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婚約者に神力を奪われたので、神界へ昇って二度と手の届かない存在になりました

作者: 熾星
掲載日:2026/08/20



 神魔大戦の日、私は婚約者の月城朔夜つきしろ・さくやを庇い、魔神の致命的な一撃を受けた。


 魂は砕け、肉体も崩壊寸前まで傷ついた。私はそのまま二十年もの眠りにつき、ようやく肉体へ戻ったときにも、霊脈と魂は完全には治っていなかった。


 療養のため再び仙殿に籠もることになった私は、仙盟の日常的な仕事を朔夜に任せ、その補佐を彼が最も信頼していた弟子――白峰真白しらみね・ましろに任せた。


 ところが、私が再び人前に姿を現したころには、真白はすでに一部の長老たちを味方につけ、仙盟の実権を握り始めていた。


 そして私と朔夜の「契りの儀」の当日。


 真白は大勢の前で、堂々と私の地位を奪おうとした。


「雪華様のお力は、今や全盛期の一割にも満たないでしょう。これ以上、仙盟の守護者である仙尊の地位に留まるのは難しいかと存じます」


 長老たちが騒ぎ始めるより先に、朔夜が真白の隣へ歩いていった。


「俺と雪華の婚約も、今日で終わりにしよう」


 彼は迷いなく告げた。


「俺が本当に愛しているのは、ずっと真白だった」


 そして、まるで慈悲でも与えるような目で私を見る。


「真白を正妻として受け入れられるなら、お前も俺のそばに置いてやっていい」


 広間にどよめきが広がった。


 私は思わず笑った。


 そう。


 それなら、それでいい。


 彼がもう選んだのなら、私も彼に預けていたものを返してもらうだけだ。


 今の朔夜が私を見下ろせるほどの力を持っているのは、その大半が私の神力だから。


 そして彼は、もう一つ知らない。


 なぜ白峰真白が、時折あれほど私に似て見えたのか。


 私の主魂はかつて、二十年もの間、彼女の中に宿っていた。



1



「師匠!」


「この人は自分のことしか考えていません! 本当に師匠を大切に思っているなら、どうして私にこんな酷いことができるんですか!」


 白峰真白は長い階段の下に膝をついていた。白い衣は血に染まり、肩を震わせながら泣いている。


「私には、もう師匠しかいないんです」


「でも雪華様には仙盟も、たくさんの仙門も、慕ってくれる人たちもいる」


「お願いです。師匠、私と一緒に行ってください」


 私は大広間の最上段に立ち、傍らに浮かぶ神剣・長明ちょうめいを握った。


 本来なら今日は、私と朔夜が正式に伴侶の契りを結ぶ日だった。


 それがいつの間にか、真白が私の婚約者へ涙ながらに訴える舞台へ変わっている。


 事情を知らない者が見れば、私のほうが二人の間に割り込んだ悪女に見えるだろう。


「今すぐここから立ち去りなさい」


「今日の儀式を台無しにしたことも、長老たちを取り込んだことも、今なら追及しない」


 真白は返事をしなかった。


 ただ、私と朔夜がまだつないでいた手を見つめている。


 その目には、隠しきれない嫉妬が浮かんでいた。


 私は一度口にしたことは守るつもりだった。彼女を逃がすため、長明を収めようと腕を動かした。


 ところが、その瞬間。


 朔夜が私の手を振り払った。


 強い力で肩をつかまれる。


神代雪華かみしろ・せつか、いい加減にしろ」


「真白は俺の弟子だ。お前にとっても弟子筋の後輩だろう」


「ここまで傷つけておいて、まだ足りないのか?」


 一瞬、何を言われたのか分からなかった。


「いつ、私が殺すと言ったの?」


 朔夜は聞いてすらいなかった。


「今日、どれだけの仙門から人が来ていると思ってるんだ」


「こんなことをされたら、真白はこれから人前に出られない」


「俺の顔まで潰された!」


 なるほど。


 私たちの契りの儀が壊されたことも。


 療養中に私の地位が奪われかけたことも。


 神魔大戦で私が一度死んだことさえ、今の彼には大した問題ではないらしい。


 大切なのは、真白が傷ついたこと。


 そして、自分たちの面子が潰れたことだけ。


 周囲からも声が上がり始めた。


「仙尊様、真白殿はまだ若い弟子でしょう。そこまで追い詰めなくても」


「師匠を慕う気持ちが少し強かっただけではありませんか」


 中には、敬称すらつけず私の名を呼ぶ者もいた。


「神代雪華! 皆の前で罪のない者を殺すつもりか!」


 契りの儀は、いつの間にか私を裁く場へと変わっていた。


 私は彼らを無視し、朔夜だけを見た。


「あなたも、そう思っているの?」


 返事はなかった。


 朔夜は私から目を逸らし、階段を駆け下りると真白を抱き上げた。そして自らの力を彼女へ流し込んでいく。


 正確には、彼自身の力ではない。


 私の神力だ。


 復生したばかりの私は魂が不安定で、本来の神力すべてを肉体に戻すことができなかった。


 そこで朔夜が言ったのだ。


「回復するまで俺が預かる」


「いつでも返すから」


 私は信じた。


 だから、自分の神力の大半を彼の霊脈へ一時的に預けた。


 その力に支えられ、朔夜の修為は急激に上がった。


 今では誰もが、彼を仙尊に最も近い存在と呼んでいる。


 けれど、その力の持ち主は最初から変わっていない。


 魔神の爪が私の胸を貫いたとき。


 落ちていく私を受け止めたのも、朔夜だった。


 あのとき彼の両手は震えていた。


「置いていかないでくれ」


 何度もそう言って泣いた。


 今では、その腕に真白をしっかり抱いている。


 私の顔すら見ない。


 当然、私の顔から血の気が引いていることにも気づかなかった。


「雪華、お前はいつからこんなに残酷になったんだ?」


 私は乾いた笑いを漏らした。


 胸の奥から血の味が込み上げる。


 今の身体で力を使うべきではなかった。


 真白は朔夜の胸にもたれ、そっと彼の頬へ手を伸ばした。


「師匠……私を連れていってくれますか?」


「もちろんだ」


 答えるまでに、一瞬の迷いもなかった。


 私は最後に一度だけ尋ねた。


「月城朔夜」


「今日、この人を連れていくなら、私たちは本当に終わりよ」


「それでも行くの?」


 朔夜は眉を寄せた。


「雪華、もう意地を張るな」


「俺は今、お前が起こした騒ぎを収めてやってるんだ」


 私は静かに頷いた。


「それなら、その騒ぎの種を連れて早く消えて」


「二度と私の前に姿を見せないで」


 朔夜の表情が一瞬だけ強張った。


 それでも、彼は何も言わなかった。


 私から預かった神力を使い、真白を抱いたまま剣に乗って飛び去っていく。


 その直前。


 真白が朔夜の腕の中から振り返った。


「仙尊だなんて言っても、この程度なんですね」


「好きな男一人、つなぎ止められないなんて」


 広間の一角から、低い笑い声が聞こえた。


 そこにいたのは、以前から私を快く思っていなかった男たちだ。


 彼らが嫌っていたのは今日の事件ではない。


 女である私が、長い間すべての修士の上に立っていたこと。


 その事実そのものが気に入らなかったのだ。


 長明が低く鳴った。


 次の瞬間、圧倒的な神剣の威圧が広間を満たす。


 笑い声は一瞬で消えた。


 騒ぎが終わると、私は一人で仙殿へ戻った。


 扉を閉じた途端、張りつめていたものが切れた。壁に手をついたまま血を吐き、頬を一筋の涙が伝う。


 苦かった。


 こうなるかもしれないと、薄々分かっていた。


 それでも、最後まで信じたくなかった。


 寝台の下には、一つの古い箱が残っていた。


 朔夜が弟子入りした日に使った茶碗。初めて剣術を教えたころの木剣。そして何百年もの修行を終え、師弟の関係を正式に解いたあと、恋人になった彼が私のために作ってくれた髪飾り。


