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 自分の世界に戻り、皆と合流。この時点で、もう六時三十分を回っていた。

 再会した時、皆の姿はまた違うものだった。外見上は見知らぬ人達を家に入れる自分はおかしいのか。この状況こそが仮想世界であるという何よりの証拠ではないか。

 ここが現実世界。その可能性はもうないのでは。

 世界に変化を与えて確かめる意味はあるのか? ないかもしれない。

 待て。違う。状況に惑わされている。

 彼らから目を外す。家の居間、見慣れた室内。目に映る光景。それはやはり現実だ。現実感を伴うものだ。

 現時点では、まだ判断できない。仮想か、現実か。彼らがいるから、仮想世界かもしれないと惑わされている。確かめる術は必要だ。自分に言い聞かせる。


 そして男が現れた。六時五十分。家のチャイムを鳴らして。男の姿だけは変わっていなかった。皆とは違う存在。この世界のクリエイターだからなのか。

「揃っているな。答えは決まったか?」

 みんなの視線が自分に集まる。話さなければ。呼吸に震えが混じる。

「まだ時間がほしい」

「無理だ」無慈悲に答える男。

「不破の為に猶予を与えるべきよ。すぐに決められるわけないでしょう?」とマルス。

「私の次の来訪はまったくの未定だ。仕事の任期もある。これが最後の機会なのだ」

 結局、今、決めなければならない。どうするか。

 男が拒絶した場合のことは考えている。伝えるのだ。自分自身、このままでいく。家族は戻す。使徒に協力する。〈赤の雫〉で口にした言葉を思い出してそのまま言った。

 世界に変化を与えること。その説明に差し掛かり、言うべきか言わないべきか混乱する。

「それと、世界に変化を与えたい」

 結局、話した。理由も。変化の内容、天気のことを伝える。

「可能だ。メタトロンをその天候操作の操作端末とすることもできる。しかし、現実世界との齟齬が生じる。それは理解しているか?」

 齟齬? わからず沈黙する。

「ボックスが収集する気象情報、わかりやすく言えば天気予報との齟齬だ。天候操作が機能している間は、現実世界の天候の影響を受けない。

 そして天候操作の影響も限定的なものになる。例えば豪雨で川が氾濫もしなければ、暴風で建造物が吹き飛ばされ、倒れるようなこともない。現実世界の情報を優先している。現実世界でそれらが起きれば、この世界でも同様の現象が起きる。望んでいなくとも。また即座に天候が変わることもない。現象の誘導には多少、時間は掛かるだろう」

 男は説明をする。まさにそれは仮想世界のシステムの説明だった。

 天気操作のそうした影響までは考えていなかった。ただ自分の行動による変化がわかればと。天気なら一目瞭然だろうと。それだけの理由だった。

 これがいい案なのかわからない。だが男も反論はしなかった。

「では私はその準備に取り掛かろう。完了したら知らせる」

 男は了承し、そしておもむろに全員を見渡す。

「一つ、注意すべき点がある。ボックスはいわばこの世界の五感だ。ボックスが収集する情報でこの世界は形作られている。偽りの情報を与えられれば、世界はそのように形を変えるだろう」

 偽りの情報? 嘘の情報ということか。ではマルスの、使徒の思う儘ではないか。ボックスは使徒の手にあるのだから。そこにどんな情報を流すかも。

「世界の形が真実か否か。確かめるには協力者が必要になる。不破の側に立つ人間が」

 男が言っているのは、使徒ではない別の協力者のことか? つまりうたやモーフィアス、彼らに協力してもらえと?

「そのつもりだ」と、恐らくモーフィアスであろう男性が答える。どうしてそこまでしてくれるのか、と思った。

「では、私は不破の希望を叶えよう。そのまま失礼させてもらう。もう会うこともない」去ろうとする男。

「まって。ボックスの扱いがわからなければ壊してしまうかもしれない」

「ならばそれまで」

 マルスは食い下がるが、男はにべもない。

 男の冷淡な態度は何だ? 自分の創造主のくせにと思い、反射的に出てきたその不満、自分にとって信じるに値しないことへの反抗を馬鹿らしく思った。

「では、さらばだ」

 男はメタトロンを操作し、消える。何度も目にした消失。

 あっけなかった。これで本当に終わりなのか? 元通りになるのか。家族が戻るのか。どんなふうに? それに天候操作については?

