18
〈反逆の園〉に行くしかないのか。
うたから届いたメールが証明している。先程の出来事が確かに起きたことだと。あの女性が自分の錯覚や幻覚ではないことを。
呼び出され、公園で対面した二人の見知らぬ女性。だが最初の一人は話の途中、ほんの瞬きの間に目の前から消えた。消えたのだ。忽然と。信じられず幻覚かと自分の認識を疑う中、今度は二人目の女性が現れた。消えた女性とは別人。なのにその口調、英語、話の内容は消えた女性と同じようだった。
そしてマルスと名乗るその女性の言葉……
「こういう世界なのよ。私のようなゲストには適当な身体が割り当てられるようね。そう作ったんでしょう?」
つまりここが仮想世界だというのだ。そしてこの世界を作ったのが自分だと。
ベッドに座ったまま部屋を見渡す。窓際の机に薄く積もる埃も、座っているベッドも、おかしいところはない。普段と何も変わらない見慣れた自分の部屋だ。
顔が笑いに歪む。ここが仮想世界であるはずがない。馬鹿馬鹿しいと嘲る。しかし、もしかしたらそうではないかと肯定する気持ちもあった。今、自覚した。
一瞬で目の前から消え、人格がそのまま転移したかのような別人がすぐに現れるなど、仮想世界なら可能だ。実際にそれを見せつけられたのだ。
じわりと嫌な気持ちが胸に広がる。大事なことを忘れ、後になって気づき、もう取り返しがつかないと知った時のような……
だがここが仮想世界だとして、この世界で日々を送る自分はなんだ?
ある考えが浮上する。ここを現実世界だと信じているのは、単にこの世界で生活をしているからではないか。〈赤の雫〉にしても、あの世界で日常生活を送ることができれば、あそこが自分の現実世界になるのではないか。
考えを打ち消す。馬鹿らしい。ここが仮想世界であるはずがない。ならば自分はとっくに死んでいるはずだ。仮想世界に長時間いれば肉体が崩壊する。そして仮想世界にいる意識も死ぬ。やはり彼女の話は嘘だ。
だがどんなに否定し見下しても、胸の嫌な気持ちは消えず、膨れ上がり圧迫する。息苦しい。
結局、あんなことを見せつけられては完全に否定することがもう無理なのだ。
自分の認識が急速に傾いていく。ここが現実世界ではなく仮想世界なのではないかと。
不安がはっきりと身体を襲う。震えが止まらない。
ならば自分は、なんなのだ? なぜここにいるのだ? 現実世界を模した仮想世界に。
もしや、この仮想世界に引きこもっているのか。肉体の維持、管理は仮想世界用のポッドなり、他人に任せ、ただ仮想世界に没入しているのか。しかしそんな記憶はない。この世界以外の現実世界の記憶などないのだ。
だがもしや、その記憶を消しているのか?
机の上の時計が目に入る。うたからメールが届いて三十分が経過していた。
行かなければ。それだけ彼女を待たせている。しかし行ってどうする? ここが仮想世界だとして、自分はこれからどうなる? あの女性、マルスなら何か知っているのか。
そうだ。彼女だ。彼女なら他にもなにか知っているはずだ。例えば現実世界に戻る方法を。現に彼女はこの世界から消え、再び現れたではないか。
しかし安易に頼っていいのか。会ったばかりの、それも得体のしれない使徒の人間だ。
彼女への猜疑とは裏腹に、手は〈反逆の園〉専用の接続機器に伸びる。早くいかねば彼女達は帰ってしまうかもしれない。頭に装着しようとして、手を止める。
もっとよく考えるべきだ。行けばどうなるのか。戻れるのか、現実世界に。だがこの記憶は、この世界は、自分はどうなるのか。
しかし時間もない。それだけ待たせている。帰ってしまうかもしれない。
マルスに頼るべきか否か。わからない。
肩の力を抜く。決断できぬまま、装着した。遠のく意識の中、身体がベッドに倒れたことだけは分かった。
目覚めるとそこはもう自分の部屋ではなかった。〈反逆の園〉の、以前にも訪れた聖堂の中で、散乱した木の長椅子の一つに座らされている。服装もフード姿のまま。正面には祭壇とステンドグラスがあり、差し込む光と静寂以外は何も気になるところはない。