 私はずっと、これらを老いることのない時間の中で大切にし続けるのだと思っていた。


 今見ると、どれもひどく滑稽だった。


 私が朔夜を助けたとき、彼はすでに成人し、長く一人で修行を続けていた修士だった。


 その後、私の弟子となった。


 数百年を経て、一人の修士として独り立ちできるようになったとき、正式に師弟関係を終えた。


 彼が想いを告げてきたのは、それからだ。


 だからこそ思わなかった。


 これほど長い年月をかけて結ばれた関係が、後から現れた一人の弟子によって壊れるなんて。


 堪えていた涙が溢れた。


 そのとき、誰かが肩に触れた。


 振り返る。


 真白だった。


 正確には、彼女が作り出した分身だ。


 そこで気づいた。


 仙殿へ自由に出入りできる証まで、朔夜は真白へ渡していたのだ。


 真白は私の前にしゃがみ、一本の新しい髪飾りを指で弄んでいた。


 朔夜が昔、私にくれた物とよく似ている。


「雪華様」


「泣いていらっしゃるんですね。なんだか可哀想」


 真白は楽しそうに髪飾りを揺らした。


「これを師匠が私にくださったとき、何と言ったと思います?」


「『古いものが言うことを聞かないなら、新しいものに替えればいい』ですって」


 長明が一瞬で鞘を飛び出した。


 剣先が真白を貫こうとする。


 けれど、それは分身にすぎない。


 刃が届くより早く、彼女の身体は淡い光となって崩れていった。


 わざわざここまで来て。


 ただ、その一言を私に聞かせたかったらしい。


 誰もいなくなった仙殿で、私は低く笑った。


「朔夜……」


 その名も、彼自身が選んだものだった。


 ずっと昔。


 二人で仙殿の屋根に座っていたとき、彼は笑って言った。


「師匠は夜空に浮かぶ月みたいです」


「だから俺は、朔夜と名乗ります」


「どれほど長い夜になっても、ずっと師匠のそばにいます」


 両親が去って以来。


 初めて誰かが、私の「そばにいる」と言ってくれた瞬間だった。



2



 父は神界の神官だった。


 母は下界に生まれた修士。


 父が持つ特殊な力を、下界の者たちは神力と呼んでいた。そして私は、その神力の大部分を受け継いで生まれた。


 十歳の年。


 両親はそろって神界へ戻った。


 その日から、下界で正面から魔神と戦える者は私一人になった。


 各仙門は仙盟を作り、私のために巨大な仙殿を建てた。


 最高の術式と修行法を与えた。


 そして、外の世界から徹底的に守った。


 聞こえはいい。


 実際には、十歳の子どもを仙殿の中へ閉じ込め、魔神を倒せるようになるまで修行させ続けただけだった。


 百年後。


 私はようやく外へ出られるだけの力を得た。


 その日から、人々は私を仙盟最高位の守護者――「仙尊」と呼ぶようになった。


 仙盟には別に盟主がいる。


 日常的な政務や各仙門同士の調整を担う者だ。


 けれど魔神や世界そのものを脅かす事態になれば、最終的な判断を下すのは仙尊だった。


 だから誰もが気にした。


 仙尊は魔神を倒せるのか。


 仙門を守れるのか。


 この世界を守れるのか。


 けれど誰も。


 神代雪華が何を望んでいるのかは聞かなかった。


 朔夜だけが、最初は違って見えた。


 だから昔、私は魔神に殺されかけていた彼を全力で助けた。


 仙殿へ住むことを許した最初の人。


 私を遠くから崇めるのではなく、隣に座った最初の人。


 それが彼だった。


 私は仙殿の屋根に横になり、星も月もない空を見上げた。


 胸の古傷が鈍く痛む。


 神魔大戦の最後、朔夜を庇ったときについた傷だ。


 今も完全には癒えていない。


 考えていた相手が、本当に現れた。


 背後に誰かが降り立った気配。


 それほど近づかれてから、ようやく私は気づいた。


 朔夜だった。


 今の私の魂は、それほど弱っている。


 一方の朔夜は、私の神力を抱えているため、かつてとは比べものにならないほど強い気配を放っていた。


「今さら何をしに来たの?」


 次の瞬間。


 首を強くつかまれた。


 目を開くと、朔夜が怒りに歪んだ顔で私を見下ろしていた。


 額には一瞬だけ、暗い金色の紋様が浮かんでいた。


 以前にも何度か見たことがある。


 私はずっと、彼の修行による霊紋だと思っていた。


「真白に何をした!」


「まだ意識が戻らないんだ!」


「青羽の簪を渡せ!」


 青羽の簪と長明。


 それが両親から私へ残された、たった二つの品だった。


 特に青羽の簪は、今の私の傷ついた肉体と魂を支える最後の命綱でもある。


 母が作った簪の中には、私の魂と結びついた神血が一滴封じられていた。


 それがある限り、私の魂は完全には散らない。


 朔夜も知っている。


 知っていて。


 真白のために奪おうとしていた。


 指が強くなる。


 視界が暗くなった。


 それでも私は頷かなかった。


「長明!」


 鋭い剣鳴。


 神剣が自ら鞘を抜け、朔夜の手首を斬りつける。


 血が飛んだ。


 朔夜はようやく私を放した。


「雪華、今のは……俺も少し冷静さを失ってた」


 自分の傷を見てから、声だけを柔らかくする。


「ただ、お前が今日起こした問題を解決したいんだ」


「外では今、お前のことが散々言われてる」


「青羽の簪で真白を治してやれば、騒ぎも収まる」


「そうすれば、お前だって今までどおり仙尊でいられる」


 私は壁に手をつきながら立った。


 笑えてくる。


「私が起こした問題?」


 まっすぐ彼を見る。


「月城朔夜」


「あなた、本当に分かっているの?」


「自分が誰を好きなのか」


 眉間に皺が寄る。


「今はそんな話をしてる場合じゃない」


「早く簪を渡せ」


「嫌よ」


 長明を手元へ呼び、一気に斬り込んだ。


 昔なら、朔夜が私の剣を十合も受けられるはずはなかった。


 今では三、四度剣を交えただけで、私のほうが押され始める。


 認めたくはないが。


 私が彼に預けた神力は、それほど強い。


「雪華、俺はお前を傷つけたくない」


「これ以上、俺にやらせるな」


 そう言いながら、彼の手は私の髪に挿された青羽の簪へ伸びた。


 心が冷えた。


 私は自分の手で簪を抜いた。


 朔夜の顔に喜びが浮かぶ。


 次の瞬間。


 私はそれを握り潰した。


 青い光が弾けた。


 無数の破片が床へ散る。


「何をしてるんだ!」


 朔夜の顔色が変わる。


 私は答えなかった。


 母が初めて青羽の簪を私の髪へ挿した日のことを思い出した。


「雪華、この簪はあなたの魂と神力につながっているの」


「いつかあなたの力が別の誰かの身体へ移ったとしても、あなたの神血を吸ったこの簪の欠片を相手の霊脈へ入れれば、神力とのつながりを取り戻せる」


 幼かった私は、その話を半分も理解していなかった。


 今なら分かる。


 母は、こうなる日まで考えていたのだ。


 胸が激しく痛んだ。


 血を吐く。


 床に散らばった簪の欠片が、私の血に触れた。


 朔夜の剣が迫る。


