終章
「不破くん、それはあとどれくらいで終わるかな?」
仕事仲間の山川さんが話しかけてきた。作業端末の画面から顔を上げてそちらを向く。
「十時半までには」
「わかった。それと、今日は昼で上がり?」
「えぇ」
「何かあるの」
少し考え、「何かあります」と答える。
「あっ、そう。じゃあそっちはよろしく」
山川さんは商品棚を指し、立ち去る。何があるのか答えてもよかったのだが、追及してこないのでこちらも話さなかった。
作業に戻る。明日発売のソフトウェア。その拡張現実広告の情報入力を。ARグラスをかけ、商品棚を俯瞰する。実際に存在するポップとも見比べ、レイアウトを調整する。
このVRショップで働き始めて四ヵ月になる。仕事の流れは覚えた。商品の補充、陳列、販売、案内、今やっている新商品のポップ、レイアウトの作成(拡張現実の情報含む)が今のところ主な仕事だ。
ゲームをはじめとする種々のVRソフトからその関連商品、VR機器本体(ARグラス等)も多彩な品ぞろえ。自分自身、気になるVRソフトは数点あるが、しばらくは手を出せないだろう。
「お疲れ様でした」
十二時ちょうどに上がる。店を出て、昼食を買う為にいきつけのファーストフード店まで歩いた。入荷する新商品の陳列レイアウト、同僚との些細な会話、レジ、予約の対応。今日の仕事を振り返り、取り留めのないことを考える。
そして今、最も心を占めているものに考えが移る。〈赤の雫〉のことを。
店に到着。昼時で賑わっていて、店内で食べる気分にはならない。テイクアウトを注文し、待った。その間に携帯端末を取り出してニュースを見る。開始されたばかりのナノマシン治療による医療事故の話題が大きく取り扱われている。オーヴァのナノマシンの代わりと目されていたものだけに、失望の声は多い。
オーヴァのナノマシンが機能を停止して世界中が混乱しても、それだけが医療ではない。単にオーヴァのナノマシン医療が使えなくなっただけ。
驚くことに、ナノマシン停止による医療事故、健康被害はなかったという。大半のナノマシンは一斉に停止したが、一部、治療で使用中であったものは治療が終了すると機能停止したと。
今や誰の身体にもオーヴァのナノマシンは入っていない。もし入手して身体に注入しても、機能しない。
ナノマシンの一斉停止と、〈赤の雫〉を発端とする異常行動事件。どちらもすでに収束しているが、事態の解明には至っていない。
ナノマシンの異常について、オーヴァは原因不明であるとしている。外部からの攻撃か。オーヴァ内部の犯行か。システムの不具合か。
ただ、今後オーヴァのナノマシンが流通しないことははっきりしていた。
オーヴァのナノマシン医療からの撤退。事件の真相解明が進まない以上、それは当然だったが、他にも理由がある。
重大なのは、オーヴァの所有するナノマシン生成装置なるものは全て失われたということだった。何故そうなったのか。ナノマシン一斉停止と時を同じくして、すべての生成装置で機密漏えい防止のための安全装置が働き、自壊したのだと。オーヴァは過去、産業スパイや直接的な攻撃により生成装置を奪取されたこともあるという。だがこの安全装置により秘密は守られていた。
しかしオーヴァ自身も、ナノマシンのすべてを理解していないという。少なくとも現在の経営、運営、技術員、社員たちは。
実際、異常行動と一斉停止もオーヴァ側は制御不能だったらしい。
ナノマシン、生成装置を新しく作る動きもないという。作らないのではなく、作れない。仕組みを理解していなければそれは当然のこと。技術は時間の中で失われたのか、それとも初めからなかったのか。
これらが捜査関係者の証言で事実だとわかると、人々はオーヴァのナノマシンを諦めた。そして現経営陣の無責任な実態に非難が殺到した。
だが、オーヴァは今もなお秘密主義を貫いて存在している。身を守る為にそうするしかないらしい。
オーヴァの正体について、ネットでは監視員と名乗る人物から直接話を聞いたという人物が数人、現れた。使者、栽培者のこと。あの男が話したこととほぼ同じ内容だった。自分達の他にも監視員と接触した人間がいた。だが、宇宙人説の一つに類似したものがすでに存在していて、それを元した創作ではないかと指摘され、結局、そのまま埋もれていった。世間でもオーヴァの正体について何の反応もなくなった。
現在、オーヴァはほとんど活動していない。メタトロンもすべての通信ネットワークが切断されたままで、新しい携帯端末を購入することになった。
ただ〈天候操作〉の機能はメタトロンにしかない。だから今も手元に残している。
