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手にした者は行方不明になるというアイテムの噂。自分に現れた解読不明な記号。そして一向に解決しない行方不明事件。
現実世界へ戻ってからも、それらがぐるぐると頭の中を巡っていた。
「決して口外しないこと」
桜花の言葉を思い返す。
彼女の言う通りなら、〈赤の雫〉を作ったオーヴァは記号が発現したプレイヤーを誘拐しているということになるのか。それもネットワークやメール、体内のナノマシンから情報を収集して。
そんなことがありえるのか。
まず仮想世界を制作、管理している側がプレイヤーの情報を管理していないはずがない。その情報があればわざわざ現実世界で情報収集などという手間をかける必要などないのだ。そこからして疑問だ。それに記号が現れたが為にオーヴァに狙われるのだとしたら、あの記号の正体はなんだというのだ。
あの場で桜花に聞きそびれたことを後悔した。注意された手前、メールで具体的に聞くこともできない。話がしたいとメールを送ったものの、彼女からの返事はまだなかった。
考えれば考えただけ桜花の話に疑問を生じえない。
はっきりと明言しなかったが桜花は噂と現実世界で起きている事件を結び付けている。以前の自分のように。今では飛躍しすぎなのではないかと思う。確かにうたの件では自分も行方不明と〈赤の雫〉、オーヴァを結びつけていた。無意識のうちにその可能性を打ち立てていた。客観視することで改めて「飛躍した」などという考えができるようになったのだ。いや、モーフィアスに指摘されたからかもしれない。
彼女もその考えにとらわれているだけなのではないか。
いずれにしても自分に足りないのは情報だ。物事を判断する材料。夕食を摂り自室に戻ってからもメタトロンのネットワークを利用してそれらについて調べた。
まず手を付けたのは噂についてだ。
〈赤の雫〉のコミュニティサイトは多数あったが、一番賑わっているサイトに最初に手をつけた。〈時の旅人〉と名のついたそのサイトでは記号について様々な意見、推察、議論が繰り広げられていた。
一通り目を通してわかったことは、確かに自分に起きたことと同じような現象が他のプレイヤーにも起きていること。そしてその人達が次々とサイトから姿を消しているということだ。厳密に言えば、サイトに記号の出現を報告した後から何の発言もしなくなっている。報告者の友人が現実でも連絡が取れなくなったとサイト内で発言して、その動揺を伝えていた。
その友人は学生証までサイトにアップロードして身分を証明していた。確かに三件目に発覚した行方不明事件の被害者、栗栖優の通う学校の学生証だが、それを簡単に信用することはできなかった。他の反応も冷ややかで、愉快犯、悪質なでっち上げだと非難する声や虚偽の報告なども混ざって情報が錯綜していた。
その中で気になったのは、入手報告と共にサイトに載せられた画像だ。象形文字が手書きで描かれていた。うろ覚えなので詳細な部分まではわからないが、確かに自分に現れたものと似ている気がする。いくつか画像が上がっていたが、どれも文字とその配置が異なっているようだ。
解読しようと試みた者もいるが、そもそも何の意味があるのか。どうせ追加のイベントに関するものだろうという結論に達していた。
この現象をオーヴァに問い合わせても何の返事もないという点も確認した。被害者の友人、知人が連絡をしてもオーヴァからの応答はない。〈それは赤の雫〉が公開されて以来、変わらないので無駄だという発言が多かった。オーヴァは問い合わせには一切答えない。
だが自分にとって重要なのは、同じ現象が起きた人がいてその者達がサイトに現れなくなったということだ。あの噂を作り上げる為の演出だと考えればそれまでだが、被害者の友人の必死さが他人事のように思えず、胸の不安を完全に拭い去ることはできなかった。
現実の行方不明事件についてはあまり進展がない。新たな被害者は出ていないし、かといってこれまでの被害者が見つかったということもない。事件と〈赤の雫〉、オーヴァとの関連を探したが出てくるのはモーフィアスの言うような陰謀説ばかりだ。人体実験の為の誘拐。知られてはいけない秘密を知った為。
そもそもなぜまだこんな話がつきまとうほどオーヴァは特別視されているのか。ネットを巡った結果、それは今もってなおオーヴァの正体がわからないからという説に行きついた。
公に姿を現さず、自らの情報も積極的に公開しない。秘密主義。ナノマシンや仮想世界にしても、まったく同じシステムのものは作れないらしい。オーヴァが人類の持ちえない技術を持つ異星人であっても不思議はない。そんな彼らが強引な手段で今の位置を築き、独自の技術、権力を保持しているのならば脅威だろうと。オーヴァの登場を目の当たりにした世代の危惧が残っているというのだ。
だが自分にはただのフィクションとしか思えなかった。そんなことを本気で信じている人はどうかしていると。
それらを調べているうちにいつの間にか夜を明かしていた。気がつくと窓の外がもう白み始めている。時刻は午前五時。結局、調べ上げたことだけでは噂が虚偽なのか否か、現実の行方不明と関係があるのかはわからなかった。
やはり桜花から話を聞かくしかないだろう。人を不安にさせるだけさせて、よく知らない、などとは言わせない。彼女自身が噂を信じるその証拠を聞かせてもらわなければ。でっち上げであればそれでもいい。