 完全には避けなかった。


 刃が肩を貫く。


 その代わり。


 私は血に濡れた簪の欠片を握り、朔夜の腕へ深く突き刺した。


 彼は傷を見下ろした。


 そして笑った。


「こんな小さな欠片で、何ができる」


「雪華、本気で俺に勝てると思ってるのか?」


 私も俯いたまま笑った。



3



 私が再び重傷を負ったことで、眠っていた長明の剣霊が強制的に目を覚ました。


 神魔大戦で長明自身も深く傷つき、本来ならまだ長い眠りが必要だった。


 それなのに、これで二度目だ。


 契りの儀で私を守ったとき。


 そして今。


「長明……ごめんね」


 剣身が小さく震えた。


 まるで、「気にするな」と答えているようだった。


 長明の威圧に押され、朔夜は何歩も後退した。


 口元から血を流している。


 その一方で、彼の感情はますます不安定になっていた。


 額の暗金色の紋様が、今度ははっきりと浮かぶ。


「神代雪華!」


「まだ昔の仙尊のつもりか!」


「お前の一番強い力は、今は俺の中にある!」


「本当なら、お前のほうが俺に頭を下げるべきなんだ!」


 長明が何度も斬りかかる。


 朔夜は防ぐことに必死だった。


 そのため、気づかなかった。


 先ほどの青羽の欠片が、すでに彼の霊脈の奥まで入り込んだことに。


「お前の何が仙尊だ」


「両親にすら捨てられたくせに」


「十歳のお前を下界に残して、自分たちは神界へ逃げたんだろう?」


「結局、お前も世界を守るために使われただけの駒じゃないか」


 それは。


 私が彼一人にしか話したことのない傷だった。


 両親を恨んでいること。


 十歳の私を残していったこと。


 世界すべてを背負わせたこと。


 私には一度も「嫌だ」と言う権利がなかったこと。


 誰にも見せなかった弱さを。


 今、彼は刃に変えて私へ突き刺している。


「真白は少なくとも人に優しくできる」


「お前はどうだ?」


「いつも仙尊、仙尊って、高いところから人を見下ろして」


「それでも俺は、お前をそばに置いてやると言ってるんだぞ」


 私はまた血を吐いた。


 もう聞きたくなかった。


 長明に命じ、朔夜を仙殿の外まで吹き飛ばす。


 そこで、意識が途切れた。


 長い夢を見た。


 二十年前。


 神魔大戦の最後。


 私は朔夜を庇い、魔神の攻撃をまともに受けた。


 そのままでは魔神を止められない。


 だから私は自ら魂を砕き、魔神と相打ちになる道を選んだ。


 最後の瞬間、青羽の簪が主魂だけを守った。


 肉体を失った魂は、近くで死にかけていた一人の少女へ引き寄せられた。


 その少女には名前がなかった。


 両親もいない。


 下界の片隅で、一人で生きていた孤児だった。


 私の魂が入ったことで、少女の命は助かった。


 けれど私は魂が砕けていたため、身体を動かすことも、声を出すこともできない。


 残ったわずかな意識で。


 ただ、一つの名前だけを繰り返した。


 月城朔夜。


 彼を探して。


 やがて少女は朔夜のもとへ辿り着いた。


 私は彼女の目を通して、彼と再会した。


 朔夜は長い間、私の亡骸を抱いて泣いていた。


 そんな彼が少女を見た瞬間。


 動きを止めた。


「名前は?」


 少女は首を振った。


「ありません」


 朔夜はしばらくその顔を見つめた。


「……ある人に似ている」


「俺の師匠だ」


「そして、俺が愛した人だった」


「でも、もういない」


 その瞬間。


 私は彼が私に気づいたのだと思った。


 嬉しくて仕方がなかった。


 朔夜は少女を弟子にした。


 そして名前を与えた。


 白峰真白。


 それから二十年間。


 私は真白の身体の中にいた。


 私の残った記憶、感情、仕草。


 それらは少しずつ真白にも影響を与えた。


 好きな食べ物。


 話し方。


 ちょっとした手の動き。


 彼女は少しずつ私に似ていった。


 そして朔夜も。


 少しずつ彼女を見るようになった。


 けれど真白自身は、私の存在を知らなかったわけではない。


 最初は声だけだった。


 やがて彼女は、身体の中に別の魂が存在することに気づいた。


 その魂が神代雪華だということも知った。


 ある日。


 真白は鏡を見つめながら、私に語りかけた。


「雪華様」


「師匠は、いつもあなたを月に例えます」


「誰もが見上げるしかない、遠い月だって」


「でも私も……師匠を照らす光になりたいんです」


 その後。


 真白は魔神の残した力に手を出した。


 それを使って私の意識を完全に封じた。


 そして。


 私が次に目を覚ましたときには、自分の肉体へ戻っていた。


 ただし。


 私はこの二十年間の記憶を失っていた。


 魔神の力によって封じられたためだ。


 自分が死んだこと。


 長い時間を経て復生したこと。


 それだけは分かっていた。


 けれど、その間に自分の魂がどこにいたのかは覚えていなかった。


 だから私は真白を疑わなかった。


 朔夜は、私を復活させるため自分が必死に努力したのだと話した。


 神魂が不安定で神力をすべて戻せない私へ、彼は提案した。


「俺に預けておけばいい」


「雪華が完全に回復したら、すぐ返す」


 私は信じた。


 最初の段階では。


 確かに彼は、ただ預かっていただけだったのだと思う。


 しかし復生してしばらく経つと、私の肉体は少しずつ神力を取り戻せる状態になっていた。


 朔夜は、それに先に気づいた。


 けれど教えなかった。


 私の神力を使えば使うほど。


 自分が強くなっていくから。


 最初は「一時的な預かり物」だった。


 それがいつしか。


 彼の中では「自分の力」に変わっていった。


 私は、彼が復生に尽くしてくれたという言葉を信じた。


 その恩もあって。


 契りの儀を受け入れた。


 そして。


 あの日を迎えた。


 夢から目覚める。


 頬が冷たい。


 手で拭うと。


 掌が真っ赤だった。


 涙ではない。


 血の涙だった。


 長明が人の姿になって、寝台の横で私を見守っていた。


 私は何も言わず机へ向かった。


 指先を血で濡らし。


 契約解除の文書を書く。


 あと一つ。


 朔夜の心臓に最も近い血。


 その一滴さえ得られれば。


 私たちを結んでいた最後の契約も。


 完全に消える。



4



 目を覚ました長明は、私の顔が血だらけなのを見て飛び起きた。


「雪華、大丈夫!?」


 私はその頭を撫でた。


「大丈夫」


「長明、ありがとう」


「ずっと私のそばにいてくれて」


 長明が何か答えようとした、そのとき。


 一筋の光が窓を抜けて入り、手紙へ変わった。


 一か月後。


 仙盟が「昇仙祭」と呼ばれる催しを行うらしい。


 大げさな名前だが、実際には各仙門の若い弟子たちが技を競う大会だ。


 長明は招待状を読み、露骨に顔をしかめた。


「本当に行くの?」


「雪華が眠ってる間、あいつら朔夜に取り入るために何度も仙殿へ押しかけてきたんだよ」


