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 でこぼこと起伏のある山肌を駆けあがる。

 とある山中の獣道。空は曇り、仄暗い森の中にはいくつもの青白い人魂が彷徨っている。こちらに危害はないので無視した。ここに来るのは二度目だ。

 身体は汗ばみ、息は切れ、起伏に足をとられてあやうく転倒しかける。歩調を緩めて動悸を整えると、それを見計らったように行く手に何かが飛び出した。獣ではない。鬼の子のような容姿をした魍魎だ。

 抜刀し、対峙する。自分の腰ほどしかない背丈。赤い皮膚。吊り上った目。頭髪のない丸い頭には角が二つ。頬に好奇の笑みを浮かべて、幼子のように両手を広げてこちらに駆け寄る。

 刀身を腰の位置で水平にし、右足で踏み込んでそのまま身体ごと刀身を突き出した。狙いはつけなかった。ただ身体のどこかに当たればいい。切っ先は魍魎の左の眼窩に突き刺さる。頭蓋の内で突き止まる感触と魍魎の歪む形相、絶叫が怖気を誘い、全身に力を込めてそれを抑え込んだ。

 魍魎が刀を掴む。こちらが引き抜くと赤黒い血が噴き出し、目を抑えてその場でのたうち始めた。

 すぐに次の異変を感じ取る。左脇の風景の一部が歪み、蠢いている。歪みは魍魎の輪郭を形作っていた。刃でその歪みを薙ぐ。こちらは何の感触もなく、溶けるように消えていった。

 ここは黄泉比良坂。黄泉の国へ至る道だ。この世とあの世の境目であり、実体をもつ者ともたぬ者が入り混じっている。手にした刀はそのどちらを斬り伏せることのできる業物だ。

「うた、早く!」

 背後から猫の叫びが聞こえた。

 振り返ると獣道を登ってくる二人の姿が見える。うたは僧衣を膝上までたくし上げていた。もともと激しく動き回るような服装ではないのだ。そんな彼女を補助するべく、さきがけは自分、しんがりを猫が務めている。

 魍魎どもとの戦いは前哨戦に過ぎない。本番は黄泉の国だ。黄泉への入口である山の中腹の大岩までは余計な体力を使わず一気に駆け上がるよう事前に決めていた。

 前に向き直り、喚く魍魎を無視して先行する。実体をもつ魍魎が出るたびに斬り捨てた。魍魎の脅威は爪や牙くらいなもので、一太刀浴びせるだけで倒れて子供のように泣き叫ぶ。

 魍魎を斬ることができるのは相手の敵意からだ。襲いかかる獣と同じ。だが柔らかい腹を蹴り飛ばし、悲鳴を上げてのたうつ姿を見た時にはさすがに怯んだ。子供の姿と重なって。

 獣道を登り、木々の密集を迂回し、魍魎を斬り捨て、また登る。息は荒く、汗が吹き出し、肺は焼けるようだ。登るにつれて耳鳴りも始まる。動悸が激しいからではない。黄泉が近いからだ。耳鳴りは次第に唸りのようになる。男の、女の苦しげな唸りが頭の中で響く。耳を押さえても消えない。

 木々の間隙から大岩が見えた。力を振り絞って登りきると開けた場所に出る。小さいが平坦な場所。大岩はその奥に鎮座してあった。その周囲は陽炎のように揺らめいている。

 振り返る。猫に身体を支えられて、うたも到着した。だが二人とその周囲の風景はすぐに歪み、ぐにゃりと景色に混じり合う。木々の緑、大地の茶、影の黒、色が溶け合う。目が回りそうで、瞼をぎゅっと閉じた。聴覚に意識が集中する。耳鳴りはもうはっきりと唸り声になっていた。

 次の瞬間、ふっと唸りが止む。

 目を開ける。目をつぶった二人の姿に黒い大岩。場所は変わっていないようだが、色だけが一変していた。真っ赤な空に刷毛で薄く掃いたような黒い雲。焼け焦げたような黒い木々。灰色の大地。

