第一章 1
「アポカリプスの使徒」
第一章 1
振り乱した長髪から突き出た二本の鋭い角。赤黒く岩のような筋肉に包まれた屈強な体躯。牙を剥き、眉を吊りあげて怒りをあらわにした真っ赤な面。
それは日本の古い民話や伝奇に登場する鬼の姿。時に人を助け信仰の対象として祭られる鬼もいるが、多くはその反対、人に仇なす邪鬼や妖怪の類として伝わり畏れられている。
その彼らを、もうどれほど斬り伏せただろうか。
夜の薄闇の中、直立したまま絶命する鬼の懐で瑣末な疑問が頭をよぎる。自身よりも頭一つ大きい鬼の体。その逞しく隆起した胸部を下方から突き上げるようにして貫いた刀身から、びくびくと痙攣が握りしめた柄を通して掌に伝わってきた。
痙攣の間隔は次第に緩慢になり、まだ温もりの残る鬼の身体が刀身を支えにして自分にもたれかかる。構わず一気に刀身を引き抜くと血が迸り、地面で跳ねた飛沫がむき出しの脛と足の甲に降りかかった。
不快な生温かさ。水よりも粘度があり、皮膚にへばりつく。
支えを失い、ずるずると崩れ落ちる鬼。ただの肉塊と化したそれは足元でゆっくりと血だまりを広げていく。
一歩引き、その様子を見据えつつ刀身の血を払った。
雲が流れ、空に現れた満月がこの場を青白く照らしていく。
そこは廃れた神社の境内。縦に長い敷地の奥には簡素な造りの社殿が佇み、入口の鳥居から社殿まで一直線に伸びた石畳の中程に自分は立っている。
よく見ると社殿やその手前に立つ石灯篭はさほど朽ちている様子はなく、石畳の縁や社殿の周りに散在する夥しい量の落葉がこの場を荒涼としたものへと貶めていた。鬼が出没するようになり、手入れをする人間がいなくなったことが原因だろう。
ぼうっという音を上げ、突如として目の前の肉塊が炎に包まれる。これまで倒してきた鬼と同様に、肉塊はみるみるうちに蒸発し小さくなっていく。境内を赤橙に染めた炎はすぐ鎮火し、月光と静寂が再びこの場に戻ると鬼の痕跡は完全に消え去っていた。
血を払った刀身を着衣している甚平に似た衣服の袖口でさらに拭い、鞘に納刀する。
辺りを見渡すと、神社の境内と森との境界に立てられた低い板柵が社殿の左手で途切れていた。目を凝らすとその先に森の奥へと続く道がうっすらと見える。
ざわざわと葉の擦れる音がして咄嗟に身構えた。自身の左手、柵外の暗い樹影の中で何かが蠢いている。
納めたばかりの刀の鯉口を切り、暗がりを睨みつける。しかし柵を乗り越えて月明かりの下に自ら歩み出た者の姿を見て、刃を納めた。
現れたのは鍔広の黒いとんがり帽子をかぶり、同色のゆったりとしたローブを纏う少女だ。ねじれた木の杖を両手で持つその姿は西洋の童謡に出てくる意地悪な魔女を連想させたが、不気味さや不吉さといった負の印象は受けなかった。身長の低さと小動物のように左右にせわしなく視線を送る挙動、そして金髪に縁どられた目鼻立ちのはっきりとした人形のような容姿が自分の中の魔女の姿とは重ならなかった。
「今の奴で最後?」
尋ねると魔女は口の中で何事か呟く。すると彼女の耳元に蛍のような小さく淡い緑の光が出現し、彼女はそれに耳を欹てた。
「ううん、まだいるみたい」
こちらに顔を向け、外見に見合った少女の声で魔女は答える。
短い問答に混じって、微かな物音が社殿のほうから聞こえた。視線をそちらへ向けた瞬間、社殿正面の戸が勢いよく開け放たれ、中の暗がりから何かが飛び出した。自分めがけてまっすぐに迫るそれが拳大ほどの鉄球だと理解できた時には、鉄球はもう眼前まで迫っていた。