「雪華が各仙門のために書いた魔物対策の書まで燃やした」


「その上、自分で力を捨てて真白に謝れって言った奴までいたんだから」


 私は笑った。


「行くわ」


「もちろん」


「返してもらうものが残っているから」


 昇仙祭の日。


 長明と会場へ入った途端、周囲から囁き声が上がった。


「本当に来た」


「神力もほとんどないのに真白殿を傷つけた女だろ?」


「朔夜様が見逃してやってるのに」


「男を取られた女って怖いな」


 私は聞こえないふりをし、最上席へ座った。


 長明が今にも飛びかかりそうになったので、腕を押さえる。


 焦る必要はない。


 私がいなくなったあと。


 彼らは嫌でも理解するだろう。


 何を失ったのか。


 仙盟の盟主が愛想笑いを浮かべて近づいてきた。


「雪華様、若い者たちの言葉ですから、どうかお気になさらず――」


 最後まで言い終わらなかった。


 強大な気配が空から降りる。


 盟主はすぐにそちらへ駆けていった。


「朔夜様!」


 朔夜は盟主など見もしなかった。


 私の隣へ座る。


 そして当然のように私の頬へ触れようとした。


 私は顔を逸らした。


「雪華」


「昔の俺は、本当にお前の隣にいたいと思ってた」


「でも、お前の光は強すぎた」


 数百年間、胸の奥へ溜め込んでいたものを吐き出すような声だった。


「誰もがお前しか見なかった」


「俺がどれだけ強くなっても、仙尊の弟子、仙尊の恋人」


「いつもお前の付属品扱いだった」


「でも今は違う」


 朔夜が私を見る。


「立場は逆転した」


「だから俺も、一度だけお前に機会をやる」


「まだ俺のそばにいたいなら」


「側室として迎えてやってもいい」


 私は黙っていた。


 昔。


 彼が私の髪を梳いていたときのことを思い出した。


「雪華、もし俺のほうがいつか強くなったら」


「それでも俺をそばに置いてくれる?」


 あのときは、甘えているだけだと思った。


 今なら分かる。


 あの言葉の奥にあったのは。


 ずっと消えなかった劣等感と嫉妬だ。


 私の沈黙を、朔夜は未練だと勘違いしたらしい。


「分かってる」


「お前が俺を手放せるわけない」


「魔神の攻撃まで庇ったくらいなんだから」


 私は笑った。


「一つだけ聞かせて」


「そこまで私の下にいるのが嫌だったなら」


「どうして私を復活させたの?」


「どうして契りの儀までしようとしたの?」


 朔夜はしばらく黙ったあと、突然笑った。


 周囲を神力の結界で包む。


 これで外からは声が聞こえない。


「やっぱり気づいてたのか」


「雪華」


「お前を復活させたのは俺じゃない」


 私は動かなかった。


「魔神が復活すれば、お前もいずれ肉体へ戻った」


「確かに最初は、お前が扱えない神力を俺が預かっただけだ」


「でも復生して間もなく、お前は少しずつ力を取り戻せるようになってた」


「俺は知ってた」


「ただ、言わなかっただけだ」


 心の奥で、何かが完全に切れた。


 朔夜は平然と続ける。


「だって同じだろ?」


「お前が持っていても、世界を守るために使う」


「俺が持っていても、世界を守るために使う」


「だったら、俺が持ってたって何の問題がある?」


 彼にとっては。


 本当にそれで済む話だったらしい。


「でも、お前を好きだったのは本当だ」


「真白のことも、そんなに気にするなよ」


「あの二人は本当に似てる」


「ときどき俺でも分からなくなるくらいだ」


「どちらかが俺のそばにいてくれれば、それでいい」


 そして笑う。


「ただ、お前は少し言うことを聞かなさすぎた」


「だから正妻は真白だ」


 吐き気がした。


 私は千年以上。


 魔神から世界を守ってきた。


 なのに身近にいた一人の男の醜さを。


 今日まで見抜けなかった。


 舌を噛む。


 血の味が広がる。


 朔夜の手を振り払い、神力で卓を吹き飛ばした。


「な――」


 朔夜が目を見開く。


 次の瞬間。


 長明が背後から彼の胸を貫いた。


 空に雷鳴が響く。


 朔夜の顔から余裕が消えた。


 腕の奥に入り込んだ青羽の簪の欠片が。


 青い光を放っている。


 彼の霊脈に溜め込まれていた神力が。


 一筋ずつ。


 私の身体へ戻り始めた。


「月城朔夜」


「私があなたに預けただけの力を」


「いつから自分のものだと思っていたの?」



5



「何をしてる!」


「お前の魂も身体も、まだ完全には戻ってない!」


「今すべての神力を取り戻したら、耐えられないぞ!」


 朔夜が初めて狼狽えた。


 私は空を見る。


 黒い雲が広がり。


 無数の雷光がその中で走っている。


「だからよ」


「今から神界へ昇る」


「昇仙の雷で、魂と肉体を作り直す」


「これ以上、早い治療法がある?」


 朔夜の目が大きく見開かれた。


 第一の雷が落ちる。


 会場にいた者たちが一斉に逃げ始めた。


「行くな!」


「お前の両親は、お前にこの世界を守らせるため――」


「魔神もまた目覚め始めてるんだぞ! お前がいなくなったら――」


 轟音。


 二本目の雷がすぐそばへ落ち。


 朔夜は吹き飛ばされた。


 全身が黒く焦げる。


 私は振り返りもしなかった。


 私の修為は。


 実は五百年も前に、すでに下界で到達できる限界へ達していた。


 ただ魔神を抑えるため。


 ずっと昇仙を拒んでいただけ。


 もう。


 抑える理由はない。


 最後の雷が落ちた。


 壊れていた霊脈がつながる。


 砕けていた魂も、新たな形へ作り直されていく。


 そして天空に。


 神界へ続く光の階段が現れた。


 長明を握り。


 一段ずつ上っていく。


 最後に一度だけ。


 下を見た。


 無数の人々が跪いている。


「仙尊様!」


「行かないでください!」


「魔神が復活します!」


「どうか、この世界をお見捨てにならないで!」


 私は静かにその光景を見た。


 千年以上。


 彼らが私を必要とするとき、私は「仙尊」だった。


 傷つけば、役に立たないと言われた。


 辱められているときには、誰も助けなかった。


 それなのに。


 私が本当にいなくなるとなった途端。


 もう一度、世界を守れと言う。


 私は答えなかった。


 代わりに朔夜を見る。


「そうだ」


「一つ、教えてなかったことがある」


 ちょうど真白が人混みをかき分け、朔夜のもとへ駆け寄った。


「二十年前」


「私が魔神と共に死んだあと」


「私の主魂は、白峰真白の身体に宿っていた」


 朔夜の顔が変わる。


「だから真白は少しずつ私に似た」


「あなたが彼女を初めて見たとき、妙に懐かしく感じたのもそのせい」


 私は彼を見下ろした。


「月城朔夜」


「あなたが好きになったのは」


「本当に白峰真白だったの?」


「それとも」


「彼女の中に残っていた私だったの?」


 朔夜は完全に固まった。


 真白の顔からも血の気が消える。


