5
自分の出生。生まれ。
こんな話を信じる人間がいるだろうか。少なくともされた本人は受け入れることなどできないし、納得もできない。
男が話す実験人格というものは、元は男の人格。自分がそれだという。しかも本命らしい。男の家族との生活の体験を得る為の。全く理解できないし、気持ち悪くすら思った。
「これがこの状況を招いたすべてだ。こうして私が打ち明けたのは、監視員として毒の因子を残す為。そして不破の知人である君達に知っておいてもらいたかった。説明もなしに別れるのはお互いに釈然としないだろう」
「別れ?」
「オーヴァ撤退によりナノマシンは機能を停止し、仮想世界の保存媒体も破壊される。たとえ破壊を免れた世界があっても、ナノマシンが機能しない限り利用できない。マルスのおかげでこの世界は無事だが、私以外の人間がここを訪れることはもうない」
訪れることはもうない。
それは、モーフィアス達もここには来なくなるということか?
「その上で、これからどうしたいのか、不破本人の考えを聞きたい」
本人……自分?
隣のモーフィアスがこちらを向く。口を結んで険しい表情。顔を再び男に向けた。
「聞いてどうする? 自由があるのか?」
「実験人格はその生涯を終えるまで継続させるつもりだった。定期的な同化を行いつつ。不破との最初の同化はすでに完了しているが、この世界をこのままの状態で継続はできない」
同化が完了している? それは自分の記憶がこの男に吸収されたということか? 途端に息苦しくなる。まだ事態が飲み込めない。実感がわかない。
「不破の目的は家族との現世での生活だ。たった二ヵ月という短い期間だが、その生活は確かに私の家族の生活だった。懐かしくもあり、新しくもある。忘れていた過去を思い出させた。生活のふとした場面が重なる部分もあった。当然だ。私の人格なのだから。
不破は私の過去だ。過去の私だ。そしてその体験の最後は、自分は何者かという疑問だった。その疑問を抱いては、この世界での生活はもう続けられない。疑問の答えを示し、その上で不破自身の希望を聞き、なるべく望むようにしてやりたい。今はそう思っている」
「何故そんな結論に?」
モーフィアスが聞いた。
「実験人格たちは私の可能性だ。無下には扱わない。それに同化の直後ということも大きいだろう。同化の後はその実験人格の思想や感情に影響される。体験を整理、消化するまで精神的に不安定になるのだ。
この状態で君たちに会い話をしたのも、やはり不破自身の感情がまだ強く働いているからだろう。疑問の解消、現状の解決という欲求に急かされた。他の実験人格との同化ではこのような欲求は生まれない。彼らは自分の住む世界を仮想世界だと疑わない。ましてやこうして対面して話すことさえ想定してない。君達がここにこなければ、この事態はなかっただろう」
「同化をしたなら不破の望むことは知っているはずだろう」
「不破自身の答えではない。それに撤退が開始された今、ここの環境も変わらざるをえない。
まず仮想世界には行けない。これは不破だけではなく現実の人々もだが、この世界にも人は訪れなくなるということだ。私を除いて。
そしてこの世界の保存媒体とボックスを手にしているマルスの、使徒の思うがままということだ。彼らの意志ひとつでどのようにもできる。そして協力がない限り、現実世界の情報がこちらにもたらされることもない。ここは閉ざされた世界になる」
閉ざされた世界。それはどんな世界だ。上手く想像できない。苦しい。
「この世界で生きていくか、いかないか。私にできることはその二つの手助けだけだ」
どうしてそんな話になるのか。唐突で、理解ができない。
「この世界で死んだらどうなるの?」
「猫!」
叫ぶような声。聞いたのは猫で、叫んだのはうただろうか。
「終わりだ。再生などされないし、しない」
「寿命は?」
「現実世界の法則と同じだ」
どうしてこんな話を。これは自分の話か?