しかし殺意の籠った鉄の塊は自分に触れることなく、代わりに金属同士が激突したような甲高い音が顔の前で炸裂した。
一瞬の出来事だった。鉄球の横合いから円盤状の飛来物が接近し、そのまま激突。自分の代わりに鉄球を受け止めたのだ。弾かれた鉄球は地を転がり、円盤は顔を掠めて後方に吹き飛んでいく。
円盤の正体が盾だと瞬時に理解できたのは、以前にもこうして窮地を救われたことがあったからだ。
「鎖の先だ!」
間髪いれず男の叫びが境内に響く。見ると鉄球には鎖が繋がれており、それが蛇のように地を這って社殿の中まで伸びていた。すぐに鎖はぴんと張りつめ、鉄球が地面を跳ねながら社殿へと引き戻されていく。
もう走り出していた。すぐに鉄球を追い越し、抜刀しながら社殿の中を凝視する。闇の中から鬼の輪郭が浮かび上がった。こちらの姿を認めると手にした鎖を捨て勢いよく社殿から飛び出す。
刀を諸手右下段に構える。刃が青い光を放ち視界の端を染めた。
鬼が腰に手を回し、柄の短い斧を頭上に構えた。身体がその間合いに入る。凄まじい速さで振り下ろされる刃。咄嗟に左足を大きく外に踏み込んで体を逸らし、ぎりぎりで刃を躱す。そのまま無防備な首めがけて左斜めに斬り上げた。青い光が刃の軌道に残り、確かな手ごたえと共に鬼の頭が宙に飛ぶ。首から断続的に鮮血が噴き出し、がくがくと不規則によろめいた後で頭を失った鬼は地に倒れた。
荒く息を継ぐ。頭にばくばくと早鐘を打つ心臓の鼓動が届き、思考が戻る。震えが全身に広がり、汗が噴き出した。一連の動きに対して身体の反動と抑えていた高揚や恐怖が胸の奥で溢れ、その慄きを鎮める為に呼吸を繰り返す。刀身の青い光はもう消えていた。
鬼の死体が燃えて消失する間に動悸を落ち着かせ、ゆっくりと納刀の動作を終える。
背後から声をかけられた。振り返ると先程の魔女とその隣にもう一人、鬼にも劣らない体躯を胴鎧で包んだ壮年の男性が並び、石畳の上を歩いてこちらに近づいていた。
「今のは危なかったね、光春」
魔女が口を開いた。幻想の世界にたびたび登場する魔法を自在に操る種族エルフ。彼女はその種族の一人で名前をうたという。鬼と対峙した際に刀身に宿った青い光は彼女の魔法によるもので、そのおかげで鬼の首を一刀のもとに切り飛ばすことが出来たのだ。
「いや、おかげで助かったよ」
「あの場面でよく突っ込んだな。一歩間違えたらやられていたぞ」
うたの隣で微笑を浮かべる男性は古代ローマの剣闘士モーフィアス。広い額に短い金髪、高い鼻梁と眼窩から覗く碧眼は日本人のそれではないが、話す言葉は滑らかな日本語だ。右腕から胸にかけて装着している銀板の鎧にはいくつもの刀傷が刻まれ、左手には自分の窮地を救った円形の盾を携えていた。
そう、彼の盾が鉄球から自分を守ってくれたのだ。これまでに何度そうして助けられたか知れない。
しかしローマの剣闘士とエルフの魔女。二人の姿はこの神社にはどうやってもそぐわない。加えて侍というよりは薄汚れた牢人といった出で立ちの自分。こんなでたらめな組み合わせがこの場で許されているのは、ここが現実世界ではなく作られた仮想世界の中だからだ。
〈赤の雫〉それがこの世界の名前。数多ある仮想世界の一つ。
二人とはこの世界で知り合った。うたは初めの頃こそ大人しい子だったが、共に時間を過ごすにつれ言動に子供っぽさが混じるようになった。それは天真さ、時に無神経ともとれる無邪気さに類する幼さだった。
モーフィアスは外見に見合わず気さくで、どんな状況に陥っても冷静さを失わず自分や仲間を助けてくれる。
