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 翌日。

 土日の休日が終わり、いつも通りモノレールに乗って学校へ向かう中でメタトロンが発光した。ホロモニタを展開するとうたからのメールが届いている。再開された朝のやり取り。そこで昨日はどれくらい依頼が進んだのかを当たり障りのない文面で報告する。

 昨日はあれからうたを休ませ、一人で記号の回収のために依頼をこなした。回収といっても別段変わったことをするわけではない。いつも通り放浪者となり、各国で依頼をこなしていくだけ。記号は依頼の中で出現する。依頼を終了させるための鍵となるもの、あるいは取得できるアイテムの中に紛れ、プレイヤーが対象に触れることで出現するとうたから教わった。確かに自分に現れた時も、あのタンクに触れた後に状況、場面が変化した。あれが依頼終了の鍵だった。あの時それに触れてしまったばかりに、こうして使徒との関係に巻き込まれている。

 記号の回収にあたり、うたから教えられたことは他にもある。まず記号が出現する依頼の特定。それは使徒がこれまでに回収した記号、そのパターンからどの依頼に出現するのか予測しているそうだ。なので闇雲に依頼を受けるのではなく、使徒が指示した依頼をこちらが受けに行けばいい。使徒はそれを回収依頼と名付けて区別していた。

 改修依頼の特定が可能ならばさほど苦労はないと思ったのだが、事はそう簡単ではなかった。回収依頼を受ける為にはあらかじめこなしておかなければならない依頼があるのだ。

 〈赤の雫〉での依頼とは、物語を進める為のポイントだ。依頼をこなしていくことで各国の物語が進み、次の依頼を受けることができる。もし自分やうたが目的の回収依頼を受けられる状態であれば、すぐにでも向かうことができる。しかしそこまで物語が進んでいなければまず物語を進める為に別の依頼をこなさなければならない。つまり物語の進行度が重要なのだ。進行度が高いということは、それだけ物語が進んでいるということ。多くの依頼をこなしている証。進行度が高いプレイヤーであれば回収も効率的に行える。一度体験した依頼はそれ以降何度でも受けることができるのだ。

 しかし〈赤の雫〉は古い仮想世界だ。現役のプレイヤーも多くはない。それに堂々と協力者を集めることもできない。人数が多ければ必ずどこかで情報が流出し、被害者が出る。既に使徒の呼びかけに応じた協力者の何名かが迂闊にも情報を流出させて消息不明になっているらしい。

 使徒の一員として記号の回収に加わっているうただが、彼女自身はまだ記号を手にしてはいなかった。まだ回収依頼を受ける前の段階。自分よりも長く〈赤の雫〉にいるはずだが、進行度がそれほど高くないことが幸いしていた。

 そう、幸いだ。現状、記号を持っていない彼女がオーヴァに狙われることはない。まだ引き返すことができる。自分が彼女を止めるべきだろうか。しかし説得したところで彼女が使徒への協力を止めるとは思えない。彼女は自分自身の為に使徒に協力しているのだ。それは自分も同じ。

 だが協力すると言っておきながらその実、うたを防波堤にしようとしている。そしてうたがその役割を果たさないことに気づき、一瞬でも落胆したのだ。そんな自分に嫌悪した。彼女を一つの道具として見ていること、その卑屈さ、情けなさ、それらを振り払おうとして、使徒が指示した回収依頼「精霊の異変」を受ける為に必要な依頼を昨日は一心に消化していったのだ。

 うたに協力すると言った時から、もう後には引けなくなった。自分から協力すると言い出しておいて、「やはりやめる」とは言い出せない。隠し通したままやりきるしかない。記号が危険なものなのか否かを判断する情報を集めるためにも。依頼をこなすたびにそう言い聞かせ、そして今も、頭に反芻させては罪悪感を塗りつぶそうとしている。