結局あれ以来、機能を使うことはなかった。暑い日には雨を降らせてみようと考えたが、それをしていいのか。都合よく仮想世界である事実を利用することが正しいのかと。一度も使わないほうがいい。そう結論した。
店員に呼ばれ、昼食を手に店を出てセルに乗り込む。座席でまどろんでいると目的地到着のアナウンスが流れた。単身者用の集合住宅、その地下。セルから這い出して、年数を重ね汚れた通路を抜け、階段を上がる。二階の一室が自分の家だ。両隣の人間のことは知らない。どちらも男性。姿はたまに見かけるが、挨拶はしたことがない。お互いに。
部屋に入る。実家を出て約一年。働き始めたから、そして家族から離れたかったから。二つの理由で一人暮らしを選んだ。
玄関の鍵をかけたことを再確認し、荷物を置いて机につく。すぐにVRヘッドセットを装着、起動。お気に入り登録していたサイトへ。
あの日以来、失われた仮想世界。それらをVRで再現するプロジェクトが立ち上がっていた。リストの中から〈赤の雫〉を選択する。視界一杯に〈始まりの庭〉の風景が広がった。〈赤の雫〉の再現が決定してからここには何度も訪れている。
再現プロジェクトの仮想世界はオーヴァが権利を管理し、実際に作るのは別のソフトウェア会社だ。この〈赤の雫〉も同じく。
今まではなかったβ版ダウンロード案内の文字が草原に浮かんでいる。選択。ダウンロードとインストールに約一時間かかる見込み。
ヘッドセットを外し、昼食をとる。こんな食事ばかりでは体に悪い。余計な脂肪もついてきた。
身体の健康状態はどうなのか。簡単な健康診断アプリは新しい端末にもプリインストールされていたが、使ったことはない。結局、自分にとって健康への関心はその程度だった。今現在、体に不調はない。だから使う必要もない。
昼食は早く終わってしまった。まだ〈赤の雫〉のダウンロードは完了していない。
あの二人はまだ仕事中だろうか。モーフィアスはもう始めているかもしれない。あえて連絡はせず、〈赤の雫〉の中で彼を探そうと決める。
二人との思い出のある世界。だが自分が何者か、この世界の正体を知るきっかけになったものでもある。
この世界は仮想世界で、自分はその住人。普段、生活しているときには意識しないようにしている。考えても無駄だからだ。
最初、二人と別れて間もない頃はまだ疑念が頭から離れず、考えの行きつく先の不安、絶望に悩まされた。現実世界との隔絶、一人で生きていくこと、家族のこと、二人との別れ、世界の存続、作られた世界で生きる意味……
仮想世界。だから何だ? こんなことを考えるのは頭のおかしい人間の行動なのだ。世界を疑うなど。自分は住人。この世界が自分にとっての現実世界。そのように思い込もうとしても、容易ではなかった。
モーフィアスの言う通り、囚われ続ければおかしくなる。逃れる方法は考えない事だ。この妄念を頭から追いやること。目の前のことに集中する、別のことを考える。仕事のことを考えたり、VRソフトで気を紛らわせたり。家を出たことも助けになった。家族の姿を見ただけで意識してしまうようになっていた。
しかしマルスから世界の調査や、ボックスの性能の限界を知った時は、頭から追いやることができなかった。これからの生活にも関わる問題だった。
使徒からの調査の内容は、男やオーヴァに繋がる情報の捜索、他の住人や現実世界の影響などの観察。
結局、男やオーヴァに繋がる情報は何一つ見つからなかった。住人も男のことは何一つ知らない。むしろこんな質問をして、相手に不審がられたこともある。そんなこともあって、住人に何か影響を与えて観察するという調査は断ることがほとんどだ。
相手は存在するのだ。〈仮想の住人〉だから、などと言い訳はできない。この世界で生活しているのは自分で、それを守る必要がある。相手が〈仮想の住人〉だから何をしてもいいわけがない。
調査を断っても、マルスはそれを咎めたりはしなかった。むしろ気を使ってくれた。なぜそこまでしてくれるのか。協力関係を失いたくないからか。こちらも関係を壊すような真似はしなかった。どちらも互いが必要。そして立場はこちらが弱いのだ。使徒がいなければ、自分の世界は立ち行かない。明確な事実。
例えばこの世界の保存媒体も、メンテナンスや修理が必要になる時が来るかもしれない。使徒はそれも最大限、請け負ってくれると言う。ボックスも同様で、さらに新しい通信形式が出現すれば対応できなくなる可能性もある。十年後か二十年後かわからないが。その場合、対応するボックスを作ることは可能らしい。そちらも請け負うと。自分としては使徒を信じるほかない。
そうしていくつもの疑問を使徒の言葉と、己の解釈で解決させて平穏を獲得した。使徒への一方的な信用、また逃避、都合のいいように思い込むことでしか得られなかったが、それ以外に心を保つ術はなかった。使徒の言葉を疑っても、物事を悲観的に捉えてもどうしようもないのだと。
