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それからのことはあまりよく覚えていない。気がつくと夜の帳が落ちた薄暗い自室のベッドで横になっていた。寝間着姿になっていることに気づき、もう就寝していたのだと思い返す。
まどろみの中で昼間のことが全て夢だったかのような感覚にとらわれた。しかし机の上に浮かぶ数字は今日という日があと三十分しかないことをはっきりと示している。〈反逆の園〉であった事は確かな出来事なのだ。
あの後、うたから一通のメールが届いた。
「協力する、しないは光春の自由。ただ気をつけて」
オーヴァの監視を警戒した最小限の内容。そうするようにと注意したのはあの仮面の司祭ユダだ。
自らをアポカリプスの使徒と名乗る彼は語った。現実世界で起きている行方不明はオーヴァの仕業だと。〈赤の雫〉で現れた解読不能な記号。あれはオーヴァが外部に障害発生を知らせる為の信号であり、信号に含まれる情報の漏洩を防ぐために偶然にもそれを入手した人間を誘拐していると。
モーフィアスの言った通り、確かに馬鹿馬鹿しい内容だ。情報漏洩を防ぐために誘拐しているとは、まるで映画や小説のようではないか。
そもそも障害発生時の連絡手段に仮想世界が組み込まれていることも疑問だし、その信号が関係者以外の手に渡ることもおかしい。これまでに様々な勢力の脅威にさらされ、それでも自己を守り通してきたオーヴァ。完全無欠の彼らがそんな杜撰な管理システムを作るだろうか。
もし話が真実であれば、自分はオーヴァに狙われる可能性がある。あの記号のせいで。だがユダは監視機器の近くで記号のことを口外したり、ネットワークに痕跡を残さなければ大丈夫だという。オーヴァはそれらから情報収集していると。それも疑問に思うが。
ユダは体内のナノマシンが排出されるまで大人しくしていればとりあえず安全だとも言った。だがそれはいつまでだ。事件が解決するまでか。自分は一昨日にナノマシンを摂取したばかりで、次の摂取サイクルは約二か月後。排出されるまでには時間がかかる。
けれどユダの話が真であれ偽りであれ、大人しくしていれば大丈夫なわけだ。わざわざ使徒に協力する必要もないのだ。これが自分一人の問題であれば。
問題なのはうただ。彼女はユダの仲間、使徒の一員になった。彼女の友人、北園瑛子がオーヴァに浚われ、その原因を彼女自身が作ってしまったからだと。彼女が北園瑛子に取得するよう促したアイテム。それが記号だったのだ。自分のせいで北園瑛子は行方不明になった。その責任からうたは使徒となり、これ以上被害者を増やさないようユダに協力し記号の回収を行っている。彼女が使徒から身を引いてくれればこちらもユダなどと関わる必要はないが、このままでは彼女がどんな危険なことに巻き込まれるかわかったものではない。放ってはおけない。仲間だから。
仲間。それが自分とうたの関係だ。それ以上でも以下でもない。
そんなものは切り捨ててしまえばいいという思いもある。たかだか仮想の中の関係しかない人間の為に、どうしてそこまでするのかと。自分は巻き込まれたくないと。しかし記号は自分にも現れているのだ。彼らに関わっていた方が情報も得られるかもしれない。
ふと、うたの話が偽りだという可能性はないかと気づく。ユダと結託して自分達を騙しているという可能性。だが何が目的だろう。使徒になれと言うわけではあるまい。ユダの言う記号集めをさせる為にか。
もっと疑ってしまえば、〈反逆の園〉で会った彼女がうたであるという確証はなにもないのだ。うたを演じた別人という可能性もある。あの世界、あの肉体では互いに初対面なのだ。しかし〈反逆の園〉で会う約束を交わした場所は〈赤の雫〉だ。あの時点でうた本人ではなく別人だったのか。うたという肉体に別人が宿り、皆を誘い出したのか。調べてみたが、その可能性はゼロだということがわかった。
自意識。それがいかなる生体認証よりも確実な証明となっている。正確に言えば脳の電気信号。ナノマシンが抽出した意識なるものが仮想世界の肉体と結びつけられているのだ。なりすましは不可能だ。