 死者の国、黄泉だ。訪れるのはこれで二度目。二人も目を開けて辺りを見渡した。

「ここが黄泉の国?」

 たくし上げた裾を離し、体にくっついた葉っぱや汚れに気づいて払い落すうた。

「さっき話した通り、ここを下ると広場があるから、そこで醜女を迎え撃つわ」

 猫の指示に頷く。自分は以前、その途中でやられたのだ。

 束の間、休息し、登ってきた道を転ばぬよう早足で引き返す。今度は猫がさきがけ、自分がしんがりだ。

 下りはじめるとすぐさま女の唸りと、がさがさと葉擦れが自分達の後を追いかけてきた。醜女だ。黄泉での最初の試練。ここで襲ってくる醜女の数は五十。わざわざ数えた人間がいる。

 振り返らず一心に下る。もたもたしていると醜女に追いつかれる。この先の広場まで移動し、うたの魔法で醜女の動きを止め、自分と猫でうたを守りつつ倒す。その計画を実践するため、慎重に、かつ素早く駆け降りた。

 うたの炎の魔法で醜女を焼き払えればよかったが、それぐらいでは醜女の勢いは止められないらしい。それに燃え盛る醜女が身体に取りつけば自分達にも被害が及ぶ。そこで制止の呪文で醜女の動きを止めることになったのだ。だが問題は数だ。魔法を使い続ければうたの負担は大きくなる。魔法は対象の精霊と自身の体内にある精霊を相互干渉させて起こすらしい。体内の精霊を消費する行為だと。精霊の森のように過剰摂取しても毒だが、連続で消費し続けるのもよくない。疲労、めまい、頭痛など身体が危険信号を出す。

「一回の依頼で唱えられるのは十くらいかな」

 依頼を開始する前の作戦会議。魔法の規模にもよるが、それがうたの魔法の限界らしかった。

「うたはできる限り動きを止めて。私と不破で醜女の相手をするから」

 醜女はまるで影ようだ。実体がなく、こちらの殴打や振り払いはすり抜けてしまう。有効なのは刀の刀身のみ。前はそれを知らず、身体に取りつかれてなすがままだったのだ。

 木立に囲まれた広場に到着し、作戦通り広場の中心まで移動し、うががすぐに魔法を詠唱した。怒っているような声音だ。猫も小太刀を二つ抜き放ち、両手で構える。こちらも右手に太刀、左手に脇差と二刀で臨む。

 詠唱が終わると空中の一点で炎が灯るようにぼっと紫色の揺らめく精霊が出現した。うたが顔を左右に振ると、精霊も同調して振り子のように左右に揺れる。

 降りてきた道から醜女が姿を現した。様々な体型で、黒い身体に顔だけが白く浮かび上がっている。怒りとも苦しみともとれる歪んだ表情。髪を振り乱してこちらに迫るその姿は身を竦ませるのに十分な恐怖を伴っていた。

 紫の精霊が醜女達に向かい、身体を通り抜けた。途端に醜女は硬直し、彫像のようにそのまま倒れる。

「不破!」

 猫にけしかけられて醜女に接近し、切っ先で頭を横に薙いだ。何の感触もなく刃は通り、その瞬間にさっと形が崩れて醜女はは黒い砂と化す。

 残りの醜女を仕留めていると、周囲から次々と醜女が飛び出した。うたの操る精霊の動きは俊敏ではなく、多くを見逃している。迫りくる醜女。伸びてきたその黒い腕を右手の太刀で斬り上げ、返す刃で胴を袈裟切りにする。醜女は黒い砂と化し、身体にぶつかった。

 実体、肉の抵抗がないので、片手でも十分だ。横に肉迫した醜女を脇差で薙いだそばから黒い砂が舞い、周りが見えなくなる。横に飛び退いた。一か所にとどまれば醜女の残滓が視界を遮る。常に動き回ることが大事だと攻略サイトにあり、心がけていた。

 斬りつけざまに移動し、それを繰り返す。誤って二人を攻撃してしまわないよう距離をとった。混戦の時はそれが怖かった。

 黒い砂が充満する中、うたの姿を捉える。彼女の周りで次々と醜女が形を崩していく。その間を素早く移動する者。猫だ。姿勢を低くして流れるような動きで次々と醜女たちを砂に還していく。その動きの流麗さは信じられないくらいだ。

