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第二章 1

 白い天井に白い壁。

 少し視線を下げると丸いテーブル。その上に置いてある犬の置時計にメタトロン。

 あぁ、私の部屋だ。戻ってきた。

「ふぅ」

 自然と息が漏れる。同時に身体に異変を感じた。頭は重く、全身がだるい。

 まただ。ちょっと動けそうにない。

 背もたれを傾けた椅子に身体を預けたまま、置時計を見る。仮想世界から戻ってすぐに時間がわかるようにと置いたもので、五時三十分を指している。

 約一時間、 〈赤の雫〉にいた。滞在時間も今日はまだ超えていない。なのに現実世界に戻った時の倦怠感はひどくなる一方だ。

 〈一体化〉がこんなに身体に負担をかけるなんて知らなかった。〈赤の雫〉が無秩序な仮想世界でも、今までこんなことはなかった。

 原因はわかっている。滞在時間も無視して、毎日、長時間、〈赤の雫〉に行っているからだ。

 自分の身に降りかかってようやくわかった。こんな危険な物がすぐ手元にあるなんて。

 オーヴァのナノマシンは危険だ。仮想世界も。でも、まだやめるわけにはいかない。

 身体を起こし、手を伸ばしてメタトロンを掴んだ。無事に記号の回収ができたので、マルスさんにそのことを伝えないと。もちろんオーヴァに気づかれないよう、内容は全く関連性のない事柄で。

 回収が無事に完了したときは、鳥に関する話題を加えればいい。

 送信を終える。

 今日も無事に記号の回収ができた。二人のおかげだ。光春と猫の。

 光春は回収に必ず参加してくれている。そんな彼に甘えている部分もある。そもそも戦いではサポートするだけで、私自身はまともに戦えない。だから光春が協力してくれて本当に助かっている。

 今日は猫も協力してくれた。元々の約束を破ったのは私なのに。

 ユダと皆を引き合わせた後、猫に呼び出されて交わした約束。もう使徒には関わらないという約束。

 猫にとって、私はただの「仲間」ではなかった。

 猫は、亡くなった妹さんの姿を私に重ねていた。直接そう言われた時は、どう受け止めればいいのかわからなかった。

 もちろん嬉しくはないけれど、それほどいやでもない。どう言えばいいのだろう。うまくいえない。

 それに一致している部分もあった。

 私にとって……〈うた〉にとって猫は、わがままに付き合ってくれるお姉さんだったから。

「約束して。もうあいつらには関わらないって」

「わかったよ」

 そう返事をするしかなかった。

 こんな嘘はよくない。その場限りの嘘だ。だから隠そうとはしなかった。ばれてもいい。怒られてもいいと。

 そして今日、発覚した。

「どうして!」

 私を問い詰める猫の怒りはもっともだった。

「やっぱり守れないよ」

「どうしてそこまで」

 私が記号回収に参加する理由は猫にもちゃんと話していた。それ以上の理由はないから、黙った。

「馬鹿ね」

 猫は呟いた。多分、私に言ったんだ。

「でもいいわ。私も協力するから」

 嬉しくはなかった、と思う。ただ、どうして協力してくれるのだろうとおもった。

 まだ私を妹さんの代わりと見ているから? 

 それは嫌だった。でも……

「それで猫の気持ちが晴れるなら、私は」

 構わない。猫の協力が必要だった。

「大丈夫よ」

 心配は杞憂だった。

「うたはうた。あの子はあの子だから」

 その答えを聞いてほっとした部分もある。私は妹さんじゃない。約束を交わした日から、猫とはどう接すればいいのかわからなくなっていたから。

 今日、モーフィアスはいなかったが、彼も協力してくれている。これでユダと引き合わせた三人は皆、協力してくれることになる。

 でも、これで本当によかったのかとも思う。危険なことに付き合わせて。

 ユダの話を聞いて、皆が〈赤の雫〉から離れていくことが理想だった。

 けれど打算もあった。一人くらいは協力してくれるだろうと。

 全員が参加してくれたことに、今更、罪悪感を覚えているの?