〈赤の雫〉で再会したうたが本人だということはわかった。だが〈反逆の園〉では? あの肉体に宿る意識がうたであるという確証は何もない。だが、それでも今日会った彼女はうた本人だろうと思う。肉体は違えど、意識はうただ。自分の中にある彼女、その仕草、話し方、雰囲気ともいうべきものがそう告げている。もしあれが別人で、うたという人物を演じていたというのなら自分は騙されているのだろう。確かめるにはもう一度会ってみるべきかもしれない。〈赤の雫〉の中で。
時計を見る。日付が変わっていた。新しい一日の始まり。結局これから自分はどうするのか、どうすればいいのか、答えは出せていない。
使徒、ユダに協力することはやはり考えられない。あの話もそうだが、まずユダを信用していいのかどうか。それはあの場にいた全員が感じたことだろう。
いや、うたは違う。ユダの話を信じ、使徒となってこれ以上被害者を増やさないためにアイテム回収に協力し、自らを危険に晒している。
どうしてユダの話を信じられるのか。あの場にモーフィアスがいたから自分はユダの話に疑いを持つことができたのか。
身近な人が行方不明になり、その直前に体験した〈赤の雫〉での記号出現。その後に事情を知っているような振る舞いをする使徒との接触。彼女の立場からすれば確かに〈赤の雫〉と行方不明には繋がりがあるように思えるだろう。
うたは話を信じている。彼女に協力し、その様子を見守ればいいのだ。それがひいては自分の為にもなる。記号の正体を見極めるための。
自分に現れた記号については、彼女にはまだ明かせない。彼女からユダに伝わり、自分が何をされるのかわからないから。だが、それは卑怯な行為でもある。黙っているといことは、自分だけ安全な場所からことの成り行きを見守るということ。もしうたに何かあっても自分だけは安全を確保しておくということ。
そんなことはだめだという気持ちと、でも仕方ないという気持ちが胸の中で入り混じっているよう。優先すべきは自分か他人か。打ち明けるべきか否か。
打ち明けても何もメリットはない。むしろ危険を増やすだけだろう。彼女には黙っているべきなのだ。それでいい。何も間違っていない。
その結論は情けなく、少し悲しい思いを胸に生じさせた。
夜を越え、次に目が覚めたときにはもう部屋の中はすっかり明るくなっていた。
起き上がって日が差し込む窓に近づく。青空の下に見慣れた風景がある。個性のある家々と青空。
身体が空腹を訴えていた。時刻はもう昼近く。リビングに下りるが誰の姿もない。休日なので家族全員出かけているのだ。
キッチンに移動し、冷蔵庫の中にある果物の缶詰を一つ取り出す。蓋を開けて中にフォークを突きたてる。そのままリビングへ移り、テレビモニタをつけた。月で採掘された鉱石で製造された生活補助アンドロイド〈ルナ〉のコマーシャルが流れ、次に画面へ現れたのはよく見る司会者。彼に促されたコメンテーターがオーヴァのナノマシンを公然と批判している。
司会者を交えた議論の話題は行方不明事件に切り替わる。監視社会である今の都市でなぜ行方が分からなくなってしまうのか。解決しないのか。それ以上見ていたいと思わず、テレビを消して黙々と缶詰の中身を口に運ぶ。しかし静かなリビングではじくじくと不安が胸に湧き上がってきた。自分も体内のナノマシンに操作され、行方不明になってしまうのか。自分に現れた記号のことを知っているのはモーフィアスと桜花だ。二人から情報が漏れることは考えられない。
桜花か。どうしているだろう。うたとの再会ですっかり頭から抜け落ちていた。彼女とも連絡が取れないのだ。記号について知っていたところからすると、彼女も使徒だったのだろうか。オーヴァに捕捉されて行方不明になったのか。
空になった缶詰を片付けて部屋に戻り、ベッドに横になる。じっとしていても一向に不安は消えない。
メタトロンを手にとり、しばらくの間、逡巡してからうたに話があるとメールを送る。
