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「来たわね。あの男について話し合っていたところよ」
〈反逆の園〉で指示された一室〈最後の晩餐〉に着くと、自分と同じくローブを纏った人間が四人、長机を囲んでいた。そのうちフードを下げて顔を見せているのはマルスだけだ。他は誰が誰なのかわからない。恐らくうた、モーフィアス、猫なのだろうが自ら名乗ることはなく、自分が近づくとマルスが話を始めた。彼女自身の口から。よどみのない流暢な日本語で。
現時点では、あの男は何の証拠もない話をしたにすぎないこと。使徒が確認しているのは仮想世界を行き来している不破光春、つまり自分と、〈自分の仮想世界〉、その保存媒体に接続されている〈ボックス〉と呼ばれる機器だけ。
男の話がこちらの注意を逸らすための作り話なら、無駄な時間を過ごしたことになる。仮想間の転移技術、自分とオーヴァの関係について何もわかっていない。では事実だとすれば? 〈栽培者〉や〈使者〉という地球外生命の存在、採取という人口消失への脅威。それに備えるには? 阻止するには? 問題の規模は遥かに大きくなる。
しかしこんな話を誰が信じる? 確かめる方法は? それはまた別の問題。今は行方不明者たちを救出する為にできることを優先する。それにはやはり〈自分の世界〉で転移技術とオーヴァとの関係性について調べる必要がある。男が現れる前の、皆が〈自分の世界〉に訪れた目的。
「男はこちらの調査の妨害をするために現れた。そう考えるのが妥当。不破が戻り、三人が〈不破の世界〉に入った矢先に男は出現した」
確かに、これからというところで男は現れた。
「けれど私の制限を解除したところをみると、男は実在するクリエイターか、あるいは〈不破の世界〉の管理権限を持つ住人か。男が不破に関する情報、転移技術やオーヴァにまつわる情報を〈不破の世界〉から消さないとも限らない。私達が帰った後で、〈不破の世界〉に何か変化はなかった?」
変化。思いつかない。家までの帰路に人の姿が見当たらなかったことくらいだが、早朝ならそれほどおかしいことではない。わからないと答えた。
「ともかく、もう一度〈不破の世界〉を調べたいのよ」
そうマルスは言うが、男と別れてもう三十分は経っている。手遅れではないか。そもそも見つからなかったら?
「既に消されているかもしれない。見つからないかもしれない。けれど調べてみるまでわからない。使徒が不破を見つけたように、あの男が、いいえ、〈不破の世界〉を創ったクリエイターが見落としている綻びがどこかにあるかもしれない」
綻び。つまり手がかりか。ではラティがそうなのだろうか。〈自分の世界〉が現実世界のように作られているなら、ラティの言動はそぐわない。〈自分の世界〉から誰を退出させたかを知らせるなど。システム的な発言だ。
「まだ私達がついていく必要はあるの?」
フードを被ったうちの一人が発言する。声の調子から恐らく猫だと判断した。
「私が〈不破の世界〉に入れなかったから、あなた達の協力が必要だった。けれどその問題も解決した。協力してほしいけれど、無理強いはしない」とマルス。
だが自分はまだ調査に協力するかも決めていない。勝手に話が進んでいる。拒否しなければ。しかし声を出せない。拒否してどうなる? もう一度〈自分の世界〉を調べるべきではないのか。そうすべきだと考えたのではなかったか。ラティを調べると。
「私は不破に関わる理由がある。そしてこれは不破の為にもなるはずよ」
自分の為になるだろうか。それに不破、不破光春。自分の名前。しかし本当の名前ではない。〈赤の雫〉での名前だ。
「俺も同行する」
男の声。モーフィアスか。
「最後まで関わらせてもらう」
たったそれだけの理由で協力するのか。彼を見る。フードの影に隠れて表情は窺えない。
「私は」
彼の隣の人物が言いよどむ。猫ではない。ではうたか。
「私も、行く」
数秒の沈黙の後、そう答える。彼女がついてくる理由は何だろうか。何もないのではないか。雰囲気にのまれて答えただけではないのか。
「うたが行くなら私も」
猫にはそれしかないのだろうか。うたと行動を共にすることしか。
三人が、また自分の世界にくる。無理についてくる必要はないと言うべきか。
沈黙。マルスが自分の返答を待っていることに気づく。いや、全員が待っている。この状況、この沈黙は何度目だ。だが、こうして自分の答えを待ってくれている。強制ではない。しかし他に選択肢はないように思えた。拒否できるか? してどうなる? 一人で〈自分の世界〉を調べるのか? できるのか?
自分がこれからどうしたいのかわからない。この調査に乗り気ではない。しかしやりたくないというわけでもない。その中間のような気持ち。どちらでもいいということではない。決められない。
葛藤を言葉にできないぶん、息づかいが大きくなる。黙っていても何も起きない。誰も何も言わない。いっそ強引に決めてくれた方がましだ。
どうするか決めなければ。自分が答えなければ。
この調査以外に何ができる? なにもできない。何をすればいいかわからない。調査するしかない。〈自分の世界〉を調べるしかない。しかし気持ちをそちらへ向けようとしても、向かない。動かない。なぜか。
「不破、急かすわけじゃないけれど、あまり時間はないわ」
マルスが言う。急かすわけじゃないだと。急かしているではないか。
考えは変わらない。気持ちが動かない。決められない。なぜか。どうでもいいと思っているのか。
「ごめんなさい」
マルスが謝る。
「性急だったわね。こんな事態になって不破が混乱するのも当然だわ」
その通りだったが、今更何だ?