二人が悪い人間でないことはこれまでの付き合いで分かっていた。ただしそれはあくまでこの世界の中の二人であり、現実世界の二人がどんな人間なのか自分にはわからない。
今、自分に見せている表情はありのままの顔か、それとも作り上げた仮面か。
けれどその疑問はこういった仮想世界においては無用な詮索だ。作り上げた仮面で楽しむのも、素顔のまま楽しむのもその人の自由なのだから。
「二人も向こうで鬼に?」
「襲われたよ。何とかなったけど」
そう言ってモーフィアスはうたが出てきた茂みを一瞥する。
「ねぇ、それよりまだここにいるの?」
不安げな面持ちで辺りに視線を配りつつうたが口を挟む。
「うた、まだ慣れないの?」
「慣れない。それに夜の神社なんて普通はあまりいたいとも思わないでしょ」
確かに満月でそれなりに明るいといっても、夜、それも照明装置すらない神社は不気味で何か言い知れない不安を覚える。
「なんだ、不破もこういう場所は苦手なのか?」
自分が押し黙るのを見透かしたようにモーフィアスが言う。
「いや俺は平気ですよ」
言い切るとまるで見計らっていたかのように短い鳴声を上げて森から数羽の鳥が飛び立った。驚きの声を上げるうたの隣で思わず身体が強張る。
「無理をする必要はない。誰だって苦手なものはあるさ」
「いや、平気ですってば」
慰めるように肩に置かれた手を払いのける。
「認めたくないんだね」
一人で納得したように頷くうた。こちらが否定するより先に彼女は再び小さな光を呼び出し、それに耳を傾ける。魔法の一つで、光は周囲の状況を教えてくれる精霊なのだという。
「どうだ?」
「うん、もう鬼はいないって」
精霊からそれだけ聞くとうたは少し安心したようだった。そのまま精霊に向かって何かを呟くと、精霊の放つ光が白く強いものに変化した。照明装置にもなるようだ。
「よしっ、それじゃあ早くいなくなった娘を見つけてここから帰ろう」
自らを奮い立たせるように言い、一人で社殿の左に伸びる道へと駆けていく。光も後を追うようについていき、共に森の中に姿を消した。
「怖がっているのに一人で行きましたね」
「よっぽどここにいたくないんだろうな」
「後を追わないと」
「そうだな。だれかさんもここの雰囲気は苦手みたいだし」
渋面する自分を見て笑みを浮かべるモーフィアス。並んでうたの後を追い鎮守の森に足を踏み入れる。
幸いなことに森の中は少し開けていて、月明かりだけでも十分に道が判別できた。下草が生え僅かに地肌が見える程度だが、それが神社の背後に聳える山までまっすぐ伸びている。
道の先に精霊の白い光とうたらしき影が見えた。自分達がちゃんとついてきていることを確かめたかったのか、こちらが歩みを進めると影と光はさらに先へと移動し始める。
脇の鬱蒼とした草木は風もないのに時折がさがさと葉音をたて、そのたびにじわりと嫌な緊張が胸に広がった。
横目でモーフィアスの様子を窺う。彼がそれらを気にしている素振りはまったくない。
先程の盾の投擲といい、彼の人間離れした動き、何事にも動じない精神には驚くばかりだ。この世界に長くいると身につくのだろうか。まだひと月足らずの自分には考えられないことだ。
彼と知り合ったのはこの世界に来て一週間もしない頃だ。共にこの世界で時間を過ごす内に、いつしかその話し方や立ち振る舞いから自分より年上のしっかりとした大人の見本として彼を見るようになっていた。
「随分と先に行ったな」
いつの間にかうたの影も精霊の光も見えなくなっていた。