自分も協力することを伝えるのだ。記号のことは伏せて。しかし待っていても彼女から返事はこなかった。
まさかと思い接続機器を手に取る。躊躇したが〈赤の雫〉に入った。始まりの庭でモニタを展開して戦友の項目を選択する。うたの名前だけが白く表示されていた。彼女はこの世界に来ている。だから自分がメールを送ったことにも気づいていない。
モーフィアスと桜花の名前は灰色になっていた。モーフィアスはユダの話を聞いた後だからこの世界に来ていないのは当然だ。桜花はわからない。猫とは戦友の証を交わしていないのでわからないが、恐らくこちらにはきていないだろう。
うたがこの世界にいる理由。それは一つしかない。ユダに指示された記号の回収をしているに違いない。恐らくそれは自分が手にしたときと同じように依頼の中で手に入るのだろう。
表示されている場所を見ると彼女はエルフの森にいるらしい。すれ違いを避けるためにすぐに向かう。
戦友には明確な場所は表示されない。エルフの集落を一通り回ったが姿はなかった。依頼を受けているとすれば集落の外だろう。行き交う人も挨拶をする門番を無視して森に出て、ユグドラ大樹に向かう道を早足で駆ける。
何故、彼女はそうまでして使徒に協力しているのだろうか。
「事実を知ってしまった自分ができることは、これ以上被害者を増やさないためにアイテムを回収すること」
彼女の言葉が頭に蘇る。そんな理由で協力しているのではないと思った。それだけの理由で自分を危険に晒せることが信じられない。
森の中でも速度を落とさない。ユグドラ大樹が木々の間から見えた。
ふいに足を止めた。道の脇、樹木の根に寄りかかり力なく座り込んでいる黒衣の少女。
まさか本当に会えるとは思わなかった。その姿を確かめてゆっくりと近づく。
「うた」
少女は顔を上げる。こちらが声をかけるまで彼女は自分に気づかなかった。うつろな表情が自分の姿を捉えるとみるみるうちに驚愕へと変わる。
「光春? どうしてここに?」
杖を支えによろめきながら立ち上がる。長い時間こちらの世界にいたのだろう。疲労しているのが見てとれた。
「メールしたけど返事がなかったから。もしかしたらこっちにいるかもと思って」
「あ、ごめん」
「ずっと一人で集めていたのか?」
うたは力のない笑みを浮かべた。
「人手が足りないからしょうがないよ。回収ペースも追いついていないし」
長時間仮想世界にいればそれだけ現実の肉体も影響を受ける可能性が高くなる。ましてやそれが〈赤の雫〉であればなおさらだ。その危険を承知なのか。
「どうしてそこまでできるんだ? 何もうたがやらなくてもいいだろう?」
うたは目を伏せる。
「事実を知ったから? それだけの理由で? 自分が危なくなるのに?」
「違うよ。これは自分の為」
「自分の為?」
思いがけない言葉。
「あの子が助かっても、多分私を許してくれない。でも、こうして使徒の手伝いをしていれば、見直してくれるかもしれない。許してくれるかもしれない。また会ってくれるかもしれない」
顔が歪み、彼女は嗚咽を上げた。
「許されたい、あの子に。会って謝りたい」
搾り出された願い。自分のせいで友人が事件に巻き込まれたという後悔。そして再会するための免罪符を求めてうたは使徒に協力しているのだ。
その行為はあさましいものかもしれない。自己満足、自分勝手なものかもしれない。だが自分にそれが咎められるか。自分も同じなのだ。浅ましさ、自分勝手さでは。
身を震わせる彼女をただ見ていた。
「ごめん」
うたの涙に感情が揺さぶられたのか、記号のことを打ち明けようとしている自分がいた。胸の中で自答する。打ち明けて何になるのかと。危険が増えるだけだと。
「俺も協力するよ」
うたが息を呑む。口を結んだ。余計なことを言わないように。
「いいの?」
「うたの負担も少しは減るだろ」
「ありがとう、光春」
記号の回収は私がするから、光春には危険はないからと話すうた。奥歯をかみしめてその口元を見つめる。
これでいいんだ。あさましいままの自分で。彼女は何も知らなくていい。