 次の瞬間。


 朔夜は真白を振り払った。


「そんな……」


 そして私を見上げる。


「雪華!」


「いや……師匠!」


「待ってくれ!」


「俺を置いていかないでくれ!」


「ずっと一緒にいるって言っただろ!」


「まだ俺の中にはお前の神力が残ってる!」


「全部持っていかれたら、俺は――」


「俺も連れていってくれ!」


 私はもう振り返らなかった。


 一つの記音珠だけを下界へ落とす。


 先ほど結界の中で。


 朔夜が私へ語ったすべての言葉が入っている。


 そして。


 毎年、この日になると。


 その内容が仙盟全土へ流れるよう術をかけた。


 これが。


 私から月城朔夜へ贈る。


 最後の贈り物。


 あの世界も。


 朔夜も。


 もう。


 私には関係ない。


 神界へ入った瞬間、周囲の空気そのものが変わった。


 下界とは比べものにならないほど濃い神気が満ちている。


 長明はすぐ人の姿になり、興奮した様子で私の手を引いた。


「雪華!」


「お父さんが僕を下界へ連れていってから、ずっとこっちに戻ってなかったんだ」


「行こう。二人を探しに行こうよ!」


 私は足を止めた。


「ごめん」


「まだ会いたくない」


「長明が会いたいなら、一人で行ってきて」


 長明は一瞬ぽかんとした。


 次には抱きついてきた。


「じゃあ僕も行かない」


「雪華が会いたくないなら、僕だって会わなくていい」


 そのとき。


 昇仙者を迎える役人が慌ててやってきた。


「名前は?」


「神代雪華です」


 相手の持っていた帳面が落ちた。


「か、神代雪華……?」


 何度も私の顔と帳面を見比べる。


「おかしい」


「どうしてもう神界にいるんだ?」


 私は眉を寄せた。


「どういう意味ですか?」


 役人は思わず口を滑らせた。


「戦神の情愛の試練は、まだ終わってないはずなのに……」


 空気が止まった。


「戦神?」


 役人の顔色が変わる。


「ちょっと待っててくれ!」


「南天帝様に確認してくる!」


 そう言って逃げるように走っていった。


 私は長明と目を合わせた。


 そして。


 こっそりあとを追った。


 役人が入っていったのは、巨大な神殿だった。


 外で気配を消していると、中から気だるそうな男の声が聞こえる。


「自力で神界まで来たのか?」


「じゃあ月城戦神の情愛の試練は完全に失敗だな」


「困ったなあ」


「このまま悪念に呑まれたら、誰が神界の裂け目を守るんだよ」


 指が震えた。


 そういうことだったのか。


 両親に置いていかれたことも。


 世界の武器として育てられたことも。


 愛した人に裏切られたことも。


 一度死んだことさえ。


 神界から見れば。


 誰かの「試練」の一部。


 私は笑った。


 怒りすぎて。


 涙まで出てきた。


 そのとき。


 中の男が言った。


「外にいる……神代、だったか?」


「入っておいで」


 長明が剣へ戻る。


 私は神殿の扉を蹴り開けた。


 剣先を。


 玉座に座る男へ向ける。


「あなた?」


「私の人生を、勝手に試練の一部にしたのは」


 男は私を見た。


 そして。


 妙に素直に頷いた。


「まあ、そうなるな」


 私は剣を振り下ろした。



6



 南天帝は片手で長明の刃を受け止めた。


「神代殿」


「話し合おう」


 私は剣を引く。


「何を?」


「他人の人生を勝手に決める前に、私へ一度でも聞いた?」


 もう一撃。


 戦いは神殿全体へ広がった。


 最後には屋根まで吹き飛んだ。


 私はようやく南天帝の肩を斬る。


 しかし同時に、彼の神力で身体を止められた。


 南天帝は肩に刺さった剣先を抜き、疲れたように息を吐いた。


「顔は綺麗なのに、ずいぶん殺気が強いな」


 私は睨む。


「もう一回言ってみて」


「……やめよう」


「少し頭を冷やしてくれ」


 視界が暗くなった。


 次に目を覚ますと。


 閉ざされた修練空間にいた。


「殺気が収まったら出してやる」


 外から南天帝の声がする。


 時間の感覚すら曖昧な場所だった。


 力ずくでは出られない。


 南天帝が時々様子を見に来たが、そのたび私は剣を持って追い回した。


 ある日。


 とうとう彼は観念して座った。


「ちゃんと説明する」


「お前の父親は、元々神界の神官だった」


「勝手に下界へ降りて、お前の母親と結ばれ、お前を作った」


「ところが南淵の封印に異常が起きた」


「父親は神界へ戻り、そこを守るしかなかった」


 私は黙って聞く。


「お前は神界と下界、両方につながって生まれた」


「だから父親が残した因果の一部を背負うことになった」


「そして月城朔夜」


「本来のあいつは、神界の戦神だ」


「だが力が強すぎる上に殺性を抑えられなかった」


「だから記憶と神位を封じ、下界で情愛の試練を受けさせた」


 南天帝は珍しく真面目な顔になった。


「戦神は、一つの世界を壊せるほど強い」


「だからこそ、力を失い、地位を失い、嫉妬や愛欲、喪失や裏切りに晒されても、殺意や支配欲に呑まれない者でなければならない」


「それを確かめる試練だった」


「お前は、その試練に組み込まれた一人でもあった」


 笑えない。


「結果なら?」


「見れば分かる」


 南天帝が肩をすくめる。


「お前は自分の試練を越えた」


「あいつは、一つ残らず間違えた」


 昔の私なら聞いただろう。


 なぜ。


 どうして私が。


 父親の行いの因果を、なぜ子どもが背負うのか。


 朔夜の試練のために。


 なぜ私の人生が必要だったのか。


 けれど。


 もう聞く気にはならなかった。


 理由を聞いたところで。


 失ったものは戻らない。


 なら。


 次に誰かが私の人生を勝手に決めようとしたとき。


 その手を振り払えるほど。


 強くなればいい。


 その瞬間。


 身体の奥で何かが開いた。


 神力が一気に膨れ上がる。


 修練空間を閉じていた封印が。


 自ら崩れた。


 外では南天帝が腕を組んで待っていた。


「早かったな」


 私は答えず外へ出た。


 途端に。


 吐き気を催すような気配が鼻についた。


 普通の臭いではない。


 神魂が悪念に侵食された者が放つ。


 濁った気配。


「雪華!」


 聞き覚えのある声。


 南天帝が私の肩を叩いた。


「言い忘れてた」


「月城朔夜、神界での記憶を取り戻してここまで来たぞ」


「驚いた?」


 私は思いきり睨んだ。


 手にはもう長明がある。


 朔夜は私を見るなり、膝をついた。


 裾をつかむ。


「雪華」


「あのときのことは、俺の本当の意思じゃない」


「神界での記憶もなかった」


「悪念にも侵されてた」


「だから……」


 私は蹴り飛ばした。


 長明の剣先を喉へ当てる。


「あなたがやったんじゃない?」


「じゃあ、私があなたにやらせたの?」