「大丈夫ですよね?」
「もう鬼は出てこないと言っていたから、心配はいらないと思うがな」
この赤の雫という仮想世界は、まさにビデオゲームの世界だった。
未曾有の災厄に見舞われた世界。困難に喘ぐ人々。その災厄を打ち消すべく立ち上がった放浪者と呼ばれる者達がプレイヤー、つまり自分にあたる。放浪者は赤の雫という世界に存在する様々な国に赴き、災厄から人々を救っていく。
今日はその国の一つ、大和に来ている。戦国時代の日本を舞台としていて、領土をめぐる戦が続き疫病が蔓延するこの国ではいつしか鬼のような妖怪が跋扈しはじめ、訪れた暗黒時代に人々は憔悴しきっていた。
そうして若い人や食料を戦で徴収され、すっかり寂れてしまったある村落で人探しを頼まれ、三人でその姿を消した娘が向かったと思われるこの神社まで赴いたのだった。
歩調を緩めることなく森の中を進んでいると、平坦だった道がゆるやかな坂になり、勾配がきつくなったところで幅広の石段が現れた。山肌に沿う形で右曲がりに上まで伸びている。
足をかけると上から微かな悲鳴が落ちてきた。モーフィアスと顔を見合わせ、同時に石段を駆けあがる。
石段を登りきった先は平地になっていた。周りを竹林が取り囲み、草のない地面は月の光で白く、奥に佇むうたの影を引き伸ばしている。つきまとっていた精霊は消えていた。
「うた、どうしたの?」
彼女に近づき肩越しにそれが視界に入った瞬間、思わず息を呑んだ。
擦り切れ色あせた小袖を着た女性が月明かりを艶々と照り返す血の池の中で胎児のように身体を丸め横になっていた。すでにこと切れており、小袖は右半分が血を吸い黒く染め上がっている。
「この子が、探していた子?」
うたが呟く。
「恐らくそうだろう」
応じるモーフィアスの言葉にもどこか力がない。
「何で、こんな」
うたの口から途切れ途切れに言葉が漏れた。
女性の両手は胸部に突き刺さった短刀の柄を固く握り締めている。それがこの女性の最期がどんなものだったのかをおぼろげに悟らせた。
「自分で?」
血の匂いとそれ以外の臭気が鼻腔に忍び込み、口元に手を当てる。
「あの鬼達に身体を蹂躙されたくなかったのか、あるいは何か他の理由があったのか。どちらにしろ遅かったようだな」
白い顔にかかる髪の間から薄く開いた瞳が見え、さっと視線を外した。
目の前の死体は仮想の中で作られたもの。いわば偽物だ。けれど現実と遜色ない生々しさ、凄惨さは仮想という柵を簡単に飛び越え、目にしたものに負荷を与える。それはこの世界に限らず他の仮想世界でも同様で、たびたび精神障害を引き起こし記憶除去治療が必要になる事態を招いて問題になっていた。
「あっ」
うたが何かに気づいたように小さく声を上げた。
自分達を包み込んでいた月明かりが、竹林が、夜空が、そして月が砂のようにさらさらと崩壊を始めていた。夜空の裏からは目の覚めるような青空が、月は容赦なく陽光を放つ太陽へと取って代わられる。その下には一面見渡す限り濃緑の森が広がり、地平には黒々とした山々が折り重なって続いていた。
思わず後ずさる。自分が立っている場所も、その全景を見下ろせる山の中腹、切り立った崖の上へと変わっていた。
血の匂いも死体も何もかもが一瞬のうちに消え去り、太陽のまばゆさと熱が肌に突き刺さる。
目の前の空を一羽のひばりが音もなく下降していった。
「うわー、高い!」
慎重に崖下を覗き込んでいたうたが声を上げてすぐに身体を引いた。
「無事に戻れたな」
モーフィアスも眼下を見下ろしながら呟く。