 ぐいと左に引き寄せられた。老婆のような背の曲がった小さい醜女に腕の裾を掴まれている。猫の姿に気をとられ、接近を許してしまった。

 目の前には真っ白い顔がある。開いた口からはしゅうしゅうと息が聞こえた。黒い歯をむき出してぐんと顔に迫る。咄嗟に左手の脇差を突き上げた。醜女の顎を貫いた瞬間、形が崩れてざっと砂が顔にかかる。掴まれていた力が消え、後ろに飛び退く。口の中が砂でざらつく。嫌悪感を唾と共に吐き捨て、視界に現れた醜女に意識を集中した。

 斬りつけ、飛び退き、再び斬る。全力でそれを繰り返して数分後、醜女の姿はなくなった。黒い砂埃が薄れていく中で猫とうたの姿が現れる。二人とも無事だ。自分と同様、息が上がっている。砂埃はみるみるうちに晴れていく。

「終わったわね」

 辺りを警戒していた猫が呟いた。途端にうたがその場にへたり込む。眉間にしわを寄せ、辛そうに顔を歪めている。

 身体は汗に濡れ、喉がからからだ。体面など気にせず仰向けに倒れこんだ。ただ空気をむさぼる。ここでこうして無防備に身を晒して休んでも今は問題ない。

 自分の心臓の音が聞こえる。身体に外傷はまったくない。うたと猫のおかげだろう。注意が分散した結果だ。だが慣れない二刀で立ち回り、何度か無茶な動きをしたために肩と肘を痛めていた。軽く動かしただけでも鋭い痛みが走る。子の身体でまだ戦えるか不安。

 この後は山を下り、死者の村でイザナミとの対決を残すのみ。その役目も猫が引き受けている。自分とうたはその補助。もしそこで猫が倒れれば自分が戦うしかないが、無理をすれば戦えないこともない。勝敗は別にしても。

 猫はうたの傍らで息を整えている。しばらくの間、各々が無言で体力の回復に努めた。

 数分後、尾をひく肩の痛みを堪えて立ち上がる。戦いの最中に投げつけた脇差を探し、見つけて納刀した。

「うた、動ける?」

 猫の言葉を受けてようやくうたが立ち上がる。

「大丈夫だよ」

「ここからは私一人でもいいけど」

 相手はイザナミただ一人。そしてイザナミ自身は何もしてこない。直面する試練はイザナミの足元に広がる〈蛇だまり〉と呼ばれるものだ。

 イザナミと対峙すると、水があふれるようにその足元から無数の蛇が現れる。絡まり合い、ひしめき合う蛇の中をイザナミのもとまで進み、その髪を持ち帰らなければならない。

 この依頼の中で、イザナミの髪を持ち帰れ、とは明確に示唆されない。依頼完了のヒントはどこにもない。そもそもここが黄泉の国だというのも攻略サイトで調べるまでわからなかった。魑魅魍魎が集まる山を調べろという話だったのに、それがいきなり黄泉だ。何をすればいいのかわからない中で試行錯誤し、見つけた攻略法。そして今、そのイザナミの髪に記号が隠されている。

 最も効率のよい攻略方法は、蛇だまりが広がる前にイザナミの髪を切り落とし手にすること。迅速な行動が要求される。だが猫ならば大丈夫だと思えた。彼女はこの依頼を攻略しているし、あの動きを見た後ではなおさらだ。

 しかしイザナミと対峙するということは、依頼の攻略鍵の回収、つまり記号の取得を意味する。うたがその危険を伝えても猫は譲らなかった。彼女もモーフィアスと同様、信じていない。それに危険ならなおさらうたにはさせられないと言う。うたももう強くは引き留めなかった。

 彼女はこちらを見たが、自分は顔を逸らした。すでに記号を持っている自分が名乗り出るべきか、咄嗟に判断できなかったし、それにその時はわけのわからない寂しさ、空しさを感じていた。

 うたにはモーフィアスや猫が協力してくれる。自分はこの場に必要ないのではと。うたの為に協力しているわけではないのに、なぜそんなことを考えているのか。

 自分がどうしてここにいるのか。その意味を見失いかけていた。

 自分の為だ。自分が手にした記号。それが何なのか。現実世界での行方不明と関連があるのか。それを見極める為に参加しているのだ。しかしその正誤の判断も他人にゆだねているではないか。他に何をするでもない。これまでと同じようにただ〈赤の雫〉に没頭しているだけ。

