18話「剣より頼もしかったです」
食堂を出た。
廊下を歩く。朝の出勤時間だった。
田中が歩き始めると、昨日と同じように左右に道ができた。壁に張りつく天使。目を逸らす天使。田中が「すみません」と小声で言う。
ただ、いつもと違うことが一つあった。
囁き声が、多い。
田中が通り過ぎたあと、天使たちが何かを話している。ちらちらとこちらを見ながら。昨日は見ることすらしなかった。今朝は、見て、話している。
颯の耳に、断片が届いた。
「―食堂で、料理を―」
「―断れなかったって―」
「―あの二人の天使も―」
颯は足を止めなかった。何か、嫌な予感がした。
ルカが先頭を歩いている。小柄な天使が先導して、その後ろを魔王が歩く。さらに後ろにエリエルが書類を抱えて続く。
すれ違った天使が、ルカを見た。それからエリエルを見た。目に同情の色があった。
「……ルカさん。なんか、今、見られてませんでした?」
「え?」
「エリエルさんも見られてました」
エリエルが眼鏡を直した。
「……もしかして、食堂の件が―」
「広まってますよね。しかも何か違う話になってる」
角を曲がったところで、天使が二人、壁際で話しているのが聞こえた。
「―魔王が食堂の職員を脅して、フルコースを出させたって―」
「―あの小さい天使と眼鏡の天使、無理やり手下にされたらしい―」
颯は立ち止まった。
田中も聞こえていた。
「……脅してないです」
「知ってます」
「フルコースは頼んでないです」
「知ってます」
「パンとスープしか―」
「田中さん。俺に言わなくていいです」
田中の赤い目が、少し沈んだ。
ルカが振り返った。
「……手下って、私のことですか」
「たぶん」
「手下じゃないですよ」
「知ってます」
エリエルが書類の後ろで小さくなった。
「私も、早く帰りたいですけど無理やりじゃ―」
「知ってます。全員知ってます。ここにいる全員が」
颯は息を吐いた。田中がパンとスープしか頼んでいないことも、料理が勝手に増えたことも、ルカとエリエルが自分の意思で同行していることも、この四人は全員知っている。知らないのは天界の天使たちだけだった。いやエリエルが早く帰りたいのは知らなかった。
田中は、黙って歩いていた。背中が少し縮んでいた。何か言いたそうにして、言わなかった。
颯は、その背中を見ていた。
この人は、怖がられることには慣れている。でも、悪い人間だと思われることには、慣れていない。
「田中さん」
「はい」
「承認印、集めましょう。全部揃えて、大臣に会って、全部ひっくり返しましょう」
田中が振り返った。赤い目が、少しだけ持ち直していた。
「……はい」
「ルカさん。第12課はどっちですか」
「この廊下をまっすぐ、二つ目の角を左です。窓口担当は左利きなので、書類は右から出してください」
「……そこまで知ってるんですか」
「8ヶ月、毎日回ってるので」
第12課に着いた。
扉を開けた。窓口に天使が一人座っている。
田中を見た。
ペンが、指から落ちた。
「あの、事実認定の確認書を―」
「ま―」
「田中です」
天使が椅子ごと後退した。キャスターが鳴った。壁にぶつかった。それ以上下がれない。
「あの、書類を出したいだけなので―」
「は、はい。は、はい―」
天使がカウンターの上を両手で掴んだ。手が白くなるほど握っていた。
田中が一歩近づいた。天使が身を引いた。田中がもう一歩近づいた。天使が椅子から立ち上がった。
その手が、カウンターの下に伸びた。
颯は見えた。カウンターの裏に、小さなボタンがある。防犯ベルだ。
「待ってください」
颯が一歩前に出た。天使の指がボタンに触れる直前だった。
「押さないでください。この人は危なくないです」
「で、でも―」
「危なくないです。書類を出しに来ただけです。ほら、田中さん、書類」
「あ、はい」
田中が右から書類を出した。ルカの助言通りだった。天使がおそるおそる受け取った。手が震えていた。
確認が始まった。項目を追うたびに田中をちらちら見ている。田中は姿勢よく待っていた。客の鑑のような待ち方だった。
「不備、ありません」
承認印が押された。盛大に傾いていた。
「ありがとうございます」
田中が書類を受け取った。鎧の内側にしまった。
廊下に出た。
「三枚目。残り二枚です」
「次は第33課ですね。第7課は午前10時からだから先に―」
廊下を歩き始めた。田中の前を天使たちが避けていく。その中の一人が、すれ違いざまに隣の天使に何かを言った。
「―食堂に、魔王用の裏メニューが―」
田中の足が、止まった。
颯も聞こえた。
「……今、裏メニューって言いました?」
ルカが頷いた。
「私も聞こえました。『次に来たとき用に、魔王様専用の裏メニューを作った』って。対応マニュアルもあるって」
田中が、黙った。
「……俺、また行っていいんですかね」
「行かなくていいです。たぶん」
「朝定食頼んだだけなのに…」
「知ってます」
田中は少し俯いた。颯はため息をついた。この人が普通にご飯を食べるだけで、食堂が変わっていく。
「第33課、急ぎましょう」
ルカが先導した。廊下の突き当たりに、扉があった。
「覚悟してください」
ルカが振り返って言った。
扉に、貼り紙が何枚も重なっていた。受付時間、注意事項、必要書類の一覧、複写申請の手順、複写用紙の在庫状況。
貼り紙だけで、扉の表面が見えなかった。
「……扉が見えないですけど」
「貼り紙で埋まってるんです。第33課はずっとこうです」
颯は貼り紙の一枚を読んだ。
「『複写申請書は窓口にて配布。記入後、同窓口にご提出ください。なお、複写物の有効期限は当日中です』」
「当日中」
「はい。今日中に大臣に会えなければ、また明日複写し直しです」
颯はもう一枚読んだ。
「『複写申請書の記入に不備がある場合、再提出をお願いいたします。再提出の際は、不備内容確認書の添付が必要です』」
「……不備を直すのにも書類がいるんですか」
「はい」
「その不備内容確認書に不備があったら?」
エリエルが口を開きかけて、閉じた。
「……考えたくないです」
田中がペンを構えた。
「大丈夫です。不備は出しません」
颯は田中を見た。この人がペンを構えると、なぜか安心する。剣より頼もしい。
扉を開けた。




