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こうして〈自分の世界〉へと戻り、皆と合流したが、彼らが〈自分の世界〉に来た意味はなかった。
家族は消えていた。
部屋で目覚め、また別人の姿で現れたマルス達と家の外で合流し、その場で現実世界に戻る方法を聞いた。
結果、自分は現実世界には戻れなかった。以前、メタトロンの機能を調べた時に気になったアプリがやはりその正体だったが、反応しなかったのだ。マルスから手順を聞いてその通りにしても。他の人のメタトロンを借りて試しても。
ここが現実世界だから戻れないのか。それとも自分が〈仮想の住人〉だから戻れないのか。結果を受け入れられず混乱する自分に、マルスは家族との接触を要求した。
時刻は朝の五時前。家族は寝ているはずで、まずは起こさなければならない。躊躇した。
「不破が動けないなら、私がやるわ」そう言って家に入ろうとするマルスを引き止めた。その時点では家に誰も入れたくなかった。
外で待たせ、一人、両親の部屋の前で立ち尽くす。どう話を切り出せばいいのか。そもそも家族はここが仮想世界だと知っているのか。自らを〈仮想の住人〉だと自覚しているのか。
部屋の中の様子を見るだけ。考えに区切りをつけてドアを開ける。明かりはまだ点けない。目を凝らし、部屋の輪郭を探る。自分の部屋よりも広い。大きなベッド、机、テレビモニタ、閉められたカーテンを見分ける。ベッドの上にはふくらみがないようだった。人が寝ているはずのふくらみが。そして息遣いも聞こえない。ある事実を確信して明かりをつける。ベッドには誰も寝ていない。部屋に入り、探した。確信した通り、どこにも両親の姿はなかった。
こんな時間にどこへ行ったのか。玄関に下りた時に居間を通り過ぎたが、いなかった。
他の部屋を見て回る。キッチン、客間、トイレ、お風呂、地下。どこにもいない。最後に妹の部屋を覗く。半ば予想していたが、妹もいなかった。
これはどういうことか。探している途中でそれに気付いていたが、あえて考えないようにしていた。
これがナノマシンによる人体操作、誘拐の可能性ということはないか? しかし、あり得ない。家族が〈赤の雫〉を利用しているわけがない。
ではなにか? あの男の仕業だということ。あの男が家族を消した。証拠はない。だが他に説明ができない。
この瞬間にこそ、ここが仮想世界なのだと一番強く認識した。理解した。決定打になった。衝撃と、家族がいなくなったことへの不安で立っていられなかった。
玄関から自分を呼ぶ声。家中の明かりをつけて探し回ったので、外の皆も異変に気付いた。無視できず、事態を話して家に入れた。
すぐに各部屋を調べ始めるマルス。されるがままにし、自分は居間に入った。残りの三人も後に続く。
「座っていいか?」「テレビをつけても?」問われ、ただ頷くしかできなかった。
目に映る状況。知らない人達が居間にいて、テレビ、そしてメタトロンを取り出して何やら操作している。だがその中身は知っている。うた、モーフィアス、猫だ。
自分が衝撃を受けているから、皆は気をつかって話しかけてこないのか。多分そうなのだろう。しかし三人がいることで考えにも集中できない。テレビのニュースも、だ。オーヴァのナノマシンの使用停止。各地の施設を捜査。いつの間にそんなことになっていたのか。
自分はこれからどうなるのか。この場で何を考えなければいけないのか。
「手がかりは消されたようね」
居間に入ってきたマルス。言葉は胸元にあるメタトロンから日本語で。会話は男の時と同じく翻訳機能を用いていた。
そこで居間の隅に立つラティに気づき、探している手がかりかもしれないと伝えた。マルスをこの世界から強制退去させた時のラティの言葉を。調べたが、ラティも反応しなくなっていた。故障か、それとも男が何かしたのか。恐らく後者。
「今すぐにできることはなくなったかもしれない」
テレビを消し、マルスが言う。話の邪魔になるから消したのだ。
「でもこの世界の調査はこれからも継続したい。不破の家族以外にも手がかりが残されているかもしれない。しかしそれを調べるには時間を要するでしょう。そこで問題は、この世界の今後について。
使徒はこの世界を残すつもり。外から今の状態、ボックスに繋がった状態を維持し、解析を続ける。けれど内側は不破の問題になる。不破がこれからどうするか。男は七時にまた現れると言った。その時、不破の答えを聞くと。不破自身は、これからどうしたいの?」
どうしたいのか。まずはこの世界が仮想世界かどうか確かめる。それは達成した。ここは仮想世界。しかしそれからのことは、まったく考えていない。
「使徒としては、今の状態を維持して不破にも内側から調査に協力してもらいたい」
内側から調査に協力。何をするのか。黙って言葉を待ったが、それは語られなかった。
「ひとまず男への返答は引き延ばせればそれがいい。まだ接触の機会を失いたくはない。それに不破の家族も可能なら戻してもらいたい」
家族を戻す。こっちのことなど考えず、一方的な要求だ。そもそも男は引き延ばしなど許すのか。