「考える時間はある。だが結論は出してもらう。私もここには来なくなるだろうから」
何故? 口には出さず視線で問う。
「同化に関して結果を纏めなければならない。それに過去の自分との対話は望まない」
男の言葉に特に何も感じなかった。ただ息苦しかった。
「不破は、私と世間話をしたいと思うか?」
世間話? 自分はこの男の過去らしい。では男は自分の未来か? 自分の分身? 自分と自分の会話。よくわからない。
「私は過去の自分に干渉したくない。お前の友人にも知人にもなれはしない。
そしてここを仮想世界だと認識した今となっては、今後、同化をする意味がない。家族との生活は終わりだ。僅かな期間だったが、家族との生活が再現可能だということがわかった。満足した。目的を達した人格を消したりしない。後は自由にしてやりたいのだ」
こいつは……
男の物言いに傲慢さを感じた。こいつは、何様だ。
「この世界で生きていく上で、私の存在やここが仮想世界だという認識は枷にしかならないだろう。私はそれを消すことができる。環境、身分も望むがままだ。この世界での生活を快適にしてやれる」
そんなことに何の意味があるのか。
「もしマルスが協力し、ボックスがネットワーク接続されていれば、今まで通り現実世界の情報はこの世界でも反映されていくだろう。ただし現実世界に干渉する機会は少なくなる。ボックスの偽装も、オーヴァが撤退すれば機能しなくなるだろう」
「今までのようにメールでのやり取りは?」
マルスが聞いた。
「可能だ。だが」
「こちらが管理をすれば、連絡を取り合えるのね」
「使徒がこの仮想世界を管理するのはいい。証拠にもなろう。だが、不破や栽培者の正体を公に広めることはやめたほうがいい」
「何故だ? こうして話すのはそれが目的だろう」
「不破の存在が露見し、使者に発見された場合、私は証拠を消す。使者に問われれば私は答え、対処するしかない。不破がそれを望んだとしても、私は敵対する。この世界を消すしかなくなる」
これは脅迫か。ばらせば消すと。男は味方なのか。敵なのか。
「不破が望むならこのまま現実世界と関わりを続けてもいい。だが不破自身がそれに耐えられるか。肉体も戸籍もない〈仮想の住人〉だが、プログラムなどではない。自由意志を持っている。一人の人間が仮想世界に閉じ込められているのと同じだ。君達との交流が不破を追いつめることにならないか? 記憶を消すことは悪いことではない。ここが仮想世界などと本来は知らなくてよいことなのだ」
「どの程度の記憶を消すの?」
「私や君達、〈赤の雫〉、今回の事件のこと、この状況を招いた要因すべてになるだろう」
それは自分のすべてではないだろうか。
「マルスはこの仮想世界をどう扱うか考えなければならないだろう。不破もそれを加味して、自分がどうしたいのか決めてくれ。どのような形でこの世界で生きていくのかを」
どのような形?
「私の話は終わりだ。少し外させてもらう。私がいない方が話もしやすいだろう」
男がメタトロンを操作する。
「今は朝の四時前だ。七時にもう一度ここにくる。聞きたいことがあればその時に」
「こちらから連絡する場合は?」
「手段はない。私がこの世界にくるしかない」
「それでは困る」
「聞きたいことがそれほどあるわけでもないだろう。それに今の話以上のことは話せない」
誰もそれ以上男を追及しなかった。
「ではな」
一方的に言い置いて男は消えた。ほんの少しだけ息苦しさが薄れた気がした。
隣のモーフィアスが大きく息を吐く。
「馬鹿げた話だったな。真偽を図る手段はこっちにはないが」
「不破がいるわ」
マルスが立ち上がる。
「この世界では私が話しづらい。〈反逆の園〉に行きましょう」
「今からか?」
「時間はないのよ」
「不破は?」
マルスがこちらを見る。
「来てくれる? あなたの協力も必要になるから」
どのような形で生きていくのか。
男のその言葉が不意に頭に浮かんだ。