来てしまった。何の考えもなく。時間にせかされたせいもあるだろう。
胸の圧迫感は消えていた。しかしその原因を思い返すと再び湧き上がってくるようで、深呼吸をして気を静める。
ここまできたら、行くしかない。現実世界へ戻っても、母や妹にここが仮想世界か、などと聞けるはずもない。それに、母や妹が本当の家族かも、わからないのだ。
頭の片隅に湧き上がり、だが決して考えまいとしていた疑問。こうして別の世界に来て、やっと思考の上にあげることができた。
家族は、その場に居て当然。存在するのが当たり前。それが虚構だというのか。考えられないし、信じられない。
大きく息を吐いた。湧き上がる不安を吐きだすように。まだ確定したわけではない。もっとマルスから話を聞き、それから判断してもいいではないか。
なんとか現状に対する答えを出す。
あの世界が仮想か現実か。その天秤は一度、急速に仮想へと傾斜したが、今では水平に戻りつつあった。いや、水平を保ちつつも揺れ動いている。考え始めると、天秤を持つ自分自身が揺らぎ、耐えられなくなるのだ。
自身の内面をそう客観視できるぐらいには落ち着いたようだ。この世界にきたおかげだろうか。
しかし、現実世界かどうかわからないとは。それにこれがマルスの嘘だとして、自分を惑わせてどうするというのか。
別の疑問も沸く。
ひょっとすると、自分は〈仮想の住人〉なのかもしれない。
しかし〈仮想の住人〉が別の仮想世界に行くことなど可能なのか。聞いたことがない。そもそも住人はクリエイターが用意した登場人物だ。その世界で役割をこなすだけの。
考えを止める。会って聞けばいいのだ。もうかなり待たせている。
立ち上がり、祭壇で目的地を告げ、反対側の鉄扉に向かう。前にユダと面会した場所、〈最後の晩餐〉と呼ばれる場所へ。
鉄扉を開けて白い靄を抜けるとそこは小さな部屋。机の周りにはすでに二人の姿があった。同じ目深なローブを纏う二人。うたと、もう一人。
「来たわね。マルスよ。あなたの世界でも会ったわね。話は覚えてる? 何か聞けた?」
流暢な日本語を話した。別人の印象しかない。先程は英語だったのに。
「ここでは言葉は変換、翻訳されるの。それが一般的な仮想世界の仕様。あなたの世界はそうではなかったけれど」
あなたの世界……
確かにこの女性はマルスかもしれない。
しかし本当の現実世界だからこそ、言葉が翻訳、変換されないということにならないか。現実世界では当然、翻訳などされないのだから。
「それで、家族から何か聞けた?」
疑問を中断する。先程から同じ質問ばかりだ。答えなければまた繰り返すだろう。
「何も聞いていない」
「なら、聞くべきね」
にべもなく言う。仮想世界だと決めつけている態度に苛立ちを覚えた。
「俺は、そもそも信じてない」
反発を含んでいた。だがマルスはじっとこちらを見、口を開く。
「記憶がないの?」
何の記憶だ。記憶ならある。あの現実世界の。
あの現実世界?
息を呑む。マルスがどの記憶のことを指しているのかわかった。本当の現実世界の記憶だ。仮想世界だとして、そこに入る前の記憶のことだ。それは、ない。正直に話すべきか。だがこちらの沈黙から肯定だと受け取ったようだ。
「あの世界でどのくらい過ごしているの?」
心臓が高鳴る。そんなこと、生まれた時からだ。物心ついたときから。幼い頃の記憶、思い出がある。薄ぼんやりと、切れ切れの、印象に残っている場面、出来事の記憶が。
だが、何だ。
想起される光景に戸惑う。違う。違うのだ。自分が生活を送っていた現実世界とまるで違う風景。
自宅も、学校も、記憶の場所が、今の場所と重ならない。引っ越した記憶もないのに。
古い家だった。畳に仏壇。大きな窓からは閑散とした風景が見える。家、森、丘、電線、道路、車、一昔前の日本の光景……
この記憶は何だろうか。これが本当の記憶だというのか。記憶にある現実世界の光景だと。
どこか別の仮想世界を利用して、その風景を思い込んでいるだけだ。
しかしこんな仮想世界を利用した覚えはない。そもそも仮想世界なら仮想世界だと認識しているはずだ。
この記憶はなんだ?