 学校の仮想訓練ではいつものようにたいした結果が出せないまま終わった。方向性を変えたらどうかと二見に言われ、考えますとだけ答えて帰路につく。

 何事もなく帰宅し、待ち合わせの時刻になってから〈赤の雫〉へと赴いた。

「昨日はありがとう、光春」

 元気を取り戻したうたの姿があった。

「おかげでやっと回収に行けるよ」

 自分が回収依頼を受ける資格を得たので、うたを仲間に加えれば彼女も連れて行ける。依頼の遂行は一人でも可能だが、なるべく複数で臨んだほうがいい。

 各国の依頼内容は様々だが、戦いが発生する依頼は総じて難しい。よほどの達人でもなければ一度だけで終わらせるのは無理だ。現実と同じく肉体は脆い。ゲームでいうところのヒットポイントなるものは存在しない。ふとした拍子で簡単に死ぬことがある。

 死。あるときは一瞬、またあるときは長い苦痛の後に訪れるもの。その感覚は眠りに落ちるのとそう変わらない。ただ意識を失うまでがまったく穏やかではないが。死の先、次に目覚める場所は始まりの庭だ。その時には身体の傷も癒え、直前にあった死が夢だったように感じられる。死も仮想で体験できるようになってしまった。ただしこの感覚が本当に死の感覚なのかどうかは知りようがないのだが。

 戦いさえ切り抜けられれば後は大丈夫なのだ。場面が変われば肉体の傷は癒える。だが戦いは一人では限度がある。だからなるべく複数で依頼を受けた方がいい。協力すれば生存率も上がる。ましてや自分は戦いの達人でも何でもない。この世界で死んだ回数は多い。昨日も幾度か死を体験したのだ。感情を発散させようとむやみやたらに刃を振るってしまったが為に。

「二人だけ?」

 右手の五芒星に触れ、メニューを操作してうたを仲間に加える。この場には自分達しかいなかった。

「モーフィアス、今日は無理だって」

 昨日、モーフィアスには自分がうたに協力することをメールで伝えていた。もちろんオーヴァに気づかれないよう内容には注意して。

 彼の返事はうたに届いた。以外なことに彼も回収に協力してくれるという。

 ほっとした。自分とうただけでは心細かったのだ。それはうたも同じだろう。彼が自分達の精神的な支えであることは確かだ。

 彼は無視することだってできた。それをしないのはなぜか。恐らく、彼は仲間を見捨てたりはしない。この世界でいつも自分やうたを助けてくれた。そして今回も。

 なぜ助けてくれるのか。彼の真意はわからない。彼にも何か思惑があるのかもしれない。仮想世界という細いつながりしかないのに信用できるのか。だが、ユダよりははるかに信用できる。そしてあさましい自分よりもずっと頼りになる。

 猫へはうたが連絡を取っていた。残念ながら彼女は協力してくれないらしい。だがそれについてとやかく言う資格はない。誰だって危険に足を踏み入れたくはないし、使徒なんかに関わりたくもないだろう。自分も記号のことがなければここにいないはずだ。

「光春はどうして協力してくれるの?」

 じっと右手甲の印を見ていたうたが顔を上げ、ふいに尋ねた。仲間に加えられた証として印は青くなっている。

「なんでだろうな」

 はぐらかす。うたは表情を引き締めた。

「私がこんなこと言うのもおかしいけど、やっぱり考え直したほうがいいよ」

 今更何を言い出すのか。信じられない思いで彼女を見る。

「昨日は光春の都合も考えずに頼んだけど、これは本当に危ないことなんだ」

 こちらを心配してくれているのか。ならば最初からこんなことに誘わなければいいのに。

 さっと沸いた憤りを打ち消す。そうではないだろう。彼女はユダに指示されて自分達をあの場に呼んだのだ。協力は彼女の提案ではない。だが回収に人手が必要なのは事実だ。だから恐らく彼女も強く拒絶しないのだ。

 そして自分も、この事態が何なのか、危険がないのか確かめる為に、ここにいる。もう引き返せない。ここで断れば、彼女とも接点が無くなる気がした。

「自分の為だからいいんだ」

 そう言うと、うたは困惑を浮かべた。

「どういうこと?」

「行こう、時間がない」

 昨日は休日だったので時間を多くとれたが、平日にこなせる依頼の限度は二つか三つだ。難しい依頼であればなおさら数はこなせない。

 庭に漂う緑の光に触れる。光が視界一杯に広がり、耐えられずに目を強く閉じた。

 うたは何か気づいただろうか。自分の為だなどと、なぜもっと上手い言い訳が出なかったのか悔やまれる。

 瞼の裏で光が薄れていく。空気が変わったのを感じる。ひんやりとした涼やかな空気に。同時に木の葉のさざめきが聞こえ始めた。木と土、草と緑の匂い。それに混じって仄かに甘く香ばしい匂いがした。