 じわりと焦燥が、不安が湧き上がる。何の危機感もなく、ただ〈赤の雫〉を楽しんでいるだけだ。この世界にいたいだけ。仲間外れにされたくもないという気持ちもある。こんなことでいいのか。結局、答えは出せず、気持ちにけりをつけることもできないまま依頼を開始し、今に至る。

 戦っている間は忘れられた。だがこうしていると思い返す。もはやただ流されているだけだと。

 気持ちが悪くなってきた。このままではよくないと、現状を再認識しての焦りに誘発されたものだった。わかっている。このままではよくないことくらい。

「いくよ」

 うたが答えて、我に返る。

 今の間、うたは迷っていたのだろうか。ここから先は経験者の猫一人でも十分。それでもうたはついていく。頼んでおいて自分は何もしないなどという状況は耐えられないのかもしれない。その心情はわかる。しかし一方で、記号回収をしなくて安堵しているかもしれない。そんな卑怯な人間ではないと思うが、結局のところはわからない。

 広場からさらに山を下る。麓に死者の村があるらしい。疲れもあって歩調はゆっくりとしたものだ。そのうち川の流れる音と人の声が聞こえはじめた。子供の声だ。

 到着したそこは村と呼べるものではなかった。山の麓、緩やかな傾斜で脇に川が流れる開けた場所。灰色の地べたに黒い葉らしきものを敷き、座り、寝転んでいる人々。ざっとみて二十人程度いる。それだけだ。小屋すらない。そこで大人達は一様に動かない。対照的に赤子は泣き、子供は遊びまわっている。ただ人が集まっているだけの場所といってよかった。

「なんだい、おめぇたちは?」

 傍にいる青白い顔色をした男が起き上がり、話しかけてきた。中肉中背、つぎはぎだらけの服を着ている。彼のほうからここがどういう場所なのか教えてくれた。

 ここはあの世だということ。なぜかは知らないが、生前、自分達が住んでいた場所に似ているということ。彼は自分が死者であることを知っていた。山菜を採りに山へ入り、迂闊にも崖から落ち、動けず、声も出せず、そのまま気を失い、気づくとここにいたという。しかし周りの様子がおかしい。空は赤く、地形も少し違う。違和感を抱きつつも村に戻ると、そこには何もなく、ただ数人の姿があるだけだった。その場にいる者達を見て、ここが「あの世」だと悟った。大水にあって死んだ知人がいたという。その大水はもう何年も前のことなのに、知人は死んだ当時のままの姿だった。

「ここじゃ死人が増えていくだけだ。突然、消えちまったり、山の物の怪に変わった奴もいる」

 死者の中には死を覚えている者もいれば、覚えていない者もいる。大きくなって再会を果たす親子や、想いを寄せていた者たち。だが死者との再会は決していいことばかりではない。いがみ合っていたもの、疎まれていた者がまれに諍いを起こすこともあった。それがここ、死者の国、死者の村だった。

「あの物の怪はわーたちを襲わない。ただ薄気味わりぃから誰も近寄らねぇ」

 作物は取れないが、困らなかった。彼らは食べなくても死なないのだ。時間の概念もない。日も沈まず、赤い空に黒い雲が流れるだけ。

 かつては家を作ろうとしたこともあるという。だが道具から作らなければならず、そしていつ自分達が消えるかわからないこともあって誰もやらなくなった。

 今ここに残っているのは、いつ消えるかわからないという恐怖に囚われた人々だ。何をすれば消えるのか。心が満たされれば消えるのか。それに怯えている。元気なのは子供たちだけだ。

 話が終わる。男性は落胆した。

「きえねぇか」

 この男性は自分が消えることを望んでいるらしい。そしてこの後、その望みは果たされることになる。

「来たわ」

 猫が男から視線を外した。その視線の先、村を囲む林の一部が歪んでいた。歪みは魍魎の時のように何者かの輪郭を形作り、動いている。

 イザナミだ。歪みの輪郭を目でなぞる。長髪の女性。ゆったりとした服を着ているよう。サイトに掲載された画像を思い出した。イザナギとイザナミの国生みの一幕が描かれたもので、姿はまさしくそれだ。