「不破本人が決めることね」
そう言ったのは猫だった。
「人間と変わらないらしいじゃない。だったら本人の問題よ」
彼女はこちらを見て言葉を続ける。
「不破も、外の世界を気にする必要なんてない。嫌なら記憶だって消せばいい。好きにできるんでしょ?」
男は確かにそう言った。好きにさせると。記憶も消せると。
「せっかくのチャンスなんだから自分の望む世界にすればいいのよ」
チャンス。そんな風に考えなかった。自分の望む世界。何も思い浮かばない。
「おい」
男性が猫に声をかける。モーフィアスだ。
「何?」
「無責任なことを言うな」
「私は可能性を話しているだけ」
猫は再びこちらを向いた。
「仮想世界なんて所詮クリエイターの願望なんだから、不破が要求しなければいいようにされるだけ。そもそもこの世界の人間なら、現実世界のことなんて気にせずにこの世界で生きればいいのよ。ここが不破の現実でしょ」
住人は住人らしく。言葉からはそんな印象を受けた。
「男が現れるまであと一時間半」
マルスに言われて時計を見る。すでに五時半を回っていた。
「この問題を考える時間も限られている。けれどこうなった以上、ここに不破を残したくない。不破も消される可能性がある。この世界に残ることは危険。〈反逆の園〉にいてほしい」
もう一度、〈反逆の園〉に。モーフィアスが反対する。
「信用できないな。あそこは使徒にとって都合のいい世界だ。薬や催眠で誘導しないとも限らない」
「今の彼を見てもわかるように、影響はないわ」
「〈赤の雫〉だ」
一瞬の沈黙。
「そこなら不破も一人になれる。どこにいるのかもわかる。それに今更だが、彼が俺の知っている不破かどうか。この問題に付き合ってから〈赤の雫〉で不破に会っていない。彼を不破だと思っているが、確信はない。〈赤の雫〉でならそれも確かめられる」
マルスは目を閉じて少し考え「それでもいい。私も同席する」と言った。
話についていけなかった。何故〈赤の雫〉に行くことになったのか。ここが危険だから〈赤の雫〉に移動しろと。何が危険なのか。自分も消される可能性があると。男は自分を残すのではないのか。だからこれからのことを考えるのではないのか。
なぜ消されるのか。証拠だからか。自分はマルスの言う転移やオーヴァと関係があるから。証拠としての価値。だが自分にそんな価値はない。オーヴァのことも、転移のことも知らない。でもそれは関係ないのか。自分が知らないだけで、その情報は自分のどこかにあるのか。そしてあの男の考え次第でいつでも消される可能性がある。だからここにいるのは危険だと。
家族は証拠だから消されたのか。もう会えないのか。望めば会えるのか。それからの生活は? 記憶を消した方がいいのか。
先のこと。これからのことをこの場で考えたほうがいいのか。それとも〈赤の雫〉で考えたほうがいいのか。
ここに残ると言えばどうなるのか。自分が消されないとは限らない。あの男次第。なら、取れる選択は一つ。〈赤の雫〉に行って考える。それしかないのか。マルス、モーフィアスは〈赤の雫〉に行くつもりだ。他の二人はわからない。それにモーフィアスは疑っている。自分が不破光春かどうかを。
沈黙が続く。また皆が自分の答えを待っている。自分の選択を。
一つしかない。ここには残れない。〈赤の雫〉に行くしかない。だが……
大きく息を吐く。
「先に行ってくれ」これだけでは言葉が足りないようだった。「後で行くから」
「では、そうしましょう」
マルスが促し、まずうたと猫が目の前から消える。
「時間はないから、早くね」
そう忠告してマルスも消え、モーフィアスだけが残った。
「大丈夫か?」
聞かれ、頷く。話があるのかと思ったが、モーフィアスもそれを聞いただけですぐに消えた。
ひとりになった。こうなることを望んでいた。ひとりで考える時間。それが必要だということは、ついさっき〈反逆の園〉で学んだ。周りに人がいては状況に流されるだけ。特にマルスがいては。
これからどうするか。改めて考える。このまま〈赤の雫〉にいかなくてもいい。だがここに残ることも危険。
隅で立っているラティが視界に入る。自分の家の居間。見慣れた場所。それでも不安になった。ラティの姿が不気味に映った。
早足で自分の部屋に戻り、鍵をかける。怯えていた。自分の家なのに。
自分は消されるのか。男は自分を残すのではないのか。では家族は何故消されたのか。〈赤の雫〉は安全なのか。あちらに行っている間に、こちらの自分が消されたらどうなるのか。
わからない。どこが安全なのか。
消されるかもしれない。しかしそれはマルスの言葉だ。現に今、自分は無事だ。自分は大丈夫。しかしそれだけでは安心できない。自分はこれからも無事だという証明。それは男の言葉のみだ。消される可能性がある以上、ここで冷静に考えることはできそうもない。
それにもう皆は〈赤の雫〉に行ってしまった。自分の答えによって。また自分は状況に流されたのか。いや、こればかりは自分のせいだ。行動に移せぬまま時間だけが過ぎていく。結局、ここでも気持ちの整理ができないまま、〈赤の雫〉へ向かった。