「どうするの?」

 猫が誰ともなしに言う。

 まだ何も起きない。この場で家族が戻ってきても状況の説明に困ると思った。見ず知らずの人間が四人もいるのだ。家の中に。

「とにかく今後についてね」

 マルスはアドレスをメモ用紙に書いて渡してきた。

「これからはこちらで連絡を取るようにしましょう。それと、男が言ったことだけれど、我々がボックスに嘘の情報を流すことはないわ。不破の世界を変えるような真似はしない。恐らくそれをすれば手がかりが消えていしまう可能性がある」

 信用はできない。自分は何をされてもわからないのだ。

「ひとまずは状況を注視。対応を協議してまた連絡するわ。あなた達はどうするの?」

 マルスは他の三人に問う。

「全員、一旦戻るでいいんじゃない? ここにいても仕方ないし」

 猫と思われる女性が言う。なぜ彼女がここにいるのか、今になって疑問に思った。

「そうだな。状況がどうなったか知りたい。情報を整理する時間も必要だろう」とモーフィアス。

「ほら、うたも」猫が促す。うたと思われる女性はちらりとこちらを見、でも何も言わず、時々動きを止めながらもメタトロンを操作し、消えた。それを見届けて猫も消える。

「じゃあな、不破」

 次にモーフィアス、最後にマルスの順で消えて行った。

 居間に一人。夢から覚めたような感覚を再び覚える。

 皆、帰っていった。また彼らがここに来ることはあるのだろうか。これが最後だったのかもしれない。だとすれば、お別れを言えなかった。

 時計を見る。七時十分。沈黙に耐え切れず、テレビをつけた。緊迫した声、騒がしい中継の現場。行方不明の被害者が発見されたと報道していた。見入る。発見現場はオーヴァの関連施設や、関係のない無人の施設からも見つかったと言う。どうやら警察は被害者のナノマシンの情報を得たらしく、次々とその発信場所へ向かっているらしい。オーヴァの経営陣、幹部は身柄を確保された模様だと。

 皆、これを見ているだろうか。まだ被害者の安否はわからない。現時点で救出された人の氏名が読み上がられている。この中に、うたの友人の名前はあるのだろうか。

 あの男の言う通り、被害者は見つかった。これが事件の解決に繋がるのかわからない。ただの偶然か。

 階段を下りてくる音が聞こえ、どきりとした。誰だ? 男か? 

 母だった。

「もう朝はパンでいいわね」何事もなかったように言う。起きる時間が遅ければ朝食は簡単なものになった。

 唐突に戻ってきた現実に呆然とする。母の動きを眺めた。

「何?」

 その姿、声、反応はまぎれもなく母だった。自分の知っている母の。何の違和感もない。

「父さんは?」

 動揺を押し殺して言う。

「今日は遅くていいのよ」

 食事の支度を始める母。廊下からはどたどたと足音。妹の姿がちらりと見え、脱衣所の扉が閉まる音。少し遅い朝の風景。まれにある。

 途端に現実感が戻ってきた。家族の姿を見たから? 些細な会話をしたから? しかしテレビでは依然として緊迫したニュースが流れている。昨夜からの連続性を確認する。

 本当に日常が戻ったということなのか? 男の仕業か? それ以外にあるか?

 母もニュースを見る。画面が切り替わったところで再びキッチンに向かった。

「あんた昨日お風呂に入ったの?」

 言われ、気づく。昨日から着の身着のままだ。

 今日は平日。だから学校がある。行けというのか。行かない理由があるか? 母にはわからないのだ。昨日の出来事を知らないのだから。

 今更、学校に通う意味があるのか。確かに日常は戻った。しかし今までの生活を続けなければならないのか。

 学校に行けるような心境ではない。休むか。何と言って? 気分が悪いというだけでは納得しないだろう。母は理由なく休むことを許さない。

 行くふりをするか。しかしどこに逃げ込むのか。公園? 近すぎる。

「まだできないわよ」と食事の支度をする母から告げられる。

 部屋に戻った。何も変わっていない。昨夜の出来事の証拠を探す。うたからのメール。マルスから渡されたアドレス。そのくらいしかないが、しかし何よりの証拠だ。あの出来事は自分の幻覚、夢。もうこの考えに逃げるのはよそう。差し迫った問題に目を向けるべきだ。まずは学校に行くかどうか。行きたくない。訓練に身が入らないことはわかりきっている。

