9話「特記事項なしと書いていました」
「大臣」
颯は、その言葉を繰り返した。
ゼファが答えた。
「はい。転生管理省の大臣・ミカエルです。転生先の変更は、大臣の最終承認が必要です」
颯が田中を見た。
「じゃあ、その大臣に会いに行きましょう。田中さん」
田中は、折れた肘掛けを押さえたまま頷いた。
ゼファが続けた。
「ただ―」
颯は天井を見た。来た。「ただ」が来た。この天界では全ての文章に「ただし」がつく。一度でいいから「ただ」のない返事を聞いてみたい。
「面会には申請書が必要です。案件の概要書、各課の事実認定書、担当課の承認印―最低五枚。書式は課ごとに違うので、各課で個別に発行してもらう形に―」
「わざわざ各課を回るんですか」
「はい」
「受付時間がバラバラの各課を、一つずつ」
「はい」
颯が聞いた。
「もう一つ聞いていいですか。大臣室はどこにあるんですか」
ゼファが答えた。
「第47課の先の別棟です」
「第47課」
「はい。第1課から順に廊下が続いていまして、一番奥が―」
「47課分の廊下を歩くんですか」
「途中に案内板がありますので、迷うことは―」
「迷う迷わないの問題じゃないです」
田中が口を開いた。
「第47課って、窓口からだと一番遠いですよね。苦情を言いたい人が一番たどり着きにくい場所に、大臣室がある」
颯は田中を見た。
「……それ、わざとですか」
「いや、たぶんわざとじゃないです。こういうのは設計した人が使う人のことを考えてないだけで」
「田中さん、それ怒ってますか」
「怒ってないです。感想です」
「怒ってください」
颯がゼファに聞いた。
「大臣は、この状況を知ってるんですか」
ゼファが、少し黙った。
「各課の月次報告を全て確認しました。田中様が魔王に配属された月も、全課一律で―」
「『特記事項なし』ですか」
「はい。各課とも、自分の処理は完了しているので、報告する特記事項がないんです」
田中が、小さく頷いた。
「ああ、わかります。処理が終わった案件は特記に―」
「わからないでください」
「……すみません」
「大臣に届いてるのは、毎月『特記事項なし』の束だけ。就任から12年間、直接面会に来た人はゼロ。つまり大臣は何も知らない」
「おそらく、そうです」
颯はテーブルに肘をついた。
前世の就活を思い出した。商学部の4年生だった。ゼミでは組織論をやっていた。面接で「御社の組織課題を分析し、業務フローの改善に貢献したい」と言った。嘘だった。面接用に暗記しただけだった。内定を五つもらった翌日に、トラックに轢かれて死んだ。
でも今、本当に組織が壊れている場所にいる。業務フローが破綻している場所に。勇者の剣で魔物は斬れる。でも書類は斬れないし、制度は壊せない。ここでは勇者のスキルが全部役に立たない。田中のそば打ちと同じだ。
そう思った瞬間、颯は少しだけ、田中の気持ちがわかった気がした。
「エリエルさん」
エリエルが顔を上げた。
「こういう案件、他にもあるんですよね」
エリエルが、膝の上の書類の束を少しだけ持ち上げた。
「……少なくとも、11件。全件、処理が止まっています」
「11件」
田中が、ゼファの図から目を上げた。
「……他にもいるんですか」
「はい」
「俺みたいに、間違った場所にいる人が」
「はい」
田中は黙った。
颯は、田中の横顔を見ていた。さっきまで椅子が六脚あることに感動して、冷めたお茶を「美味しい」と言っていた男の顔ではなかった。赤い目が、何かを掴もうとしていた。
「大臣に、会いに行きます」
颯は黙って待った。田中が自分から「行く」と言ったのは、初めてだった。天界に来たのは颯が誘ったからだ。特別窓口に通されたのは別の天使のおかげだ。ゼファが調べてくれた。全部、誰かが先に動いた。今、初めて、田中が先に動いている。
「俺の案件だけじゃないなら―制度を作った人に、直接言わなきゃいけない」
颯は、この人を見てきた時間を思い返した。受付終了、整理番号、欠けた茶器、12通の苦情申請書、自動音声、ガザンの前で引き返した夜。全部、一人で抱えていた。一人で抱えて、誰にも怒らなかった。
その人が、初めて「言わなきゃいけない」と言った。
田中が立ち上がった。
ばきり、と音がした。
椅子の脚が、一本折れた。田中が「あっ」と振り返った。折れた脚を拾い上げて、テーブルの端に丁寧に揃えて置いた。肘掛けの隣に。
「……すみません」
颯が言った。
「いいので、続けてください」
「あの、修理の申請書って―」
「いりません、田中さん」
「でも、備品なので―」
「今、大臣に会いに行く話をしてます」
「……すみません」
田中が、ゼファに向き直った。
「面会申請書、五枚必要なんですよね。各課の承認印もいる」
ゼファが頷いた。
「はい。ただ、各課の受付時間がバラバラで、一日で全て回るのは―」
「大丈夫です」
田中が、鎧の内側からペンを取り出した。もう構えている。
「各課を回るのは慣れてます。毎日やってたことなので」
颯は笑いそうになった。書類のミスで人生を壊された男が、書類を武器にして立ち上がろうとしている。
「田中さん。スキル欄に『書類処理』はなかったですよね」
「なかったです」
「持ってないスキルが一番使えるの、おかしくないですか。そば打ち名人より、よっぽど役に立ってます」
「そば打ちも、そば粉があれば―」
「そば粉の話はしてないです」
颯がゼファに聞いた。
「面会申請書の書式は―」
ゼファが首を振りかけた瞬間、エリエルが書類の束から一枚引き抜いた。
「あります」
全員が振り向いた。
「……クレーム処理で各課を回るので、書式は一通り集めてあります」
颯はエリエルを見た。ヨレヨレの翼。充血した目。書類に埋もれた小さな体。この人はずっと、誰にも評価されず、たらい回しにされながら、書式を集めていたのだ。
「エリエルさん」
「はい」
「有能だったんですね」
エリエルが、眼鏡の奥で目を見開いた。
「……管轄内のことは」
それだけ言って、俯いた。耳が赤かった。




