15話「ぶら下がってないです、つかまってるだけです」
「私にも、手伝えることはありますか」
田中が、ルカを見ていた。
暗がりの中で。散乱した書類と、割れた照明と、あふれたごみ箱に囲まれて。八ヶ月、一人で課を回してきた天使が、自分のことを手伝いたいと言っている。
「……ルカさん」
「はい」
「休んでください」
ルカが、きょとんとした。
「え?」
「今日はもう遅いです。残りの課は明日回ります。ルカさんは―」
「大丈夫です」
田中の口が、閉じた。
颯が、壁際で目を閉じた。
「仮眠は取りましたし、もう少し動けます」
「でも、三日か四日ぶりの仮眠が、さっきの―」
「大丈夫です。慣れてるので」
颯が、口を開いた。
「田中さん」
「はい」
「今の会話」
「……はい」
「田中さんと同じこと言ってます。この人」
田中が、黙った。
ルカも、黙った。
二人が、同時に颯を見た。
「『大丈夫です』『慣れてるので』。田中さん、城を出ようとしてガザンに会ったとき、なんて言いましたか」
「……『なんでもないです』」
「同じです。全部同じです。大丈夫じゃないのに大丈夫って言う。限界なのに慣れてるって言う。迷惑をかけたくないから全部自分で抱える」
颯は、二人を見た。
身長2m超の魔王と、小柄な天使。見た目は正反対なのに、中身が同じだった。
「お願いだから、二人とも、休んでください」
田中とルカが、同時に口を開いた。
「でも―」
声がそろった。
二人が、お互いを見た。
田中の赤い目と、ルカの目が合った。
ルカが、少しだけ笑った。
「……似てるって、言われたことありますか」
「今、初めて言われました」
「田中さん。私が休むなら、田中さんも休んでください」
「俺は大丈―」
「大丈夫じゃないです」
田中の口が、止まった。
自分のセリフを、そのまま返された。
颯は天井を見た。この二人を同じ部屋に入れたら、永遠に「大丈夫です」「いや大丈夫じゃないです」を繰り返す。鏡の前に鏡を置いたら合わせ鏡になるように。
「泊まる場所はあるんですか」
颯がエリエルに聞いた。
「来客用の仮眠室があります。ただ―」
「申請書ですか」
「……はい」
「わかりました」
田中がペンを取り出した。
エリエルが書式を一枚引き抜いた。田中が受け取った。ルカが、横から覗き込んだ。
「あ、これ第3課系の書式ですね。右上に管理番号で―」
「左下に日付、中央に本文ですよね」
「はい。第3課で発行してる書式なので、私の方が―」
「いえ、ルカさんは休んで―」
「私も書けます。二人で書いた方が―」
「一人で十分です。ルカさんはもう―」
「田中さんこそ、鎧のまま書類を書くの大変でしょう―」
「もう慣れたので―」
「二人とも」
颯が、声を上げた。
田中とルカが、同時に振り返った。
「一枚の申請書を取り合わないでください」
二人とも、申し訳なさそうな顔をしていた。同じ角度で首を傾けていた。
田中が書き始めた。ルカは机に座って、田中の手元を見ていた。
「……速いですね」
「窓口にいた頃は、もっと項目の多い書類を―」
「日に30枚は処理してた、ですか」
田中の手が、一瞬止まった。
「……なんでわかるんですか」
「私も、今それぐらいのペースなので」
田中が書き終えた。エリエルに渡す。エリエルが確認して、頷いた。不備なし。
「仮眠室は、この廊下の突き当たりです」
颯が先に立ち上がった。
田中も立ち上がった。ルカを見た。
ルカは机に肘をついていた。田中の手元を見ていた目が、ゆっくりと閉じかけていた。
「ルカさん」
「……はい。大丈夫です。行きます」
ルカが立ち上がった。ふらついた。翼が壁に当たった。
田中が、手を伸ばしかけた。
止めた。
さっき、手を差し出して怖がらせたことを覚えていた。
「……あの、ルカさん。肩、つかまりますか。暗いので」
「え、でも―」
「足元が見えないと危ないので。鎧が硬くてすみません」
ルカが、おずおずと田中の鎧の腕に手を置いた。
置いた、というより、つかまった。身長差がありすぎた。ルカの手は田中の肘にしか届かない。田中が歩くと、ルカの足が半分浮いた。
「あの、ルカさん」
「はい」
「ぶら下がってませんか」
「ぶら下がってないです。つかまってるだけです」
「足、浮いてますよ」
「少しだけです」
颯は後ろから見ていた。身長2m超の黒い鎧の魔王の腕に、小柄な天使がぶら下がっている。魔王は歩幅を縮めて、天使は爪先で床をたぐっている。
何の絵だこれは、と颯は思った。二度目だった。
四人で、暗い廊下を歩いた。
仮眠室は、小さな部屋だった。簡素な寝台が三つ。毛布が畳まれている。窓から、藍色の空が見えた。天界の夜。星はない。遠くの建物の窓から光が漏れていた。
田中が、入口で止まった。
「……田中さん?」
「天井が低いです」
かがんで入った。それでも角が天井をかすった。寝台に近づいて、座ってみた。足がはみ出した。
「……寝られますか?」
「大丈夫です。斜めになれば」
「大丈夫じゃなさそうですけど」
「はみ出すのは、もう慣れたので」
颯は何も言わなかった。慣れてほしくなかった。
ルカは、寝台に腰を下ろした。
座った瞬間、体が傾いた。そのまま横になった。目が閉じた。毛布をかける前に、もう眠っていた。いや気絶していた。
書類は、もう抱えていなかった。
田中は、ルカの寝顔を見ていた。
毛布を取って、ルカにかけた。音を立てないように。
エリエルは入口の壁にもたれて、もう目を閉じていた。書類を抱えたまま。こちらは、手放せていなかった。
颯は窓際に座った。藍色の空を見ていた。
「田中さん」
「はい」
「明日、残り三つ回って、全部揃えて、大臣に会いに行きましょう」
「……はい」
田中は、答えてから、藍色の空を見ていた。窓の向こうの建物に、いくつも光が灯っていた。あの光の一つ一つに、誰かがいる。書類を処理している。夜中まで。
「……じゃあ明日、早いので」
「はい」
「おやすみなさい」
田中は寝台に横になった。足がはみ出した。角が壁に当たった。小さな音がした。
「……すみません」
颯は、藍色の空を見ていた。
魔王が「おやすみなさい」と言って、「すみません」と言って、足をはみ出して眠る。
明日、この人を大臣の前に立たせる。書類を持って。角も、赤い目も、全部そのままで。