 目を開ける。点々と木漏れ日が落ちるエルフの集落に自分たちは顕現していた。後ろを振り返るとうたもいる。それを確認して歩き出した。目指すべきはエルフの族長の住居だ。

 回収依頼の「精霊の異変」は族長からの依頼だ。自分のほうでも攻略サイトを閲覧し、依頼の情報を事前に集めていた。

 依頼の中でどんなことが起きるのか、何と戦うことになるのかなどサイトの情報は非常に有益だが、実際の依頼の中では物足りなさを感じた。次に何が起きるのかあらかじめわかっていれば、新鮮さや驚きはない。情報を得る代わりに失ったものは大きいが、今はそんなことを言っている場合ではない。

 族長の家は集落の北、理想郷廃墟の近くにある。集落の間を抜けると小高い丘があり、それが族長の住居だ。丘の中程には入口にあたる穴が穿たれていて、赤い布が垂れている。丘を登り、入口に着くまでうたとは一言も話さなかった。

「入るよ、うた」

「うん」

 家の中に入り、やせ細って椅子から立ち上がることもできなくなったエルフの族長から話を聞く。

 集落は今、ある不安の中に落とされているという。彼らの生活を支える魔法が、この頃は思うように使えないというのだ。原因は精霊の減少。魔法で使役する精霊が少ないから、たとえ使えてもその効果が薄いのだという。

 大樹なき後、精霊を生み出しているのはレーラズの樹だった。何らかの異変が生じている可能性がある。

「ダークエルフしか考えられない」

 族長はそう語る。あの離反者、追放者たちがレーラズに何かしているのだと。数人のエルフに一番近いレーラズの見回りに行かせたが、まだ帰ってきていないという。原因調査の為にこれから自分達が向かわされることになった。サイトに載っていた通りの依頼内容だ。そしてレーラズに辿り着くと、精霊を食らう巨大な蛇と戦うことになる。

「じきに日が落ちる。レーラズが精霊を生む時刻でもある。十分に気をつけて行け」

 外に出ると辺りは夕暮れに染まっていた。族長の家からは集落を見下ろす形になる。木々の落とす影の間にはぽつぽつと緑の明かりが見える。街頭であるあの光も精霊を利用したものだ。

 依頼を進めるうちにエルフ達の生活、魔法、精霊のことがわかってきた。

 彼らの指す「精霊」というのは、そもそも意志を持った存在などではない。空気中を漂う粒子的な存在だ。エルフは空気と同じように精霊を摂取し、使役している。

 そして精霊は多ければいいというものではない。摂取量が多ければ彼らの身体は変調をきたし、最悪、死に至ることもあるという。だが精霊なくして今の生活は成り立たない。大樹が枯れた後、エルフ達は魔法のない生活を送ろうとしているものの、集落の生活を支える主の部分はまだ魔法に頼っていた。

 食物の栽培、生長促進、生活環境の整備、医療などにはまだ魔法が使われている。魔法なしの生活を恥じだとするエルフも集落にはいた。彼らのようなものが集落を離れ、ダークエルフに与するのだと。

 ダークエルフ。依頼の中で一度だけ遭遇したことがある。集落のエルフとの違いは赤みを帯びた瞳、名の通りの浅黒い肌。そして何よりも彼らは精霊が多い場所でも活動できる。新たな大樹、理想郷を求めているうちにそう変化したのだそうだ。