ふらつき、壁にもたれる。
マルスは椅子をすすめた。
「とにかく話してみて。言葉にすればあなたの頭も整理できるから」
時間が必要だった。その記憶を繰り返さなければまた忘れてしまいそうで。
どのくらい時間が経ったのかはわからない。なんとか整理がつき、たどたどしく口に出した。仮想世界の記憶しかないこと、そして今しがた想起された古い光景を。
「その記憶が別の仮想世界のものか、現実世界のものか、あなたにわからないならこちらも同じよ。ただ、それ以上思い出せないというのなら、私もあなたの記憶の回復に協力するわ」
言葉を疑う。
「なんでそこまで」
そんなことをしてもらう理由はなかった。親切心からとは思えない。
「私はあなたがオーヴァの一員ではないかと考えているの」
突然何を言い出すのだろうか。頭は混乱の極みだった。
「そもそもあなたがこの世界にいること自体、驚きなのよ。一個の独立した仮想世界から別の仮想世界への転移。そんなことは誰にもできない。個人の人格、記憶に関してクリエイターは一切干渉できないの。仮想世界へ転移された人格はそこで体験した記憶を必ず本人の肉体に還す。最も、それが確実でなければ大問題。仮に他者の記憶や作られた人格が現実の肉体に転移すれば、混乱どころではないもの。作られた仮想の住人の人格すらも別の仮想への転移は不可能なの。ただツールを貸し与えられているだけのクリエイターでは。なのにあなたはこの世界や赤の雫、その他の世界を自由に行き来している。それは何故?」
知るわけがなかった。
「可能だとすれば、それはオーヴァ側の技術者か、もしくは転移を実現させた何者か、ということになる。前者であればこの事態を直接問いただすことができる。そうでなくとも、転移の技術は必要だわ」
自分がオーヴァの人間。そう言われても何も響かない。仮想間の転移を実現した者か、ということも同じだ。そんな技術を持っているなら、仮想世界の知識ももっとあるはず。だがマルスがたった今、話したことすらも知らなかったのだ。
「どっちの記憶もない」
「協力するわ」
安易に信用していいはずがない。猜疑心はまだある。整理する時間もほしかった。
「考えさせてくれ」
この場ですぐに返事などできない。一度、あちらへ帰って、よく考えてからだ。
あちら、だと?
認識が変わっていた。あそこが現実世界だと言えなくなっていた。
「今、この場で決めて」
耳を疑う。だが聞き間違いなどではなかった。マルスの被るフードの奥、覗く目が答えを待っている。
決められるわけがない。口には出さず、非難がましく見た。
「悪いけれど、もう時間がないの」
意に介さず続けるマルス。
「記号に関する情報も世間に露見し、各地で混乱が起きている。記号を手にすれば何が起こるのか知った上で、それを試す輩までいるわ。映像もネットにアップロードされている。映像を見る限りでは、被害者の症状もこれまでと同様、夢遊病者のように無意識下で歩きはじめ、オーヴァの関連施設へ向かうようね。その歩みの途中で無理にでも引き留めれば、意識が戻ることも共通している。だから面白半分に試すのでしょうけど。でもナノマシンが体内から除去されない限り、安全ではない。時間をおいて再び症状が現れるかもしれない。問題はオーヴァのナノマシンが除去されないことにある。そして現時点でもオーヴァは沈黙を続けている。世界保健機関はオーヴァのナノマシンの利用を控えるよう警告したわ。日本でも政府から発表があったはずよ」
知りようがなかった。ニュースなどに構っていられなかった。
「一部の人々はオーヴァの施設へ出向き、抗議している。施設の破壊、侵入まで及んでいる所もある。中継基地と勘違いして、そこを壊せば大丈夫だと思っているのね。それに施設内に行方不明者がいるかもしれないとあれば、その心境もわかる。けれどいまだ、行方不明者は一人も見つかっていない。もっとも、それで見つかるようであればとっくに救出しているもの。行方不明者の所在を知る為にも、オーヴァの中央仮想へ侵入する必要があるの」
話を聞いていて、心が冷えていくのを悟った。ユダと話をした時と同じだ。マルスの話が突拍子もないからだろうか。現実から遠ざかっていくような。
「中央仮想?」
うたが聞く。
「仮想世界がサーバとしても利用できることくらいは知っているわよね。適正試験でも出題されるから。今では廃れているけれど。そもそもオーヴァの提供する仮想世界は人の空想を描き出すことに関しては優れているけれど、データのやり取り、サーバとして利用するには汎用性が乏しい。メタトロン単一でしかデータのやり取りができない点も含めて。けれどオーヴァはサーバとして利用している。セキュリティは堅牢、かつメモリはほぼ無限といっていいもの」
企業のサーバに侵入すると、マルスは言っているのだろうか。犯罪だろう。そのぐらいは混乱、疲弊した頭でもわかる。
「あなた達に侵入までしてもらう必要はないわ。ただ転移の技術がほしいだけ。あなたの記憶がね」
自分の正体、記憶に関してはどうでもいいと。だがそれでいいのではないか。自分の事をそんなに重要視してほしいのか。
「じゃあ、記号の回収は?」
うたが聞く。
「もう意味がないわ」
切り捨てるように言う。
「そんな」
頭を垂れるうた。彼女は何の為に。考える間もなくマルスがこちらをせかす。
「これはあなたの為にもなるのよ。記憶が戻らないと身動きがとれないでしょう。あの世界で、また何事もなかったかのように暮らすの?」
そんなの、俺の自由だ。だが口に出せなかった。
「戸惑うのもわかるけど、一刻を争うわ」
自分にとっては、今の話を信じるか否か、ではなかった。お前達だけで勝手にやっていればいいと思っていた。心が遠ざかっていた。
では、自分がここにいる理由は?
