2話「残業明けの天使が来ました」
天井が、光った。
光は一点から広がり、玉座の間を白く塗りつぶした。柱の影が消えた。赤い照明が霞んだ。颯は剣に手をかけた。田中は玉座に座ったまま、まぶしそうに目を細めている。
光の中心から、何かが降りてきた。
翼が見えた。白い翼。広間に羽根が舞い散る。天使だ。勇者として転生したとき、こういう存在がいると聞いていた。神に仕え、世界の秩序を守る者―
光が消えた。
颯の目が、慣れた。
翼は―ヨレヨレだった。
羽根が何本か折れている。片方の翼が明らかに左に傾いている。黒縁の眼鏡。その奥の目は充血していて、寝ていないことが一目でわかった。両腕に書類の束を抱えている。量が多すぎて顎で押さえている。
「あ……」
天使が口を開いた。
「お、お取り込み中でしたか。すみません、規則上、苦情案件は現地確認が必要でして―」
書類が一枚、腕から滑り落ちた。天使が慌てて拾おうとして、残りの束が崩れた。紙が床に散らばる。
田中が、玉座から立ち上がった。
「大丈夫ですか」
しゃがんで書類を拾い始めた。魔王が。天使の書類を。
天使は一瞬固まり、それから颯には信じられない速度で書類を回収し始めた。慣れている。この人は書類を散らばすことに慣れている。
「ありがとうございます。あの、田中誠様ですね。転生管理省第38課、クレーム処理担当のエリエルと申します」
「あ、はい。お世話になっております」
颯は、二人を見た。
魔王と天使が、床に座って、紙を仕分けている。
「ちょっと待ってください」
颯の声が裏返るのは、今日二度目だった。
「クレーム処理って何ですか。何のクレームですか」
エリエルが眼鏡を直した。
「田中様から提出された苦情申請書の件で―」
「苦情申請書」
「はい。転生先の不一致に関する異議申し立てです」
颯は田中を見た。田中は書類を揃え終えて、膝の上で手を組んでいた。
「……田中さん。転生先の不一致って、どういうことですか」
田中が、少し間を置いた。
「俺、本当は農村に転生するはずだったんです」
「農村」
「はい。転生のとき、希望を書く申請書があって。そこに『農村希望』って書きました」
田中が、鎧の内側に手を入れた。ごそごそと探って、紙を引き出す。
「これが、俺が出した申請書の控えです」
颯は受け取った。たしかに「農村」と書いてある。丁寧な字だった。
「で、これが、第3課で処理された処理票です」
二枚目を受け取った。
「魔村」と書いてあった。
「……農が、魔になってる」
「はい。転記ミスです。備考欄に『申請書の通り転記』って書いてあるので、転記した人は間違えたことに気づいてないです」
「気づいてない?」
「はい。本人は正しく写したと思ってます」
颯は二枚の紙を見比べた。
「……これだけで魔王になるんですか?魔村って、魔族の村ですよね。村人とかになるんじゃ―」
「そこが、もう一つのミスなんです」
田中が、三枚目の紙を取り出した。鎧の内側に何枚入っているんだ、この人は。
「処理票が第3課から配属課に回ったとき、『魔村』を見て、魔族関連の案件に分類されました」
「まあ、そうなりますよね」
「はい。で、魔族カテゴリの空きポストを検索したんです」
「……空きポスト」
「空いてたのが、一つだけで。魔王だったんです」
颯は、紙を持つ手が止まった。
「空きが魔王しかなかったから、魔王に入れた?」
「はい。配属課の規則で、空きがあるポストに優先的に配属することになっていて―」
「待ってください」
「はい」
「それ、おかしくないですか。魔王ですよ?普通、確認しません?」
田中が、少し黙った。
「……配属課からすると、処理票に担当課の承認印が押してあるので、書類上の不備はないんです」
「不備はあるでしょう」
「はい。でも、配属課が確認するのは『書類に不備があるかどうか』で、『内容が正しいかどうか』じゃないんです」
颯は口を開きかけて、閉じた。
開いて、もう一度閉じた。
「……田中さん」
「はい」
「なんで天界のシステムに詳しいんですか」
「前世が、市役所の窓口だったので」
颯は天を仰いだ。天井には、さっきの光の残滓がうっすら漂っていた。
「わかるんです、ロジックは。書類に承認印が押してあったら、中身を見ないで次に回す。どこの役所もそうです。悪意はないんです。誰も悪くない。ただ―」
「ただ?」
「結果だけ、おかしくなるんです」
田中の声は穏やかだった。
怒っていなかった。4年間、書類のミスが重なって魔王をやらされた男が。自分を魔王にした側のロジックを、丁寧に説明していた。
「田中さん」
「はい」
「被害者が加害者をフォローしないでください」
田中が、少し困ったように笑った。赤い目で。角を生やしたまま。
「すみません。癖で」
颯は黙った。
この人は、窓口で何年もクレームを受けてきた人だ。理不尽を受ける側の人間が、理不尽を与える側の論理を一番よく知っている。知っているから怒れない。怒れないから、4年間、ここにいた。
「……まだ、あるんですか」
「はい。スキルの話もあります」
「スキル」
「見ますか?」
田中が、鎧の内側から、もう一枚紙を取り出した。