 皆を利用しているのは事実だ。それは自覚してる。でも、それ以外の選択肢が私にあるの? 一人だったら、とても回収なんて務まらない。

 冷静に考えれば、記号の回収をどれだけ頑張っても、瑛子が許してくれるかも、わからない。

 でも、それ以外に私ができることは何? 何もせずに、どんな顔をして瑛子に会えるの?

 今更やめるつもりはない。最後まで続けるんだ。

 この回収がいつまで続くのかわからない。けれど明日、ユダと会う。その時に聞くつもり。彼の方からこの話題を持ち出すのかもしれない。

 手に持ったメタトロンを操作し、ニュースサイトを開く。

 行方不明事件に触れない日はない。オーヴァのナノマシンが関与していることはもう周知の事実で、オーヴァを非難する人々も日を追うごとに増えている。ただその証拠は、ナノマシンが人を操作できるという証拠はなかったけれど。

 でも、オーヴァは何故、事件との関連を否定しないのだろう。自社のナノマシンの関与が疑われているのに、釈明なり声明を一切しない。問いに合わせに対しても従来から設置されている〈疑似人格〉に対応させ、機械的な返答だけだという。

 そもそも、オーヴァを維持、運営しているのが人間かも怪しいらしい。

 末端の従業員の話によると、管理職クラスの相手が見えない。リーダーはいるが、ネットワーク上に用意されたスケジュールや指示を参照しているようだと。

 リーダーの会議にも仮想世界が使われ、そこで幹部も出席するが、現実世界で直に幹部と接触した人はいないという。

 そんな異質な体制が今回の行方不明事件に関して掘り返され、指摘されていた。

 メタトロンを手にして何とか立ち上がる。疲労はほとんど気にならない程度にまで回復した。仮想の体験が現実の肉体に作用するのは不思議だけど、この種の疲労はすぐに治る。

 最初に疲労感を覚えた時はもちろん怖かった。これまで一度もこんなことはなかったから。メタトロンの健康チェックでただの疲労だと判断され、症状がすぐに回復しても、不安だけはそう簡単には消えなかった。

 それに最近は回復までの時間が伸びているようにも思える。本当に危険なんだ。

 皆も、特にいつも参加している光春も肉体的負担を抱えているかもしれない。もし彼がこの後も〈赤の雫〉を続けているのなら。

 私もさっきの一時間だけでやめておけばいいけど、そういうわけにはいかない。

 回収は、使徒からは直前にどの依頼に行くのか指令がくる。スムーズに取り掛かれる為になるべく依頼を終わらせておかないと。

 三人が協力してくれるおかげで、すぐに目的の依頼に取り掛かれるけれど、それでも私がやっておくにこしたことはない。三人とも、次は協力できないと言ってくるかもしれないんだ。

 皆が辞めると言っても、引き留めない。そんな権利がないことくらいはわかっている。

 次に〈赤の雫〉に入るのは夕ご飯を済ませてからにしよう。それがだめなら皆が寝静まってからでもいい。この頃は、母さんもしつこく仮想世界はやめろと言ってきているから。

 瑛子のことは母さんも知っている。私がショックを受けて、仮想世界に依存していると思っている。だから見つからないようにしないと。

 ひとまず机に着き、テレビをつける。

 ニュースも連日、行方不明事件のことを報じていた。

 視線を転じる。壁にかかった一枚の写真が目に留まった。

 瑛子に真紀、クレア、そして私。ついこのあいだ、隣の別府市の温泉に行った時の写真だ。

 あの時はこんなことが起きるなんて考えもしなかった。

 瑛子と私は中学時代からの付き合いだ。真紀とクレアは高校からで、それでも二年以上は一緒にいる。

 二人には瑛子の行方不明の原因を話していない。

 元々、仮想世界には瑛子しか誘わなかった。それは、四人といっても結局は私と瑛子、真紀とクレアというペアの集まりだったから。

 瑛子がいなくなって、教室で二人が優しくしてくれることが辛い。

 もう、前のようには遊べない。

 写真から顔を背けた。見ているのもつらくなった。

 私が誘わなければ……

 だめだ。また考えている。後悔してももう遅いのに。

 回収を頑張るんだ。そうすれば瑛子だって。

 自分の情けなさに泣きそうになり、こらえた。「泣くのは卑怯」だと、ある映画で泣いているヒロインに親友が忠告する言葉が今での印象に残っている。それまでよく泣いていたから、自分のことのようで恥ずかしくなり、それ以来、泣かないようにした。