メールの返事はまだない。モニタを閉じてベッドに横になると隙をつくように睡魔が眠りへと誘った。
それからどのくらい眠っていただろうか。どこからか鳴り響く耳障りな電子音で覚醒する。音は次第に大きくなり、意識をまどろみから引き離す。
「ちょっと、まだ寝ているの?」
音が消え、続いて母の声が壁に埋め込まれている内線のスピーカーから聞こえてきた。
朝食の時間になっても降りていかないとこうして起こしてくる。起き上がって応答する。時計を見ると朝食をとる時間もないことに気づいた。慌てて準備をする。下に降り、朝食の片づけをしている母に一言放ってそのまま家を出た。
いつもと変わらない青空。道行く人々。バゾルを流れるセル。朝日に染められる都市。そして行方不明事件だ。馬鹿らしいと理性で打ち消そうとしても消えないが不安が気持ちに影を落としていた。
モノレールに乗り込んでからメタトロンを取り出し、モニタを目の前に展開してニュースサイトに接続する。
新たな行方不明事件は起きていないようだ。昨日の行方不明の記事は新たに追加された宇宙開拓事業の記事に埋もれている。
うたからのメールは依然として届いていない。そして桜花からも。
学校に到着し、午前の仮想訓練を受ける。前日の失敗から学び、午前はまずまずの結果だった。
「今回はそれほど悪くなかったな」
二見は無表情に言ったが、結果に満足していないことは明白だった。
昼の休憩時間になり、食堂に移動する。壁が薄緑の食堂には昼食をとるための机と椅子が窓際に一列に並んでいる。木々のイミテーションが仕切りの役目を果たし、反対側に様々な形をしたボックスチェアが点々と設置されていた。
席について注文したカレーを口に運ぶが、味はあまり感じられない。
心配になっていた。何故、桜花からも返事がこない? 返事を返さない人間なのだろうか。それともすべて嘘で、噂を作る側の人間だったのか。単に連絡が取れないだけなのか。
連絡の取れない状態。行方不明の単語が頭をよぎり、すぐに打ち消した。記号が現れたのは自分なのだ。なぜ桜花が行方不明になる。
今の自分は連絡を待つことしかできない。
「大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
午後の訓練が開始され、接続機器を受け取ると二見に気遣われた。
「体調が悪いのなら、帰っても構わない」
接続機器を手にして席に着くが、二見の言葉に帰宅を決意する。
「帰るんだな? わかった。ちゃんとメディカルチェックしているのか?」
「ちゃんと毎朝しています。問題はないです」
嘘だった。毎朝ではなく気が向いたときにしかしていない。そもそも異常があればナノマシンのほうから警告を出して知らせてくれるのでわざわざ自発的に行う必要はないのだ。
「だったら精神的なものだろう。何か悩みがあるんじゃないのか?」
「悩みなんて」
言葉を濁す。とても相談できない悩みだ。
「俺に言わなくてもいい。ちゃんとカウンセリングを受けろ。それはナノマシンでは治らない」
二見の言葉に甘えて午後の訓練は受けず、そのまま帰路に着く。当然、カウンセリングなど受けるつもりはなくまっすぐに帰宅した。
家には誰もいない。いや、ラティはいた。置物のようにリビングで突っ立っている。
自室に入ってベッドに腰掛ける。時計を見た。昨日アイテムを入手したのが十七時頃。今が十四時。あと三時間後で現象発生から一日が経過する。今のところ何も変わったことはおきていない。どこにも口外していないので大丈夫のはずだ。
ふと思う。口外していなくとも、ネットワークを通じて調べる行為自体も危険なのではないだろうか。静寂の中で言い知れない不安に襲われた。
桜花からの返事はまだない。
視線が自然と接続機器のほうへ引き寄せられる。現実逃避の手段であった仮想世界、〈赤の雫〉それが今、自分を不安に駆らせ、追い詰めている。
見間違いであってほしいと、もしかしたらもう消えているかもしれないという希望にすがり〈赤の雫〉へ入った。しかし思いとは裏腹に、記号はしっかりと所持品の項目に存在した。
「くそっ。なんで消えないっ!」
何度も文字に触れてみるが、何の反応も返さない。
「だめだ、落ち着け」
記号はたしかに存在する。そして自分にはどうすることもできない。
ここにいてもしょうがない。現実へと戻ろうとした。暗黒に包まれて意識が遠のき、身体を預ける。いつもの感覚。しかし覚醒に向けて浮上するはずの意識が、そのままどこまでも落ちていくのを感じた。
「ちょっと、いつまで寝てるの」
聞き覚えのある声に目を開ける。明かりの灯った自室で母がベッドに横たわる自分を見下ろしていた。
「また仮想世界?」
非難の声。母は頭のカチューシャを見てため息をついた。自室を見渡す。見慣れた室内には何もおかしいところはない。
「今、何時?」
「夜の七時よ」
身体に異常もなく、逆に頭はすっきりしている。どうやら昨日の睡眠不足のせいでそのまま眠りに落ちてしまったようだ。
「夕食はできてるから、降りてきなさい」
母が部屋から出て行く。
何も起きていない。だが不安が胸にしっかりと残っているのを感じる。
視界の端でメタトロンがメールの受信を知らせる光を点滅させた。桜花からだろうか。
メタトロンを手に取り素早くモニタを展開する。送信者を見て息を呑んだ。
うたからだった。
「メールに返事ができなくてごめん。それと急だけど、今から〈赤の雫〉で会えないかな?」
驚きと猜疑が入り混じる。送信者は本当にうたなのか?