「これから森に入るけど、大丈夫?」

 集落を出る門のところでうたに話しかけた。さすがにこのまま黙りこんでいては互いに気まずい。

「え? うん、大丈夫」

 上の空の彼女。しかし門を出ると状況を把握したようだった。

「これから森に入るの?」

「さっきそう言ったよ」

 すでに夕暮れは過ぎ去り、集落の外はどこまでも薄闇が広がっていた。

「うたは暗いところ苦手だったな」

「光春もでしょ?」

「俺は平気だよ」

「あっ、強がり」

 茶化すうた。

「どうする? うたはここで待っておくか?」

「いくよ。当たり前じゃない」

 些細なやり取りだったが、事件が起こる以前の雰囲気が戻った気がして、少し気持ちが軽くなった。


 うたが呼び出した光球を頼りにうす暗い森の中を進む。これ自体が精霊だと思い込んでいたが、そうではない。ただの光源、周囲の生物を感知するセンサーだ。うたにも聞いたが、会話や意思疎通などできないという。ただ術者の要求を実行し、結果を出力する機械とそう変わらないだと。

 森の道は夜ではあったが、光珠とこれまでの依頼で何度も往復していることもあり迷うことはなかった。少し進んだところで視界の先に集落でも見かけた緑の光が見えた。蛍のように宙を漂う。進むにつれて光は多くなり、森は緑の淡い光で溢れ返った。よく見ると樹木や植物に生い茂る葉自体が発光している。森全体の植物がそのようで、うたの光球に頼らずともまったく暗くない。 

 淡い緑の光に溢れた森の中。幻想的な光景だった。

「この光ってやっぱり精霊かな?」

 葉に触れながらうたが言う。

「精霊のことはうたのほうが詳しいんじゃないのか?」

「夜の森は初めてだからね」

 二人で光の中を進んでいく。

 だがうたの歩調が遅れ始めた。呼吸も荒くなり、肩が上下する。辛そうだ。声をかけようとしたらその場で立ち止まった。

「どうした?」

「なんか気分悪くて」

 彼女はエルフだ。普段目に見えない精霊の姿がこうして見えるということは、それだけ精霊の密度が濃いとういこと。族長も言っていたではないか。レーラズが精霊を生み出すのは夜。だからエルフ達は夜の森に足を踏み入れない。身体に異変をきたすから。サイトにも注意として書いてあった。エルフ族であれば体調に異変が生じると。

「引き返そうか?」

「死ぬほどじゃないって書いてあったから、大丈夫だよ」

 うたもサイトに目を通している。だから大丈夫だ、などと楽観はできないが、先に進むしかない。

「また暗くなってきたね」

 レーラズに近づくにつれ、辺りには再び闇が戻ってきた。視界に入る精霊や葉に光がない木々、植物が増える。

「身体は?」

「さっきよりはよくなったよ。精霊が多い場所だけみたい」

「注意しながら進もう」

「まって光春」

 うたが引き留める。

「記号は私が回収するから」

 まじまじとうたを見る。

「光春が協力してくれる理由は詳しくは聞かない。けどオーヴァに狙われる危険を負わせるわけにはいかない」

 それがうたの決意なのだ。危険なことは自身が請け負う。自分の決意とは正反対のもの。

「わかった」

 もし所持する記号の数が多ければそれだけ危険が増すのかどうか聞きたかったが、やめた。変に勘ぐられるのは避けたかった。

 レーラズのもとに辿り着く。うたの光球が照らしだしたそこは嵐が過ぎ去った後のように荒れていた。折れた枝葉が足元に散乱している。

 大蛇の存在は一目でわかった。レーラズの太い幹に絡みつき、枝の一つに首を乗せてじっとしている。鱗が一定のリズムで発光を繰り返していた。緑の光。精霊の光。

 じっと様子を窺う間、レーラズの幹と葉の一部も同じようにじわりと発光した。そして光がそのまま蒸気のように噴き出した。精霊だ。レーラズはああして精霊を生み出すのか。

 と、大蛇が動いた。精霊を目で追い、口を開け、素早く首を動かして光の蒸気を食らう。僅かに逃れた精霊が辺りに四散して消える。

 大蛇のぎょろりとした眼が自分を捉えた。

「本当に大きな蛇」

「うたは下がって刀にいつもの魔法をかけてくれ。その間に注意をひきつけておく」

「うん」

 すかさず詠唱を始めるうた。

 抜刀し、大蛇に正面から向き合う。するすると巻きついた胴体が地面に滑り降りると、口を大きく開けて自分を威嚇する。巨体は醜くもあった。余計なたるみが美しさを損なっている。