イザナミは男に近づく。

「二人とも離れて。私が髪を手に入れたらすぐに大岩に引き返すわよ」

 イザナミが腕を上げる。何かを持っている。柄杓だろうか。男の口元へ添えられていた。途端、男は立ち上がり、林へと歩いていく。イザナミも後を追い、ゆっくりと林へと移動する。その脇にぴったりと張り付く猫。

 林に入る前にイザナミは立ち止まった。振り返る。色が流れ込むように実体が浮かび上がった。真っ白い着物に長い黒髪。平坦でのっぺりした顔は何の表情もない。他の人間にも姿が見えるようになったのだろう。驚きの声が上がる。

 イザナミは立ち止まったまま何もしない。猫がその背後に回り込み、無抵抗のイザナミの髪を掴み、切った。同時にイザナミの足元から蛇が這い出してきた。あらかじめ蛇だと知らなければただ黒い水が足元からあふれたように見えただろう。夥しい量の蛇が湧き出す。その光景はおぞましく、自然と体が後退した。

 同時にイザナミの身体が見る見るうちに腐敗していく。皮膚は緑に変色して縮こまり、引きつる。髪の毛もはらはらと落ち、衣服も汚く黄ばんでいく。

 猫はその場で目を閉じて停止していた。すぐに気づく。記号を回収すると光が視界を遮る。まさに今、その光が猫の目を潰しているのだ。その点について注意していなかった。直立する猫の足に蛇が絡まる。

 次の瞬間、猫が動いた。視力が回復したのだろう。イザナミから離れようとするが、蛇の沼に足を取られて苦戦している。

 驚き、悲鳴を上げて逃げまどう死者たち。

「光春、猫が!」

 わかっていた。助けに行くべきだ。だが蛇だまりの広がりは予想以上に早く、距離をとるしかできない。

 肩の痛みに構わず抜刀し、足元に迫った蛇を横に払う。だが刃が止まった。蛇には実体がある。肉の抵抗があるのだ。刃を引く。どうすれば突破できるのか。

 背後でうたの詠唱が聞こえた。すぐに紫の炎が脇を通り過ぎ、蛇の沼に落ちる。そこで蛇たちの動きが止まった。ぴしりとその部分だけ固まったような。だが範囲は狭く、どうしようもできない。

 猫は助けもなく、だが勢いよく蛇を踏みしめてこちらに来ていた。

 うたに魔法を催促する為によう振り返ると、うたはその場に座り込んだ。と、そのままうつぶせに倒れこむ。まだ十分に回復していないのだと悟る。

「不破、うたと一緒に戻って!」

 猫は蛇など意に介さず、大股でこちらに近寄る。大丈夫そうだ。

「おい、うた!」

 うつぶせのうたの脇に手を差し込み、仰向けにする。意識はなかった。背中と両膝に腕を回して抱き上げる。細く軽い。だが痛めた肩は悲鳴を上げた。

 猫が蛇だまりを脱出して合流する。

「早く!」

 猫が先行する。その足には蛇がまだ数匹、執拗に絡まっていた。

 人を抱えて走るのはかなり大変だ。怪我もしていては早々に限界がきた。落としそうになって立ち止まると、猫が「貸して」とうたを引き取った。代わりに先行する。

 だが猫にしたも疲労は蓄積している。歩みは遅い。途中、依頼を破棄すればいいと思った。目的は達した。だが大岩はすぐそこだ。

 大岩に到着すると、再び景色が溶け合い始めた。目を閉じ、肌に感じる温度や匂いに変化を感じて目を開けると、赤と黒の死の世界から緑と暖かな陽光に満ちた現世に戻っていた。晴れ渡る空の下、うたも目を覚ます。身体の傷はここで癒えた。

