれない。昨日の鬼と同じように、行く手を阻む敵として彼女が役割を演じるのなら、自分はそれを打ち倒す放浪者を演じなければ。

 覚悟を決め、抜刀し改めて対峙すると緊張と慄きが身体を支配する。

 宙で揺れる分銅は一回転するともう勢いは止まらず、独特の音を発して雪の体の横で円を描く。じりじりと距離を詰められながら攻めの機会を窺うが、いつ来るとも知れない分銅の動きに気をとられなかなか動けない。

 雪の体が微かに傾き、分銅をまわす右腕を左に薙いだ。直後、分銅が自身の左側面から迫り、反応するまもなく左腕の肩口に激突する。痛みにこちらが怯むと、すぐさま雪は分銅を手元に戻し、また円を描き始める。

 あの分銅はとても反応できる速さではない。それにもし頭に当たればそれだけで致命傷になり得る。左肩にじくじくと広がる痛みがそう告げている。そもそも鎖鎌を持つ相手とこれまで戦った経験もないのに、どう対処すればいいのか。言い訳だけがとめどなく頭に浮かぶ。

 その間にも雪が再び腕を横に薙ぐ。反応することもできず左太ももに鉄の塊が激突、激痛が走る。たまらず後退すると背後にあるレーラズの樹の根に踵が触れた。じりじりと樹の横に移動し、視界の端に樹を捉えると後ろに回り込んだ。すかさず樹に身を隠す。雪の姿も見えなくなるが、この間にどうするか考えなければ。

 この期に及んで自分はまだ相手を傷つけることに躊躇していた。「殺したりしないから」という彼女の一言が行動を縛っている。ならばこちらは攻撃していいのか。この刃を彼女の体に突き立ててもいいのか。

「怖い?」

 雪の声が樹の裏から聞こえた。樹の左右に視線を送る。

「あんまり仕合に慣れていないんだね」

 見透かされた。雪のほうが戦いの経験は上。

「練習だと思って打ち込んできなよ。一方的なのはつまらないから」

 そう言うなり、左側から雪が現れ分銅を投げた。咄嗟に刀で庇うと鎖が刃に絡みつく。そのまま奪われそうになり、慌てて鎖を左手で掴む。綱引きのように互いに鎖を引き合う恰好になる。力はこちらが上のようだ。左手を回し、鎖を拳に巻きつけ強く引くと、雪が身体の重心を後ろに傾けそれに対抗する。

 刀に絡まった鎖を解き、今度はこちらからが動いた。左手の鎖を強く引き、雪の体制を崩しにかかる。それに抗う瞬間を狙って一気に雪へと接近する。身体めがけて突きを繰り出すが鎌で難なくいなされ、そのまま鎌の反撃が迫る。身体を引き、すんでのところで躱す。

 雪が手加減してくれたから躱せた。彼女の動きにはまだ強者の余裕がある。

 そこからは仕合というよりは彼女のいうような練習、稽古だった。自分の打ち込みを雪は鎌と鎖を使って防ぎ、時に攻めに転じる。刃が鋭い痛みと共に衣服を裂き、血が衣服を赤く濡らす。だがこちらも怯むことなく攻め、彼女の体に刃を浴びせた。

 そのやり取りの中で、いつしか身体から固さや慄きが消えていた。幾度か互いに切り結んだ後、ついに鎌を制し切っ先を雪の顔に突きつけた。

「結構使えるんだね」

 切っ先を外し、握り締めた鎖を解放してお互いに距離を取る。

「じゃあ練習はおしまい」

 呼吸を整えた雪はそう言うと縦向きに分銅を回し始める。今までとはその速度が違った。

 一番の問題は分銅だ。あれをかいくぐり接近戦に持ち込めば自分にも勝機はあるはず。

 分銅の攻撃より先に動いた。待っていてはだめだ。一直線に雪に接近する途中、狙いをつけられないよう横に飛ぶ。

 直後に雪が腕を振り下ろした。動きが読まれていた。着地と同時に頭上から迫る分銅が左耳を掠め、肩に激突する。激痛。歯を食いしばり、そのまま雪に突っ込む。分銅が戻されるよりも早く間合いに入り、下段から左斜めに逆袈裟を狙う。

 だがここでも自分の刃は鎌でたやすく受け止められた。鎌の湾曲した刃にいなされる瞬間に柄から手を離した。雪の目が見開かれる。手をそのまま腰の脇差へと伸ばす。鎌が攻撃に転じるより先に首めがけて脇差を抜いた。