 行くふりをするか。考える時間が必要だ。自分自身が元に戻る時間が。

 どこで考えるか。邪魔が入らない場所とはどこか。落ち着ける場所は。

 行きながら探すしかない。出かける時間が迫っている。シャワーも浴びたかった。それに空腹でもある。例え自分が〈仮想の住人〉で、作られた存在であったとしても、しっかりと肉体の感覚はある。いつも通りだ。

 シャワーの熱さ、食事の味、すべてが新鮮で、しかしなじみのあるものであり、確かな現実感を得られたのは、単にそれらの行動の満足感からか。

 家を出る際、食事をとる父の姿を見る。変わらない。自分の知る父だ。

 外もいつも通り。晴れていてセルが走り、歩く人の姿を見かける。

 騒ぎを起こしてみるか。所詮、仮想世界だ。馬鹿げた考え。できもしないこと。そんな度胸がないことは自分が知っている。

 八時十五分。モノレールに乗った。ここでもいつも通り。

 暫くして、このままどこまでいけるか試してみようと思った。自分の知らない場所、これまでの行動範囲外の場所がどうなっているのか。思い立つと胸の内がざわついた。

 いつも降りる駅を通り過ぎる。当たり前のように景色は続く。不安で落ち着かない。

 どこかの時点でモノレールは止まってしまうかもしれない。そこから先の世界が作られていなくて。妄想を無視してモノレールは進む。

 海が見えた。傍に公園も。海に行く決心をする。恐らく行ったことのない場所、自分の知らない、初めての場所のはずだ。

 モノレールから降り、改札を抜け、海に向かう。砂浜に到着したところでメタトロンに着信があった。動揺する。学校から? それとも親? 誰からだ。時間が目に入る。八時三十分。

 モーフィアスからだった。「九時頃、そちらに行きたい。うたも一緒だ。話がある。大丈夫か?」と。

 何の目的で? 何の話をするのか? 今後についてか。

 辺りを見渡す。人影はまばら。ここならば邪魔は入らないだろう。九時まで約三十分。

 もしかすると、二人は自分に別れを言うつもりなのかもしれない。そうなら、どう返事をすればいいのか。しかし来るなとは言えない。

 自分の事も考えたいが、わざわざ来るのだ。もう次にいつ会えるかわからない。会ってもいい。

 疑問が沸く。彼らはどうやってここまで来るのだろうか。家からは遠い。家に戻らなければならないのか。

 彼らは家の近くに出現するのか。公園の時はどうだった? うたは確か、すぐ現われた。マルスも。

「近くに現われるはずよ」というマルスの言葉を思い出す。聞いてみるか。

「皆は、家の近くに出現するの?」

「マルスの説明によると、俺達は常に不破の近くに現れるらしい」

 そう返信が来て少しホッとする。ならばわざわざ家に戻る必要はない。

「今は浜辺近くの公園にいる」

「わかった。じゃあ九時に」

 ひとまず約束した。どんな話をするのかは聞けなかった。

 二人が来る。突然決まったことで、落ち着かない。

 海の近くに行く。泡立つ波。砂浜。綺麗ではない。白っぽいごみは砂浜の至る所にある。

 多分、ここに来るのは初めてだ。辺りに人がいないことはこの状況でせめてもの救いか。

 今、何を考えるべきか。二人のこと? 家族の事? 世界の事? このまま何事もなかったように日常に戻ること?

 日常に戻るしかない。何度、同じことを考えるのか。結論は出したのに。

 そにれ受け入れている部分もある。家族にしたって、半ば受け入れてしまっている。朝のやり取りで納得してしまったのか。恐らくそうだ。何の違和感もなかったのだ。

 世界が仮想世界か、疑いを持ち続ける事。それが大事なのに、流され、一部、受け入れている。そのほうが辛くないから。受け入れてしまうほうが楽だから。だがそれが危険だという側面も自分の中に存在している。

 自分の家族を、〈仮想の住人〉という理由で行動、存在を疑う。それは正しい事か? 