 何とか落ち着くと、突然、テレビからひときわ注意を引く音が流れた。速報だ。テロップが映る。

「WHOより、オーヴァ製のナノマシンによって異常行動が引き起こされることを確認。各国に使用禁止、回収を要請」

「警察はオーヴァの日本支部、及び関連施設への捜索を開始」

 捜索。

 思わず立ち上がって、テレビに寄った。

 オーヴァの日本支部、そして関連施設に捜査。でも、そこに瑛子を含めた行方不明者はいない。オーヴァ本社に集められているとユダは話した。本社がどこにあるかは教えてくれなかったけれど。

 ユダは救出作戦を立てているとも言った。けれどそれからは何も進展がないし、聞いても教えてくれない。

 けどこれで事態も動くはずだ。それにユダの言葉が本当とは限らない。瑛子がいるかもしれない。この捜索で見つかるかもしれない。

 七時から広報官が臨時会見を行うらしい。どのチャンネルも速報について内容を切り替えている。中継映像が流れて、かなり大人数の捜査員が続々と施設に入っていく姿が映し出された。

 そこでようやく、手に持っているメタトロンが点滅しているのに気付いた。速報に見入っていて気付かなかった。

 メールだ。光春から。

「使徒が来た。どうすればいい?」

 たったそれだけの短い文面。

 使徒が来たって、どういうことだろう? 使徒が光春と接触した? 使徒からは何も聞いていない。

 確かに光春は私と同じく使徒に監視されているから、その監視員が光春と直接会って話はできるかもしれない。でも、何故会う必要があるのだろう? 彼の身に何か危険があるということなの?

「どういうこと?」

 そう送る。返事はない。会って話をしているのだろうか。

 マルスさんに聞いてみようと思った。

 緊急の場合は、「犬」と「走る」の単語を混ぜたメールにすればいい。

 送信してから数十分後、光春よりも先にマルスさんから返信が届いた。

「今から不破光春と話をする必要がある。あなたから彼に、反逆の園へ来てくれるよう伝えて。数分前に会った女性は確かに使徒の一員で、そのことについて話があるからと」

一体なにがどうなっているの?