「けれどずっとここにいるわけにもいかないでしょう。いずれは〈自分の世界〉に戻らなければならない。あの世界が不破の基点だから」
基点? 聞きなれない言葉。流した。
「だから不破は〈自分の世界〉に戻るだけでいい。いるだけでいい。調査はこちらで行う」
自分がいないと世界が動かない。だから戻るだけでいいと。自分は何もしなくていいという。その提案を聞いても気持ちは動かない。
〈自分の世界〉に戻る意味があるのか。どうして戻る? 何をしに戻る? 自分の家。部屋に。戻る意味が見つからない。しかしここにいる意味もない。この体は借り物。この世界の中だけの身体。どこにも自分の身体がない。現実世界がない。
「それに七時になればあの男が〈不破の世界〉に現れる。不破がこれからどうするのか答えを聞くために」
そうだった。男の存在を思い出す。
「これからどうするかを決める為にも、〈自分の世界〉を調べることは大事だわ」
これからどうするか。調べることは大事。言葉が頭を通り過ぎる。動けない。何も答えられない。
「先に〈不破の世界〉に行っているわね」
マルスの言葉に耳を疑う。彼女はそれ以上何も言わず、自分の横を通り過ぎ、扉を開けてそのまま姿を消した。こちらは何も答えていないのに、〈自分の世界〉に行ったのか。閉まる扉を茫然と見つめる。まだ部屋に三人は残ったまま。しかしそちらを振り向けない。マルスの突然の行動に動揺していた。
「不破がいないと〈不破の世界〉は動かないんじゃないの?」
後ろから猫の声。
「不破を急かしているんだろう」
急かす。早く戻れと。自分が動かないから、マルスは行動にでたのか。引き止めることもできなかった。
「で、どうするわけ?」
猫は自分に言ったのか。それともモーフィアスか。恐らく自分。だが何も答えられない。
「じっとしていても何も動かないわよ。私には関係ないけれど」
関係ないなら何故関わるのか。
「不破には時間が必要だ。一人でこの問題を考える時間が。急かしても不破の為にならない」
考える時間。一人で。
「先に〈不破の世界〉に行く。あのままではマルスが〈不破の世界〉で何をするかわからないからな」
何故モーフィアスまで〈自分の世界〉に。マルスが何をするというのか。
「不破」
呼ばれ、振り返る。
「この問題について、俺はまだ何も言えない。ただ、これでお前との関係を切ろうとは思わない。今の俺の気持ちはそうだ」
何を言い出すのだろうか。関係を切ろうとは思わない。それが今の気持ちとは。
「うたはどうする?」
「えっ」
モーフィアスは隣のうたに尋ねる。
「不破には一人の時間が必要だ。一緒に〈不破の世界〉に行くか?」
どうしてうたまで誘うのか。成り行きを見つめる。うたは少し考え、うんと答えた。
「うたが来るんだ。君も来るんだろう?」
次にモーフィアスは猫に聞いた。
「えぇ」
二人に部屋を出るように促すモーフィアス。うたと猫が自分の横を通り過ぎる。扉の開く音。そして閉まる音。次に無音。
「マルスや時間のことなんて気にせずに考えればいい」
それだけ言うと、モーフィアスも部屋を出て行った。
再び一人になった。深呼吸する。場の空気がずっと苦しかった。
皆、〈自分の世界〉に行ってしまった。そこで自分を待つと。結局、現実世界へ戻る方法も聞けないままだ。状況に流されてしまった。もう一度、〈自分の世界〉を調べるなんて言うからだ。それに気を取られた。
全員が、〈自分の世界〉を仮想世界だと認識している。モーフィアスですら。みんなにとっては仮想世界。だから仮想か現実かという疑問は無視されている。自分はそこで止まっているのに。
仮想世界かもしれないと思う理由。マルスや皆の証言、態度。目の前で人が消えたこと。別人が現れ、人格が入れ替わったようにそのまま会話が続いたこと。自分の記憶。家族との生活の疑問点。
現実世界だと思う理由。自分の現実感。男の事や起きた現象が全て幻覚だという可能性。
現実か仮想か。それ確かめる為にも戻るべきか。ラティを調べるべきか。もし仮想世界だったら? どのように生きていくのか。知らない。わからない。世界を自由にできる。想像できない。世界のことなんて知らない。
現実世界だったら? 自分は何らかの記憶障害で、皆で自分を騙しているだけだったら?
ここでじっと考えていても、またマルスが呼びに来るだろう。何を決めろと言うのだ。何も決まらない。想像できない。世界のことも、これからのことも。
まずは仮想か現実か、確かめることを優先すべきなのか。メタトロンで現実世界に戻る方法。そしてラティを調べる。それからだ。今後を決めるのは。
皆が待っている。〈自分の世界〉に戻るか。戻るしかない。どこで待っているのだろうか。家の中か。鍵はかけた。中には入れないはずだ。目をさまし、皆が部屋の中にいるというようなことはないはずだ。いるとすれば家の外だろう。
まずはメタトロンで現実世界に戻る方法を聞く。何を今更と言われるかもしれないが、そうしなければまた状況に流されるだけだ。
何とかそれだけ決めることができた。しかし決めただけで、気持ちは整っていない。考えと気持ちが一致していない。
皆が出て行った扉を見つめる。身体は動かない。
皆と合流したらどうなる? 恐らく家族と会わせろと言われるだろう。その前に、まず自分にとって重要なのは本当に仮想世界なのかどうか。だから最初にそれを確かめたい。メタトロンで現実世界に戻る方法を教えろ。そう言う。
頭で何度かその場面を想像する。そうやって気持ちを整えようとする。深呼吸を繰り返し、ふとしたはずみで扉を開けた。まだ入らず、白い靄が揺らめくさまを間近で見つめる。
最後まで気持ちを整えることはできなかった。ただ先に進まなければという焦りが不意に大きくなり、体を動かして〈自分の世界〉へと戻らせた。




