幸福な男
彼ほど幸福な男はいないだろう。二十歳の時、突然差出人不明の封筒で一枚の宝くじが送られてきたかと思うと、それがなんと百万円の当たりくじだったのだから。
彼はそのうちの半分を株に投資した。二、三年は順調に株価が上昇していった。配当金でそこそこの生活ができたので、アルバイトをしていれば十分だった。
だが、五年たったある日、突如その値が急降下した。そのような兆候はまるで見られなかったため、彼は株を売り渡す暇もなく大損害し、手元にはお金がほとんど残らなかった。
十年たった今は、アルバイトをしながら川沿いのアパートに住み、細々と生計を立てている。
日曜日の今日、彼はアパートの裏手にある土手を散歩していた。両手に手袋をはめ、左手にはゴミ袋を持っている。
彼は、休日になるとここを歩いて川の上流に行くのが日課だった。子どものとき、この川でよく友達と遊び、大きくなると釣りをするのが楽しみとなっていた。
この川は、川底がはっきり見えるほどきれいで、今も小さい子ども達が水をかけ合ってキャッキャッとうれしそうにしている。この川は、未来永劫残していかなくてはならない。だから、ゴミでこの場所が汚されているのは我慢できなかった。
「よっこらしょ」
彼はしゃがんで若者らしからぬ声を出すと、そばに転がっているゴミを拾った。彼が見つけたのはDVDプレーヤーだった。
「なんで、こんなものまで捨てるんだ?」
彼は、旧式で少し重いそれを抱えたまま一旦土手を下り、住宅街まで行って近くのゴミ収集所においた。
彼は子どもの時からこんな事を続けていた。ちなみに、十年前手に入れた百万円のうち残り半分は、この川の保全費として使うようにと、役所に寄付していた。
川をさかのぼっていくと、やがて林よりも大きな、小さめの森が見えてきた。彼はここの遊歩道を歩いて森林浴をするのが好きだった。
「今日は妖精を見つけられるかな?」
彼はうれしそうに辺りを見回す。ここは妖精が出る森として一部のマニアの間では有名な場所だ。たまに道を外れてくまなく探してみるのだが、いまだに見つけられていない。
五分くらい散策しているとしげみから、青くて透き通っている大きな羽をしたきれいなチョウが、まるで布が空中をただようようにひらひらと飛んできた。
「おや、なんか変だぞ?」
それはただのチョウではなかった。人間の頭と体があって、そこから羽が生えていたのだ。身長は十センチくらいだろうか。
「も、もしかして……本物の妖精なのか?」
彼は震える指でその生き物を指さした。
「そう、わたしは妖精よ。今日はあなたにお礼をしに来たの」
「驚いたよ。本当に妖精はいたんだ。このおれに礼だって? 妖精にほめられるようなことしたかな?」
童顔の妖精に、彼は首をかしげた。
「あなたは毎週あの川の近くでゴミを拾っているでしょ? 実はわたしはこの森に住んでいるんだけど、あなたがきれいにしてくれてとても助かっているの。動物や魚も住み心地が良いって褒めているわ」
妖精は空中でおじぎをした。そして言葉を続ける。
「それでね、今回わたしからプレゼントするわ。なんでも好きな願い事を言って。できる限り叶えるわ」
彼は黙って聞いていたが、妖精の言葉に度肝を抜かれた。
「え、本当に? 別に大したことしているわけじゃないんだけどなあ……」
そう言いながらも、彼は心がうきうきしていた。これまでやってきたことがようやく報われるのだから。二十秒くらい考え、いくつかあった願いを一つに絞った。
「なんでも叶えてくれるのならさあ……お金を出してくれよ。出来ないって言わないよな?」
「やっぱりあなたはそうなのね……。出来るに決まっているでしょ。えいっ」