 大岩の鎮座する小さな場所は以前よりもどこか整えられた様子があった。雑草もなく、来たときはなかった立札が掛けられている。

「黄泉比良坂」

 それを見て、放浪者は今までいた場所が黄泉の国だと知るのだった。

 さらさらと風景が崩れる。依頼が完了したのだ。内容、攻略法をあらかじめ知っていたとはいえ、たった一度でやり遂げられるとは。猫のおかげだった。

 その猫は庭に戻されると、メニューを展開して記号を確認した。しっかりと存在する。これでモーフィアスに引き続き、彼女も関係者になった。

「猫、大丈夫なの?」

 気が付いたうたが尋ねる」

「大丈夫よ。それで、まだ続けるの?」

 猫が聞く。

「ううん。今日はこれで終わり」

 うたを見る。ここでやめてもいいのだろうか。

 確かに戦闘の負担は大きい。肉体は回復しても、精神は疲労したまま。まだ続けろと言われてもつらいことは事実。だが彼女の立場としては、多くの依頼をこなしたほうがいいのではないか。うたはその頑張りを免罪符にして友人に謝ろうとしている。そのためにはより多くの依頼をこなして強固にするべきだと。

 ふと気づく。これはうたが気にかけるべきことであって、自分には関係がないことだ。

 視線に気づいたうたはこちらを見て弁明した。

 うたのほうは複数の依頼を要求したが、使徒もその依頼の難易度を考慮して割り振っているらしい。使徒がそこまで考えているとは思わなかった。

 だがそれを聞いても釈然としなかったのは、それに甘んじていることが引っかかっているからだろうか。いずれにしたって自分が気にすることじゃない。自分としては使徒の話の真偽を定める情報を得られればいいのだ。今のところはただ翻弄されているが。

「それで、明日は?」

「明日は、回収の前にまたユダと会うことになったよ」

 昨日のモーフィアスの発言で、その約束を取り付けたのだ。これでようやくユダと直接話ができる。被害者の救出はどうなっているのか。回収はどれくらい続けるのか。自分に起きていることはなんなのか。色々聞きたいことはある。

「私も行くわ」

 猫も来る。モーフィアスはどうだろうか。来てもらわなければ。

 集合時間は今日と同じ。それを確認して、それぞれが現実世界に戻っていく。

 

 約一時間ぶりに現実へと戻ってきた。

 夕食は六時から。大抵は眠るか、だらだらと時間を浪費するだけ。うとうととしていると部屋のベルが鳴った。

「お客さんよ」

 続いて母の声。時間を見る。六時前。まだ夕食には早いなと思い立ち上がる。

 一呼吸おいて自分の勘違いに気づく。母は「お客さん」と言ったのだ。いつもの習慣で夕食の合図だと取り違えていた。

 動悸が早まる。お客? 誰だろうか。全く心当たりがない。使徒? 頭を振った。ありえない。

 部屋を出て玄関に下りる。壁の液晶には外の映像が映し出されている。見覚えのない女性の姿があった。マイクを入れる。

「誰ですか?」

「うたの知り合いよ」

 硬直する。現実世界でその名を聞くことになるとは。そして女性の次の言葉で自分の予想があたったことを知る。

「私はしと、よ」

 しと。使徒。言葉が脳内で変換され、確信を得る。なぜここに。やはり住所は知られていた。しかもこうして堂々と訪問してくるなんて。言葉が出ない。

「話がしたい。あなたの部屋でも、どこでも」

 女性の日本語にはぎこちなさがあった。普段から日本語を使わない人物のような。

 狼狽する。家に入れるなど、できるわけがない。沈黙していると女性のほうから近くの公園を指定した。

「時間がない。私がここにいられるのはあと一時間程度。待っているから」

 そう言って画面内から立ち去る。

 茫然とし、心臓の早鐘は収まらない。どうする? どうすればいい? 同じ疑問が頭を満たし、ぐるぐると巡る。

 落ち着け。おぼつかない足取りで部屋に戻る。

 部屋で一人になると、今しがたの出来事が夢じゃないのか、あるいは幻覚ではなかったのかと現実逃避が首をもたげた。

 うたに連絡をとるべきだ。メールで。もう彼女は 〈赤の雫〉にはいない。現実に戻っているはずだから。

「使徒が来た。どうすればいい?」

 こんな時、メールではもどかしい。すぐに返事はこない。そもそもうたからは何も聞いていないのだ。なぜここに。どうしてここに。その疑問ばかりが頭を支配する。

 うたからの返事はなく、無駄だと知りつつも〈赤の雫〉に入る。当然、いなかった。時間はあっという間だ。現実に戻ってくるとすでに三十分が過ぎていた。まだうたからの返事はない。行くべきか否か。