 大蛇との戦い。勝機はある。うたの魔法、刀身強化で触れるものすべてを断ち切る刃に変えればいい。うたと一緒のときはいつもそれに助けられた。

 刀身強化を付与した刃に斬れぬものはない。だがこちらも扱いには気を付けなければならない。下手をして刃が身体に触れでもしたら、こちらもそのまま切断されてしまう。

 大蛇とのにらみ合い。背後でうたの声。

 刀に魔法が付与される前に大蛇が威嚇から攻撃に転じた。大きく開いた口が眼前に迫る。咄嗟に刀を顔の正面、正眼に構えた。大きく開いた口が刃に接触し、その勢いを殺せず押し切られ、刀の鎬が自分の顔に激突する。強烈な一撃。無意識に目を閉じて、そのまま背中から倒れこむ。

 すぐに目を開ける。ぼやけた視界。顔に走る激痛を隅に追いやった。大蛇はどこだ? 左右からしゅるしゅると大地を滑る音がする。長い胴体が自分を包囲していた。巻きつくつもりだ。身体を起こして逃れようとするが、まず足首が絡み取られ、そのまま信じられない速さで大蛇が身体に巻きついていく。

 咄嗟に刃を逆手に持ち、切っ先を巻きつく大蛇に突き立てた。刀の根本、はばきまで深く刺し貫く。だがそこから動かせない。筋肉の抵抗もあるが、それ以前に大蛇が身をねじり、身体が締め付けられて身動きが取れなくなった。

 既に肩口まで大蛇は巻き付いている。途端に動悸、呼吸が乱れる。八方塞がりだ。刀身強化がなければ胴体を切断することなど不可能で、咄嗟に刃を突きたてたのも何もしないよりはましという唯一の抵抗だった。結果的にはそれが悪手になった。深く貫いた刃は抜けず、大蛇が身をねじることにより手から離される。既に柄は背中に回り込み、大蛇が身を絞ると皮膚に食い込んだ。

 足首や腕、衣服を通して大蛇の体温が伝わる。熱い。圧力に対抗しようと身体全体に力を入れて対抗するが無駄だった。ものすごい力で締め付けられる。両足、両腕が密着し、つま先だけが地面についている状態。

「うたっ!」

 叫んだ。このままでは身体が潰される。こんな化け物が相手では人間などひとたまりもない。

 直後、背中が液体で濡れる感触がした。埋没した刀身から血が迸っている。刀身強化か。大蛇の身体が蠕動する。身をよじり、腕をなんとか背中にある刀の柄に持っていこうとするが、結局それは叶わなかった。

 体中の血が頭に集まっているかのようだ。顔が熱く、息苦しい。固定された両腕は圧力でどうやっても動かせない。遅かったのだ。

 圧迫感、痛みに耐え切れずに絶叫。身体の力を抜けば途端に潰されてしまいそうだ。

 その時、再び大蛇が蠕動した。そのまま締め付けが解かれ、身体から離れていく。何が起きたのかわからないまま地面に倒れこみ、せき込みながら空気をむさぼる。

「光春!」

 すぐ近くでうたの声。身体を抱き起される。だが次の瞬間、すぐそばで破裂音がして再び地面に投げ出された。うたが自分を落としたのだ。

「うたっ」

 呼びかけるが返事がない。彼女の身になにかが起きたのは明白だ。確かめたいが思うように身体が動かない。頭痛に吐き気、倦怠感に身体が支配されている。

 焦げた臭いがした。視界の中に白煙が見える。大蛇が身体から煙を上げ、すぐ傍で狂ったように暴れている。そのうち身体から炎が上がり、視界を染めた。うたの魔法か。対象を燃え上がらせる魔法。

 肝心のうたはどこだ? 顔を巡らせると隣で倒れていた。

 大蛇が悶える。大地を叩く音、振動。宙を舞う土。燃え盛る大蛇に巻き込まれればこちらが危ない。何とか身体を起こし、うたを抱えて大蛇から離れた。

 安全圏まで退き、慎重にうたを下ろして膝をつく。不意に水滴が顔を叩いた。雨だ。こんなに都合よく降り始めるわけがない。すぐにうたの魔法だと悟る。炎の魔法を使う際は必ず水の魔法の用意をしておくことが重要だといつぞや彼女が言っていた。二次災害でこちらまで危なくなるからと。