 家族を家族と認識する事。どんなに疑おうとも、それは消せない。男がそのように刷り込んだせいかもしれない。

 では家族を他人として見ることができれば、開放されるのか? 男の作り出した呪縛から? これは呪縛なのか。自分はこの世界の住人だ。家族を家族と認識することは間違いなのか。

 家族は自分から切り離せない。だから残したのではないのか。その決断が既に間違いだったのか。考えれば考えるほど、自分の決断に迷いが生じる。

 もう決まったのだ。今更どうこうできない。

 男から〈天候操作〉という手段を受け取れば、また考えは変わるか。男は本当にそれをくれるのだろうか。

 男は与えてくれないかもしれない。もしそうなった場合は? できることは、〈世界への疑い〉を持ち続けることだけか。

 二人のことは? 関係を続けてくれるなら、こちらも同じ気持ち。そう伝えたはずだ。

 モーフィアスは友達でいてくれるらしい。自分のような存在に。有難いが、彼の言葉を信じきれない自分がいる。

 うたは? 答えを出していない。なのに自分に会いに来るのか? お別れを言いにか。モーフィアスもそうかもしれない。心変わりしたのかも。それでもいい。しょうがない。

 自分が重荷になってはいけない。結局、一人で生きていくしかないのだ。この世界で。

 時間を見る。九時前。そろそろ二人が来るはず。こちちは彼らの姿がわからない。彼らはわかるだろう。公園に移動する。何のことを話すのか、不安を抱えて彼らを待った。


 九時十五分。こちらに近づいてくる男女二人が目に入り、動悸が早まる。

「よう」

 男性。体格がよく、黒い長髪を後ろで束ねているのが特徴的。恐らくモーフィアス。しかし彼から名乗らない限り断定はできない。

「モーフィアスだ」

 それを聞き、ほっとする。

「彼女はうただ」

 隣の女性が小さく頷く。どこかの女学生といった風体。

「どうかしたんですか?」

「いや、不破と直接話すなら今しかないとな」

 どんな話を? やはり別れを言いにきたのだろうか。

「何か変わったことはあるか? 家族は戻ってきたのか?」

「戻ってきました。日常も。今日だって、学校へいくつもりでした」

「今から?」

「なんというか、さぼりというか。行っても身が入らないと思って」

「そうか。どんな学校なんだ? 訓練校か?」

「えぇ。仮想世界を使った訓練を」

「仮想世界が使えなくなるのなら、これからが大変そうだが。うたの学校もそうか?」「私は芸術系の高校だから」

「そうか。働いているのは俺だけだな」

 そう言ってモーフィアスはメタトロンを取り出して操作する。

「これが俺だ」

 画面には男が映っている。これが現実世界のモーフィアスの姿か。様々な角度から、表情、ポーズをつけている画像が並ぶ。自分に見せる為にこれだけの写真を撮ったのだろうか。それとも自己愛の強い人なのか。だが使用用途と注意書き、金額の項目があり、その人物の外見が商品だと気づく。

「どこかで見たことがあるか? 〈仮想の住人〉のエキストラとしても結構利用されている。クリエイターとしてオブジェクト制作を請け負ったりもしているが、こうして自分を売りだしてもいるんだ」

 クリエイターだということは聞いたような気がする。

 正直、彼の姿に見覚えはない。そんなに多く仮想世界を利用していなかったし、〈仮想の住人〉のことを気に留めたこともあまりないのだ。

 クリエイター。だから彼は、自分に関わってくれるのか。彼の〈仮想の住人〉に対する考え、自分に対する考えはどんなものなのか。何故自分と関わってくれるのか。聞くべきか。モーフィアスはうたにも自分の姿を見せている。

「どうしてモーフィアスは自分に」関わってくれるのか。最後は声に出せなかった。

「俺は不破のことを〈仮想の住人〉だと見抜けなかった。今でも、割合で言えば半々ぐらいだろう。これから〈仮想の住人〉だと信じるかもしれない。しかし、それだけで関係を終わらせるつもりはない。もちろん絶対ではないが。長い付き合いになるかもしれないし、価値観の違いで離れることもあるかもしれない。それは他の人と変わらないさ」

 他の人と変わらない。自分も、人と変わらない。そんな風に彼の言葉を捉えるのは間違いか。今、自分は嬉しいのか。言い表せない感情が胸に広がる。不快なものではない。

「まぁ、事態の行く末を見たいという思いもあるが」

 付け加える。彼自身の欲求の為でもあるということか。

 彼は答えてくれた。自分はどうだ? 彼に心境を話すべきでは?