すぐに「わかった」と返信して赤の雫に入った。
始まりの庭は夕日に染まっていた。時間によっては星がちりばめられた夜空や明けの明星を目にすることができる。
庭の端で地平に沈む太陽を眺めている人物がいた。自分の気配に気づいて振り返る。
「ごめんね、急に呼び出して」
そこにいたのはまぎれもなくうた本人だった。胸にゆっくりと広がる安堵を悟られないように平静を装う。
「いいよ。それよりも何の連絡もないからちょっと心配してた」
「ごめんね。色々あって」
「まったく、行方不明にでもなったのかと思ったよ」
うたの表情に変化はなかった。
「そうだ、猫がすごく心配してた」
「うん。メール、いっぱい届いてた」
「彼女が一番心配していたから。あまりその、悪く思わないでほしい」
「知ってる。大丈夫」
それ以上会話が続かない。思いつめたように黙るうたはこれまでに見せたことのない表情を顔に張り付けていた。
苦悩だ。
「光春、聞きたいことがあるんだ」
ややあってうたが口を開く。
「〈反逆の園〉っていう仮想世界を知ってる?」
彼女の口から出たのは別の仮想世界の名前だった。
「いや、知らないけど」
それからうたは淡々とその仮想世界について話し始めた。
全てが荒廃した世界。プレイヤーは旅人となり、世界の再生するために旅をする物語。
特に興味を惹かれなかったのはありきたりな物語というだけでなく、説明するうたの口調からも楽しさや魅力が伝わってこないからだ。
「明日、〈反逆の園〉に一緒に来てほしいの」
明日は土曜日で学校は休みだ。その仮想世界の話を切り出したところから半ば予期していた誘いではあった。乗り気はしなかったが。
「でも、専用の接続機器を持っていないし」
うたの話では、〈反逆の園〉には専用の接続機器が必要になるらしい。
「私が送るよ」
「いや、そこまでしてもらうのは」
「いいの。私がプレイヤーだから、友達を勧誘すると機器の代金は無料になるんだ」
そういうサービス形態もあると聞く。
「でも、やっぱり興味ないよね」
躊躇する素振りを見せるとうたはすぐに身を引いた。
強く勧誘しているわけでもない。どっちつかずな態度にこちらが少し困惑した。
「そこで何をするの?」
わかりきっている質問だ。自分に与えられた役割をこなす役者になる。今、不破光春を演じているように。そうして世界を楽しむのだ。
「一度、来てくれるだけでいいの。光春の好みに合わなければそれでもいい」
うたはそれだけははっきりと言い放った。
「そこまで言うのなら、一回くらいなら行ってみようかな」
了承したのには深い意味はなかった。いつもと様子が違ううたの誘いを無下に断れなかった。それだけだ。
「ごめんね。ありがとう。それじゃあ後で住所番号を教えてくれる?」
住所番号は十桁の英数字だ。この番号だけでは相手がどこに住んでいるのかわからない。情報の保護というやつだが、一部では解読されていて効果などないと言われている。
「わかった。メールしておくよ」
「明日はお昼の一時頃に皆集まる予定だから」
「皆?」
「モーフィアスと猫」
あの二人は合わせないほうがいいと思ったが、そもそもうたは二人が面識あることを知らないだろう。
しかしうたが無事だった今となっては、わざわざ言うべきことでもない。
「それじゃあ、明日ね」
「あぁ、それじゃ」
うたが現実へ戻ったのを見届けて、自分も現実へと戻る。
やはり噂は所詮、噂だった。あとでモーフィアスにもメールしよう。猫もこれで安心だろう。
だが、久しぶりに会ったのにうたらしくなかった。要件も別の仮想世界への勧誘だけ。
らしくない? 自分が彼女の何を知っている? この世界での一面しか見えていないくせに。自虐が頭の隅に浮かぶ。
まだどこかで噂とうたを結び付けようとしていた。そうやってうたの様子の変化に理由をつけようとするように。
それらを頭から追い出して夕食を摂った後、〈反逆の園〉について調べたが、さして興味も沸かず、眠るときには明日のことが少し億劫になっていた。




