第三章 1
目を開ける。天井の明かりがまぶしくて、耐え切れずに瞼を固く閉じた。
何だ。また質問か?
部屋が明るい間はあの女、マルスの質問の時間だ。催眠療法により、思い出せない過去、記憶を想起させる。その為にいくつか質問に答えてほしいと。
しかしいつまで続けるつもりだ? 質問の数は「いくつか」ではきかない。散々質問された。名前、年齢、住所、家族構成、趣味、学校のこと、〈赤の雫〉や他の仮想世界の体験、うたやモーフィアスをどう思っているか、今回の事件のこと。あいつは何でも聞いてきた。そしてそれに答えていった。偶然記号を手にして、それを隠して協力していたこと。その理由も。答えられないこともあった。自分の過去、そして名前だ。自分の名前。不破光春ではなく、現実世界の本名が思い出せない。わからない。
わからないと答えるとそれ以上マルスは追及しなかった。そうやって質問が終わると「少し休んで」と言われて部屋の明かりが落とされる。真っ暗だ。眠っていたのか、ただぼうっとしていたのかわからない。再び部屋が明るくなり、質問が再開され、また暗くなる。その繰り返しだ。
それにしても今は妙に頭がはっきりしている。質問に答えている間は頭が重く、ぼんやりとしていた。身体を動かすことも億劫で、ただ座ってマルスの質問に答える。質問以外のことは考えられなかった。答えねばという気持ちがあった。なぜか知らないが、彼女を信頼できると思った。
その気持ちが今はまったくない。むしろ何故答えてしまったのかという後悔がある。自分の行動が信じられない。誰にも話さないと決めた恥すら打ち明けた。思い返して羞恥がこみ上げ、身悶える。
そこで手足が動かせないことに気づいた。驚き目を開ける。手首と足首が椅子に拘束され、左腕には医療用のチューブらしきものが刺さっていた。これは何だ?
チューブの先を目で辿る。左脇の得体のしれない機械に繋がれていて、傍に誰か立っていた。灰色のローブを纏っている。金髪に青い目……マルス!
手首と足首に何か滑る感触がした。拘束が解かれていた。腕と足を動かして自由になったことを確認する。
「気分はどう?」
答えずに睨みつけた。見せつけるように左腕を上げる。気付いたマルスがチューブを軽く持ち上げる。初めから刺さっていなかったかのように腕から離れた。腕には痛みも出血も、傷痕すらもない。
「ごめんなさい。でもこれはあなたを守るためなのよ。こうした治療の後、患者は思いもよらない行動をとることがあるから」
患者。自分が患者。
これまでの質問を思い返す。真っ先に浮かぶのは羞恥にまつわること。自分の恥ずかしい体験の告白。しかしそれ以外は?
あぁ、そうだ。結局、自分の過去はなにも思い出せなかったのだ。
「子供の頃は? 十歳のあなたはどこに住んでいたの?」
目を瞑り、子供のころを思い出そうとする。しかし思い出せない。頭の中で空しく「子供の頃」という言葉が繰り返されるだけだ。何も思い出せない。こうしている今も、だ。
思い出せる一番古い記憶は、約二ヵ月前の夕方。メタトロンから仮想世界を選んでいる場面の記憶だ。なぜその記憶なのかわからない。
そして名前。思い出せないだけではなかった。現実では名前を呼ばれたことがないのだ。母や妹、父、家族にすら。自分を呼ぶときは「ねぇ」や「ちょっと」、そう呼びかけられるだけ。学校の講師の二見にも名前を呼ばれた記憶はない。
生活で名前が必要な場面はあった。個人情報の登録が必要なサイトや仮想世界。だがそれぐらいで、面倒だからと避ければ済んだ。うたから送られた接続機器も不破光春宛てだった。何故それに疑問をもたなかった?
そういえばあの時、妹は荷物が届いたと言ってきた。〈赤の雫〉のことなど一言も話していないのに。何故、不破光春が自分だとわかったのか。自分しかいないからか。一応の説明はつく。
だが仮に自分が記憶喪失だとして、何故他の人が名前を知らない? 名前を呼ぶ価値もないのか。本当にあそこは仮想世界なのか? 現実世界ではないのか? オーヴァの関係者なのか? 人間なのか?
「結局、この治療であなたの過去を思い出させることはできなかった。やはりあなたの世界で手がかりの見つけなければならない」
戻れというのか。あの世界に。
胸をよぎったのは帰れるという安堵ではなく不安だった。
名前を呼ばれないこと。特別に意識したことのない些細なことが、今は不自然さ、違和感を伴って思い出された。
彼らは家族ではないのか? そんなはずはない。名前を呼ばないことが普通になっているのか。だが父と母は妹の名は呼んでいた。なぜ自分だけが?
「酷だけど、あまり時間もないの」
マルスの言葉に考えが中断される。
「何故あなたに記憶がないのか。現実世界が仮想世界なのか。あなたが作られた人格だとしても、何の為に?」
作られた人格とはっきり言った。
「それはあなた自身の問題。あなたが確かめる他ないわ」
そんなことはお前に言われるまでもない。
「私もきれいごとは言わない。転移技術がほしい。それがあればあの子も、他の行方不明者も助かるかもしれない。もうそれに賭けるしかないのよ」
勝手なことを。
「あなたは自分の正体がわかる。私はそれで転移技術を得られるかもしれない。お互いの為になる。協力してほしいの」
違う。すべてお前の都合だ。
だが、断れない。断る理由がない。他に手段があるのか。ずっとこの世界にいるつもりか? そんなことはできない。あの世界に戻るしかない。
「でなければ、あなたは自分のことがわからないままだわ」
自分が何者か。記憶喪失の人間なら記憶を戻したいと思うはず。だが状況が違う。現実世界が仮想世界かもしれない。ならばそこで生活する自分はマルスのいう作られた人格、〈仮想の住人〉かも知れない。だから記憶がないのか。では何故考えることができる? 何故仮想の間を移動できる? そんな住人を作れるか? 何の意味があるのか? 自分は人間なのか。
自分が何者か知りたいという気持ちは強くない。まだ整理がつかないだけかもしれない。しかしマルスはすぐにでもあの世界に戻したいのだ。それは伝わっていた。
「あなた一人であの世界に戻させないわ。うたにモーフィアス、猫さんたちが同行する」
あの三人が? どうして?
「戻ってくれる?」
三人が同行する。ざわついた。どんな気持ちで会えばいいのか。三人は自分のことを知っているのか? 知っているだろう。その上で協力を? 何故だ?
まさか、自分なんかの為に?
震えた。不意に胸に広がる感情、それが喜びだとわかり、抑え込もう、打ち消そうとした。自分に都合のいい答えだ。自分の為なんかじゃない。そんなはずがない。他にも目的があるはずだ。
「準備があるから戻るわね。出発は三十分後にするわ」
マルスはどこからか取り出した砂時計を機械の上に置き、背を向けて部屋の隅にある扉を開ける。こちらを一瞥し、そのまま出て行った。