「自分が重荷になってはいけないと、そう考えていました」

「お互いに気負わず、今まで通りやればいいさ」

「でも仮想世界は」無くなる。お互いの繋がりが。

「他にも娯楽はあるさ。趣味に合うかどうかわからないが。遊びながらそれを知っていければいい」

 遊びながら。できるのだろうか。

「私も」

 うたが声を上げる。

「私も仲間に入っていい?」

 その言葉は意外だった。てっきりお別れをいうものだと思っていた。仲間。うたは自分の事を認めてくれたのか? どんなふうに? 仲間として?

 彼女は返答を待っている。顔を見ていられず、目を閉じて考える。どう受け止めればいい? 彼女の言葉を。

 うたが差し出してきた手を取るべきだ。自分は何を迷っているのか。こうしている間にも彼女を不安にさせているはず。しかし釈然としない。うたとの関係は終わったものと勝手に思い込んでいた。だから予想とは違う事態に困惑している。

 あの時の気持ち、二人が関係を続けてくれるならば、自分もそうする。その決意を思い出す。しかし気持ちはあの時のようにはならない。うたの気持ちに答えたい。けれど答えられない。気持ちがついてこない。どうして手を取れない?

「光春、あの」

 うたの声。目を開く。

「私も同じなんだ。モーフィアスと。これからのことはわからないけど、光春とは仲間でいたい」

 仲間、か。

「それと、色々協力してくれてありがとう。私の友達も無事だったよ」

 朝のニュース、救出された被害者。それで安否がわかったのか。よかった。素直に安堵した。

うたの友人の問題が気がかりだったわけではないのに、聞いたら気持ちが楽になっていた。もしくは彼女が自分に対して話をしたからだろうか。どちらでもいい。

「よろしく、うた」

 まだ胸にはわだかまりのような釈然とした思いは微かに残っていたが、その言葉は自然とでてきた。

「うん」

 彼女の笑顔を見て、何故だか恥ずかしくなった。そして今度ははっきりと嬉しさを感じた。


「さて、これからのことだが」とモーフィアス。

「事件が解決に向かっているとしても、使徒は不破の世界を手放さないだろう。不破の世界でオーヴァの痕跡を探す。だが、不破の協力がなければ何もできない。やりたくないこと、言いたくないことは伝えなくてもいい。奴らにはわからない。不破が使徒に協力したいのなら別だが」

 使徒への協力。世界を破壊されない為にはそれしかない。しかし無理難題を言われたらどうする? やりたくないことを。もとよりそのような要求は拒否するつもりだった。モーフィアスの言う通り、こちらが動かなければいいと。

 だがその反抗で脅されたら? 言うことを聞かないだけで世界を壊されるとは思えないが。

「内容次第ですね」

 とはいえ、はじめから協力を拒否するつもりはない。できる範囲で協力する心づもりはある。

「気がかりなのは、これで何も見つからず使徒の調査が終了した場合、不破の世界をどうするかだ。解体されて構造を調べられるか、もしくは状態を維持しつつ保存されるか。その点は聞くしかないな」

 不安がさっと身体に広がる。使徒にとって自分の世界が価値のないものになったら。世界を残してくれと懇願するしかないのか。彼らがそれを聞き届けるのか。

「使徒が不破の世界への情報操作を行う可能性は低いだろう。それで調べる対象が変質してしまえば元も子もない。もちろん言葉を鵜呑みにするのは危険だし、気を付けなければならないが。しばらくは使徒に対して協力的な態度をとっていた方がいいかもしれない。様子を見る為にも」

 確かにそのほうが安全だと思う。

「俺への連絡は、さっき見せたページにアドレスが載ってある。これからはそちらを使ってくれ」

 早速、見せてくれた彼のページを探そうと自分のメタトロンを取り出す。

その時、別の通知に気づく。新しいアプリケーションのインストール通知だ。記憶にない。見てみる。デフォルメされた太陽、雲、水滴の絵柄のアイコン。直感する。男が言った天候操作だ。そのアプリか。

