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皆が目の前から消えて、部屋に一人、とり残された。
ここで何をしている? 不意に頭をよぎる疑問。その源泉をすぐに悟る。
しんと静まり返った部屋に自分だけ。男や皆がいた痕跡がこの場から完全に消えたこと。それが今、夢から覚めたような、現実に立ち戻ったような気持ちにさせている。
ここは自分の知らない部屋、知らない人の家だ。漠然と不安になり、早足で家から逃げた。庭を抜け、外の歩道で立ち止まり、振り返る。家の明かりはついたまま。誰も出てくる気配はない。そもそもこの家に誰か住んでいるのか。男があの話をする為に案内した家。それだけの役割しかないのでは。
空が白んできていることに気づく。男が言うにはもう朝の四時前らしい。それでもまだ街灯が頼りになるくらいに辺りは暗い。
ここでじっとしていても仕方がない。歩きだして、だがすぐに立ち止まる。どこに行くのか。自分の家に戻るのか。その必要があるのか。
〈反逆の園〉に行く為には部屋に戻らなければ。メタトロンもそこにある。戻る理由を見つけて歩きだす。
早朝だからだろうか。人の姿はなく、セルも動いていない。自分の息遣いと足音だけが耳に届く。足取りは重い。家に帰りたくないのか。わからない。不安を和らげようと深呼吸を繰り返す。
あの家での出来事。男の話をどう考えればいいのか。馬鹿らしい話だと言えばそれまでだ。信じられるか。ここが仮想世界で、自分はあの男の家族との生活の為に作られた人格。〈栽培者〉、宇宙人、オーヴァはその手先。人類を花に例えて、その採取が目的だと。とても真面目には考えられない。どれも突拍子がなく、現実感のない話だ。
現実感。立ち止まり、そばにある外壁を撫でる。手は白くざらついた。この感触。これは現実ではないのか。判断できない。
皆がメタトロンを操作し、次々と消えていく光景を思い出す。あの家での、ほんの数分前の出来事。人が一瞬で消える。仮想世界でなら可能だ。しかし目の前で起きてなお、信じられない、信じきれない気持ちがある。こうして一人でいると、あの家での出来事はすべて自分の幻覚なのではないかと、そんなふうに考えてしまう。
この世界は仮想か現実か。答えは出ないまま、ほどなく家に到着する。明かりはついていない。当然だ。まだ朝の四時。誰も起きていないはず。玄関の扉に鍵はかかっていなかった。自分が出ていくときにかけ忘れたのか。恐らくそうだ。だがここが仮想世界なら、鍵の必要もないのでは。
家の中に入り、鍵をかける。暗く静かだった。誰も起きていない。足音を殺して二階に上がる。廊下の先にそれぞれの部屋の扉が見える。父、母、妹は部屋で寝ているのだろうか。そこにいるのだろうか。確かめる勇気はなく、自室に入った。
部屋の明かりを点ける。何もおかしいところはない。自分の部屋だ。戻ってきた。それだけで少し安心できた。ベッドの上に置いてあるメタトロンを手に取る。その瞬間、自分も皆のように現実世界に戻れるかどうか試したくなった。モニタを展開してアプリケーションと機能を一つ一つ調べる。自然と動悸が高まる。これで自分は現実に戻れるのか、戻れないのか。
全てのアプリと機能に触れる。その行為を二回。そして何も起きないことを悟り、メタトロンのモニタを閉じた。
戻れなかった。現実世界に。
今、自分はこの事実に落胆しているのか? 落胆はしていない。そもそも戻る方法を知らないのだ。皆が現実世界に戻る時にメタトロンを操作しているのを見ただけ。どんな操作をすればいいのかわからない。あの時、誰かを引き留めて現実に戻る方法を聞くべきだった。何故聞かなかったのか。
戻る方法を聞く? 認めているのか。ここが仮想世界だと?