 雪は動きを止めた。すでに脇差の刃が首に浅く食い込んでいる。

「殺さないの?」

 その一言ではっと我に返る。脇差を首から離した。うっすらと雪の首に赤い痕がにじむ。

「あなた、この世界に向いてないよ」

 自分がとどめを刺さないこと悟った雪はそう言うと鎖を持ち上げ、鎌の柄に巻きつけ始める。

「人と戦うのが、あんまり好きじゃないだけだ」

 脇差を収め、落とした刀を拾い上げる。切り結んだ時の血が刃に付着していた。

「ほら、そうやって深く考えるからだめなんだよ」

 血を凝視していると注意された。袖で刀身を拭い納刀する。

「傷はどう?」

 雪に指摘されると思い出したように痛打した左肩に痛みが走った。

「言うから痛くなってきた。君は?」

「私はもう痛くないよ。もっと気楽に考えればいいのに。ま、だからこっちは負けたんだけど」

 裂けた衣服から血を覗かせながらも平然としている雪。

 仮想世界をどう捉えるかは人それぞれだが、恐らく彼女はゲーム感覚なのだろう。

 だから傷を負ってもその瞬間にしか痛みを感じないし、ひょっとすれば感じていないかもしれない。仮想の肉体と意識の結びつきが希薄であればそうなる。それは肉体、精神を守るためには正しい。逆にその結びつきが強ければ痛みは現実と遜色なく、仮想から戻っても肉体と精神を苛む。

 仮想の肉体と意識の結びつきは「一体化」と表現されている。仮想世界に依存するほど一体化は進む傾向にある。仮想世界に長時間、あるいは何日も連続して入ったりするなどだ。

 一体化が進むことによる恩恵もある。仮想の肉体をより自在に動かせるようになるのだ。雪との勝負を分けたのはその差だ。一体化が進んでいなければやはり多少反応が遅れるのだろう。

 当然、恩恵の裏返しもある。仮想での記憶、体験を現実でも色濃く思い出せるようになる。

 仮想で体験したことを現実で思い出すのはあまりいいことではない。特に〈赤の雫〉のような危険な世界の記憶は。身体の痛み、刃で敵を殺す感覚、戦いの高揚、そして恐怖も鮮明に思い出すということなのだ。

「それで、これからどうする?」

 なんとか生きて勝敗を決することができた。勝ち負けよりもそちらの結果のほうが自分にとって重要だった。

「仕合はあなたの勝ちだし、もう邪魔はしないよ。見回りの依頼だったらあとはレーラズの周りを一周して元来た道を戻ればいいだけ」

「エルフは出てこない?」

 雪は少しほほ笑んだ。

「出ないよ。もしかして信じてた?」

「疑ってはいたけど、それらしい話だったから」

「ふぅん、ならまだ使えるかも」

 雪は懲りてはいないらしい。だがそれが彼女なりのこの世界の楽しみ方なら、自分が口を挟む問題ではない。

「雪はこれからどうするの?」

「私? 月と花がどうなっているのかわからないし、一緒に戻っていい?」

 こちらもうたと猫がどうなっているかわからない。承諾し、樹を一周してから雪と共に来た道を戻る。

「もし二人がやられてても、恨まないでね」

 雪が言う。

「卑怯な手段を使ってなければいいよ」

「それは大丈夫。私達、礼儀は守るから」

 恐らく彼女だから、両方とも死なずに決着をつけることができたのだ。

 殺人の感触がこの手に訪れなかったこと。それが一番良かったと胸の内で反芻し、胸に残る戦いの慄きを鎮めることに努めた。


「あっ、みんないる」

 窪地まで戻ってくると、すでに自分たち以外の全員が揃っていた。

 雪が月と花に駆け寄るのに続いて自分もうたのほうへと歩み寄る。それぞれの体に戦いの後が見てとれたが、一人だけまったく無傷の人物がいた。猫だ。対照的に彼女と戦ったであろう月の忍び装束は刃物による裂け目が至る所にできており、露出した肌から赤い刀傷が見えた。別れる前と違って酷く痛々しい姿だ。二人の仕合はよほど一方的な攻防だったのだろうか。