森の中に水を張った田んぼと数軒の民家が密集しているのが見えた。依頼人のいる村落だ。探していた娘を見つけたことであの神社にいる必要はなくなったのだ。〈赤の雫〉では徒歩で目的の場所に向かうこともあれば、今のように一瞬にして場所が移り変わることもある。初めの頃はそうした世界の変化に驚いていたが、幾度も体験するにつれて慣れていった。
「ねぇ、ここから降りられそうだよ」
うたの声を合図に全員で山を降り始める。山中は道らしい道もなく、青々とした雑草の急斜面が続いて慎重に足を運んだ。草履に素足なのでちくちくとした感触が足の甲をなでる。なんとか三人無事に降りると鬱蒼とした林があり、その間を抜けると道祖神が脇に控える道に出た。
「上から見た様子だと左だな」
モーフィアスの言葉に再び足を動かす。
季節は初夏なのか蒸し暑く、歩いていると額や背中に汗がにじんだ。鳥の鳴き声とさわさわとした葉擦れの中を進む。二人とも先ほどの光景をまだ引きずっているのか押し黙ったままだ。
人の死体。初めて仮想の中で見たときの衝撃は大きく、好奇心に駆られて触れたことを後悔した。微動だにしない身体、冷たく強張った皮膚の感触、血の匂いと纏わりつくような手触り、鼻をつく死臭。それらは自分が知り得ないものだった。当然だ。普通に生活を送っていてまず目にするものではないし、ましてや触れることだってない。
けれど仮想の中で作られた死体が現実に忠実で、それを感じ取る感覚も現実と同じならば、仮想の中で見て触れる行為はそれらを知り得ることにならないだろうか。
ほんの数分前、自分達は本物の死体を見て、その匂いを嗅いだのだ。
自分の立っている場所が仮想世界だという強い認識がなければ、この世界にいることは困難だ。それを盾に耐性を作り、順応していかなければ。つまるところ素質、耐性、それがあるから自分はこの世界で二人と知り合い、共にいることができる。
到着した村はすっかりやせ細っていた。壁は板張り、屋根は葦ぶきの平屋が道の両側に連なっている。片側の平屋の背後は土地が隆起していて、そこに水が引かれ田んぼが作られているようだ。
平屋は屋根の葦がすっかり薄れてしまっているもの、壁板の一部が崩れ隙間から中の様子が見えているものもあった。最初に訪れた時も感じたが、この村は死を待っているだけのように思える。子供の姿もなく、目にするのは小さな畑を耕す年老いた農夫、病人だけ。労働力たる人材が奪われては、これから存続できようはずもない。
戦禍に呑まれ消え去ろうとしている村。現実世界、過去の日本にもこうした風景が存在したのだろうか。そんなことを考えながら依頼人の住んでいる平屋までまっすぐに歩いた。
「ごめんください」
すぐに依頼人の家に到着した。家屋自体の数がとても少ないのだ。扉に声をかけるものの返事はなく、立てつけの悪い扉を開けて中に入った。
中には誰もいなかった。娘の捜索を依頼したのは母親で、身体が悪く終日床に臥し、とても探しに行けないからと自分たちに依頼してきたのだ。けれど寝ていた場所に彼女の姿はなく、寝具も綺麗に片づけられている。
「そこに住んでいた人なら、もういないよ」
うたが短く悲鳴を上げる。背の曲がった白髪の老婆が戸口の外に立っていた。自分達をその細くなった目で一瞥し、言葉を続ける。
「あんた達だろ? ここの娘さんを探しにいってくれたのは。それを頼んだ母親は死んじまったよ」
「死んだ?」
老婆が目を伏せる。
「元々体が丈夫じゃなかったのさ。あたしも時々は様子を見に来てやったんだけどね。つい二日前だよ」