起動する。簡単な画面だ。アイコンと同じ三つの絵柄が並び、その下に数値がパーセントで表示されている。今はすべて0%になっている。試しに太陽の数値を操作する。空に何も変化はない。

「どうした?」

 二人にも説明する。

「色々と試してみるべきだな」

 今度は水滴の数値を100%にしてみる。恐らく雨を示していると思われるが、頭上の空に変化はない。だが彼方の雲の色が少し暗くなったように思える。もとからそうだっただろうか。

「雨の情報はないな。今日の東京は快晴らしいが」

 モーフィアスはネットで天気を調べている。その天気情報も、この操作によって変化するのだろうか。

少し待っていると、太陽が雲に隠れた。灰色の雨雲が徐々に近づいている。明らかに天気が悪くなってきている。さらに待っていると、水滴がぽつぽつと降ってきた。

「雨宿りできる場所に行こう」

 近くの建物に移動する。コミュニティセンターとある。誰もいない様子。中には入らず、玄関で雨をしのぐ。本格的に振り出す雨。灰色の空。すぐに土砂降りになった。しかしネットの気象情報には変化はない。

「どうやらそれが天候操作の手段らしいな」とモーフィアス。

 ネットの情報更新が遅いだけ。その希望は時間が経つにつれてしぼんでいった。

 天気の操作。男はこちらの要求を叶えた。これでこの世界は仮想世界だと証明することができた。

 だが、証明してどうなる? この世界は仮想世界。そんなことはもうわかっている。受け入れている。仮想世界。でも自分にとっては現実世界なのだ。

 今、このような心境にあるのは、二人が傍にいてくれるからなのか。二人が離れていたら、こんな風には考えらなかったのか。

 二人との関係は絶対ではない。今後、二人が離れてしまったら?

 それでも生きていくしかないのだ。しかし、これも強がりだろうか。わからない。

「不破、今度は晴れにしてみてくれ」

 雨音に消されないよう大声で言われ、その通りに操作する。太陽の数値を100%に。

 少し待つと、雨脚は弱まり、やがて止んで、雲間から光が漏れた。さらに待つと雨雲は去り、晴れに。これは男が用意した天気を操作する機能。それにもはや疑いはない。

 大地はぬかるみ、水たまりができている。

「写真でも撮ろうか」とモーフィアスから突然の提案。

「写真?」うたが応じる。

「記念にな。言ってみれば、これはオフ会みたいなものじゃないか?」

 オフ会。自分の現実世界に現れた二人。だがそれは二人の真実の姿ではない。中身は、確かに二人かもしれないが、外見は違うのだ。

「不破にとっては、そう思えないかもしれないが、俺にとってはそうなんだ。不破の現実世界で会って、こうして話をしている。俺の身体は違うが、性格が違うわけじゃない。今が素の自分だ」

 素の自分。モーフィアスであった時も役を演じているふうではなかった。真実なのだろう。だが、、まだ納得できずにいる。

 自分は何をもって目の前の二人を彼、彼女だと判断しているのか。外見ではない。中

身だ。つまり心、性格、精神。〈赤の雫〉での二人であると、最初の名乗りからそれを

信じている。何故? あの時は言われるがままに信じてしまった。

 しかしこうして話をし、接する二人の態度が、モーフィアス、うたなのだと信じさせる理由になっている。

「無理にとは言わないさ。悪かった。自分勝手だったな」

 沈黙が長引き、彼のほうから提案を引き下げる。このまま断っていいのか。確かに記念にはなるだろう。こんなことはもうないかもしれない。記念か。それでもいいか。

「撮ろうよ」とうた。

「私も、撮りたい」

 彼女もモーフィアスと同じ気持ちなのか。中身、心が大事だと。

 それは否定しない。彼、彼女だと判断している理由はそれだから。あるいはこの状況か。いや、もうよそう。目の前の二人を自分の知る二人だと認識している。それをあえて疑うことはしたくない。