 監視員は光春と直接会ったの? 何故? 理由は? 彼の身が危なくなった? でも身柄を保護したのならこんなことは頼まないはず。

 考えている間に再びマルスさんからメール。

「来たら説明するわ」

 こういわれたら、行くしかない。それにメールで説明するのが危険かもしれない。

 時間を見る。七時前。まだ大丈夫だ。家には私だけ。いつも通りなら、父さんと母さんはまだ帰ってこないはず。

 〈反逆の園〉に向かう前に、まずは光春を誘わなければ。

「光春と会った人は、確かに使徒だよ。そのことで話があるから、反逆の園に来てほしいって」

 メールを送り、接続機器を手に持って再び椅子に座る。メタトロンの仮想世界の設定を〈反逆の園〉にして装着した。

 目を閉じて数を数える。だいたい十秒。

 肌に触れる空気が変わって、目を開ける。

 そこはもう静かな教会の中だ。〈反逆の園〉の世界。

 立ち上がる。ここは話し合いの場というだけで、この世界の物語についてはほとんど干渉してない。

 それによくない噂も一部ではあった。

 祭壇に近づく。

「最後の晩餐」

 桜さんもマルスも会う時にはいつもここを指定する。

 扉に手をかけてあっと気づく。光春の返事を聞けていない。マルスさんの話を聞きたくてすぐこちらに来てしまった。どうしよう。戻ろうか。

 ここまできたから、せめて話を聞いてから戻ろう。その間に光春が来てくれるかもしれない。

 扉を開けて、白い霧を抜ける。

 小さな部屋にはすでに一人、私と同じくフード姿の人がいた。

「来たわね。こっちへ」

 マルスさんだ。声でわかる。

 現実世界でも面識はあるけど、まだ緊張してしまう。

 使徒のメンバーである桜さんが行方不明になり、その代わりに私と連絡を取るようになったけれど、桜さんほど親しみはない。

 勧められるままに椅子に座った。光春はいない。

「不破光春について、こちらが調べたことを話すわね」

 姿勢を正す。

「彼はオーヴァ側の人間である可能性が高いわ」

 オーヴァ側の人間?

 意味が、よく分からなかった。

「そっ、それは、どういうことですか?」

 うまく言葉が出ない。

「その前にまず教えておくことが。すでに一部の噂として広がっているけれど、この世界に来るための接続機器には、使用者の情報を取得する機能があるの。主に位置情報などね」

 よくない噂のことだ。

「噂は事実よ。あなたの位置情報も取得している」

 普通なら怒るかもしれない。けどいまは、光春のことが聞きたかった。

「私が作ったわけではないけれど、謝るわ。けれどそのおかげで、不破光春についてわかったことがある。

 彼もここに来たことがあるから、当然、その時の位置情報を取得している。けれど、その場所が不審だったの。発信源は南アメリカのペルナンブーコ。そのオーヴァの施設内を示していたわ」

 南アメリカ。では光春はアメリカ人なの? それにペルナンブーコという地名。私にはまったくなじみのない国だ。名前だって初めて聞いたぐらいだ。

「あなたから教えてもらった住所番号は、当然、ペルナンブーコではなかった。住所番号の場所は日本だったけれど、不破光春とはまったく無関係だったわ。あなたが送った接続機器も、どういうわけかセルの集積センターに不明物品として預けられている。あなたに通知が届かなかったことも含め、どういう処理がされたのか調査中よ」

 私が送った接続機器が届いていなかった?

「で、でも光春はここに来ました」

「そう。そしてもう一つ。ペルナンブーコの施設は完全に自動化されていて、人は一人もいないの」

 もう何が何だかわからない。

「住所番号はデタラメ。接続機器の発信源の場所にはオーヴァの施設。不破光春について調べることになったわ。当然その施設もね。位置情報を発信している機器は判明した。その機器の解析も。

 この機器が、ちょうどメタトロンの役割をしていたの。ある仮想世界の情報を変換して、現実世界で発信する。ではどの仮想世界の、何の情報を発信しているのか。その仮想世界の座標も突き止めたわ。

 不破光春、彼はその仮想世界で生活を送っていたの。私もその世界に入って彼を監視した。彼はその世界こそが現実世界だと認識しているようだったわ。恐らく彼のあなたへのメールや、そのほかの現実世界へ干渉する情報は変換されて、こちらに反映するようになっているのね。接続機器の位置情報もそうなんだわ」

 言葉が出なかった。マルスさんの話を理解できなかった。

「現時点では、不破光春はオーヴァが用意した仮想の住人という可能性が高いわ」

 光春が、仮想の住人?

 そんなこと、考えたこともない。

「でもその目的がわからない。直接問いただしたけれど、答えてはくれなかった。私も少し強引だった。その世界から出されて、もう入れなくなったわ。だからここに呼んだのよ」

 〈仮想の住人〉が、私とメールをしていた?

 でもそれは、そんな驚くことじゃないのかも。恋愛仮想では、相手から連絡が届くようなこともあるらしいし。

 でも、どうして光春が〈仮想の住人〉なの?

「大丈夫?」

 マルスさんの声で我に返る。

「それで、彼は?」

「メールはしました」

「場合によっては、あなたを彼の世界に行かせるかもしれないわ。私は彼の世界にはもう入れなくなっているから」

 彼の世界……光春の世界……

 そんな、そんなこと。

 背後で扉が開く。白い霧の中からフードを被った人物が現れた。

 光春だった。


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