もし使徒が保存媒体を解体し、世界を壊すようなことになったとしても、知らせなくていい、勝手にやってほしいと思っていた。この要望は使徒には伝えていない。伝えることがそれを許すことに繋がりそうで、懸念した。
今現在、使徒からの調査は中止になっている。調査結果が得られなかったからだ。マルスも退き、代わりの人物と(チャーリーといったか)連絡を取っている。仮想世界の研究が進むまでは現状維持だと。たまに安否確認の連絡は届くが、欠かさず返信している。
外界からのアクセスを受けた時に、仮想世界であることを意識する。それはうたやモーフィアスと連絡を取る時も頭をかすめ、また話題にすることもあった。
ボックス切断時のテストで分かったことがある。ボックスの切断時には、現実世界の人間と連絡が取れなくなるのだ。現実世界の相手を偽装して返事は来ない。連絡を取り合うことで、この世界が現実世界と繋がっているかどうかわかる。
だが、その為だけに二人に連絡するのは間違いだと感じた。負担になる。それに二人に依存しすぎる気がするのだ。
二人がいなくなった時、あるいはボックスが破損、また永遠に切断された時、どうすればいいのか。一人きりになった時、どうすればいいのか。
改めて、一人でも生きていくことを思い出す。あの決心を。
ボックスがなくても世界は存続する。テストでわかった。
その時が来たら、結末を受け入れる。受け入れるしかない。だが、今は無事だ。だから考えないようにしている。
意識しないこと、考えないこと。そうやって自分を保っている。自分の頭に銃口が突き付けられたままだとしても、見なければ、考えなければいい。いつ引き金が絞られるかわからないものに怯えていても仕方ない。
食事を片づけて時間を意識しつつ、ネットで暇を潰す。そろそろだと再びヘッドセットを手に取る。ダウンロードとインストールは完了していた。〈赤の雫〉を開始できる。
緊張、高揚は仕方がない。それでも一つ深呼吸して、開始を選択する。
視点が草原から上空に移動。草原全体を俯瞰するように。そして始まりの庭に人影が現れる。侍、エルフ、合衆国兵士、プレイヤーの姿が。この中から姿を選べとアナウンス。
覚えている〈赤の雫〉の始まりはこうではなかったはず。だがこれはβ版。正式ではない。オリジナルとの差異もあるだろう。そこにこだわりはない。
人物と属する国、名前を入力する。もちろん決まっている。わざわざ変える必要もない。
視点が侍の肉体に移動し、彼の視点に切り替わった。他の人物たちは消え去る。
VRで再現された〈赤の雫〉。視界から得る風景はリアルだ。高揚している。コントローラを操作する。庭を歩く。足元で揺れる草、空の景色、流れる雲の動き。
刀を抜いた。斬りつける動作、走る動作、跳ねる動作。
高揚、期待と共に奇妙な感情がある。これは何だ? 戸惑いつつも慣れる為に動作を繰り返す。
VRはオーヴァの仮想世界ではない。ただの映像だ。走り、剣を振るう。動きはゲーム的で、チープに感じる。他の熟達したソフトウェアのほうがまだ細かい動作を作りこんでいる。
仮想世界を仮想世界たらしめんとするもの。自らの身体の動き、接するものすべての実感だ。それなくしては、やはり仮想世界ではないのだ。しかし、そんなことはわかっていたことだ。
いくつものVRソフトをプレイした。結局、自分はそうしたものが好きだと言うこともわかった。〈赤の雫〉が再現プロジェクトのリストに上がっても、これらのVRソフトと同じなのだと。仮想世界ではないのだと言い聞かせた。期待しないように。
今、自分は嬉しいと感じているのか? 確かに嬉しいのだろう。しかし同時に奇妙さも感じている。
奇妙さを理解する。自分にとって思い出の品、その複製品。それを見て懐かしさを覚えることもあるはず。この奇妙さはその懐かしさなのだろうか。
始まりの庭を見渡す。四つの光が浮いている。ここから別の世界に行ける。
自分にとって〈赤の雫〉とは? 二人と出会うきっかけになったものだ。自分と世界を知るきっかけにもなったもの。
またこの世界で、二人と遊べればいいと? 確かにそう思っていた。そして約束もしていた。それが今の自分の最上の希望だった。
あの日から、二人とはいくつものVRソフトを遊んできた。この〈赤の雫〉も、楽しめるだろうか?
まだ最初なのだ。もう少し進めてみようと思った。
確かに見せる側面にチープさはある。だが希望は消えていない。まだこの世界で二人との再会を待ちわびる自分がいる。この世界を楽しみたいと考える自分がいる。
草原に浮かぶ四つの光。その一つに向かって歩きだした。