 しかしまだ完璧ではない。外見の問題を消化できていない。消化できないまま、写真を撮ってもいいのか。

 写真を見ても、二人のことを思い出せなかったら? 今の姿を見てもモーフィアス、うただと結び付けられなかったら? そんな写真に意味があるのか。

 待て。自分にとって、彼らの外見はそんなに重要なのか? 心だけではだめなのか。外見を含めてその人物本人だというのか。

 では、断るのか。撮りたくないのか? 記念。思い出……

「撮ろうか」

 状況に押されて、その言葉を口にした。二人が賛同しているのに、断れない。拒絶の気持ちがなかったことも理由の一つだろう。

瞬間、これが別れの儀式のような気がした。これからも二人がこの世界に来ることができるかわからない。

うたが笑顔でいる。どんな表情でいればいいかわからず戸惑い、逃げるように空を見上げた。


「ここにはよく来るのか?」

 並んで海に向かう途中、モーフィアスが聞いてきた。

「いえ。ただ普段とは違う場所に行こうとして、なんとなくここに着きました」

「なるほどな。世界に対して違和感はあるのか?」

 違和感。今のところそれはない。

「気を抜いたら、仮想世界であることを忘れてしまいそうになります。自分の日常が戻ってきたような気がして」

「ある意味、それでいいかもしれないな」

 それでいい? どういうことか。

「自分の世界が仮想世界。その考えに囚われ続けるのもよくないだろう。生活の中で仮想世界であることを意識することが多ければ、常にその疑問を突き付けられ、耐えられなくなるかもしれない。現実世界だと思えることは悪いことじゃない。まぁ、これは俺の考え方だが」

 悪いことじゃない。しかし完全に現実世界だと思い込むことも危険なのだ。だから、天気の操作という手段を望んだ。仮想世界であることを忘れない為に。

「自分を生かす為に、どんなふうに物事を捉えるか。ものは考えようってやつだ」

 ものは考えよう。仮想世界であり、そして現実世界である。完璧に現実世界と思うことは危険。しかし、仮想世界だと考え続けることもよくない。

「どこで撮るのー?」

先を歩き、砂浜に到着したうたが叫んでいる。

「行くか」

 三人でいた時はこのようなやり取りがあった。少しは戻れたのか。以前の関係に。戻ろうとしているのか。二人とも。

 雨の降った後の砂浜は足場が悪かったので、公園近くに移動。海を背後に三人、並んで写真を撮る。

 メタトロンのカメラを起動、離れた場所に設置し、撮影する。

 撮影した写真を見る。うたはピースをしている。モーフィアスも腰に手を当て、ポーズが様になっている。ただ突っ立っているだけの自分が間抜けに見えた。

「さて、俺は一旦戻る。うたはどうする?」

 うたは少し考えた後、こちらを見て「私も帰るね」と告げた。頷くしかできない。

 やはりこれは別れの儀式だったのだ。しかしこの世界に残ってもらっても、何をすると言うのか。傍にいてくれと? そんなことは頼めない。

「写真は後で送ってくれ」

「私にも」

「わかりました」

 これが恐らく最後。だが言葉が見つからず、何も言い出せない。メタトロンを操作する二人をただ見つめる。

「それじゃあまたな、不破」

 モーフィアスと視線を合わせる。

「はい」答えた瞬間、モーフィアスは消えた。初めからいなかったように。大事なものが消えたような感覚に襲われ、愕然とする。

「またね、光春」

 うたとも視線を合わせる。答えれば、うたも消えるだろう。しかしそれを引き止めることもできない。

 目を閉じて、一呼吸する。別れを言う為に。

「あぁ」

 そしてうたも消えた。最後の瞬間、彼女は笑ったような気がした。

 今、一人きりで立っている。右側からは波の音、左側からは街の喧騒が聞こえる

 二人に感謝を伝えるべきだった。自分のような存在と関係を続けてくれることに。それすらも、二人がいなくなってから思いつくなど。自分は、どうしようもない。

「また」二人はそういった。二人が再び来ることはあるのだろうか。期待していいのか。これからどうなるかわからないのに?

 二人が立っていた場所に近づき、手を伸ばす。何の感触もない。何も考えられず、呆然と立ち尽くした。

 左手にあるメタトロン。写真を呼びだす。確かに存在する。二人はいた。そして今はいない。悲しみがじわじわと広がる。

 ベンチに座ろうとして、濡れていることに気づく。これも証拠だ。雨が降ったという。仕方なく三人で雨宿りした場所に向かい、座り込んだ。

 生きていくしかないんだぞ。この世界で。何も考えられなくなった頭に、そう言い聞かせた。

 

 そしてその日の正午、オーヴァのナノマシンは機能停止した。

 


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