 雨脚が強くなる。降り注ぐ雨をその身に受ける。すでに大蛇は沈黙していた。炎がみるみる鎮火していく。倒したのか。

 黒く焦げて息絶えた大蛇。刀が身体のどこかに埋没しているはずだが、探し出そうとは思わなかった。傍らにはうたの帽子が落ちている。

 うたを見る。雨に濡れた髪の張り付いた顔は真っ赤になっていた。恐らく荒れ狂う大蛇に顔をはたかれたのだろう。楕円の赤い痕が残り、鼻が折れて血の線が左ほおに伸びている。痛々しい。

 彼女をこのままにしておくわけにはいかない。早くここから進まなければ。場面を変えなければ。大蛇は倒した。あとはレーラズに触れれば物語が進み、依頼は完了する。レーラズの樹が今回の依頼の鍵だ。

 雨脚が弱くなる。レーラズに近づき腕を伸ばした瞬間、記号のことが想起された。触れれば自分が記号を得ることになる。それでいいのか。いいわけがない。ではうたを起こすか。傷つき気を失った彼女を? それもできない。つかの間の逡巡の後、この状況では自分が入手するしかないと結論する。

 幹に手を触れる。光はすぐにやってきた。視界を白に染め、耐え切れずに目を閉じる。あの時と同じだ。

 何故再び記号を手にしてしまったのか。朦朧とした意識が判断を鈍らせたのか。自分を守る為に行動していたはずなのに、これでは本末転倒だ。

 瞼の裏の白が薄れていく。目を開けるとメニューが出現していて、記号の下に新たな記号が出現していた。

 メニューを閉じる。さらさらと崩壊する世界。緑と夜の風景が剥げ落ちて、その裏側から集落を囲む壁が現れた。

 集落へと戻らされたのだ。まだ夜は続いていて辺りは暗い。頭の重みが消え、身体の痛みも嘘のように引いていく。背後を振り返る。離れたところでうたがそのままの姿勢で倒れていた。

 駆け寄り、顔を覗き込む。顔の腫れ、折れた鼻は元通りになっていた。血もすっかり消えて、整った白い顔立ちがある。眠っているよう。

 肩を揺する。眉根を寄せてうたは目を覚ました。

「あれ、光春?」

 身を起こす。

「ここは?」

「集落の外。戻ってこれたみたいだ」

「戻ってこれたって、じゃあ記号は?」

 黙る。

「光春が?」

 頷く。偽ってもいずれは露見することだ。

「どうしてそんなことをしたの? 私が請け負うって言ったのに」

 責められる。何故うたは怒っているのだろうか。

 あぁ、そうか。自分が言うことを聞かなかったからだ。うたの決意を反故にしたからだ。

「オーヴァに狙われるんだよ? あの話が嘘だと思っているの?」

 あの場ではそうするしかなかった。傷つき気絶した彼女を起こしてまで記号の回収をさせることはできないと。だが口に出せない。恐らくそれを言えば、うたはまた責任を感じるだろう。彼女が気を失ったのは事実だ。だがそれは戦いの中で生じた結果であり、しょうがないことなのだ。

「とにかくユダに報告しなくちゃ」

 咄嗟に首を横に振った。

「どうして? ユダに話せば光春を保護してもらえるかもしれないよ」

「口外しなければ、オーヴァから狙われることはないんだろう?」

「そうは言ったけど、それも確実じゃない。保護してもらうことが一番安全なんだよ、光春」

「保護って」

 それが何を指すのか。文字通りこちらの身柄を保護してくれるのか。どうなるかわかったものではない。そもそも親や学校になんと説明するのだ。

「ともかくユダには頼れない」

「あの話、信じていないんだね。でも、それじゃあどうして光春は協力してくれるの?」

 自分自身の為だ。声にはださない。

 望まぬままに記号を入手し、行方不明に関係があると使徒に惑わされ、その真偽を見極める為に協力して情報を得る。だが自分が既に記号を入手していることを隠したいが為に、最初、答えを濁した。うたも追及はしなかった。だがこうして記号を得たことで彼女の疑念を再び呼び起こした。話を信用していないのに、危険が及ぶのにどうして記号を入手したのか。そこまでして協力する理由は何かと。