 朔夜の顔が青ざめる。


「謝るなら聞く」


「謝罪まで拒むつもりはない」


「でも聞いたところで」


「私たちが元に戻ることはない」


 彼がまた近づこうとする。


 私は数歩後ろへ退き、鼻を押さえた。


「自分で分からないの?」


「悪念の臭いがひどい」


「近づかないで」


 それでも朔夜は、まるで聞こえていないように私を見ていた。


「雪華、全部思い出した」


「今度こそ大切にする」


「真白なんてどうでもいい」


「俺が愛してるのは、本当にお前なんだ」


 南天帝が横から口を挟んだ。


「真白のことなら、一つ説明しておこうか」


 私と朔夜が同時に見る。


「白峰真白は、元々神界にいた白椿の精だ」


「まだ白椿の精だったころ、戦神だった朔夜に恋をした」


「だが振られた」


「それでも執着を捨てられず、朔夜が情愛の試練へ入ると知って、自分からその世界へ降りた」


「下界へ入ったとき、神界の記憶は封じられた」


「だから最初は本当に、名もない孤児として育った」


「その後、雪華の主魂が身体へ入ったことで死を免れた」


「魔神の力に触れたことで、少しずつ前世の記憶も取り戻したんだろう」


 これで。


 ようやく真白の存在が一本につながった。


 朔夜は必死に言う。


「聞いたか?」


「真白のことだって、本当の俺が望んだわけじゃない!」


 私は剣の腹で彼の頭を殴った。


 朔夜がそのまま倒れる。


 うるさい。


 南天帝が横目で見た。


「もう一つ」


「朔夜の情愛の試練はまだ終わってない」


「もう一度、下界へ戻る必要がある」


 私は彼を見る。


「なぜそこまでして続けるの?」


「昔、殺性を抑えられなくなったからだ」


「試練の中で再び強い悪念に屈すれば、戦神の資格は完全に失われる」


「そのときはもう、南淵にいる悪魂と大差ない存在になる」


 私は急に。


 何もかも嫌になった。


 朔夜だけではない。


 誰かの人生を盤上の駒のように動かすことに慣れた。


 この神界の神々にも。


 私は背を向けた。


 南天帝の声が後ろから飛んでくる。


「両親には会わないのか?」


 足を止めない。


「伝言がある」


「悪かった」


「ただ、あのときはどうしようもなかったって」


 私は笑った。


 十歳の子どもを置いていき。


 千年も一人で世界を背負わせて。


 残った言葉は。


 仕方がなかった。


 ごめんなさい。


 それだけ。


 私は一度だけ振り返った。


「謝れば全部終わるなら」


「神帝なんて必要ないでしょう」



7



 私はしばらく南天帝の神殿に住むことになった。


 数百年間空位となっていた北天帝の座について、五年後に新たな継承試練が行われると聞いたからだ。


 私はその試練に参加することを決めた。


 一方で。


 朔夜は情愛の試練へ戻ることを拒み続けた。


 毎日神殿の前に跪き。


 私へ許しを求める。


 そのうち神界中に知られるようになった。


 ついに我慢できなくなった。


 もう自分で気絶させて下界へ投げ返そう。


 今の私なら。


 朔夜には負けない。


 長明を持って扉を開ける。


 朔夜の目が一気に赤くなった。


「雪華」


「やっと会ってくれた」


「南天帝に何かされたんだろ?」


「本当のお前なら、俺を捨てられるはずがない」


「命までかけて俺を守ったじゃないか」


 まだ。


 それを覚えていた。


 だからこそ。


 なおさら腹が立つ。


「ほかに好きな人ができたなら、それでもいい」


「俺が一番じゃなくてもいい」


「許してくれ」


「そばにいさせてくれるだけでいい」


 私は一歩踏み込み。


 長明を彼の胸へ突き刺した。


 命を奪う深さではない。


 ただ。


 私が受けた痛みを。


 一度くらい知ればいい。


「あなたたちは皆、同じことを言う」


「両親は、わざと私を置いていったわけじゃない」


「南天帝は、わざと私の人生を壊したわけじゃない」


「あなたも、わざと私を傷つけたわけじゃない」


 目が熱くなった。


「じゃあ、私は?」


「私が受けたことは?」


「『わざとじゃなかった』と言えば、全部なかったことになるの?」


 朔夜の目が変わった。


 優しくしても駄目だと。


 ようやく理解したらしい。


 強引に私の腕をつかもうとする。


「お前が俺を愛していても、憎んでいても関係ない」


「絶対に手放さない」


「何度生まれ変わっても、お前と俺は一緒だ」


 もう。


 限界だった。


 長明の腹で彼を殴り、意識を奪う。


 倒れた男を見下ろしながら。


 私は考えた。


 愛が分からない。


 自分が誰を愛しているのかさえ分からない。


 そして。


 愛という言葉を。


 人を縛る理由にしか使えない。


 なら。


 その部分だけ。


 もう必要ない。


 私は朔夜の胸へ手を当てた。


 神界では。


 人が誰かを本当の意味で愛し、共感し、心を結ぶ力を宿す魂の一部を。


 「情魂」と呼ぶ。


 情魂を失っても。


 記憶は消えない。


 怒りも。


 欲望も。


 執着も。


 所有欲も残る。


 ただ。


 本当の意味で誰かを愛し。


 相手の痛みに心を動かされることだけが。


 できなくなる。


 私は。


 朔夜の情魂を引き抜いた。


 あまりの痛みに。


 気を失っていた朔夜が目を開いた。


 身体は動かない。


 私を見上げることしかできなかった。


「あなたは真心が何か分からない」


「誰を愛しているのかも分からない」


「なら」


「その情魂を持っている必要もないでしょう」


「これからも、自分が何をしたのかは全部覚えている」


「痛みも残る」


「でも」


「もう本当の意味で誰かを愛することはできない」


 朔夜の叫びが神殿に響いた。


 情魂が完全に離れた瞬間。


 その目から。


 何かが消えた。


 私は迷わず。


 未完成だった情愛の試練の世界へ。


 朔夜を落とした。


 その直後。


 白峰真白が現れた。


 裂け目の前に立ち。


 朔夜を追うように。


 躊躇なく飛び込んだ。


 私は一度だけ見た。


 好きにすればいい。


 二人とも。


 もう私の前に来なければ。


 それでいい。


 長い間抱えていた怒りが。


 その日。


 少しだけ軽くなった。


 修行の日々が続き。


 二年が過ぎたころ。


 南天帝が突然やってきた。


「朔夜は?」


「まだ試練が終わってなかったんでしょう?」


「下界へ戻したけど」


 南天帝の顔が固まった。


「記憶を消してから?」


 私は黙った。


「……忘れた」


 そして思い出す。


「あと」


「情魂を抜いてから落とした」


 怒鳴られると思った。


 ところが。


 南天帝は笑った。


「よくやった」


 私は首を傾げる。


「朔夜と何かあったの?」


 南天帝の笑顔が消えた。


「昔」


「あいつは殺意を抑えられなくなって、神界の神官を三人殺した」


