23話「少々お待ちください、と魔王は言いました」
「田中さん。あなたの案件について―」
ミカエルが、書類を机の上に広げた。五枚の申請書と、一枚の複写。
「転記ミス、配属ミス、スキル付与ミス、最終チェックの不備。四つのミスが重なって、あなたは農村ではなく魔王に配属された」
「はい」
「4年間、誰も是正しなかった」
「はい」
ミカエルが、目を閉じた。
「全て私の責任です」
部屋が、静まった。
「月次報告に『特記事項なし』と書いてあったことを、疑わなかった。現場に足を運ばなかった。12年間、この部屋に座って、承認印を押していただけだった」
ミカエルが、頭を下げた。
「本当に申し訳ありませんでした」
田中が、困っていた。
謝られ慣れていなかった。天界に来てから、ゼファが最初に謝ってくれた。でもあれは調査結果に対する謝罪だった。これは違う。組織のトップが、自分の不作為を認めて頭を下げている。
「あの、頭を上げてください」
「いえ。上げられません」
「ミカエルさん―」
「あ、その前に一つ確認なんですが」
ミカエルが顔を上げた。目が真剣だった。
「動画とか、録音とかしてませんよね」
「……してないです」
「本当ですか。最近、発言を切り取られて拡散されるケースが―」
「してないです。鎧の中にカメラは入ってないです」
「そちらの小さい天使の方も―」
ルカが首を振った。
「してないです」
「眼鏡の方は―」
エリエルが書類の束を持ち上げて見せた。録音機器が入る隙間がないことを示していた。
「すみません。つい確認する癖が……」
颯が口を挟んだ。
「ミカエルさん。謝罪を聞いた上で言いますけど、録音の心配をするのは今じゃないです」
「そうですよね。すみません。―では、改めて」
ミカエルが姿勢を正した。
「田中さんの転生先を修正します。農村への変更を、大臣権限で承認します」
ミカエルが、机の上の承認印を見た。
手が伸びた。赤い印に。止まった。青い印に伸びた。止まった。
「……」
「どうしました?」
「転生先変更の承認印は―今まで押したことがないので―」
颯が机を見た。承認印が十数個並んでいる。
「今まで何を押してたんですか」
「月次報告の確認印と、人事異動の承認印と、予算執行の承認印が主で―転生先の変更は前例がないので―」
エリエルが一歩前に出た。
「左から三番目の、金の印です。大臣決裁用の特別承認印です」
「……エリエルさん、なんで知ってるんですか」
「各課の書式を集めたときに、承認印の一覧も確認しました」
ミカエルが金の印を取り上げた。
「ありがとうございます。―あ、これでよかったんですよね。押し間違えたら大変なことに―」
「大丈夫です。合ってます」
ミカエルが、印をインク壺に押しつけた。
少し安心したのだろう。表情が緩んだ。12年分の孤独が決壊したように、口が動き始めた。
「いやあ、12年ぶりに人と話すと緊張しますね。―あ、よかったら今度、食堂でご一緒しませんか。親睦を深める意味で―」
颯が黙った。
「―なんなら、私の手作りの焼き菓子をお持ちしましょうか。趣味で焼いてるんです。ミカエル特製クッキー、そうだみんなでチャットのグループ作りましょうか―」
部屋が、静まった。
田中が黙っていた。颯が黙っていた。ルカが黙っていた。エリエルが黙っていた。ゼファが黙っていた。
五人分の沈黙が、大臣室を埋めた。
「……もしかして何かのハラスメントになってます?」
「ハラスメント以前の問題です」
颯が言った。
「もう一個あるんですけど―」
「ないです。ないことにしてください」
「天使ジョークっていうんですけど、翼があるのに話が飛ば―」
「ミカエルさん」
「はい」
「承認印、押してください」
ミカエルが少し縮んだ。
「……12年間、誰とも話さないと、人との距離感がわからなくなるんです」
「わかりました。でも距離感は、今後ゆっくり取り戻してください」
ミカエルが金の印を持ち直した。書類の上に、手を伸ばした。
田中の転生先変更承認書。ここに印を押せば、田中は農村に行ける。体やスキルなどのスペックも変更され、魔王城を出て、角のない生活を始められる。これでやっと耐え続けてきた4年間が、終わる。
颯は、田中を見た。
田中は書類を見ていた。自分の名前が書いてある書類。自分で書いた字。各課の承認印。傾いているもの。まっすぐなもの。ゼファが書いてくれた丁寧な字。
ミカエルの手が、書類に近づいた。
「少々お待ちください」
田中の声だった。
ミカエルの手が、止まった。
颯が、振り返った。
田中は、立っていた。椅子から立ち上がっていた。いつの間にか。
赤い目が、ミカエルを見ていた。穏やかだった。でも、揺れていなかった。
「田中さん?」
「ミカエルさん。一つ、聞いてもいいですか」
「はい」
「エリエルさんの記録に、俺と同じような案件が他にもあると聞きました」
颯は、息を止めた。
「俺の他にも、いるんですよね。転生ミスの被害者が」
ミカエルの手が、書類の上で止まったままだった。
金の承認印が、宙に浮いている。
「俺一人の案件を直しても―他の人たちは、まだそのままですよね」
部屋が、静まった。
田中の声だけが、大臣室に落ちた。
「少々お待ちください」
二度目だった。
同じ言葉。でも、意味が違った。
一度目は、止めるための言葉。二度目は、待ってもらうための言葉。全部を、一緒に解決するまで。