 身体がだるい。十分な間隔をおかずに仮想世界へ行ったからだ。

 さらに十分が経過して、家を出た。また家に来られても困る。来るなと伝えるべきだ。足は重い。時間は迫る。行きたくないのか。

 公園が見える。残り十分を切っていた。

 低い緑の生垣に囲まれた公園。その中に女性はいた。メタトロンを眺めている。こちらに気づくと早足で近づいてきた。

「何の用ですか?」

「あなたの目的が知りたいだけ」

 彼女は日本語をやめて、英語で話をしてきた。

「目的?」

 記号回収に参加する目的か。そんなものはないに等しい。ただあの世界にいたいから、仲間外れにされたくないから。そんなものだ。だが目の前の女性に対してそう答えていいのか。模範的な解答をすればいいのか。うたのように人助けの為だとでもいえば。

 答えずにいると、女性のほうが話題を変えた。

「もういいわ。それよりもどうやってあなたは赤の雫に入っているの?」

 なぜそんなことを聞くのだろうか。意図が掴めない。逡巡の後に答える。

「普通に接続器を頭に着けて」

「そうじゃないわ」

 戸惑う。他にどういえばいいのか。

「どうやって仮想から仮想へ移動しているのかってことよ」

 意味が分からなかった。仮想から仮想へとは。

「何を」

「故意に忘れているのかもしれないけれど、こっちはそんなこと関係ないの。時間もない。何故、ここと赤の雫は繋がっているの?」

 後ずさる。何を言っているのか。英語を普段使わないからといって、自分の翻訳が誤っているとも思えない。仮想から仮想へと、確かにそう言ったのだ。

 女性はメタトロンを取り出す。

「時間ね。すぐに戻るわ。ここで待っていて」

「は?」

 情けない声がでた。目の前の光景が信じられない。女性の姿が瞬きの間に消えてしまったのだ。初めからいなかったように。

 えも言えぬ恐怖が身体を震えさせる。

 周りを見渡す。人ひとりいない公園。幻覚でも見ていたのか。頬をつねろうとして、やめた。夢か現実かを確かめる術がこんなことぐらいしか思いつかないのが馬鹿らしく思えたし、それに頼るまでもない。今、いる場所は現実だ。現実世界だ。

 視界がぐらりと揺らぐ。この世界に自分しかいないような錯覚に囚われ、心細くなり、吐き気を催した。

 ベンチに向かい、腰掛ける。生活音が聞こえない。街の音が聞こえない。自分の周りに厚い幕がかかったような無音。

 不意に足音が聞こえた。道の角から気配。先程とは違う人物が姿を現す。こちらを認めて早足に向かってくる。目の前で立ち止まる。

「待たせたわね」

 先程の女性ではない。声も何もかもが別人。だが言葉は英語だった。先程の続きのように。

「誰ですか?」

 呼吸がうまくできない。気持ち悪い。

「自己紹介もしていなかったわね。使徒のマルスよ。今まで会っていたでしょ」

 マルスと名乗る女性は自身の腕や身体を眺めやり、「こういう世界なのよ。私のようなゲストには適当な身体が割り当てられるようね。そう作ったんでしょう?」

 息が荒くなる。彼女が何を言っているのかわからない。

「とにかくこれでまたしばらく話ができる」

「何の演技だ」

 そう、演技だ。こんなことは。自分を混乱させようとして、そんなことを言っているんだ。

 立ち上がり、公園を出ようとする。ふらついた。

「演技じゃないわよ」

 マルスはついてくる。うるさい。

「ここであなた以外に話せる人はいないの? あなたの家族は何か知っているのではないの?」

 早足になり、公園を出ると同時に駆けだした。逃げるのだ。

「待って!」

 叫ばれる。待つわけがなかった。

 街路には誰もいない。なぜ誰もいないのだろうか。がむしゃらに走る。苦しい。こんなにすぐに苦しくなるのか。いつものように走れない。ここは〈赤の雫〉ではないのだ。

 走りながら家に向かうべきか、駅へ向かうべきか逡巡する。駅までいき、そこからセルで家に戻る。それでいい。人にも会える。

 何度も道の角を曲がり、迂回しながら駅に向かう。近づくとようやく人の姿がまばらに見えた。振り返る。女性の姿はなかった。諦めたのか。セルの列に並ぶ。

 警察に知らせるべきか。しかし肝心の女性の姿はない。

 順番が来て、ひとまずセルに乗る。もし女性が家にいたらどうする。しかし母は見ず知らずの人間を入れたりしないだろう。知り合いだと言っても、その場に自分がいないのだ。

 ほどなく家に到着した。地下から上がる。家には誰もいなかった。何故だ。食事の用意もできていない。玄関に行く。靴はない。出かけているのか。ドアに鍵かかっていることを確認する。