 素直に話してしまえば楽なのに、それができない。浅ましい自分を知られたくないのか。うたを防波堤にしたことを責められるのが怖いのか。彼女に失望されるの嫌なのか。どこまでも卑怯な奴だ。

 違う。この思考が、考えが邪魔をしている。

「俺は自分を」

 守る為に。そう言いかけて不意に疑問が沸いた。自分を守る為。果たしてそうだろうか? 本当に身を守るためなら協力などしなければいい。貝のように押し黙り、大人しくしていれば。わざわざ〈赤の雫〉にくる必要などないのだ。なのに何故だ。まだ他の理由があるのか。彼女に協力する理由が。〈赤の雫〉に向かう理由が。

 考えないようにしていた感情、見ないようにしていた思いが今になって浮かび上がる。将来のことから目を逸らすこと、その負い目、逃避の罪悪感。今まで自分は将来の問題からの逃避として〈赤の雫〉に没入していた。それに負い目を感じていた。こんなことをしていていいのかと。これではいけないという思いが。

 けれどいつしかその罪悪から目を背けるようになった。意識すると不安に駆られる。だから意識しないように、見ないようにしていたのだ。

 今回の事件、自分と〈赤の雫〉とのかかわりの必要性が、その負い目をさらに覆い隠した。これは必要なことだと。この世界にいられること。それを正当化する理由に据えた。

 自分に危険が及ぶかもしれない事柄すらも、将来からの逃避の理由に利用しているのだ。今は、〈赤の雫〉にいなければならない。将来を考えるどころではないのだと。

「自分を?」

 うたが先を促す。しかし答えられない。でまかせでも何でも口にすればいいのに、それもできない。判明した事実にただただ自失していた。

「話してはくれないんだ?」

 沈黙が流れる。

「わかった。もう聞かない。でも気を付けて。記号のことを絶対に口外しないで」

 先にいくね、といって脇をすり抜けて集落へと入るうた。沈黙が彼女との距離を遠ざけたのか。彼女はもう自分を見ていなかった。

 族長の家への道のり。押し黙ったままうたの後ろ姿を追う。

 確かに自分にとって現実の問題、将来、進路を考えることは避けていたが、それほど強く逃避しているとは思ってはいなかった。

 だがそれは心がそう思わせていただけかもしれない。逃避へと走る心が与えたその場しのぎの安堵。

 自分と同じように進路が決まらない人間はいる。まだ時間もある。大丈夫だろうと。そう考えたほうが楽だから。罪悪感が薄れるから。

 族長の家で依頼を完了させる間、ただその事実に驚愕し、そしてこの逃避から脱却する方法を考えた。このままでいいはずがないのだ。それぐらいはまだ判断できる。

 では自分の将来に向き合うのか? この状況から目を逸らして?

 自分も記号を持っている。どうなるのかわからない。だから使徒に付き合うのは必要だと。

 そのうちに景色が崩れ、青空が広がる始まりの庭に戻された。うたはこちらの様子を窺っているようだったが、そのままメニューを呼び出す。

「今日はもう終わりだから、光春」

「あぁ」

 こちらの言葉を待つ彼女。

「また連絡するね」

 沈黙を悟り、彼女の姿が光となって四散する。

 逃避から脱却する術。それは〈赤の雫〉から離れること。仮想世界から離れて自分の将来、進路を真剣に考えることだ。

 この状況でそれができるのか? 

 単に自分はこの状況を利用して、将来のことを考えないようにしているだけ。

 気分が悪い。将来のことを考える時はいつもだ。胸の不安、焦燥感。

 今は、この事態に向き合うしかないのだ。

 なぜこんなにも、〈赤の雫〉に関わっていたいと思うのか。仮想世界に関わっていたいと。

 逃避の手段でしかないのか。自分にとって仮想世界とはなんだ? 


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