部屋を見渡す。あの家で皆が次々と消えていく瞬間を見た。現実世界に帰っていく瞬間を。光景を思い出すと、ここが仮想世界かもしれない、仮想世界だろうという気持ちが強くなる。しかし一方で、それを認められない気持ちもある。
身体の感覚、着ている服の感触、腰掛けているベッド、その縁に僅かに積もる埃、シーツの肌触り、部屋の明かり、椅子や机の下の影、自分の呼吸、体の動き。触れるもの、見るもの、聞くもの、感じるもののすべてが、今までと何も変わらない。自分が現実だと思っていたものと、何も変わらない。
現実感。それがここを現実世界だと訴えている。だから認められない。信じきれない。
だが自分に過去の記憶がないことも事実だ。その理由は、自分が男によって作られた〈仮想の住人〉だからだという。今までの生活は全てあの男の為にあった。同化などというものを行う為に。そして男は結果に満足した。自分は用無し。後は自由にしてやると。
同化。自分の記憶があの年老いた外見の男に移っているらしい。想像できない。
男は自分を過去だと言った。プログラムではなく一人の人間が仮想世界に閉じ込められているのと変わらないと。二ヵ月しかこの世界で生きてないとも言った。その前は? 人格の最低年齢が十八と言う。今、自分は十八だ。だからそれ以前の記憶がないのか。昔、子供の頃の記憶。何も浮かばない。思い出せない。
自分が男によって作られたから、記憶がない。そんな理由に納得はできないが、では記憶がない理由は? わからない。しかしわからないからといって信じる理由にもならない。それに記憶がなくても考えることはできる。自分を、現状を認識できる。今はそれでいいのではないか。大事な問題から逃げるような気がしたが、わからないことをいくら考えてもしょうがない。自分はここにいる。
あの男は今後についても提案してきた。これからこの世界で生きていくか、いかないか。どうするか決めろと。実験人格は自分の可能性だから、後は自由にしてやりたいと。
生きていけば、男は環境や身分をある程度自由にしてやるといった。記憶を消すこともできると。ここが仮想世界だという認識は枷らしい。それにマルスが協力すれば、現実世界の情報を反映してこれまで通りの生活ができるとも。
記憶を消す。事件に関すること、〈赤の雫〉のこと、皆のことを消す。それはつまり自分ではなくなるということではないのか。それにここを現実世界だと疑わずに生きるということは、〈仮想の住人〉になるということではないのか。
いや、自分はもう〈仮想の住人〉なのか。現実世界に肉体も戸籍もないと男は言っていたではないか。
住人。自分が住人。では、皆と自分の違いは? 現実世界に肉体があるかどうか? 現実に戻れるかどうか?
戻れない。身体もない。それが住人である証拠なのか。
戻る方法がわからないだけだ。だが方法を知り、それでも戻れなかったら?
一人の人間が仮想世界に閉じ込められているのと変わらない。男はそう言った。自分は住人じゃない。
そもそも住人の定義とは? 何をもって〈仮想の住人〉だと言えるのか。これまで住人について気に留めたことはほとんどない。〈赤の雫〉では、場面の役割を終えると消えた。別の仮想世界では、住人だとわかるように服装や何らかの表示がされていて、プレイヤーと区別できた。住人は仮想世界のただの登場人物。その程度。なら自分もこの世界の登場人物なのか? 役割は? 家族との生活? 家族も住人か。他の人は? 学校の講師の二見は? 道行く人たちは?
こんなことを考えてどうする。男の話が真実だという前提で考えている。そんな証拠は何もないのに。
では証拠があれば信じるのか。例えば現実に戻れなかったら。
待て。今、自分はここが仮想世界だと信じようとしているのか? どうすれば男の話を信じられるかを考えるなど。しかもそれに気付いてなお、その感情を強く否定しようとしない。
認めつつあるのか。ここが仮想世界だと。わからない。
男の話は全て作り物。ここは現実世界。そう考えても疑問が残る。記憶喪失、家族が自分の名前を呼ばないこと、マルスやうたが目の前から消え、別人の姿で現れた事、皆があの部屋から消えたこと。皆の態度。
男の話を、疑問の答えにしていいのか。ここが仮想世界だから、自分が実験人格だからだと。自分でも調べるべきではないのか。ここが仮想世界なのかどうか。しかしどうやって? 家族に直接聞くのか。「仮想の住人か?」と。返事がなかったらどうする? 「何を言っているの?」と返されたら?
家族にはとても聞けない。聞く勇気がない。では他に方法は?
ラティだ。マルスが最初に家に押しかけた時、強制退去と言ってマルスを消した。そしてマルスがこの世界に入れないよう制限をかけた。何かしらの役割を担っている可能性がある。
部屋を出ようとして、気付く。それはここが仮想世界であるという証拠ではないか。強制退去や制限。現実世界ではそんなことできない。ラティはここが仮想世界であるという証拠か。そのラティを調べるべきか。
手にしたメタトロンが光った。メールの着信。うたからだ。
「どうしたの? みんな待ってるよ」
〈反逆の園〉に行くことを忘れていた。
行くべきか。しかしマルスとは話をしなければ。この世界は彼女の、使徒の手にあるらしいから。それに現実に戻る方法も聞ける。
使徒に協力しろと言われたらどうする? 協力しなければ世界を破壊すると言われたら?
わからない。でも行かなければ。ラティを調べるのは後にしよう。もう四時半だ。皆を待たせている。