 まさにその時、ドアを外から叩きつけられた。驚きと衝撃で呼吸が止まる。

「いるんでしょ? 話を聞いて!」

 姿が見えなくてもわかる。あの女性だ。信じられない。まさか待っていたのか。そんなことまでするか。

 誰もいないのか? 台所にいく。誰の姿もない。女性はなおもドアを叩き、声を上げる。

 どうする? どうすればいい?

 音が止んだ。と、次は居間のほうから音がした。女性が移動していた。窓を叩いている。必死の形相。窓を割られて中に入られでもしたら……

 恐怖が増大し、階段を駆け上がり自室へ逃げ込んだ。鍵をかける。どうすればいい? 部屋を右往左往する。警察に。ようやくその考えに至り、同時に音が消えていることに気づいた。自室の窓からは覗くが庭に女性の姿はない。

 メタトロンを取り出し、すぐに警察に連絡できるようにして、下に降りる。何事もなかったように静かだ。

 居間に入って驚いた。人が立っている。否、それはラティだった。窓も割られていない。

「強制退去させました」

 その合成声を聞いて安堵したが、すぐに違和に気づく。強制退去? ラティが力づくで? 有り得ない。たかが家庭ロボットにそんなことができるはずがない。せいぜい警察へ通報ぐらいなはずだ。通報ではなく強制退去とは。

 地下で物音。母が手に荷物を下げて上がってきた。買い物に行っていたのか。

「あら、どうかしたの?」

 まったく普通だった。話すべきか、迷った。

「今……」

 それだけで、結局何も言えず。母は台所へ行く。慌てて自分も同行した。何の異変もない。

「何、どうしたの?」

 何と話せばいいのか。

 結局、何も伝えないまま、怯えつつ家の中、窓の外を調べた。だがどこにも女性の姿はない。

 先程の出来事はなんだったのだろうか。白昼夢でも見ていたのか。自分の体験が信じられない。

 自室に戻り、机に触れる。その質感。確かに存在している。指先を押し付ける。血管が圧迫され、白くなる。胸に手を当てる。衣服を通して伝わる心臓の動悸。じっとりと汗で濡れている首筋、体温、手に浮かぶ血管、細かな皺。触れる物すべてが現実だ。

 あの女性は、ここが仮想世界だと言いたかったのか。しかし、ここは仮想世界なんかじゃない。

 では今までのことは? 自分の幻覚か? そうだ。そうとしか思えない。思わない。

 メタトロンが光る。うたから返信が届いていた。

「どういうこと?」

 使徒が来たというメールへの返事だ。今までの一連の出来事のどこからが幻覚だったのか。まだ続いているのか。気分が悪い。指先の震えが止まらない。

 幻覚だと決めつけようとする思い。そしてもう一つ、ここが仮想世界なら、本当の現実はどこなのか、という疑問が浮かぶ。後者の考えが次第に頭を占める。

 ある場面が浮かんだ。女性はメタトロンを見ていた。悪寒が背筋に走る。メタトロン。それがもしかすると現実世界に戻る鍵なのか。

 目の前に展開した画面には各機能がそれぞれアイコンで表示されている。中には用途不明なアイコンもある。

 気になるものがあった。矢印が円を描き、中心を指しているアイコン。他のものは起動し、用途が示されるのに、これだけは何の反応もない。

 画面の隅が光る。うたからさらにメールが届いた。

「光春と会った人は、確かに使徒だよ。そのことで話があるから、今から反逆の園へ来てほしいって」

 理解するのに数秒を要した。浮遊感が増し、よろける。震えが止まらない。何度も何度もその内容に目を通した。間違いであってほしいと。

 だがメールは消えてくれなかった。


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