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自分が初めて触れた仮想世界は何だっただろうか。
確か〈ラストプラネット〉だ。舞台は地球だけでなく他の惑星に築かれた都市と、そこに暮す様々な地球人、異星人が登場する。プレイヤーの役割や物語などはなく、大規模な「鬼ごっこ」がその世界では繰り広げられる。
初めにレーザー銃が手渡されるのだが、これは悪戯好きな異星人が作り出したもの。物質の分解と再構築を一瞬で実現する超化学兵器であり、地面に向ければ階段や壁、昇降機などの足場を出現させ、また建物に向ければ扉を形成して出入りすることもできる。プレイヤーに対しても有効で、相手を異星人や物、動植物などに変化させる。変化した後の感覚がユニークだ。自分も行きがかりの相手に突然レーザーを浴びせられ、猫に変化したことがある。人々の足の間を縫い、壁をよじ登り、僅かな隙間を抜けて街中を疾走する。四肢を地面についての移動は初めこそ戸惑うが、慣れればなかなか楽しい。自分を見下ろす巨大な人間達に軽く恐怖を抱いたのもその時だ。猫から人間がそのように見えているとは、なるほどよほど人に慣れていなければ警戒するはずである。
こんな奇妙な体験は仮想世界でしか得られない。
プレイヤー達にはポイントが不定期に与えられ、他のプレイヤーからそれを守り、また奪わなければならない。ポイントを奪うとレーザー銃の能力が拡張され、変化、出現させる種類にも幅がでてくる。自身のレーザー銃の能力拡張が一つの目的と言えた。
世界を縦横無尽に駆け回り、ある時は相手を変化させて逃げ切り、またある時は自分を変化させて目を欺き、ポイントを奪う。この世界では相手に銃を向ける行為は遊びの範疇でしかない。直接的な暴力も無駄だ。プレイヤー同士の肉体は互いに透過するようにできている。肉体的苦痛とは無縁。ゆえに健全であり、秩序ある仮想世界の人気ランキングでは上位だった。だから目に留まり、初めての仮想世界として選んだのだ。長くは続かなかったが。単純に熱中できなかったということもあるが、それよりも年頃の少年少女が仮想世界に抱く関心、期待は他にある。
仮想の中での性体験。それを提供する仮想世界も当然存在し、商品として流通している。ただし自分のような学生、未成年は利用できないよう制限がかけられていた。
だが制限は完璧なものではない。抜け道があり、それほど苦労もなく見つけ出すことができた。
その入口はある仮想商店街の中に隠されていた。通る為にはいくつかの店を回り、実際に商品を購入しなければならない。それが通行料、利用料にあたるらしい。条件を満たして目的の扉をくぐると、目の前には夜の歓楽街が構築されていた。月と星が輝く下で店名や卑猥な宣伝文句が視界一杯に溢れている。酒やドラッグに飲まれた人間、客引き、娼婦がそこかしこにおり、それがプレイヤーなのか〈仮想の住人〉なのか見当もつかない。喧騒に混じる女性の嬌声、音楽、甘い匂い、熱気。立ち並ぶ店の中には芸能人やアイドル、はてはアニメキャラクターなどを売りにしている所もある。他にも様々なシチュエーション、人種が用意され、どんな人間の性的嗜好でも満たされるようになっていた。肖像権や人権は存在しない、欲望の世界。
結果的には、自分はその体験には慣れなかった。現実の肉体の欲求は仮想では解消できない。そこで冷めてしまったのかもしれない。いや、深みにはまるのを恐れたのかも。
いずれにしても、その仮想世界がすぐに摘発され消滅したことで再び訪れる機会は失われた。クリエイターが自ら開発に関わった仮想世界の裏にそうした無秩序な仮想世界を作り、商店側と結託して利益を得る。仮想世界を利用した犯罪手法の一つとしてあり、見つけだして取り締まることも警察の仕事らしかった。
再び探し出すこともできたが、しなかった。入口を探す途中でいくつもの無秩序な仮想世界が自分の前に現れたのだ。終わることのない戦争世界。心を病む恐怖世界。剣と魔法の冒険世界。そしてその中から〈赤の雫〉を選び出した。
オーヴァが最初に公開した、古く危険な仮想世界。自分はあの世界のどこに惹かれたのか。真っ先に思いつくのは戦いの体験だ。敵と対峙して生ずる高揚、恐怖、焦り、痛み、そして快感。現実世界や秩序ある仮想世界では決して得ることのできない感覚。身体の細胞すべてを使い、敵を倒す。その強烈な体験に惹かれた。暴力だなんだと感じながらも、いざ戦闘になるとそれを行使することに躊躇いはない。所詮仮想世界の中なのだからと。ゲーム、スポーツと同義だ。その認識が持てなければとっくにやめている。
不破光春。〈赤の雫〉での自分。頑強な肉体に厳つい顔。手にした刀を易々と振るい、敵を倒す侍。その体験に惹かれ、求めている。
欲求を遠ざける必要はない。だがたったそれだけの為に危険を冒してもいいのか。行方不明、オーヴァに狙われるという危険を。
恐らく、自身に危険が及ぶと本気で考えていない。いや、考えないようにしているのか。記号を入手してもう三日経つ。行方不明や使徒について現実世界で口に出すことはない。うたとのメールのやりとりも注意している。このまま大人しくしていれば大丈夫だろうと。そんな気持ちがあることに気づく。これが心の防衛本能なのかもしれない。不安、恐怖を退けること。考えないようにすること。逃避……
そう、同じなのだ。自分のこれから、将来、進路を考えるときと。自身の置かれた状況を意識すると不安、焦燥に心が波立つ。こうして考えている今も。だから見ないよう、考えないようにする。心の防衛本能は逃避に走るのか。
自分の将来。考えることを避けてはいるが、だが蔑ろわけではない。働けるよう訓練をしている。それが自分の望む職業ではないにしろ。
自分の本当にやりたいことは何か。将来。生きる目標。わからない。訓練はしているが、心から希望する職種はない。職につけなくてもいいと半ば諦めてさえいる。たとえ職が決まらなくとも、働かなくとも生きていけるのだから別にかまわないと。ただ傍らに仮想世界があればいいと思っていた。卒業と同時に家をでて適当なところに就職し、今までと同じように仮想世界に浸る。漠然とだがそれができればいいと。
自分の中にある仮想世界への渇望。なぜここまで心が囚われてしまったのか。これは依存だろうか。それともただの嗜好か。いや、同じことだ。好きだから続ける。依存する。その流れは自然ではないか。問題は現実の生活を顧みないほどに依存しているかだ。自分はそうではない。仮想世界こそが理想郷などとは思わない。ずっといたいとも思わない。しかしその考えが変わらないと断言できるか。このままの認識を持ち続けることが。答えは出せない。そのこと自体がそちら側に傾くことを否定できないという証明になるのかもしれない。
だが、これが依存症で仮想世界を自分から遠ざける必要があるとしても、やはり今は無理だ。行方不明、使徒、オーヴァ。それらの問題が解決しなければ。自分はもう関わってしまったのだから。
〈赤の雫〉でうたへの協力は継続する。こうやって理由をつけることも依存の症状の一端なのかもしれないが、それを確かめるのはこの問題を終えてからだ。〈赤の雫〉に、仮想世界に縛られる必要が無くなれば距離を置ける。そこで判明する。
自分が仮想世界に対して分別を持ち続けることができるか否か。