一気のそこまで話すと自分たちの沈黙から娘の安否を悟ったのか悲しげに息を吐いた。
「そうかい、結局あの子も。不憫な親娘だよ。父親を早く亡くして、母親と娘で助け合って生きていたのに。許嫁が兵にとられてからどこか気がふれちまったんだろうね。あんなところにいくなんて」
悲しげな呟きを残し、老婆の姿と周りの風景がさらさらと崩れていく。
世界の変化。次に目の前に現れたのはまたしても空だったが、先程とは違い深い青色をしていて一面どこまでも広がっていた。上方にいくにつれて色がより深く濃くなっている。聞こえるのは風の音のみ。足元では緑草が風に靡き、その緑は円状に広がっていた。緑の円の先も空だった。草原の下に広がっているのは白い雲海で、雲間からは地表が見え隠れしている。
大地から丸く切り取られ、宙に浮いた草原。その言葉通りの場所。
「あれで終わり?」
「そうらしいな」
二人が周りを見渡す。
ここは〈始まりの庭〉と呼ばれ、〈赤の雫〉という仮想世界の基点となる場所だ。現実世界から〈赤の雫〉に来た時、そして今のように受けた依頼を終えたときにはこの場所へと召喚される。
その草原を漂う四色の光があった。うたの呼び出した精霊と似ている。これらの光が赤の雫に存在するそれぞれの国の入り口となっている。今までいた大和は白い光の先にある。他に赤、緑、青の光があり、それぞれがアメリカ合衆国、エルフの集落、古代ローマへと繋がっている。ここから各国を行き来し、災厄に苦しむ人々を助けるのがプレイヤーに与えられた役割だ。
「あんな結末になるなんて聞いてないよ、光春」
うたが責めるような口調で言う。人々から受ける依頼の結末は必ずしも幸せなものではなかった。彼女はことさらそういった不幸な結末を嫌っているようだ。
「悪かったよ。けど俺も知らなかったんだ」
「もう、気をつけてよね。私こういう話は嫌い」
「ごめんごめん」
「うた、無事に終わったんだからもういいだろう」
モーフィアスが宥めて、うたの怒りはとりあえず収まった。
「これで自分の依頼は終わったけど、二人はどうする?」
今日はたまたま三人で集まることができ、自分が向かおうとしていた大和での依頼に同行してくれたのだ。
「後味悪いけど、私はこれでおしまいかな」
「俺も今日はこれから予定が入っているからな」
「そっか。それじゃあまた今度かな」
まだ二人といたいという思いがあったが、内心の落胆を悟られないよう努めて明るく振る舞った。
二人はそれぞれの右手の甲に触れると、彼らの前にひし形をした半透明のモニタが出現した。それだけが近代的、言ってしまえばゲーム的でこの場にそぐわず異物感を与える。
手を伸ばしモニタを操作すると二人の身体は細かな光の粒子となり内側から四散して消えた。現実世界へと戻ったのだ。
「今日は終わり、か」
一人でこの世界に残る気も起きず、自分も現実へ戻るために右手の甲に刻まれた五芒星の印に触れる。二人と同じようにひし形のモニタが眼の前に現れ、その中には所持品や依頼、仮想といった項目が並んでいる。
これが〈赤の雫〉のユーザーインターフェース。自分の持ち物や今の状況などを知る為の装置だ。メニューとも呼ばれ、大抵どの仮想世界にもこうした仕組みが組み込まれている。
仮想の項目を指で選択する。モニタに現実世界の日時と現実世界への帰還という文字が現れ、帰還を選択すると部屋の明かりを消したように目の前が一瞬で暗くなった。
直後に意識が遠のき、瞳を閉じてそのまま暗黒に身体を預けた。