「その中の一人が」


「俺の妹だ」


 何も言えなかった。


「でも当時の神界の法では」


「俺が個人的な恨みで戦神を処刑することはできなかった」


「だから正式な試練と審判を受けさせるしかなかったんだ」


 そこで一度、言葉を切る。


「ただし」


「雪華」


「お前が勝手に戦神の情魂を抜いたのも、本来は神界の法に触れる」


 私は彼を見る。


「朔夜がお前の住居へ侵入し、無理やり連れ去ろうとした中で起きたことだから重罰にはならなかった」


「だが記録には残る」


「北天帝の継承試練でも、この件は審査されるぞ」


 私は頷いた。


「それでいい」


 自分が勝手に他人を裁いていいとは。


 私も思いたくなかった。



8



 南天帝は、まず南淵へ行ったほうがいいと言った。


 情魂を失った朔夜は、愛する力を失った一方で、欲望と執着、悪念だけがより強くなっている。


 そして南淵には無数の悪魂が封じられていた。


 今の朔夜にとって。


 最も引き寄せられやすい場所だ。


 私はすぐに向かった。


 南淵へ着いた途端。


 二人の人間が目に入った。


 知っている。


 でも。


 ひどく遠い。


 父。


 母。


 千年以上離れて。


 初めて本当の姿を見る両親だった。


 感傷に浸る時間はなかった。


 二人は朔夜と戦っていた。


 明らかに押されている。


 身体中が傷だらけだった。


 母が私に気づく。


「雪華!」


「私たちはいい!」


「封印のほうへ行って!」


「女が一人いる!」


 振り返る。


 白峰真白が。


 南淵の封印を解こうとしていた。


 顔が冷たくなる。


 後で知った。


 情魂を失って崩壊し始めた朔夜の神魂を保つには。


 南淵の悪魂を取り込み続ければいいと。


 朔夜が真白へ教えていたのだ。


 真白も。


 封印を解けば無数の世界がどうなるか知っていた。


 それでも。


 朔夜を救ぶことを選んだ。


 南淵の下には。


 数え切れない悪魂が眠っている。


 解放されれば。


 被害を受けるのは神界だけではない。


 無数の下界まで巻き込まれる。


 朔夜も私を見つけた。


 感情を失ったはずの瞳に。


 一瞬だけ。


 異様な光が宿った。


 それは愛ではない。


 執着だ。


「雪華」


 彼は母の首をつかみ。


 片手で持ち上げた。


「俺と来い」


「来るなら、封印は開けない」


「断るなら」


「南淵の悪魂を全部解放する」


「お前の両親も殺す」


 長明を握りしめた。


「狂ってる」


「絶対に嫌」


 神力を解放した。


 足元から氷が広がる。


 一瞬で。


 南淵全体を凍らせる。


 朔夜の身体も。


 氷に包まれた。


 喉へ向けて剣を突き出す。


 しかし直前。


 真白が飛び込んできた。


 長明が。


 彼女の身体を貫いた。


 真白は朔夜を見つめ。


 自分の霊核に残った最後の力を。


 すべて彼へ渡した。


 氷に亀裂が入る。


 朔夜が逃れる。


 母を捨て。


 真白のほうは。


 一度も振り返らなかった。


 情魂がない。


 昔の記憶から生まれた行動の癖は残っていても。


 もう真白の痛みを。


 自分の痛みとして感じることはできない。


 追おうとした。


 そこへ南天帝が現れた。


「行かないほうがいい」


「今のあいつは、お前を見るほど執着が悪化する」


「別の者に追わせる」


 私は俯いた。


 今回だけは。


 自分にも責任がある。


 父が母を支えながら近づいてきた。


 母の目は赤かった。


 震える手が。


 私の頬へ伸びる。


 私は顔を逸らした。


 手が止まる。


 胸は。


 やはり痛かった。


 千年以上。


 ずっと会いたかった人たちだから。


 でも。


 何もなかったように抱きつくことはできない。


「昔、私を置いていくことを選んだのなら」


「今さら家族だったふりをしなくていい」


 母の目から涙が落ちた。


 父は長く黙ったあと。


 小さく言った。


「それでも」


「今日、助けてくれてありがとう」


 私は背を向けた。


「二人を助けに来たわけじゃない」


「自分が起こしたことの責任を取りに来ただけ」


「何も知らない人たちが、悪魂に殺されないようにするためよ」


 私は剣に乗り。


 その場を離れた。


 背後から。


 母の泣き声が聞こえた。


 けれど。


 その声に応えることはしなかった。



9



 半年が過ぎても。


 朔夜は見つからなかった。


 再び南淵を襲われる前に捕らえる必要がある。


 そこで南天帝が提案した。


 私を餌にする。


 正確には。


 私と南天帝が結婚するように見せかける。


 朔夜の執着なら。


 必ず現れる。


 南天帝に少し別の思惑があることくらい。


 私にも分かっていた。


 けれど。


 今回の事態には。


 私が朔夜の情魂を抜いたことも関係している。


 同意した。


 偽りの婚礼の日。


 朔夜は本当に現れた。


 半年ぶりに見る姿は。


 さらに変わっていた。


 悪念に侵食され。


 左半分の顔が腐っている。


 かつての戦神の面影はほとんどない。


 私は婚礼衣装のまま立ち。


 長明を抜いた。


「月城朔夜」


「一度、私の契りの儀を壊した」


「二度目まで壊すつもり?」


 剣先を向ける。


「大人しく捕まりなさい」


「そうすれば、これ以上傷つけない」


 朔夜は答えなかった。


 神縛りの鎖を取り出す。


 まだ私を。


 無理やり連れていくつもりらしい。


 南天帝が動こうとした。


 私は手を上げて止めた。


「私がやる」


 最初から。


 最後まで。


 私のそばにいたのは長明だった。


 なら。


 この因縁も。


 私たちで終わらせる。


 胸を狙って。


 剣を突く。


 長い戦いになると思った。


 ところが。


 朔夜は避けなかった。


 長明が胸を貫く。


 血が剣を伝う。


 朔夜が膝から崩れた。


 そして。


 目の端から。


 血の涙が流れた。


 情魂を失った彼は。


 もう普通の涙を流せない。


「雪華……」


 声は小さかった。


「ごめん」


「もし」


「最初にお前と出会った俺が」


「悪念にも侵されていない」


「完全な俺だったら……」


「やめて」


 私は遮った。


「もしも、なんてない」


 神縛りの鎖で。


 朔夜の力を封じる。


 そのあと。


 傷だけを治した。


 情が残っているからではない。


 神界の法では。


 罪を裁く前に。


 罪人を死なせてはいけない。


「南淵への侵入」


「悪魂を解放しようとしたこと」


「無数の世界を人質にしたこと」


「結果として封印は破られなかったけれど」


「あなたの神力はすべて剥奪される」


「その後は輪廻へ落とされ」


「二度と神界へ戻ることはできない」