妖精は右手を高く上げ、一回振った。すると、空の彼方からお金の束が一つ落ちてきた。
彼はあわててそれを拾い、枚数を数え始めた。一万円札が百枚ある。それを見て彼はニヤッと笑った。
「すごいな、本物だよ。だが、これじゃ足りないな。もっと出せ」
「わ、分かったわ」
妖精は再び腕を振り、もう一つ束になったお金を渡した。
「妖精さんよ、まどろっこしいことしてないで、たくさん出してくれよ。おれがこれまでどれくらいのゴミを拾ってきたと思っているんだ?」
彼は妖精につかみかかろうと右手をのばす。彼女は華麗にそれをよけた。
「そんなにお金がほしいの? これで最後よ」
妖精はため息をつくと、ドサドサ札束を彼の目の前に落とした。
「やっほ〜う!」
彼はお金の山に飛び込んだ。札束をさすり、さらにそれをなめて感触を確かめ、その場にうつぶせで寝転がる。
「いや〜、お前はいいやつだな〜。そうだ、これからおれがゴミを拾ってくるたびに何かくれないか? そうしたら毎日ゴミ拾いしてやるよ」
突然の彼の言葉に、妖精は驚きの顔を隠せない。
「どうして? いつものようにここをきれいにしてくれないの?」
すると彼はふん、と鼻を鳴らした。
「もうあんな慈善活動はいやになったんだ。三十年生きていろんな事があったうちに考えが変わったのさ。一人寂しくあんなことしていても、ただむなしくなるだけだろ? ゴミ拾いしていてもよい仕事が見つかるわけないんだから。これからは取引しよう。だからこれからよろしくな」
彼は妖精へ右手を差し出した。しかし妖精は、そんな彼の手を右足でけった。彼はあわててひっこめる。
「ひどい! ゴミを捨ててここを汚しているのは人間でしょ。どうして自分たちで片づけようとしないの? わたしはあなたをずっと見てきたわ。あなただけは他の人間と違うと思っていたのに。報酬がないと、もう何もしてくれないの?」
妖精は今まで見たことない怖い顔をしている。だが、彼はそれを聞いていないようで、お金に顔をうずめて気味悪い声を出して笑っている。
「仕方ないわね……」
妖精は、近くに落ちている人の頭くらいの大きさの石を浮かび上がらせ、気付かれないようにそっと彼の頭の上に移動させた。
一メートルくらいの高さまで上昇させると、妖精はその石を勢いよく落下させた。
「ぐおっ」
石は彼の後頭部にぶつかり、そのまま気絶してしまった。うつぶせのまま手足を伸ばしている。
妖精は、彼が気を失っているのを、そっと頬をつついて確かめると、彼の頭頂部にテントウ虫と同じくらいの大きさの小さい手を当てた。
「荒療治だけど、記憶を消させてもらうわ。わたしの存在が知られると、ここに住みにくくなるから」
妖精は、自分と出会ってからの彼の記憶を消した。正確には、消したと言うより頭の奥深くまで押しこみ、今日の事を思い出させないようにするだけだ。彼女にはそれが精いっぱいだった
妖精は、彼をお金の山からどかし、彼の下敷きになっていた札束に向かって右手をかざした。すると、それらは一瞬で色とりどりのお花に変わった。たちまち辺りにみつの甘い匂いが広がる。
「ねえ、これからは十年前のように純粋な気持ちでこの森と川をきれいにしてくれるとうれしいな」
妖精は、十年前に彼と出会った時に見た、彼の楽しそうに笑っている顔を思い出しながらほほ笑むと、彼のうなじの辺りを手でなでた。すると、石をぶつけられて出来た傷があっという間に治ってしまった。
「さよなら、人間さん」
妖精は手を振ると、その美しい羽をはばたかせ、森の中に溶け込んでいった。
十分後目が覚めた彼は、なんでこんなところで寝ていたんだ、と首をかしげながら、森を後にした。虹色の小さいお花畑が、彼をお見送りしているように風で揺れた。