7話「椅子がある、と魔王は言いました」
特別窓口の天使に案内されて、廊下を歩いた。
白い廊下。等間隔に並んだ扉。天井から柔らかい光が降りている。どの扉にも番号が振られていて、一定間隔で案内板が壁に掛かっている。
役所だ、と颯は思った。神聖でも荘厳でもない。これは、役所だ。
すれ違う天使たちが、田中を見て道を空けた。壁際に張りつくようにして、田中が通り過ぎるのを待っている。一人の天使が書類を取り落とした。田中は立ち止まって拾おうとしたが、天使が「だ、大丈夫です」と後ずさって自分で拾った。田中は「すみません」と小声で言った。
颯は、その背中を見ていた。
黒い鎧。広い肩幅。頭の先の角が天井の照明にぎりぎり届かない高さを、かがみながら歩いている。すれ違う天使はみんな怯えているが、田中自身は慣れた足取りだった。
この人は、ずっとこうだったのだろう。どこに行っても怖がられて、自分が謝って、何も解決しないまま次の場所に移動する。4年間、ずっと。
「こちらです」
特別窓口の天使が、一つの扉を開けた。
会議室だった。
白いテーブル。椅子が六脚。窓があり、金色の空が見えた。壁には天界の紋章が飾られている。清潔で、静かで、誰もいない部屋。
田中が、足を止めた。
「……椅子がある」
「はい。あります」
「六脚も」
「会議室ですから」
「すごいですね」
「すごくないです、田中さん」
田中は椅子を一脚ずつ見ていた。どれも同じ白い椅子だったが、田中は丁寧に眺めていた。
「玉座しかなかったので。椅子が複数あるの、久しぶりです」
颯は黙った。笑っていいのか、悲しんでいいのか、わからなかった。田中と会ってからずっとこの感覚が続いている。
田中が、椅子に座った。
ミシ、と音がした。
椅子が小さかった。天界の椅子は天使用に作られていて、身長2m超の魔王が座ることは想定されていない。膝がテーブルの裏に当たった。テーブルが持ち上がりかけた。
「あっ―すみません」
田中が慌てて膝を引いた。椅子の肘掛けが、ぱきり、と鳴った。
「……すみません」
「田中さん、動かないでください。被害が広がります」
田中は肘掛けを片手で押さえながら、申し訳なさそうに背筋を伸ばした。角が天井の照明にぎりぎり届かない高さで止まっている。
颯は田中の正面に座った。エリエルはテーブルの端に、書類を広げて座った。
特別窓口の天使が、盆にお茶を三つ載せて戻ってきた。テーブルに置いた。湯気が上がっている。
田中が、茶器を見ていた。
「……欠けてない」
「欠けてないです」
「きれいですね」
「普通です、田中さん」
颯は自分の茶器を持ち上げた。温かかった。
魔王と勇者が、天界の会議室でお茶を飲んでいる。テーブルの端で天使が書類を整理している。窓の外は金色の空。お茶は美味しい。椅子は座り心地がいい。
何一つ間違っていないのに、全部おかしい。
颯は茶を飲んだ。こんなはずじゃなかった。転生して、旅をして、魔王城にたどり着いて、そこから先の人生は「勇者として讃えられる」か「魔王に負けて死ぬ」かの二択だと思っていた。「魔王と仲良くお茶を飲む」という選択肢は、なかった。
でも目の前の田中を見ていると、怒る気にもならない。椅子が六脚あることに感動して、欠けていない茶器に「きれい」と言って、冷めたお茶を姿勢よく待つ男。この人に剣を向けていた二時間前の自分が、信じられなかった。
「担当者をお呼びしますので、少々お待ちください」
特別窓口の天使が、そう言って扉を閉めた。
静かになった。
颯は茶を一口飲んだ。田中も飲んだ。エリエルは書類をめくっていた。
窓の外の金色の空が、ゆっくりと暮れ始めていた。
「……どのくらい待ちますかね」
「こういう場合、担当者が見つかるまでに早くて半日、遅いと―」
「半日」
「はい。窓口の引き継ぎは書類のみで口頭説明がないので、担当者が自分の担当だと気づくまでに時間が―」
「気づかないんですか」
「気づかないことの方が多いです」
颯はテーブルに額をつけそうになった。
「エリエルさん、何か早める方法はないんですか」
「私から担当課に連絡を―あ、でも、電話は繋がらないかもしれません」
「知ってます」
田中が、お茶をもう一口飲んだ。
「美味しいですね、このお茶」
「田中さん、落ち着きすぎです」
「すみません。待つのは慣れてるので」
颯は椅子の背もたれに深く沈んだ。天井を見た。白い天井。染み一つない。魔王城の天井とは違う。ここには焦げた跡も、照明の破片も、角がぶつかった傷もない。
でも、ここで田中を助けてくれる人は、まだ一人も現れていない。
どのくらい経っただろうか。
お茶が冷めた。田中は姿勢を崩さなかった。颯は三回ため息をついた。エリエルは書類の山を二つの束に仕分け終えていた。
田中が、冷めたお茶を飲んだ。
「美味しいですね。冷めても美味しい」
颯は天井を見た。この人を怒らせることは、たぶん誰にもできない。
扉が、開いた。
天使が一人、入ってきた。
若い顔。翼は小さいが、整っている。手に一枚の紙を持っていた。
天使は三人を見た。田中を見た。角を見た。赤い目を見た。黒い鎧を見た。
怯えなかった。
代わりに、深く頭を下げた。
「申し訳ありません」
会議室に、その声だけが落ちた。
颯は顔を上げた。田中の手が、茶器の上で止まっていた。
天界に来て、初めて聞く謝罪だった。