 南天帝が言った。


「待て」


 振り返る。


 彼の顔には。


 いつもの軽い笑いはなかった。


「それでは軽すぎる」


「先に無間の淵へ送る」


「千年だ」


 無間の淵。


 外とは時間の流れが違う。


 そこでは。


 本人が最も苦しんだ記憶を。


 何度も。


 何度も。


 繰り返し体験する。


 朔夜の顔が。


 初めて変わった。


 私は何も言わなかった。


 背を向けた瞬間。


 一滴だけ。


 涙が落ちた。


 長明が人の姿に戻り。


 指で拭ってくれた。


 横を見ると。


 南天帝も。


 こっそり目元を拭っていた。


 見なかったことにした。


 その日。


 神代雪華の過去は。


 ようやく。


 本当に終わった。


 それから数年。


 私は北天帝の継承試練をすべて突破した。


 朔夜の情魂を独断で抜いた件についても審査された。


 結果。


 行為そのものは神界の法に反すると認定された。


 ただし。


 朔夜が私を連れ去ろうとした状況で起きたこと。


 その後、私自身が南淵の危機に責任を持って対応したこと。


 それらも含めて判断され。


 北天帝の資格を失うほどの処分にはならなかった。


 そして。


 長く空いていた北天帝の座に。


 私は就いた。


 継承式の日。


 四方の神域。


 そして無数の世界から。


 人々が集まった。


 かつて。


 女がすべての修士の上に立つことを。


 屈辱だと言った人間がいた。


 今は。


 そんな言葉を口にする者はいない。


 でも。


 それが嬉しいわけではなかった。


 本当に嬉しかったのは。


 初めて。


 自分で選んで。


 ここに立っていること。


 父と母が求めたからではない。


 下界が仙尊を必要としたからでもない。


 誰かの情愛の試練に。


 勝手に組み込まれたからでもない。


 私は。


 自分がここに立ちたいから。


 ここにいる。


 継承式が終わった。


 色とりどりの花が舞い落ちる中。


 南天帝が歩いてきた。


 今日は珍しく。


 きちんとした装いをしている。


 私の前で止まった。


「雪華」


「そろそろ」


「俺と一緒になることも考えてくれないか?」


番外 1


「嫌です」


 継承式の場では。


 一応、南天帝の面子も考えた。


 だから皆の前で。


 それ以上は言わなかった。


 式が終わったあと。


 二人で話す時間を作った。


 南天帝が首を傾げる。


「どうして?」


 私は笑った。


「忘れた?」


「私、かなり根に持つの」


「誰が私を勝手に朔夜の情愛の試練へ巻き込んだの?」


「誰が何の説明もせず、私を修練空間へ投げ込んだ?」


「あなたはずっと上にいることに慣れすぎている」


「自分が正しいと思えば」


「他人の人生を決めることにも抵抗がない」


 私はまっすぐ彼を見る。


「少なくとも今は」


「そういう人を好きにはなれない」


 南天帝は怒らなかった。


 むしろ。


 目が輝いた。


「今は?」


「じゃあ、将来は可能性がある?」


 私は眉を寄せた。


 本人は勝手に喜び始めた。


「分かった」


「昔のことは、これから行動で謝る」


「雪華が本当にいいと思えたとき」


「そのとき答えを聞かせてくれればいい」


 少し考え。


 さらに言う。


「あと」


「いつまでも南天帝って呼ぶの、やめない?」


「距離を感じる」


 私が答える前に。


 長明が鞘から飛び出した。


 人の姿になって。


 私の前へ立つ。


「駄目!」


「雪華は僕のだから!」


 南天帝が眉を上げる。


 長明は腕を広げた。


「やっと一人追い払ったのに、また増えた!」


「僕は反対!」


 少し考え。


 真面目に付け加える。


「でも」


「雪華が自分でこの人を好きになるなら」


「そのときは尊重する」


「どうしてもっていうなら」


「僕が二番目でもいいし」


 私は黙った。


 南天帝も黙った。


 次の瞬間。


 二人が殴り合いを始めた。


 こめかみが痛い。


「二人とも、やめなさい」


 同時にこちらを見る。


 私は冷たく言った。


「私は」


「どちらにも答えていません」


番外 2


 月城朔夜が無間の淵で過ごした千年間。


 彼は。


 同じ記憶を。


 何度も繰り返した。


 神魔大戦の最後。


 私が彼の前へ出る。


 魔神の爪が胸を貫く。


 熱い血が。


 朔夜の顔に飛ぶ。


 彼は私を抱きしめ。


 泣きながら叫ぶ。


 死なないでくれ。


 置いていかないでくれ。


 場面が変わる。


 契りの儀。


 今度は。


 朔夜自身が私の手を離す。


 そして。


 白峰真白を抱く。


 夢の中の真白が。


 彼の胸から顔を上げる。


「師匠」


「本当に分かっていますか?」


「今、抱いているのは」


「白峰真白ですか?」


「それとも」


「神代雪華ですか?」


 最初の五百年。


 無間の淵には。


 朔夜の絶叫が。


 毎日のように響いた。


 後半の五百年。


 声は。


 少しずつ消えていった。


 最後には。


 神魂が裂けていく。


 微かな音しか。


 聞こえなくなった。


 千年が終わる。


 月城朔夜は。


 輪廻へ送られた。


 神界の最終裁定により。


 彼は生まれ変わるたび。


 自分が最も失いたくないものを。


 失うことになった。


 最初の人生。


 裕福な家に生まれた。


 少年時代に両親を失った。


 親族に家も財産も奪われた。


 青年期には妻を失い。


 中年には。


 たった一人の子どもを失った。


 残った人生は。


 一人だった。


 次の人生も。


 その次も。


 同じ。


 かつて奪ったもの。


 壊したもの。


 その因果を。


 神魂が償い終えるまで。


 ずっと。


 何年もあと。


 私は北天帝として。


 下界の一つを視察していた。


 そこで。


 偶然。


 朔夜の転生者を見かけた。


 その人生の彼は。


 小さな酒場で。


 一人酒を飲んでいた。


 ひどく酔っている。


 私は店の前を通り過ぎた。


 その瞬間。


 彼が顔を上げた。


 何度も生まれ変わったはずなのに。


 何かを感じたのかもしれない。


 ふらつきながら。


 店から飛び出してきた。


「……妻よ」


 私の足が。


 ほんの一瞬だけ止まった。


 それだけ。


 また歩き始める。


 長明の剣気が。


 後ろに壁を作った。


 男は追おうとして。


 酔った足で転んだ。


 伸ばした手は。


 何にも届かなかった。


 私は振り返らなかった。


 それが。


 月城朔夜を見た。


 最後だった。





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