19話「すみませんを禁止しました」
扉を開けた。
広かった。
他の課とは比べものにならない。書棚が壁を埋め、床にも書類の箱が積まれ、天井近くまで棚が伸びている。通路の幅は人一人分しかない。
田中が入口で止まった。
角が引っかかった。かがんで入った。鎧の肩幅が通路ぎりぎりだった。
奥に、窓口のカウンターが見えた。
カウンターの前で、天使が一人、揉めていた。
「ですから、書式が違うんです」
窓口の天使が言った。声が疲れていた。
「でも、これ、ここでもらった書式ですよね」
「はい。ただ、先月から新書式に変わりまして」
「新書式はどこでもらえるんですか」
「第33課の窓口です」
「ここですよね」
「はい」
「ここでもらった書式が、ここで使えないんですか」
「旧書式の在庫がまだ残っていまして、そちらを間違ってお渡ししてしまったようで……申し訳ありません」
「じゃあ新書式をください」
「はい。ただ、新書式の配布には、書式変更届の提出が―」
「書式を変えるのにも届がいるんですか」
「申し訳ありません……」
颯はそのやり取りを聞いていた。隣を見た。
田中が、深く頷いていた。
目を閉じて、腕を組んで、何かを噛みしめるように頷いていた。
「田中さん」
「……わかります。これ」
「共感しないでください」
「してないです。ただ、この構造は―書式の切り替え時期に旧版を配ってしまうの、窓口あるあるで―」
「共感してます」
「……」
揉めていた天使が、諦めたように帰っていった。窓口が空いた。
田中がカウンターに向かった。通路を歩く。書棚の角に鎧が当たる。本がずれる。「すみません」。また当たる。「すみません」。三回目で颯が後ろから本を押さえた。
カウンターの前に立った。
窓口の天使は、下を向いていた。書類を処理している。ペンを走らせる手が速い。忙しそうだった。
「あの―」
「番号札をお取りください」
顔を上げなかった。
田中が振り返った。番号札の機械は、入口の横にあった。さっき通り過ぎていた。
「……取ってきます」
田中が戻った。通路で書棚に二回ぶつかった。番号札を取った。また戻ってきた。書棚に二回ぶつかった。颯はまた押さえた。わかっている。わざとではない。でも無意識に舌打ちが出た。
「482番です」
田中が番号札を出した。窓口の天使が電光表示を操作した。
「482番の方―」
顔を上げた。
田中と目が合った。
天使の手が、止まった。
ペンが、指から滑り落ちた。机の上を転がって、床に落ちた。
「…………」
「…………」
沈黙が、長かった。
颯は、防犯ベルがないか確認した。見当たらなかった。ここの天使は、防犯ベルを設置する暇もなかったのだろう。
天使の目が、田中の角を見た。赤い目を見た。黒い鎧を見た。身長を見た。もう一度角を見た。
口が開いた。閉じた。また開いた。
「…………あの」
「はい」
「……ま……」
来る、と颯は思った。「魔王」だ。いつものパターンだ。
「……お待たせして、すみません」
颯は、二度見した。
怖がっている。明らかに怖がっている。声が震えている。目が泳いでいる。でも出てきた言葉が「お待たせしてすみません」だった。
田中が、一瞬固まった。
それから、少し姿勢が変わった。窓口の椅子に座っていたときの姿勢。膝の前で手を組む仕草。
「いえ、こちらこそ。お忙しいところすみません」
「いえ、すみません。順番にお呼びするべきでした」
「いえ、番号札を取り忘れたのは俺の方なので」
「そんな、すみません」
「すみません」
「すみません」
颯は天井を見た。
終わらない。
「二人とも」
田中と天使が、同時に振り返った。
同じ角度で首を傾けていた。
颯は、見覚えがあった。ルカと田中が同時に動いたときと同じだ。また同じタイプがいる。
「すみませんを禁止します」
「す―」
田中が口を開きかけて、閉じた。天使も口を開きかけて、閉じた。
二人とも、「すみません」を言おうとして止められた顔をしていた。
ルカが、颯の横で小さく頷いていた。
「……似てますね」
「似てます」
「ちょっと悔しいです」
「少し黙っててください」
颯は、三人を見た。田中、ルカ、そしてこの天使。天界にも人界にも魔界にも、同じ種類の人間がいる。気弱で、真面目で、謝りすぎて、自分より相手を優先して、限界まで一人で抱える。
「書類、出していいですか」
颯が言った。もう仕切るしかなかった。
田中が鎧の内側から同行者届を取り出した。カウンターに置いた。
天使が書類に目を落とした。確認を始めた。手はまだ少し震えていたが、書類を見ている間は落ち着いていた。仕事をしているときだけ、震えが止まる。
田中も、同じだった。書類を書いているときだけ、この人は揺るがない。
「不備、ないです」
「ありがとうございます」
天使が口を開いた。閉じた。すみませんを禁止されていることを思い出した顔だった。
「……お、お大事に…」
代わりに出てきた言葉がおかしかった。
天使が承認印を押した。四枚目。
「……次は、複写ですよね」
颯が言った。
天使の顔が、曇った。
田中の顔も、少し変わった。
二人が、同時に口を開いた。
「複写は―」
声がそろった。
颯は、もう何も言わなかった。




