14話「胃が痛いです、ずっと痛いです」
「俺も、過労で死んだので」
ルカは、田中を見上げていた。
暗がりの中の赤い目。角。黒い鎧。その全部が、さっきまでとは少しだけ違って見えた。
「……過労で」
「はい。市役所の窓口で。残業が続いて」
「窓口……」
「はい。一人で回してた時期があって」
ルカの口が、小さく開いた。
「……一人で」
「はい。隣の席の人が休職して。補充が来なくて」
ルカの手が、腕の中の書類を、ぎゅっと抱き寄せた。
「……補充、来なかったんですか」
「はい。申請は出したんですけど」
「たらい回しですか」
「はい」
ルカが、黙った。
しばらく、何も言わなかった。暗がりの中で、田中の赤い目と、ルカの目が、向き合っていた。
「……何ヶ月ですか」
「三ヶ月です」
「三ヶ月……」
ルカの声が、少しだけ変わった。震えが消えていた。
「私は、八ヶ月です」
颯が、壁際で息を止めた。
「……八ヶ月、一人で?」
「はい。二人が異動になってから。最初は、すぐ補充が来ると思ってたんですけど」
「来なかった」
「はい。申請を出したら、第15課に回されて、第15課から第22課に回されて、第22課から―」
「芋づる式ですね」
「はい。最後は、どこに出したかもわからなくなりました」
田中が、少し頷いた。
「市役所にいた頃、同じことがありました。備品の発注申請を出したら―」
「どこかで止まってて、届かないんですよね」
「はい」
「催促すると、また最初からやり直しになるんですよね」
「はい」
「同じです」
ルカが、そう言った。
暗がりの中で。角の生えた魔王に向かって。
「……同じなんですね、どこも」
颯は二人を見ていた。
魔王と天使が、人員不足の話をしている。暗い部屋で。崩れた書類に囲まれて。片方は角があって、片方は翼がヨレヨレで、どちらも疲れた目をしていた。
「あの―」
ルカが、少しだけ身を乗り出した。
「田中さんは、その……三ヶ月の間、お昼はどうしてたんですか」
「机で食べてました。食べながら書類を処理して」
「私もです。食べながら書いてます」
「コーヒーは飲みますか」
「一日、五本くらい……」
「俺もそのくらいでした。胃が痛くなりませんか」
「痛いです。ずっと痛いです」
「わかります」
颯が口を開いた。
「二人とも、手続きの話してください。健康や労働環境じゃなくて」
田中とルカが、同時に颯を見た。
同じ顔をしていた。「何を言ってるんだ」という顔。窓口で理不尽なことを言われたときの、困惑した顔。
「……すみません。続けてください」
颯は壁に背中を預け直した。
ルカが、ゆっくりと立ち上がった。今度は膝が震えていなかった。
小柄だった。田中の胸のあたりに、ルカの頭があった。見上げる角度が急だった。
「田中さん。承認印のお話でしたよね」
「あ、はい。案件概要書に―」
「見せてください」
田中が鎧の内側から書類を取り出した。ルカが受け取って、目を通し始めた。暗がりの中で、目を細めて。
「……暗いですね」
「すみません。照明、俺が―」
「いえ、元から一つ切れてたので。田中さんのせいは半分です」
「その半分のせいで暗くなったんですけど」
ルカは書類を窓際に持っていった。金色の光で読み始めた。
項目を追っている。ペンを取り出した。チェックをつけている。手が、さっきまでと全然違った。速い。正確。迷いがない。
「……不備、ないです」
「ありがとうございます」
「田中さんが書いたんですか」
「はい」
「丁寧ですね。記入欄の使い方が、お手本のような書き方です」
「……わかるんですか」
「八ヶ月、毎日書類を見てるので」
ルカが、机の引き出しを開けた。引き出しの中も書類だった。その下を探って、小さな箱を取り出した。承認印が入っていた。
印を押した。
まっすぐだった。紙の指定位置に、一発で、ずれなく。
「はい。第3課の承認印です」
田中が受け取った。
「ありがとうございます」
ルカが、田中を見ていた。
「田中さん。一つ、聞いてもいいですか」
「はい」
「田中さんが書類を仕分けてくれた、あれ―」
ルカが、空いている机の上を見た。田中が処理段階ごとに並べた書類の束が、まだそこにあった。崩れたのは別の山で、並べ直した分は無事だった。
「合ってました。順番も、分類も、全部」
「見ればわかったので」
「八ヶ月かけて作った分類ルールを、初見で」
田中は何も言わなかった。
ルカが、少しだけ笑った。
八ヶ月、一人で。誰にも手伝ってもらえなくて。仮眠は書棚の隙間で。起きたら書類が散らかされていて、照明が割れていて、目の前に魔王がいて―
でも、その魔王が、書類を仕分けてくれていた。
「ありがとうございます」
田中が、少し困ったように目を伏せた。
赤い目で。角を生やしたまま。
颯は二人を見ていた。さっきまで「地獄の魔王」だった男が、今は「書類を仕分けてくれた人」になっている。田中の魔法だ。スキル欄には載っていないけれど、この人にはそういう力がある。
「残りは三枚ですね。明日、朝から―」
エリエルが、書類の束を抱え直した。
「あの」
ルカが、声を上げた。
三人が振り向いた。
ルカは散乱した書類の中に立っていた。小柄な体。ヨレた翼。手入れのされていない羽根。
「私にも、手伝えることはありますか」
颯は、田中を見た。
田中は、ルカを見ていた。
八ヶ月、一人で課を回していた天使が、手伝いたいと言っている。自分の仕事だけで限界のはずなのに。
田中の赤い目が、また少し、変わった。




