22話「ハラスメントになりかねないんです、と大臣は言いました」
扉が開いた。
門番が立っていた。
「大臣が、お会いになります」
五人が、中に入った。
広い部屋だった。天井が高い。窓が大きく、金色の光が差し込んでいる。壁には天界の紋章。床は白い石。大臣の執務室にふさわしい、荘厳な空間―
のはずだった。
机の上に、承認印が並んでいた。
赤い印、青い印、黒い印。大小さまざまな承認印が、整列して置かれている。その横に、印鑑台が三つ。インク壺が五つ。使い込まれている。
それ以外に、机の上には何もなかった。
書類がない。ペンがない。メモがない。
承認印だけが、ずらりと並んでいる。
机の向こうに、天使が一人、座っていた。
大きくはなかった。むしろ小柄だった。翼は大きいが、肩が内側に入っている。姿勢が良くない。目の下に隈がある。
颯が想像していた「大臣」とは、違った。威厳も、圧も、なかった。
天使が、五人を見た。
田中を見た。角を見た。赤い目を見た。黒い鎧を見た。
怖がらなかった。
代わりに、立ち上がった。
「―よく、ここまで来られましたね」
声が、震えていた。怖がっているのではなかった。
「12年ぶりです。誰かが、この部屋に来てくれたのは」
颯は、黙った。
「転生管理省大臣のミカエルです。どうぞ、お座り―」
ミカエルが言いかけて、止まった。
「あ、座ってください、は強制になりますか。もし立ったままの方がよろしければ―」
「いえ、せっかくなんで座らせてもらいます」
颯が言った。
「それではお茶を―いや、お茶を出すのも、望まない接待になる場合が―」
「お茶、いただきます」
「本当に大丈夫ですか。アレルギーとか―温度の好みとか―カフェインは―」
「なんでもいいです。大丈夫です」
ミカエルが少し安堵した顔をした。お茶を用意し始めた。手が少し震えていた。
田中は、椅子を見ていた。大臣室の椅子は、他の課より大きかった。座ってみた。膝がテーブルに当たらなかった。
「……座れます」
「よかったですね」
「はい」
田中が少し嬉しそうだった。颯はもう何も言わなかった。
ミカエルがお茶を置いた。五人分。自分の分はなかった。
「大臣は飲まないんですか」
「あ、一緒に飲むと、飲酒の強要と同じ構造になるかと―」
「お茶ですけど」
「よろしいのですか。すみません」
ミカエルが自分の分を淹れた。手が震えていた。お茶が少しこぼれた。
「すみません。緊張して―」
「大丈夫です。こぼすのは俺もよくやります」
田中が言った。ミカエルが田中を見た。
「あの―田中様、ですよね。書類を拝見しました」
「はい」
「転記ミスから始まって、配属ミス、スキル付与ミス、最終チェックの不備。全部読みました」
ミカエルの目が、赤くなっていた。
「知りませんでした。こんなことが起きているとは―月次報告にも、何も―」
「特記事項なし、ですよね」
「はい。毎月、全課から『特記事項なし』が届いていました。おかしいとは思っていたんです。47もの課があって、毎月何も起きないわけがない」
「……気づいてたんですか」
颯が言った。
「気づいていました。でも―」
ミカエルが、机の上の承認印を見た。
「各課に確認しに行こうとしました。でも、大臣が直接課を訪問すると『圧力をかけに来た』と受け取られるかもしれない。ヒアリングを実施すれば、忙しい職員の時間を奪うことになる。メールを送れば、大臣からの指示だと萎縮させてしまう」
ミカエルが、胃のあたりを押さえた。
「何をしても、ハラスメントになりかねないんです」
颯は黙った。
田中が、ミカエルを見ていた。
「……胃、痛いですか」
「え?」
「今、押さえてました」
「あ……はい。ストレスで。胃薬が手放せなくて」
ミカエルが引き出しを開けた。胃薬の箱が三つ入っていた。
「あと、最近抜け毛が―すみません、こんな話」
「大丈夫です。聞きますよ」
颯が口を開いた。
「田中さん」
「はい」
「俺たちが相談に来たんです」
「わかってます。でも、ミカエルさんも―」
「田中さん」
「はい」
「ミカエルさんは、大臣です。田中さんの転生を直せる唯一の人です」
「わかってます」
「わかってて、抜け毛の相談を聞くんですか」
田中が少し困った顔をした。
「……目の前で困ってる人の話を、途中で切れないんです」
颯は天井を見た。
ミカエルが、田中を見ていた。
「田中様―」
「田中でいいです」
「田中さん。あなたは、前世で窓口のお仕事をされていたんですよね」
「はい」
「こうやって、親身になって話を聞いてもらったのは久しぶりです」
「そうですか」
「はい。目を見て、頷いて、途中で遮らない。―この12年間、誰もそうしてくれなかった」
ミカエルの声が、少し震えた。
「私は陰で何と呼ばれているか、知っています。ペッタン製造機、と」
田中が、少し目を見開いた。
「承認印を押すだけの機械だと。私もそう思います。実際、毎日やっているのは、承認印を押すことだけですから」
ミカエルが、机の上の承認印を一つ持ち上げた。
「この印を、毎日何十回も押しています。中身を読まずに。読んでも、特記事項なしと書いてあるだけだから」
颯は、何も言えなかった。
田中が、口を開いた。
「ミカエルさん」
「はい」
「俺も、同じことを思ったことがあります」
「同じ?」
「処理票にハンコを押すだけの毎日で。中身を見ても、同じような申請が続いて。自分が何のためにここにいるのかわからなくなって―」
「……はい」
「でも、あなたのそのハンコ一つで、誰かの転生先が決まるんですよね」
ミカエルの手が、止まった。
「田中さん。そろそろいいですか」
颯が言った。
「……はい」
「ミカエルさん。田中さんの案件の話をさせてください」
ミカエルが頷いた。引き出しから書類を取り出した。田中の五枚の申請書と、一枚の複写。
「先ほど全て目を通しました。田中さん。あなたの案件について―」