不意にひらめく。
現実世界に戻ればいいのではないか。あちらではなく、本物の現実世界に。
そうだ。自分はそのためにここへきたのだ。
「俺が現実世界に戻ればいいんだ。そうすれば」
思わず独白する。そうすれば記憶が戻るかもしれない。自分が何者であるかもわかるだろう。
雲間から一筋の光が差し込んだような。だがそれもほんの一瞬だった。
マルスは答えず、黙っている。何故だ。何故答えない? それが一番早いはずだ。
「見せたいものがあるの。こっちへ」
立ち上がり、移動して扉を開ける。来た時と同じく白い靄がかかり、先は見えない。
「中に」
椅子から立ち上がる。
「待て。俺の現実世界を知っているんだろう? なら本当の現実世界に戻る方法も知っているはずだ。現にいなくなったじゃないか。メタトロンか? あのアイコンを押せば戻れるのか?」
「こっちで話すわ」
「なぜここじゃダメなんだ?」
マルスは答えない。
何だ。何があるのだ。現実に戻ったら都合が悪いのか。まったく意図が掴めない。付き合いきれない。
この場で暴れてやろうか。馬鹿な。そんなことをしてなんになる。ではあちらへ帰るか。
そこで気づいた。この場から去ろうにも、扉はマルスに抑えられている。主導権はあちらにあった。
行くしかないのか。
何か理由があるのだ。口に出せない理由が。それは何だ? 知りようがない。
不満の籠った息を吐く。行けばいいんだろう。マルスを睨み、乱暴に靄を通り抜ける。
そこは現代的な四角い部屋だった。壁や床は薄緑色で、天井に四角い電灯、中央に椅子があるだけの部屋。背もたれのゆったりした白い椅子だ。対面を向いている。
「あなたはいいわ」
背後で声がして、マルスがこちらに入ってきた。扉が閉ざされる。
うたはどうした? 何故、自分だけが?
「座って」
「何をするつもりだ」
当然の警戒だった。
「座れば、正面に映像が映し出されるわ。見てもらいたいのよ」
「このままでいい」
椅子に座るぐらいなら構わないだろうと思った。だが言ってしまったものは仕方ない。
「わかったわ」
マルスが正面を向く。仕方なく自分も顔を向けた。
瞬間、電灯が消えて真っ暗になった。息をのむ。
「何が……」
マルスの方を向くが、何も見えない。これも演出なのか?
十秒……二十秒……何も起きない。目も一向に暗闇に慣れない。
「おい!」
マルスの返事はない。すぐ傍にいたはずなのに彼女の息遣いさえ聞こえない。
腕を伸ばして壁を探るが、空を切るだけだった。どんなに手を伸ばしても、歩いても壁に突き当たらない。こんな、こんなことはおかしい。
「何のつもりだ!」
声を荒げた。ただ反響するだけで、何も答えない。
罠だ。だがこんなことをしてなんになる?
気分が悪い。立っていられず、膝をつく。ひんやりとした地面の感触だけは確かだった。
音がする。キーンと。沈黙の音が。
しかもこの眠気はなんだ? 身体もだるい。抗いきれず、横になる。それがいけなかった。一気に眠りへと傾く。
不破光春は眠りに落ちた。