「光春も結構やられてるね」

 うたが上から下へと視線を送り、気の毒そうに顔を歪める。自分も人のことを言えた姿ではないと気づいた。

「なんとか勝てたけどね。うたは?」

 別れる前にはなかった土埃や細かい雑草が彼女の纏うローブを汚している。自分の視線に気づいたうたはそれらを払い落としつつ答えた。

「私は負けちゃった。猫はもう聞かなくてもわかるよね」

 うたの背後に立つ猫をちらりと見るが、彼女は何も答えない。ここでも猫に対して自分から話しかけることはできなかった。

「とにかく皆が無事でなによりだよ」

「こういうこともあるんだね」

 声に振り返ると、雪がすぐ傍まで来ていた。

「それはいいんだけど、こうして集まるとなんだかこっちのバツが悪いね。というわけで私達は退散します」

 それだけ言うと小さく手を振り、忍者たちはそそくさと自分達から離れていく。後腐れのない別れだ。

 不意に一番小柄な体躯の花が立ち止まり、こちらを振り返った。

「行方不明に気をつけて」

 初めて彼女の声を耳にした。その言葉を聞き返すまもなく花は身を翻し、先を行く二人を追いかける。

「ちゃんと話せるんだな」

 彼女達の姿が見えなくなったところで呟いた。

「花ちゃん? 話せるよ。二人きりになってから色々とお話したもん」

 花と戦ったうたが答える。

「ずっと黙っていたから、てっきりそういうキャラクターを演じているのかと思ってた。けど行方不明って何のことだ?」

「こっちの世界じゃなくて、現実世界のことじゃない? 最近多いでしょ?」

 確かに行方不明と言われて頭にすぐ思いついたのは現実世界の事件のことだ。

「そういえば今朝もそんなニュースが流れていけど」

「でも誘拐とかじゃなくて、自分からいなくなっているらしいよ。監視カメラにも一人で出て行く姿が記録されていたんだって」

 うたが事件に詳しいことに少し驚いた。

「詳しいな」

「学校でも皆話しているから、自然と耳にはいっちゃうんだよね」

 学校。その単語でうたは学生なのだということが窺い知れた。

 しかしこれまで一言も発しなかった花が、何故最後にそれだけを口にしたのか。現実世界ならまだしも、今いるのは仮想世界だ。何の関係があるのだろうか。不可解だったが誰もそれ以上の疑問は挙げず、レーラズの見回りを完了させた自分達は集落へと引き返す。

 待ち合わせ場所にもなったレーラズの樹まで戻ってくると、忍者たちと別れてからずっと沈黙している猫にうたが声をかけた。

「ねぇ、猫どうしたの?」

「どうしてあの子は、行方不明なんて口にしたの?」

 うたと顔を見合わせる。

「それは、最近頻繁に起こっているから気をつけて、ということじゃないの?」

「本当にそれだけ?」

「だと思う。私にもわからないよ」

 猫はまだ納得がいかない様子だ。

「何か気になることがあるの?」

 自分の視線に気づいて猫は顔を逸らした。しかしうたも猫の言葉をじっと待っている。観念したように微かなため息を吐いて猫は言った。

「行方不明はこの〈赤の雫〉でも起こっているらしいわ」

「えっ?」

 あくまで噂だけど、と念を押して猫は言葉と続ける。

「赤の雫である特殊なアイテムを手に入れた放浪者は、それから〈赤の雫〉に現れなくなる。現実世界でも行方がわからなくなる。そんな噂が流れているのよ」

 どう反応すればいいかわからなかった。あまりにも現実離れした話だ。そしてそれをまさか猫が口にするとは。そういった類の話を信じない人間だと思っていた。

 猫も自分達に話して後悔しているようだった。

「別に信じているわけじゃないわよ。けどさっきの忍者みたいに、変に気をつかう人まで出始めたから少し気になっただけ」

「その話、どこで聞いたの?」

 うたが猫に尋ねる。

「赤の雫のコミュニティサイトよ。注目されている記事にあったから少し目を通したの」

 コミュニティサイトとは、〈赤の雫〉の情報をプレイヤーが共有することができる交流サイト、データベースのようなものだ。そこには当然、有益な情報から全くのデタラメまでいろんなことが放浪者達によって記載されている。その噂も趣味の悪い悪戯に違いないと思った。

「特殊なアイテムか。今まで見たことないな。うたはどう?」

「私もちょっとわからない、かな」

「やっぱり話すべきべきじゃなかったわね。忘れて頂戴」

 しかしレーラズから集落への帰路、今度はうたが口を閉ざした。調子を聞いても「なんでもないよ」と答えられ、それ以上追及できない。

 沈黙を引きずりながらも集落に辿り着き、依頼人のエルフの家に向かう。そこで二言三言、依頼人と言葉を交わすと依頼は完了し、景色が転じて三人は始まりの庭に戻された。

 依頼を受けている間に負った傷は庭に戻ると治る。雪につけられた刀傷、衣服の裂け目は一瞬で元通りになった。

 うたは口を結び、何か考えている様子だった。さすがにこのまま黙っているわけにもいかず、これからどうするか尋ねようとした矢先にようやく口を開いた。

「ごめん。私ちょっと用事があった」

 今日は彼女からの誘いだったので、これだけでお別れとは思っていなかった。

「用事なら仕方ないけど。大丈夫?」

「えっ、何が?」

「急に元気がなくなったけど」

「そんなことないよ。お母さんの手伝いがあったのをすっかり忘れてたから、帰ったら怒られるなーって思ってた。あはは」

 やたらと口数が多くなったのが気になった。しかしそれ以上追求もできず「今度埋め合わせをするから」と言ってうたは一足先に現実世界へと帰っていった。

「うた、どうしたんだろうね」

「私も今日は帰るわ」

「あ、うん」

 猫も目の前から消える。

 一人庭に残された。胸中複雑だった。猫と二人きりという状況が解放されたという安堵、そして相手が自分に対して何の興味も抱いていないことがわかってしまったから。

 どちらかといえば後者の落胆の割合が大きく心を占めている。 

 庭の崖際に座り、ゆっくりと流れる雲をしばらく眺めて沈鬱を和らげてから自分も現実へと帰った。


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